『さとり様、感情バグってます!』第6話「ただ、あなたの詩を聞いていた」 (天上道|幻想詩空間・輪廻終章)
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ここには、かたちがなかった。
音も、香りも、重力も。
呼吸すら必要ないのに、それでも胸が苦しくなるような場所だった。
記録も残らず、記憶も曖昧で、
それでも――感情だけが、確かにここにあった。
私は、ここにいた。
名も、姿も、声もなく。
ただ、流れてくる“詩”を、聞いていた。
風が吹く。どこからともなく、淡く、心を撫でるように。
その風に混じって、ことばがひとつ、運ばれてくる。
――「君の声は、まだ、ここにある」
声ではない。
けれど、確かに“伝わる”温度があった。
それは詩だった。形にならない感情が、私の中で微かに揺れた。
私は、その詩を――知っていた。
懐かしいと思った。
いや、それ以上に、“愛おしい”と、思ってしまった。
思い出す。
でも、それは記憶ではなかった。
輪廻の途中で置き去りにしてきた、感情の“かたち”。
学園の廊下。
「うわ、目合った。好きかも」
唐突に告げられたひとことで、私の心拍数が跳ねたあの日。
監視区画の静寂。
「恋をする自由は、心にだけ許されてる」
摘発できなかったあの夜の、苦くてあたたかい痛み。
ステージの光。
「その顔、ステージで見せろよ」
照れくさくて、嬉しくて、でも顔を上げられなかった私。
戦場の熱。
「お前の涙が、似合わない」
命令違反のくせに、真っ直ぐで、ずるい彼。
記章保管室。
「お姉ちゃん、また明日ね」
記録の中で繰り返されたその声が、どうしても消えなかった。
それぞれ違う顔、違う名。
けれど、すべて、彼だった。
私は、ただ――恋されて、返せずにいた。
詩がまた、風に乗って届く。
それは返事ではなく、祈りのようだった。
「君に届いたなら、それでいい」
「君の声に、僕が気づけたなら、それでいい」
「君が、君のままでいられたなら――それでいい」
涙が落ちる。
身体も涙腺もないはずなのに。
それでも私は、確かに泣いていた。
そうか、これが、恋だったんだ。
誰かに求められて、戸惑って、照れて、怖くて。
それでも、私も、誰かを好きだった。
ただ、素直になれなかっただけ。
本当は、ずっと――応えたかった。
だから私は、今ここで、はじめて詩を返す。
恋されるだけじゃなく、恋をする者として。
声にしない、でも確かに存在する詩を。
私から、彼へ。
「わたし、ずっと聞いてたよ」
「何度でも恋をする。あなたに、出会うために」
「だから――
次に会えたら、今度は、私から声をかける」
「名を呼ぶよ。ちゃんと、あなたの名を」
詩が、風に乗って溶けていく。
空間がゆっくり光に満ちていく。
これは終わりじゃない。
私はまだ――
……それでも、また世界は巡っていく。
もしかしたら、次は別の時代かもしれない。
戦火の空の下か、星々が沈む水の底か。
それでも私は、恋をする。
恋されるんじゃなくて、恋をする。
今度の私は、もう逃げない。
詩に閉じこもるのでも、記章に託すのでもなく、
自分の声で、まっすぐに名前を呼ぶ。
たとえそれが、あなたじゃなかったとしても――
私の中の“あなた”が、きっとその声に応えてくれると信じて。
「……待っててね。
でも今度は、ちゃんと、私が探すから」
――詩は還る。輪廻の先に、恋のはじまり。