『さとり様、感情バグってます!』 第2話「この詩、違反です」 (餓鬼道|恋愛禁止区画)
「さとり様」――それは、感情を捨てた者への称号。 静かで、完璧で、誰にも心を乱されない存在。
「感情? 監視する対象ですけど、何か?」
第九管理区画。ここではすべての感情がデータ化され、制御対象となっている。とりわけ“愛情”と名のつくものは、最も強く、最も危険な揺らぎとされていた。私は、その感情を監視し、摘発する干渉官──通称“さとり様”。
その日、警報が鳴った。恋愛反応値、0.41。微細ではあるが、規定を越えた。 発信源は区画A-5。廃ビルの陰、風の通る細い路地。そこに、ひとりの少年がいた。
『恋をする自由は、心にだけ許されてる。──けれど、声に出すことを、誰が禁止できる?』
聞き取った瞬間、頭の奥で何かが跳ねた。 詩的構文。干渉波含有。確かに違反だった。なのに、私はその場で摘発を行わなかった。
──翌日、またその路地へ足が向いた。
「また来たの?」 彼はそこにいた。笑って、少しだけ目を細めて。
「君に会いたかったから。……詩を、聞かせたかった」
端末の心拍ログがわずかに跳ねた。そんなことでは動揺しないはずだった。
『きみの歩幅を 覚えた足音がある。 知らないふりして ずっと重ねてきた。 ばれたくなかった、けど そろそろ 名前で呼んでもいい?』
(ばか。どこまでが詩? どこまでが──わたしに、向けて?)
その日以降、私は何度もその路地へ通った。巡回という名目で。違反確認という名目で。 彼は詩を紡ぎ続けた。
けれど、ある日。彼は、ふっと表情を変えた。
「ねえ、アマネさん。……やっぱり詩って、まずいんだよね?」 「当然です。記録対象です。摘発対象でもあります」 「そっか。……わかったよ、やめる。捕まりたくないからね」
そう言って、彼はふっと笑った。
「代わりにさ、今日は詩じゃなくて……散歩、どう?」
私は応じる理由がなかった。なのに、うなずいてしまった。 それからの数日、彼は詩をやめて、代わりにいろんな話をした。 どうでもいいことばかり。食べ物の話。夢の話。昔のこと。くだらない冗談。
私は、初めは興味もなかった。けれど、気づくとその声のテンポに慣れていた。 “詩”よりも、もっとずっと近くに、彼がいる気がしていた。
(……これが、普通の会話。そう、違反じゃない。ただの雑談) (でも──なんで、明日も会えるかを考えてしまうの)
そして。 その“明日”が、来なかった。
その日、いつもの場所へ行くと、彼はいなかった。 次の日も、またその次の日も。ずっと、いなかった。
(詩をやめたから? 捕まった? それとも、逃げた?)
気づけば、私は毎日同じ時間にA-5を歩いていた。 理由はもう、なかった。ただ“いたい”と思った場所にいた。
七日目。 風にめくれる紙片が、電信柱に貼られていた。 少し色あせた、手書きの紙。
『君のなかに涙があるなら、それはもう、愛だと思っていいんだよ』
その瞬間、胸の奥でなにかが崩れた。
(これは……違反じゃない。けれど、取り締まれない。もう、遅い)
涙をこらえようとした。けれど、目元がじんわりと熱くなる。
(彼の詩じゃない。ただの手紙。それなのに……こんなに)
私は知ってしまった。感情とは、記録できないものだということを。 そして今、この涙が、それを証明していることも。
端末は何も記録しない。けれど、私の中には、彼の声が残っていた。
『アマネさん。また、いつか』
(……会いたい。今度は、詩じゃなくて、名前を──)
(第2話|終)