【第四話】海風に揺蕩う声
雲一つない青空に太陽が眩しく輝いていた。
エルウィン、グングニル、ヴァルハラ、その他政府からの兵士十数人はスヴェント殲滅部隊として研究所所有の船に乗ろうとしていた。
「これ、でかくないですか?」
エルウィンは目の前にある木製の、まるで客船のような船を見ながら隣の白衣を着た男、ラシュガンに聞く。
「この人数だと小さいのだと入らない。だから大きいのを、と思ったらこのでかいのしか無かったんだな。なっはっはっ!」
ラシュガンは大声で笑って言った。
「まぁ、殲滅隊に選ばれたやつらは腕利きばかりだ。これくらいでかい船でも良いだろう」
ヴァルハラは船に乗り込んでいく兵士たちを見ながら言った。
「彼らはみんな、強いの?」
鎧を身に包んで、緊張した面持ちで船に乗り込む彼らの横顔を見て、エルウィンは自分が見習い騎士時代だった頃と重ね合わせながらヴァルハラに訊く。敬語は必要ないということだったので使わないことにした。
「あぁ、強いさ。俺が育てたからな」
「ヴァルハラが?」
「主にスヴェント殲滅用にということで所長から頼まれて育てた兵士たちだ。腕前は……ついてからのお楽しみだな」
ヴァルハラは少しだけ笑みを見せてから言って、足を動かし始める。
「僕は、少し不安なんだ。騎士訓練所で一応剣の心得は学んでいたことはあったけど、実戦は初めてで」
昨夜決意はしたものの、やはり不安は完全には消えず、結局エルウィンは口に出してしまう。
「それなら実践の中で学べば良い。グングニルを守るんだろう?」
「今さら、だよね。はは、何言ってるんだろう僕は」
ヴァルハラに言われて、エルウィンは少しでも怖れを抱いてしまった自分を恥じた。ロラドから剣を受け取った時から覚悟は決めていた。
命を懸けてでも、グングニルを守る。
「ただ、恐れは恥ではないからな」
そんな恥ずかしさと覚悟を透かし見たように言ってから、ヴァルハラは船の入り口の目の前で足を止める。
「気をつけろよ! 奴らの支部に着くまでの間も油断しちゃいけねぇぞ」
合わせて歩みを止めると、後ろから相変わらずの大きな声がかかった。
「分かってますよ。さぁ、行くぞエルウィン、グングニル」
ヴァルハラが促して、エルウィンとグングニルは見上げるような大きな入口から、船に入りこんだ。
*****
「これが……海!」
グングニルはデッキの手すりに寄りかかって海を眺めながら、それこそ太陽に照らされてキラキラと輝いている水面のように、瞳を輝かせていた。
「どう?キレイでしょ?」
「うん! こんな素敵なものがあったなんて……」
とりあえず不安は拭い去って、エルウィンは海に夢中になっているグングニルに声をかける。その声に答えながらもグングニルの言葉は消えいって、再び海に視線が移った。
「昨日食べたシェルチキンの貝も、この海の中の生き物なんだよ」
「へぇ~……」
エルウィンが言うと、グングニルはのぞき込むようにして身を乗り出す。海や貝を知らないということは、能力者になる前は内陸に住んでいた子なのかもしれないとエルウィンは想像した。
エルウィン自身も小さいときは内陸部の小さな町で育って、都会に来るまで海に関係するものは知らなかった。ほんの少しだけ共通点が見つかったような気がして嬉しくなったと同時に、考えるのをやめた。エルウィンの想像に過ぎなかったし、昔のグングニルのことを考えても仕方ないと思ったから。
今こうして笑ってくれているだけで、十分に嬉しかった。
「落ちないようにね。でも、ちょうど綺麗に晴れている日で良かった~。せっかく海が見せられるっていうのに、天気が悪かったらどうしようかと思ってたよ」
注意しながらエルウィンも海をのぞき込む。照り返してくる光がまぶしいくらいだった。
こんなに顔を輝かせているグングニル、初めて見るかもしれないな。
エルウィンはグングニルの顔を横から覗き込むように見ながら改めて感じた。研究所にいたままではまず見ることができなかったであろうその横顔が——。
「え?」
そのグングニルの横顔が一瞬だけ、記憶の奥底にある少女の顔と重なった。
「ずいぶんと楽しそうだが、バカンスじゃないんだぞ」
誰だったか、思い出す前に後ろから声がかかった。振り向くとポケットに手を入れたヴァルハラが近づいてきていた。
「い、いやそんなつもりは……」
「楽しむのは良い。だがお前は今から人を殺しにいく。その覚悟だけは忘れないでくれ」
言い淀んだエルウィンの肩に手を置きながら小声で言った。
「殺しに行くって、目的は捕縛のはずだし……それに、大丈夫。もう覚悟はできているから」
耳元で囁かれた言葉はエルウィンの笑顔を消した。答えた彼の言葉は、決意のそれとは反対に小さくなっていった。
「まぁ、少しからかってみただけだ。殺しは最小限だしな。気を引き締めろと言いたかっただけだ」
「う……」
グングニルに海を見せてあげられた嬉しさに浮かれてしまった自分に恥ずかしくなって短く呻く。
「到着までには時間があるから、ゆっくりしていてくれ」
ヴァルハラはそれだけ言うと、片手をひらひらと振りながら船室へと戻って行った。
「ふぅ、なんだかヴァルハラの言葉はいちいち心臓に悪い気がするよ……」
肩をがくりと落して、緊張がほどけたように言った。話されていることを考えれば当然のことなのだが、エルウィンは息の詰まるような感覚だった。
「人を、殺す覚悟」
顔を上げたエルウィンの目に、俯くグングニルがいた。彼女はヴァルハラの言葉をそのまま繰り返す。その顔に、ついさっきまでの無邪気な笑みは消えていた。
「もし私が、人を殺しちゃったら、エルウィンは私を怖いって……思っちゃうかな?」
「どうしたんだい急に?」
戸惑いがちに、グングニルは突然そんなことを口にした。驚くエルウィンをよそに、グングニルは言葉を選んでいるようだった。
「えっと、その……ごめん。やっぱり何でもない」
「……そっか。また整理できたら言ってほしいな。それに、万が一グングニルが人を殺してしまっても、きみはきみだからさ。僕はそんなこと思わないと思う……というより、きみにそんなことはさせないよ絶対! その前に僕が守る! だから、安心して」
へらっと笑いながら誤魔化したグングニルが何かを伝えようとしていたのはエルウィンにも分かったが、上手く言葉にできないようだった。エルウィンはいつものように安心させるような笑顔を返した。
「う、うん。ありがとう」
「じゃあ、僕はちょっと船室の方で休んでるよ。グングニルも疲れないうちに部屋に戻ってきてね」
「うん」
まだ口に言葉を含んでいるような表情のグングニルだったが、エルウィンの言葉に礼を言って頷く。エルウィンは言葉通り踵を返して船室へと戻っていった。
——人を、殺す覚悟。
エルウィンは船室へ繋がる扉の前で、腰に掛かった剣の柄を握った。笑顔でグングニルに言った直後だったが、そのことを考えるとやはりぞっとする。長年使い慣れていたはずの剣が、嫌に冷たく感じた。
*****
エルウィンが私を守るために剣を持って戦おうとしていることは嬉しい。でも、彼はきっと戦うことが苦手なんじゃないかと思う。かなり前の話になるけれど、研究所にいる時、自分の実験のせいでマウスが酷い死に方をしてしまったことに嘆いていたことを思い出す。そのくらい優しくて、いつもは穏やかなエルウィンだ。戦う姿は、あまり想像できない。だからといって、エルウィンを信頼していないわけじゃない。彼が作ったウィザードリキッドの効力を、扉を壊したエルウィンの姿を間近で見たから信じているし、むしろ私は彼の力に頼りたい。
だけど、最初から最後までエルウィンに守ってもらえるとも思っていない。もしかしたら相手の数が多くて、私一人で戦わなければならないこともあるかもしれない。私だって、できるなら人を殺したくない。ラシュガンさんは怖がらせるだけで良いと言っていたけど、自分が殺されそうになった時は——今の自分は、自分でも何をするかわからない。
もしも私が人を殺してしまった時、エルウィンは私を、悪魔とか化け物を見るような目で見てしまうのだろうか。研究所にいた、あの人たちのように。不幸中の幸いと言うべきなのか、私はまだ、戦闘能力の測定という名目で人を殺したところをエルウィンに見られたことはないらしい。機械を相手にする時とは違って、違う場所で行って、監視役も違う人だったから。逆らうことができなかった、しなかった私は命令通りに人を殺して、その監視役の人に恐怖を帯びた目で見られたことを、鮮明に記憶している。エルウィンにそんな風に見られるのだけは、私はどうしても嫌だった。人は殺したくない。でも死にたくもない——。
そんな考えがぐるぐると頭の中を回って、私は結局言葉にできずにエルウィンにも言えなかった。
綺麗に見えた海から目を背けて、私も船室に戻ることにした。
——あんたは優しすぎるのよ!
私は足を止めた。何か聞こえた? 風の音だろうか。それにしては、やけにはっきり聞こえたような気がした。
「お前の騎士様は、お前を守ろうと必死のようだな。グングニル」
私の部屋の前には、ヴァルハラが立っていた。白い髪に紅い瞳。能力者だというこの人は、壁に寄りかかりながらそんなことを言った。
「ヴァルハラ……」
彼は微笑を浮かべて私の方へ向く。影を感じさせるものでもなければ、特別輝いているわけでもない、ただ口元を上げて笑っている。それでも目はなんとなく、笑っていないような印象を受けた。上手く笑えない私と少しだけ似ている。ヴァルハラは、能力者である自分をどう思っているんだろう?
「そういえば、まだお前の意思を訊いていなかったな。お前はどうなんだ?エルウィンに助けて欲しいのか?守ってほしいのか?」
ヴァルハラは、私にそんな問いかけをする。私はエルウィンに手を引っ張られるような形で研究所から連れ出してもらった。自分が嫌いで、死にたいと思っていたけれど、実際にロラド所長に治療と言われて部屋に閉じ込められたとき、殺されると本気で思ったとき、私は死ぬことが心の底から怖かった。もう死にたいなんて言わないから、誰か助けて欲しいと。だから私は、ありのままの意思を口にした。
「私は、死にたくない。だから、エルウィンに助けてもらいたい」
自分勝手なのは十分に分かっている。でも、目を背けてしまいたくなるけど、これが今の私の気持ちだった。
「ふっ、素直なやつだな」
予想通り、短く笑って、そう言った。予想と違ったのは、そこに軽蔑とか呆れとか、そういう感情がふくまれていなかったところ。
「だが能力者なら、力を使って自分の身は自分で守れるはずだ」
ヴァルハラは、まるで木槌で私の心を叩くかのように、私が気にしていた、痛いところをついてくる。
「そうしたいけど、私は能力を使いたくないの。能力を使って、人を殺せば、きっとエルウィンは私を怖がって……嫌いになってしまう」
言いながら、私は自分の本当の心が見えたような気がした。
私は——きっとエルウィンに嫌われたくないんだ。自分のことは嫌いだけど、エルウィンには嫌われたくない。
「ふん、なるほどな……。まぁ確認したかっただけさ。その様子なら、エルウィンも騎士の役目を果たす甲斐があるだろう」
ヴァルハラはそう言うと、背中を壁から離して私の横を通り過ぎる。
「ヴァルハラは——」
私は一つだけ気になっていたことを言おうとして口を開く。背後で、ヴァルハラの足音が止まった。
「ヴァルハラは、自分のことを、能力者としての自分を、どう思っているの?」
私が振り向いたと同時に、ヴァルハラも振り向いて、それから、ぞっとするような無表情でこう言った。
「大嫌いだよ」
*****
重く鈍い轟音に、船室の大部屋の長い机の上に伏せて眠っていたエルウィンは目を覚ました。
「二時の方向から未確認船の砲弾です!」
「おそらくスヴェントの船だ!」
「速い! 急接近してきます!」
はっきりとしない意識の中で周りを見渡すと、兵士たちが武器を持ってせわしなく動いていた。
「な、なにが起こったんですか?」
エルウィンは扉から出ようとして走り去っていく兵士の一人に聞いた。
「見れば分かるだろ! 敵襲だ! 敵が船に乗って攻めてきたんだよ!」
怒鳴るように言って、扉を乱暴に開けて出ていった。それを最後に、船室はしんと静まり返った。
「そうだ、グングニル!」
ズゥン、という腹に響く音に弾かれたようにエルウィンも扉に走り出した。
突進するように扉を開ける。まず目に入ったのは、血溜まりとともに肩から腹にかけて大きな傷が刻まれた男の死体だった。男の目は虚空を見つめていた。
「そんな」
赤く滲んだ傷跡に目を奪われていたエルウィンは、乾いた銃声の音に弾かれたように周りを見渡した。晴れ渡っていた空は、太陽が雲に隠れてしまったせいか薄暗く見えた。
政府の船にぴったりとくっついているもうひとつの船からは、兵士の倍ほどの数の男たちが乗り込んできていた。
数人の男たちが各々の得物を振り回して殺しあっていた。
悲鳴、銃声、鉄のぶつかり合う音。灰色の空の下には、すでに赤い海が広がっていた。
「おい貴様」
目の前の惨状に再び吸い込まれそうになったエルウィンは、前方から近づいた男の低い声に肩をビクリと震わせる。
「お前も政府の犬か」
男はエルウィンの腰にかかった剣に視線を注いで言った。エルウィンもまた、男の手に握られた血糊のついた剣が目に入った。
その刃が赤い軌道を描く。エルウィンは咄嗟の判断で後ろに飛び退く。斬撃は積み上げられていた酒樽に当たって中身の紫色の液体を飛散させる。
——殺される……!
心臓の鼓動が速まる。剣を抜こうにも恐怖で身体が動かなかった。
「一撃で楽にしてやる」
男は感情を抑えたような声で言って、剣先と鋭い眼光でエルウィンを見つめた。その鋭さに、思わずすくみ上ってしまった。
——なんで、動かないんだ……?!
身体が全く言うことを聞かない。覚悟はできていると言っていた数時間前の自分を殴ってやりたかった。
男が一歩踏み出して、剣を振り上げた。
——ごめんグングニル!
「ガぁッ!!」
斬撃の代わりに、ぐしゃりという嫌な音と男の呻き声が聞こえた。
薄目を開けてみると、男の手に握られた剣は振り上げられたままだった。その胸からは赤い牙が顔を覗かせていた。
崩れ落ちた男の向こうにいたのは服を返り血で赤く染めたグングニルだった。
「大丈夫?エルウィン」
くすんでいたように見えた瞳に光を戻して、グングニルが口を開いた。
床の上には男の血が広がり、酒樽から流れ出ている紫色と混ざり合ってエルウィンの目に焼きついた。
「ダメだ。グングニル。君は誰も殺しちゃいけない」
エルウィンはグングニルの手を引き、震えた声で言った。
「エルウィン」
——戦おう。
今は安全な場所に。そう思っていたエルウィンには、グングニルの口が、そう動いたように見えた。
——なんで僕は今、逃げようとしているんだ?この子を守るって決めたんじゃなかったのか。
歩もうとしていたエルウィンの足が止まる。
——この剣は何のためにあるんだ。
腰にある剣に目を移す。戦え、と鞘の中で眠っている剣が言っているような気がした。
——恐れは恥じゃない。
船に乗る前にヴァルハラが言っていた言葉が、ふと聞こえて背中を押す。
——僕は……戦う!
覚悟を背負い直して、決心して、剣を抜こうとした瞬間だった。
乾いた、大きな音が耳を貫いた。心臓がひっくり返るような衝撃と、嫌な予感が全身に走りながらも振り向いた。
返り血と違った赤黒い穴が二つ、グングニルの肩と足にあいていた。
グングニルの身体が床に吸い込まれるように倒れるまでが、驚くほどゆっくりに見えた。
「嘘……だろ?グングニル!」
自分が撃たれるかもしれない、そんな心配は頭の片隅にも無かった。痺れた身体を無理やり動かして駆け寄る。
瞳を閉じて、動かない。
肩から血がじわじわと流れて止まらない。
生きてる?死んでる?
ねぇ、返事をしてよ。
「うあああああああああぁぁぁぁぁぁアァァァァァっ!!!」
——もう、エルったら怖がりなんだから。行こう。
身体の底から、怒りか、悲しみか、切なさか、後悔が、急激に、そして大量にせり上がってくる。
——あなたのせいよ! あなたが……ちゃんと守っていれば!
これは、自分から出ているのか?
薄緑色の光弾が、銃を構えていた男に直撃する。そしてそのまま、船の柱をへし折る。
——エルウィン、諦めなさい。あの子はもう……。
光が、兵士を、男たちを飲み込む。船が揺れ、世界がぐるぐると回っている。
自分に向けられる恐怖の眼差し。
得体のしれない力の塊が甲板に無数の穴をあける。
——もう、こんな気持ちは味わいたくないんだ。
だんだんと意識が、力が抜けていく。まるで自分の声ではないような、細く震えた音が喉から漏れ出ていた。
「エルウィン!」
薄れゆく意識の中で、自分の名を呼ぶ男の声が聞こえた。
後頭部に走った強い衝撃を最後に、意識は完全に闇の中に落ちた。
*****
まだ頭が痛い。目の前には白い服を着た男の人たち。
ここはどこ?
私はいつも一緒だった‘彼’に聞こうとした。
しかし周りを見渡しても、ピカピカと怪しく光っている鉄の塊以外何もなかった。
——寂しい。寒い。
でも、最後まで繋いでいた‘彼’の手の温もりは微かに残っていた。
さっきから聞こえるのは波の音だろうか。
頬に水が当たるのを感じる。
身体が、動かない。
再び薄れてゆく意識の中で見た映像が、‘彼女’の中にあるパズルのピ―スを一つ、埋めた。