【第三話】協力者
広大な赤褐色の大地を馬の蹄の音が一定のリズムを刻んで響いていた。栗色の少し大きさのある馬の上には、灰色の髪を持つ青年エルウィンと、その後ろには金髪をなびかせた少女グングニルの姿があった。二人はそれぞれ旅商人のような地味な色の衣服、ワンピ―スを身につけていた。
「はぁ、馬に乗ったのは何年ぶりだろ。これでも昔は騎士志望だったから、乗馬の練習はけっこうしたんだよ。下手なままだったけどね……」
エルウィンは額に汗を滲ませながら、後ろでしがみついているグングニルに言った。おどけたように言いながらも、馬の上でバランスを取るのに苦戦していた。
「ごめんねエルウィン。私が後ろにいるから余計大変でしょう?」
「そ、そんなことないよ! これくらいなんてこと……うわっ!」
エルウィンは答えながらもバランスを崩しかける。
「だ、大丈夫?!」
「なんてことないよ! 平気平気!」
グングニルが心配そうに見守る中、二人を乗せた馬はどんどんと進んでいく。
そして前方に続く大地を見据えながら続けて言った。
「ロラド所長には感謝しないとね。こんな馬まで用意してくれたからさ」
*****
遡ること数時間前。ルバヴィウス研究所北門付近。
「ここから北へずっと進んで行くとルールポルカという貿易都市に着く。そこの研究所に僕の古い友人で所長のラシュガンという男がいる。痣の件に協力してくれるという連絡が昨日あったから、まずはそこに向かうと良い」
早朝、ロラドは自身の所長権限を利用して看守を誤魔化し、エルウィンとグングニルを牢から出していた。
「いやぁ、本当はバンの一つでも貸してやりたかったんだけどね。さすがに車両は使用管理記録でバレる。馬なら脱走したとでも言えば良いさ」
ロラドが馬の状態を確認しながらおどけたように続ける。
「どうしてここまでしてくれるんです?」
昨夜のこともあり、まだ不信感を拭い去れないエルウィンが聞いた。
「言っただろ?キミの勇気、諦めない心に胸を打たれたからさ」
ロラドはさも感動したかのように、大げさに手振りをつけて言った。
やはり同じ言葉が返ってきてエルウィンはこれ以上聞くのをやめた。あの時に見せたロラドの冷淡さが彼の本性なのではないかという思いが強い分、今の彼の言葉を素直に受け止めることができなかった。
「よし、これでオーケーだろう。さぁ、人に見られないうちに行くと良い」
ロラドはそう言ってエルウィンに手綱を握らせる。
「協力、ありがとうございます」
エルウィンは素っ気なく答えて渡された手綱を握った。
「あっ、そうだ。大事な忘れ物をしていたよ。少しここで待っててくれ」
ロラドは急に思い出したように言って、研究所の入り口の方へ走って行った。
「忘れ物? 何だろう」
エルウィンは不思議に思いながらグングニルの方を見る。
彼女は‘外に出るから’と言ってロラドが用意したワンピ―スを着ていた。色合いこそ地味だが、昨日まで着ていた奴隷のような服とは違って女の子らしい。風になびく金髪も合わさって、エルウィンには輝いて見えた。
「ん?どうしたの?」
振り向いたグングニルの表情は心なしか明るく見えた。
「い、いや、ワンピ―スが似合うなぁと思ってね」
いつの間にか見とれていたエルウィンは照れ隠しのように目を逸らす。
「えへへ、ありがと。エルウィンも、なんだかいつもと違うみたい」
「うん、それは僕も思ってた」
二年間ほとんど研究所に籠りきりだったエルウィンにとって、白衣以外のものを着るのは新鮮といっても良かった。研究者になる前は、騎士になるための訓練でほぼ毎日重い鎧を装備していたのが懐かしかった。それと同時に騎士訓練所での厳しい修行の思い出まで一緒に思い出されてしまいそうで、慌てて首を横に振る。
「それにしても……少しわくわくするというか、変な感じかも」
グングニルはそれに気がつかなかったようで、胸に手を当てながら不思議そうに呟く。
これは当たり前の反応なのかもしれないとエルウィンは思った。神ノ力を持つ能力者になる前の記憶を、グングニルは覚えていないというから、実際に外の世界に出るのは初めてのことになる。
「研究所から出るのは初めてだから、無理もないさ」
エルウィンはそのまま思ったことを口にする。グングニルはそれに、まだほんの少し儚さが残る笑みを浮かべながら、小さくうなずく。
——これで良い。これが、普通なんだ。
あんな理不尽な、暴走して死ぬかもしれない、自分なんて死んでしまえと苦しむグングニルの姿は、もう見たくなかった。いろいろなものを見て、いつか思いっきり笑った彼女の顔を見てみたい。そのためには——。
そんなエルウィンの思考はロラドが帰ってくると同時に止められた。
「はい、キミの大事なものだ」
彼は革の鞘に包まれた長剣を持っていた。持ち手の部分は使い込まれたらしく、黒くなっていた。そしてそれはエルウィンに見覚えのあるものだった。
「これは、僕の剣……。どうしてこれを?」
エルウィンが訊くと、ロラドは得意げにメガネの縁に手を掛ける。
「これはキミが研究所に入る時に没収したものだ。紙も切れないんじゃないかってほどボロボロに錆びていたから、昨日研いでおいたよ」
冗談なのか本気なのか分からない、いつもの口調でロラドは言う。しかしその手に握られていたのは、エルウィンには懐かしささえ感じさせる、紛れもなくエルウィン自身のもの。
剣を受け取るとずっしりと重みがのしかかる。研究所に入る前、騎士訓練を受けていた時のエルウィンが散々使っていた、どこにでもある鉄の剣だった。
「いざとなったとき、どうやってこの子を守るんだい? いくら自分が開発してきたウィザードリキッドの魔法と言っても、まだ使い勝手が分からないだろう。それだったら使い慣れていた剣の方が良いと思ってね」
「ありがとうございます……」
まだ戸惑いが残りながらも、まるで新品のような剣を鞘から抜き放つ。鏡のように輝くその剣に映る自分自身の顔を見て、エルウィンは、つい二日前まで当たり前だったことを思い出す。
目の前にいるロラドは路頭に迷っていた自分の才能を拾い上げて、育ててくれた恩師だった。彼がいなければ、今の自分はいない。勇気を振り絞ってグングニルを助けるということ自体、できなかった。そんな当たり前のことを今更思い出したことに恥ずかしさを感じて、エルウィンは顔を伏せる。
「僕を信じないならそれで良い。歩いてどこへでも行けば良いさ。僕を信じるなら……さぁ、行くんだ。良いかい?ここからずっと北に進むんだよ」
「はい……今まで、ありがとうございました」
そんなエルウィンの心を読んだように、ロラドは背中を押すように言った。エルウィンは今度こそ、目前にいる恩師に心から礼を言った。今までの感謝を込めながら頭を下げて、それから馬の体を向ける。
エルウィンは馬にまたがり、グングニルを後ろに乗せ、真っ直ぐに土煙を上げながら北へと走って行った。
*****
「ロラド所長は、ほんとに私たちを助けようとして、逃がしてくれたのかな?」
馬を走らせるエルウィンの背後で、そんな不安の声が聞こえた。
「分からない。……でも、今は信じてみるしかないよ。他に良い方法が僕には見当たらないからさ」
グングニルの不安は、エルウィンにもわずかに残っていた。恩師とはいえ、恩師だからこそ、エルウィンにはロラドの性格は分かっているつもりだ。彼は、意味のないことは絶対にしない。それをグングニルもうすうす気づいていて、おそらくロラドのそういったところをあまり好いていないからこその不安だったのだろうとエルウィンは推測する。
「何があっても、僕が守るから」
何が起こるかはわからない。不安を払うように、エルウィンは自分に言い聞かせるように言った。
しばらく進んでいくと、エルウィンは風が少し湿り気を帯びてきたのを感じた。目を凝らすと、大きな門と、そこを行き来する人々が歩いているのが見えた。疲労のための幻でなければ、あれがロラドの言っていた貿易港ルールポルカだ。
「着いた! 着いたよグングニル!」
エルウィンは息を切らしながら、嬉しそうに言って、馬のスピ―ドを遅くする。
ルールポルカの入り口である門からは馬やラクダに大きな荷物を乗せた商人たちがたくさんいた。
「すごい! こんなに人がたくさんいるなんて……」
グングニルが後ろから首を伸ばして、感嘆の声を上げる。
「貿易のために人がたくさん集まる場所だからね。中はもっとたくさんの人がいると思うよ」
エルウィンはそんなグングニルの様子を嬉しそうに見ながら話す。そして手綱を引いて、馬を完全に止めて前方の石造りの大きな門を見る。貿易港というだけあって、開いた門からは風に乗って海の香りが漂っていた。
「ふぅ、さて降りようか」
エルウィンは馬から降りる。ずっと乗っていたせいで足がふらついていた。
「グングニルも降りて」
「ありがとう。……何だか、変なにおいがしない?」
エルウィンはグングニルに手を貸しながらその言葉に首をかしげる。
「変なにおい?」
少し考えてから、エルウィンはグングニルの言う‘変なにおい’を理解する
「もしかして潮の香りというか、海を知らないのかい?」
「海……?」
エルウィンの問いかけにグングニルは首をひねる。どうやら本当に知らないようだった。
「そうか……。時間があったら見に行こうよ。綺麗だし気に入ると思うよ」
エルウィンは複雑な感情を隠しながら、グングニルに笑いかけた。
「じゃあ行こうか。まずは所長の知り合いのラシュガンっていう人がいるルールポルカ研究所に」
そう言ってエルウィンは馬の手綱を引いて、商人の群れをかいくぐり、門の内側へ入った。
ルールポルカ内は門の外と同じく、商人や海を渡ってきた船乗りなどで賑わっていた。
まだ昼間にも関わらず、酒場は人で埋まっていて、大きな笑い声があちらこちらから聞こえてくる。
「すごいな。今日は荷物がいっぱい届いたのかな?」
「……」
エルウィンは周りで忙しそうに動き回っている人たちを見てグングニルに言った。しかし、グングニルは黙ったまま、その場所に立ちすくんでしまっていた。
「どうしたの?」
「いや、こんなに大勢の人の中を歩いたことないからちょっと怖いなって……」
グングニルは戸惑いながらそんなことを言った。馬は途中の駐馬所に置いてきたので、今はこの人の波を二人だけで進もうとしていた。少しでも離れると、そのまま押し流されてしまいそうだった。
「手、出して」
「え?」
「手を繋げば、怖くないよ?」
差し出された右手をぼんやりと眺めてから、グングニルはしっかりと自分の左手で握り返す。
「あ、ありがとう」
「うん。さぁ行こう!」
エルウィンはすぐにその手を引いて歩き出す。グングニルの頬が朱色に染まっているのに気がつかないまま、雑踏をどんどんとかき分けていった。
しばらく道に沿ってまっすぐに進む。建物が立ち並んだ道を抜けると、広場に出た。その中央にはルールポルカ全体を描いた大きな地図と、酒場の宣伝のための看板が多く立てられていた。
『ルバヴィウス産のぶどう酒大量入荷! 今なら安いよ!』
『手作りシェルチキン! ジュ―シ―な食べ応えが人気!』
「少し早いけど、ご飯食べる?ルールポルカのお店は美味しいって評判なんだ!」
「うん、お腹はあまり空いてないけど、のどが乾いちゃったし、行きたいな」
「じゃ、決まり!」
エルウィンはグングニルの返事を聞くなり、すぐにその手を引いて看板が示す方へと歩き出した。
*****
お皿の上でジュージューと音を立てて、何とも言えない食欲をそそるような食べ物を、少なくとも私が研究所にいた時には見たことがなかった。お皿の中心に大きなチキンが寝そべっていて、その周りを石みたいな茶色や灰色の何かが囲っている。石の中には口のように開いているのもあって、そこからは馬に乗っていた時に嗅いだ‘海のにおい’が少しだけしているような気がする。
あんな固いもの、食べられるのだろうか。
どういうものかは分からないけれど、私にはどれも新しかった。研究所で出る食事はいつもパンやスープなど、簡単なものしかなかった。能力者の私には普通の人と同じくらいのエネルギ―を取る必要もなかったし、それで十分といえば十分だったけれど。
「美味しそう……!」
お腹は空いていなかったはずなのに、こんな美味しそうな料理を目の前にすると、自然にお腹の虫が鳴きはじめる。
「食べてみて。シェルチキンっていう、この辺ではありふれた料理だけど、美味しいよ!」
エルウィンが先に中心のチキンにナイフを入れながら言う。
「いただきます。……美味しい!」
口に入れて、その味を楽しむ。噛み応えのあるお肉にかかっていたソ―スの味が、舌を隅々まで満たしていく。薄味に慣れていた私にはとても新鮮な感覚だった。
「でしょ?」
私が感動していると、エルウィンも同じようにお肉を口に運ぶ。そして次に石みたいなものを器用にナイフとフォ―クで転がしながら、柔らかそうな何かを取り出す。
「それは?」
「これは貝だよ。この固い部分は殻で食べられないから、中の身だけ食べるんだ。間違ってもそのまま食べたりしたらダメだからね?」
「……うん」
なんだか、心配して損をした気分になった。私は教えられた通りに貝から身を取り出して口に入れる。お肉の時とは違ったソ―スがかかっているのか、これはこれでとても美味しくて、食べたことのない味だった。
「グングニルが美味しそうに食べてくれて嬉しいな。良かったよ、連れてきて」
エルウィンは屈託のない笑顔でそう言って、またお肉を口に運ぶ。私はその言葉になんだか照れくさくなって、俯きながら貝をほおばった。
この気持ちは、この料理の味は、きっとエルウィンが命を懸けて私をあの研究所から連れ出して、私の手を引いてくれなければ味わえなかった。
私はエルウィンが握ってくれた左手を見つめる。ずっと死にたいと思っていた自分が嘘のように、今は「生きていられること」をとても楽しんでいる自分がいた。
「さて、お腹も膨れたことだし、ルールポルカ研究所に向かおうか!」
店から出たエルウィンは地図で道を確認してから再び歩き出す。店に入る前よりは人通りも減っていたが、それでも道は人で埋まっていた。
混雑を抜けてしばらく歩いて、ある曲がり角を曲がったときだった。騒がしかった声が少し遠くに聞こえ、なんとなく寂しげな雰囲気を漂わせる路地裏に出た。
そして前方には目つきの悪い男たち数人が座り込んでいた。どう見ても‘街のゴロツキ’だった。
エルウィンが嫌な予感を感じ取るのと、男のうちの一人が二人を見てニヤリと口元に笑みを浮かべたのは同時だった。
「よぉ、見ない顔だな。金目のものがあるなら出しな」
その男が立ち上がりながら言うと、他の男たちも同じ笑みを浮かべて少しずつ近づいてきた。
今ならまだ間に合う、そう思って男たちには答えず賑やかな方へ踵を返そうとしたが、心臓の音が速まるばかりで足が進まなかった。
「おいおい、怖がることはねぇよ。あるなら出すだけで、痛い目見るわけじゃないんだからよ」
男が馴れ馴れしくエルウィンの肩に手を置く。煙草の吸いすぎだろうか、肌は黄色く染まっていた。
「……」
——普段なら一目散に逃げるところだけど、今はグングニルがいる。いざとなれば魔法で追い払えるけど騒ぎは起こしたくないし……。
エルウィンは思考を巡らす。後ろを振ると賑わっているのが聞こえる。例えば魔法を使って撃退したら、その騒ぎが気づかれてしまう可能性は高かった。
「なんならそこのお嬢ちゃんだけくれても良いんだぜ?」
一人のその言葉に、どっと笑い声が起こる。
「グングニルは関係ないだろ」
その笑い声を打ち消すかのように咄嗟にエルウィンの口から言葉が出る。
「あ? 何か言ったか?」
今まで黄色い歯を見せながら笑っていた男たちが、急に冷水を浴びせられたかのように静かになる。
「彼女は関係ないだろ。それにあなたたちにあげられるものは何もない」
エルウィンは自分の声が大きく聞こえるのではないかと思うほど静かになったその中で言いながら、徐々に足を後ろに引いていく。
「おうおう、彼女を守ろうってか?偉いねぇ!」
「こんなチョロそうなの最初からやっちまえば良かったんだよ!」
「逃げられると思うなよ。俺たちに口ごたえしたんだからな!」
彼らは口々に言いながら、エルウィンが後ろに下がっていくのに従って近づいてくる。その度に攻撃の意志が伝わってきた。
「エルウィン、ここは私が……」
「ダメだ。力を使っちゃいけない」
グングニルにはなるべく人を傷つけて欲しくない。そんな思いからとっさに止める。
街に出るまであと少しだった。今なら大声を出せば助かる可能性があった。しかし、彼らはそんなことはさせるつもりは当然なく中心の男が拳を振り上げる。同時にエルウィンの拳にも力が入る。
「悪いな。その二人は俺の連れだ」
覚悟を決めて目を瞑ったエルウィンは殴られる衝撃の代わりに、聞き慣れない男の声を聞いた。
「何だおめぇは?」
男の視線を辿って声の主を確認する。振り向くと白髪の目つきが鋭い青年が立っていた。
「代わりに俺が相手になるから、そいつらに手は出さないでやってくれ」
白髪の青年は男の質問には答えずに、エルウィンたちに歩み寄りながら言った。
「保護者様が登場かぁ?このぼうずは教育がなってねぇよ。痛い目見ないとわかんねぇんじゃね―か?この責任は、当然お前が受けてくれるんだよなぁ?お?」
無視されたことに腹が立ったのだろう、エルウィンに向いていた攻撃の意志が、今度は青年の方へ移る。
「あぁ、だが痛い目を見るのはあんた達の方だがな」
エルウィンがその言葉を理解する前に、青年がエルウィンと男の間に入り込む。
「ぐぉっ!」
間髪を入れずに素早く、下から突き上げる鉄拳が弾丸のように男の顎に直撃する。中心の男が白目を剥いて倒れるのに続いて、抵抗の隙を与えずに右端の男の腹に、青年の右足が吸い込まれるようにヒットする。殴りかかってきた左端の男はその拳を裏拳で弾かれる。苦痛に歪むその顔を、間髪入れずに青年の右の拳が真っ直ぐに塞いだ。
男たちがばたりと地に倒れるまでほんの数秒だった。エルウィンは呆気に取られながら目の前の青年を見つめる。
「怪我は無いか?」
「は、はい。大丈夫です。ありがとうございました」
息も切らさずに訊く青年に、エルウィンは礼を言うことしかできなかった。まだ収まらない心臓の早鳴りが、その声を震わせた。
しかし、青年がエルウィンの後ろ——正確にはグングニルを見つめているのに気づいて再び緊張が走った。
「あの、何か?」
「その子、神ノ力を持っているだろ?」
青年の単刀直入な問いにエルウィンの緊張は一層強まり、グングニルを後ろに隠すように動いた。
——神ノ力を知っている?
一瞬でグングニルの正体を見破られてしまった動揺は、はっきりと顔に表れてしまっていたらしい。青年はふっと短く笑うと、両手を挙げた。
「警戒しなくても良い。俺も似たようなもんだ。……そうだな、少し場所を変えよう。俺について来てくれないか?」
言葉通り、警戒を解くようにそう言ってから、二人の横を通り過ぎて賑やかな街の中へと入っていった。
「エルウィン、あの人どうして私が力を持ってるって分かったのかしら?」
「分からない。どこか普通の人とは違う感じがしたけど……。とにかくついて行くしかないみたいだね」
エルウィンは言って、慎重に一歩を踏みしめる。
いざとなれば自分がグングニルを守るために戦う。その覚悟を胸に秘めながら青年の後に続いた。
*****
青年に案内されて到着したのは二人がまさに目指していたルールポルカ研究所だった。
あれからずっと何も喋らないまま、ヴァルハラと名乗った青年に連れられて歩いていた。研究所内のエレベ―タ―の扉が開き、その中に三人が乗る。圧迫されるような沈黙があった。
「あんた達だろ。サイドバリーから来る男女二人組ってのは」
エレベーターを出たところで、ようやく青年が口を開く。
「僕たちのことを聞いてるんですか?」
「あぁ、じゃなきゃここまで連れてこないよ」
おそらくロラドが連絡をつけて、自分たちの特徴も伝えておいてくれたのだろうと予想をつける。
「僕はエルウィンといいます。彼女はグングニル」
エルウィンは自己紹介をして、グングニルがそれに続いて小さく頷くように礼をする。
「あぁ、それも知ってる。とにかく、話は中に入ってからだ」
良くいえば冷静で、悪くいえば冷たくそう言ったヴァルハラの目の前にあったのは、大きな木製の扉だった。
あまり感情を表に出さない人なのだろうかと、その素っ気なさからヴァルハラの特徴をぼんやりと感じ取る。
「入ります。ラシュガン所長」
ヴァルハラがドアをノックしながら口にした名はエルウィンたちが最も会いたかった人物のものだった。
「よぉ、運が良いなお二人さん。ヴァルハラに助けてもらうなんて」
ドアを開けた向こうには、茶髪で大柄の男が、大きな顔に満面の笑みを浮かべながら椅子にどっかりと座っていた。
「あなたがラシュガンさんですか?」
エルウィンが急かすように聞く。
「あぁ、俺がルールポルカ研究所所長ラシュガンだ! ロラドに話は聞いているが……。言ったとおり、頼りにならなそうな銀髪の少年と金の髪を持つ少女、だな!」
ラシュガンはメモ紙のようなものを見ながら確認するように二人を見る。
「頼りにならないって……」
ラシュガンの言葉にがっくりと肩を落とす。
「なっはっはっ! 恨むならロラドを恨め。よし、もうひとつ確認のため聞かせてもらうが、お前達はなんのためにここに来た?」
ラシュガンは部屋中に響くような大声で笑った後、真剣な顔つきに戻って二人に聞く。
「僕は、第一に彼女を助けたい。神ノ力を持つ実験体としてとか、痣の仕組みがどうなっているのかということ以前にです」
エルウィンは今までの経緯を含めて話し始めた。ラシュガンとヴァルハラはそれを一言も口を入れず、だが目を離さずに聞いていた。
「うむ、面接は合格だ」
話が終わり、ラシュガンが満足そうに頷きながら言った。
「意外に熱い男みたいだなぁ! だが意志だけでは俺たちから情報を得ることはできない」
ラシュガンはいったん言葉を切って、机の上に置いてあった地図を広げる。
「お前達に頼みがある。これを引き受けてくれれば俺たちが今知っている情報を渡してやろう」
「分かりました」
エルウィンは緊張した様子で頷く。
「今俺たちがいるのはルールポルカだ」
ラシュガンは地図にある、蛇が身体を丸めて半円を描いているような形の先端を指で示して言う。地図には全体を囲んで、‘パルテミア’と書かれていた。
「そしてここには反政府組織の支部、パルテミア支部がある」
次に半円の中心にある丸い場所を指し示して言った。赤色のペンで囲まれていた。
「反政府組織?」
グングニルが地図から顔を上げて聞いた。
「俺たちの研究に反対する武力集団だ。気持ちは分からんでもないが、厄介な連中だ」
ラシュガンは不機嫌そうな表情を見せながら言った。反政府組織スヴェントの噂はエルウィンも聞いたことがあった。五年ほど前に政府から離反した神ノ力の研究者数人を中心に組織された反政府組織。政府に劣らない武力と技術力を持っていることから、かなり激しい戦闘もあったということだ。
「要するに、今回お前達にはパルテミア支部殲滅の手助けをしてほしい」
「殲滅、というのはつまり、パルテミア支部を皆殺しにしてこい、ということですか?」
ラシュガンの言葉に、背筋に鳥肌が立つのを感じた。多少の覚悟はあったにしても、エルウィンには重すぎる代償だった。
「なっはっはっは! すまんすまん言葉の綾だ。さすがにこんな若者たちにそんな惨いことはさせんよ! 殺すとしてもせいぜいその支部の責任者。そいつの首を取って来いという話でもない。他のメンバ―たちは適度におびえさせておけば良い。そうでもしないと政府の威厳が保てんからなぁ!」
「な、なんだ……」
豪快に笑うラシュガンとは対照的に、エルウィンは胸をなでおろす。隣のグングニルも、安心した表情を浮かべていた。
「そこの嬢ちゃん、グングニルとか言ったか、お前も能力者だろう?何も殺すことはない。その力を見せつけて怖がらせれば済む! メンバ―たちの捕縛が真の目的だ! なーに、能力者は二人もいるんだ! すぐ終わるぜ!」
「能力者がもう一人護衛につくんですか?」
「なんだ、その様子だと気づいてないみたいだな。俺の隣にいる無愛想な男が、その能力者だよ。なっはっはっ!」
「えっ?!」
エルウィンは驚きの声を上げて、笑うラシュガンに肩を叩かれながら苦笑いをしているヴァルハラに視線を移す。ここでようやく、路地裏での強さに納得がいった。ヴァルハラが能力者ということは、このルールポルカ研究所のガ―ディアンに違いないとエルウィンは予想を付ける。
「まぁ、そういうことだ。よろしくエルウィン、グングニル」
「よ、よろしくお願いします」
「あぁ、あまり固くならなくて良い。気楽にしてくれ」
ヴァルハラは握手を求めた。細身の見た目に似合わず、大きくごつごつとした手を握りながらエルウィンは何度も頷いた。
*****
‘まぁ、今日は長旅で疲れただろう。特別な部屋を用意してやるからゆーっくり休めよ!’
月の光がわずかに射す以外、真っ暗な部屋の中でラシュガンの陽気な声と、波の音が微かに木霊した。
ベッドに吸い込まれるように沈み込むと、急激に睡魔が襲った。
「痛っ」
エルウィンは寝返りをうとうとして右手に痛みを感じた。
仰向けになり右手を月明かりに照らして確認すると、手の甲に引っ掻き傷のような痕があった。
‘再生力の低下を引き起こす被験体多数あり’
自分で書いたレポ―トの中の言葉を思い出す。ウィザードリキッドを打てば魔法を使えるようになる代わりに再生力が低下する。ウィザードリキッドを注入したマウスの傷が、なかなか治らなかったことを思い出しながら、エルウィンは実験をしていた頃の記憶を頭から引き出す。
ウィザードリキッドによって魔法を使えるようになると言っても、最初は被験者の身体の中に常人以上の魔力が貯まるだけだ。一般に魔法使いと呼ばれている者たちは、自分の中にある魔力と、空気中に微量に流れる魔力を結合させて火や雷といった魔法を使えるようになる。そしてその魔力の強さは、本人の意志の強さで変わるものだという。本人の意思と魔力が強ければ強いほど、魔法によって具現化できるものが多くなって、強くなる。
——そう、強くなれる。
魔法を使えるようになれば強くなれる。強ければ、誰も失わずに、悲しみに暮れることもなくなる。
幼いときの、思い出したくない記憶まで顔を出してきて、エルウィンは布団を頭まで被る。
扉を壊すほどの拳の強化も、おそらく魔法の一種。扉を壊したいという意思が、あれを可能にさせた。
扉を壊さなければ―ウィザードリキッドの発明は画期的なもので、あのまま成功していれば富や名誉を手に入れられた。
エルウィンは心の中で首を横に振る。そんなもののために今まで自分は努力を続けてきたわけではないと、あの扉の前で無意識にその誘惑を否定した。たとえ治らない、治りの遅い傷が自分自身につこうとも。自分はそれを覚悟でやった。誰も目の前で失わないために。同じ過ちを繰り返さないために。後悔はしていなかった。
そして、重い宿命を、彼女だけに背負わせたくないという理由のために。
自分にとって、特別な彼女を助け出したいという理由のために。
今はもう力を手に入れられた。だから、グングニルを守る。助ける。
エルウィンは拳を強く握りしめたまま、いつの間にか深い眠りについていた。