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【神ノ槍】  作者: 黒崎蓮【原作:みなぎゆう】
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【第二十五話】命繋いで

「やはりな……」


 エルウィン——正確にはその中に眠るオーディンの意識が、得心のいったように呟く。

 視線の先、テーブルの上には特殊な鋼材で作られた注射器が佇んでいた。その中に眠る透明な緑色の液体を見つめて、腕を組みながら一歩後ろに下がった。

 ウィザードリキッドの完成を確認したエルウィンは気が抜けてしまったのか、意識を再びオーディンに明け渡してしまったようだった。

 無線連絡機で各方面に完成の旨を伝えた後、崩れ落ちるように座り込んだエルウィンを心配してグングニルが駆け寄ると、そこには苦笑いをする神ノ王の顔があった。


「ここで我が目覚めたのは運が良かったかもしれんな。この薬、本物だ」

「どういうこと?」

「神ノ力を我らの世界に戻す力、という点においてだ。この薬に近づいただけで分かる。我を戻そうとする力がより強くなった。ただでさえこの人間の中にいる魔力に抗っている我からすると、相当の負荷だ」


 感心するような、忌々しいような読み取りづらい声色でオーディンは言う。

 その神のお墨付きは同時に、可能性が明確な手段に変わったことを意味していた。

 これをユミルに打ち込むことができれば、ラグナロクは確実に止まる。


「じゃあ、急いで出発しよう。こうしてる間にも……」

「慌てるな我が愛槍よ。貪欲の獣に制裁を下す前に警告を二つ。まずはこの薬、貴様が持っていろ」


 オーディンは目配せをしてグングニルに促す。

 グングニルが一瞬戸惑いつつも、言われた通りにテーブルの上から注射器を手に取る。

 掌に載せた瞬間、ほんの一瞬だけ身体全体を浮遊感が襲った。


「体内に注入しなければ基本的に問題は無いが、何かの弾みで我に効果が出てしまった場合、貴様一人であの獣と対峙することになる。一人で討てる自信があるのなら話は別だが……」

「分かった。タイミングが来たら渡せるようにしておく」


 オーディンの言葉を遮ってグングニルは答える。

 ラグナロクを起こす直前での戦闘もギリギリの綱渡りだったから、一人で立ち向かって勝てる可能性は限りなく低い。

 エルウィンと一緒に戦うと決めた以上、神ノ王という存在はこれ以上ない剣であり盾でもある。


「それともう一つ。あの獣のトドメは、我——目を覚ますのであればこの男に刺させろ。あれだけの神ノ力を取り込んだのだ。すべての力がこの薬の効果で我らの世界に還るとも限らず、溢れるかもしれない。もし貴様がトドメを刺せば、いくつかの力はお前の神ノ力に惹かれ……最悪の場合、貴様が第二のラグナロクの爆心地となる可能性もある」

「私が……」


 最後まで言いかけて、鳥肌が全身を走る。

 それは力の暴走なんかとはきっと比べ物にならない惨状を、自分自身が生み出してしまうかもしれないということ。

 最悪の状況は想定しているつもりだった。

 視線を下げると、すでに首元までに広がっている痣が嫌でも視界に入る。これが現れてから約一か月というのが元々予想されていたタイムリミットだった。

 時間が過ぎることによる暴走と、その後の死は覚悟している。

 しかし、自分が死ぬだけでは済まされない罪に繋がるのであれば、絶対に間違えてはならないことだった。

 了解の意を込めて、グングニルは強く頷く。


「我としてはどちらでも構わんが……我がトドメを刺せば、溢れた神ノ力は我に取り込まれようとするだろう。その瞬間に今、我が制御している薬の抵抗を解き、共に我らの世界へ帰ってやろう。それでこの戦いは終わりだ」


 神から告げられる淡々とした言葉。

 戦いが終わる。

 今から成し遂げようとすことを思うと果てしなく遠いことのように聞こえるが、短期決戦でユミルを仕留めなければならない。

 今もまだ巨人の足音に怯える人たちがいる。

 家や家族と離ればなれになって泣いている人たちがいる。

 命尽きるその瞬間まで戦い抜こうとするスヴェントや兵士たちがいる。

 その誰もがきっと誰かの大切な人で、こんな地獄から抜け出して、それぞれの思い描く未来に生きたいと願っているはずだ。


「終わらせよう」


 そしてグングニルも同じだった。

 きっとエルウィンが意識を失う前に伝えてくれようとした言葉は、きっと自分と同じはずだとグングニルは心の中で確かめる。


 ——この戦いが終わっても、二人で一緒に生きていきたい。


 強く、小さな熱が身体の真ん中に灯ったような気がした。

 それは神ノ力でも魔力でもない、僅かな力。

 けれど他のどんな力よりも、グングニルの身体中に活力を漲らせ、いき渡らせてくれる。

 人はきっとこれを、‘希望’と呼ぶのかもしれない。

 滾る力をかみしめながら、グングニルはそんな考えが頭に浮かんできたのを自覚した。



*****



「ここから前方二、三キロ付近に奴がいます。我々もこれ以上近づくのは危険で……面目ない」

「ありがとう。この辺で大丈夫」


 スヴェント本部に残っていた魔法使いの箒に乗せられ、グングニルとオーディンは目的の地に近い場所へ足を踏み入れた。

 グロークス本土。廃都イザヴェル。

 かつてディラン——ヴァルハラやアレックス——ユミルが研究所を構えた地であり、今にして考えれば災厄が始まった土地とも言える。

 荒廃して草一本も生えていない地は、日が完全に落ちているのも相まって暗く、静かだった。


「確かに、いるな。おぞましい力の集合体が」

「うん、ここからでも息が詰まりそう」


 オーディンの言葉に、グングニルは地平線を見やる。

 揺らぐ地平線の中でひと際異様な揺らぎを感じる地点。その向こうに、ラグナロクの爆心地——ユミルが立っていることは明らかだった。

 短く息を吐いて、グングニルは一歩踏みしめる。

 恐怖はもちろん、胸の中で行き場を無くしたように暴れ回っていた。

 代わりに頭の中は驚くくらいに澄んでいる。

 必ずユミルを止めなければならない。

 その一心が、一歩大地を踏むごとに鋭利に研ぎ澄まされていくのが分かる。

 ウィザードリキッドの報がビドーを中心にスヴェントメンバーや魔法使いたちに流されてから丸三日。人類は未知の脅威と戦い続けた。いつ瓦解してもおかしくないこの戦況を変えられるのは自分とエルウィンしかいない。

 肩にのしかかる空気が重くなったような気がした。


「……なんだヨ、その顔ハ」


 目の前に一人、亡霊のように立つ男——ユミルが視界に映った。

 まるで虚空から現れたかのように静かに、だがその姿は見るに堪えない異形と化している。

 声は人間の発するものなのか、一瞬分からなくなるくらいしわがれていた。

 上半身の衣服はすでに破れ、黒く変色した素肌は鎧のような外観となっている。

 両腕は、もはや人のそれではない。右腕は大樹のように巨大化し、左腕には獅子か蛇か、それ以外にも多くの獣の顔が所々から突き出しており、牙をむいている。

 腰から下は馬のように変化しており、八本の脚からは紫炎がゆらゆらと揺れている。

 顔面は血に染まり、朱く光る瞳がその色をより際立たせている。

 この世のすべての悍ましさを集約させた存在が、そこに立っていた。


「なんで、英雄みたいな顔をしてここまで来れタ。お前だって実験体の癖に、なんでそんなに覚悟を決めたような、清々しい顔で俺の前に立っていられる……! お前も同じだろうが、お前も、俺と同じように全部を失ったはずダ!! この世界に、何も残っちゃいないだろう、愛も友情も、名誉も金も力の前では塵と同じ、こんな世界で生きて、何になル……!」


 壊れた機械のように、ユミルは言葉を吐き続ける。

 昂っていく精神に比例して、ユミルの身体から様々な色の神ノ力が火花として上がり、空間を少しずつ揺らしていく。

 呪詛のような言葉は徐々に小さくなって聞こえづらくなっていくが、同じような言葉を繰り返しているように聞こえた。


「もはやこれは誰かに伝える言葉ではなく、ただの獣の咆哮と同じだ。今から殺す相手の感情に流されている場合ではないだろう」


 冷徹な神の言葉が、背後から聞こえる。

 そうなのかもしれない。対話で解決できたのであれば、最初から能力者たちを殺し回ったり、無差別な殺人を起こしたりすることもなかった。

 声——咆哮とともに入ってくるどす黒い感情に歯を食いしばって、戦闘のために心を決めようとする。


「俺ハ、ミリィと一緒に生きられれば幸せだっタ。ディランといろいろな研究を続けて、新しいことを見つけられる喜びを感じられればそれで良かっタ。もう、何もなイ。だったら、全部連れて行かないト、ミリィが悲しむ」


 支離滅裂な思考と言葉であることに疑いは無かった。

 けれどなぜか、エルウィンの顔が脳裏に浮かぶ。

 ミリィという女性は、きっと自分にとってのエルウィンのような存在で、お互いがお互いの大切な人だったのだということは、ヴァルハラから聞いた話や今までの情報からも想像に難くない。

 もしエルウィンが同じような死に方をしたら、自分も同じように狂ってしまうのかもしれない。

 ただ、悲しく残酷な運命を歩かされてしまった。そしてその運命は、何かの因果が違っていればグングニルの足元に敷かれていてもおかしくはない。

 かけてあげられる言葉も、ましてや代わりの何かで埋めるなんてこともできない。

 頭では分かっているが他人事でもないユミルの現状に、グングニルは最後の一歩を踏み出せずにいた。


「僕たちの未来まで連れて行かないでくれ」


 グングニルを縛っていた鎖は、背後から放たれたエルウィンの言葉で解かれた。

 神の言葉ではなく、紛れもなくエルウィン=ラックハイムの声。けっして張り上げるような声ではなかったが、真摯な、一人の少年の声。

 振り返るとグングニル、その向こうにいるユミルを、真っすぐに見据えていた。


「僕も大切な人を救えなかった。心無い人たちの悪意に、自分の弱さに絶望した。復讐も考えなかったわけじゃない。でも、それで世界を巻き込んで自分まで死のうとするのは、やっぱりおかしいと思う。僕は……生きたい。生きて前に進まなければ、この絶望も晴れないし、後悔はずっと残ったままだ」


 胸に手を当て、エルウィンは言葉を紡ぐ。

 生きて、前に進む。そうすることで新しい知識や経験、人との出会いが心や意識を変えていく。

 グングニルも無意識に頷く。死にたいとぼんやりと思っていた自分がここに立っていることが、エルウィンの言葉を肯定する。

 それは誤魔化しや忘却かもしれない。でもそのおかげで、今この場所に立って戦い、その先で笑いたいと願っている自分がいる。

 ぶつぶつと呪詛を吐き続けていたユミルは口を止め、少しだけ顔を上げる。


「何のためニ、生きル。もう何も残っていなイんだよ俺にハ」

「それは僕には答えられない。きっと誰にも、きみ以外の誰にも答えは出せないし、もしかしたらそれは、きみにしか意味を持たない答えなのかもしれない」


 エルウィンは呻き声のようなユミルの言葉に即答する。

 冷たく突き放すように聞こえるが、きっとそれは紛れもない現実で。今のユミルには甘い言葉も無責任な未来も、何の意味もない。

 この問答自体にも、もはやたいして意味は無い。エルウィンの心の片隅で、そんな考えが浮かぶ。


「僕にはきみを力から解放する手段がある。救えるのなら、僕はきみを生かしたい。生き続ければきっと……!」


 ただ自分の意思を伝えたかった。

 伝えたうえで、もし意味のある会話を交わせるのならユミルの言葉を直接聞きたかった。

 救える一縷の望みがあるのであれば、試してみたかった。

 後悔を残す生き方は、もうしたくなかったから。


「やっぱり、誰にも俺を救うことなんてできない。もう、良いんだよ。あの頃には戻れないし、何もいらないんだ。あの時、俺の人生は終わったんだから」


 静かに、淡々と紡がれた言葉はエルウィンにわずかに残されていた希望を遮る。

 その拒絶の声が一瞬、正気を取り戻したように聞こえてユミルの顔をまじまじと覗こうとする。

 赤い顔面に、雫が流れ落ちているように見えた。

 エルウィンは手を伸ばそうと無意識に腕に力を込める。


「くっ……!」


 けれどユミルの身体から発された悍ましい色の神ノ力が、それを許さなかった。

 力は奔流となって、突風のようにエルウィンとグングニルに吹き付けられる。


「俺の答えはこれダ。エルウィン=ラックハイム。残りの命が続く限りすべてを壊して、ミリィの元に行くこと……それが俺の人生の答えだよ……!」


 殺意が、憎悪が、まるで重力のように身体全体に圧し掛かる。

 圧に耐えながらエルウィンは右手に光の剣を具現化させ、グングニルは髪の毛を一本引き抜き、紅い槍に変形させる。


「……分かった。じゃあ、僕はその答えに抵抗させてもらう。僕は、僕らの未来を守りたいから!」


 ここから先、言葉が無意味なことは分かっていた。

 分かり合うには遅すぎたことも、ここに来る前から頭では理解していた。

 きっと未来への道は、二人のうちどちらかにしか用意されていない。


「グオオオオオォォォッッッ!!!!」


 獣とも慟哭ともつかない叫びとともに、ユミルはその身体を浮遊させ、様々な色の光弾を中心に展開させる。

 【神ノ咆哮】グレイブ。

 その叫びはあらゆるものの身体の動きを止め、能力すら封じ込める。

 頭の中にある自分のものではない知識——オーディンの持つ知識によりその力の正体を看破する。


 ——止まるな。動き続けろ。我がこの場にいる限り、貴様と我が愛槍には精神干渉系の能力は効かぬようにしてやる。


 頭の中で、オーディンの声が響く。

 どうやらエルウィンの意識と同時に覚醒しているらしかった。

 身体の中で鎮座する神ノ王を感じながら、エルウィンは地面を蹴る。ウィザードリキッドでもレーヴァテインの時でも感じたことの無い力が、身体を動かしているのが分かる。

 花火か流れ星のように夜空を照らす。それらが一瞬強い光を放ったかと思うと、そのまま雨のように落ちていき、エルウィンたちの足場を無差別に抉っていく。

 

 ——力の使い方は貴様の脳に叩きこんだ。存分に奮って、この醜い獣に神ノ王の威厳を示せ。貴様は今からエルウィン=ラックハイムではなく、【神ノ王】オーディンだ。


 自分の力とは思えない脚力で地面を踏みしめ、宙に浮いたユミルの周りを駆ける。

 十の神ノ力を自在に操る。

 その意味は神の知識だけでなく記憶——正確にはオーディンの意識でいた時に見たグングニルとユミルの戦闘の記憶が、嫌と言うほど教えてくれた。

 ユミルの右腕が山吹色に輝く。

 【神ノ怪腕】ヴィーザル。巨木は蔓のように伸び始め、枝分かれしながら地面を突き刺して確実にエルウィンとグングニルを貫こうとする。

 グングニルは槍で枝を切り刻みながら、突き刺さった枝へ飛び乗り、根本——ユミル本体まで走る。

 エルウィンは自分に向かった枝を空中へ飛んで避け、ユミルと同じ高さにまで上がった。


「はあぁぁぁっっ!!」


 枝を、そして進むうちに太くなっていく大樹を駆け上がりながら、グングニルは叫ぶ。

 紅い槍は煌々と輝いて熱を帯びる。

 向かい討つは【神ノ牙グリンブルスティ】。左腕に絡みつく獣たちは一斉に獲物を見定め、その牙を惜しみなく見せながら突進してくる。


「槍よ!」


 グングニルが叫ぶと同時に、複数の紅い槍が周りに出現し、その切っ先を獣たちに向ける。

 火矢の如く射出された槍は勢いを止めることなく獅子、蛇、鳥、龍にも似た数多の獣たちの脳天を貫き、叫びをあげさせないまま葬っていく。

 その痛みはすべてユミルに届く。常人では叫び声すら上げられないほどの痛みも、もはや彼にとって’終わり’の一部分でしかない。

 しかし意思とは裏腹に、【神ノ慈悲】エイルが薄紅色の光とともに痛みも傷も癒していく。

 延々と湧き続ける獣に対してグングニルも自ら槍を振るって応戦する。


「終わらせる」


 ユミルの心の中の声に重なるように、背後から言葉が聞こえた。

 そして同時に、自信を丸ごと捉えるような膨大な神ノ力。

 脚の内の一本を【神ノ蛇】ヨルムンガンドに変え、その眼から背後を確認する。

 そこには紫銀の大槍を構えたエルウィンの姿。迸る灰色の神ノ力を纏いながら、徐々に巨大化していく槍の切っ先をユミルに向けている。


「うおおおおおおお!!!!」


 巨大な質量を持つ銀槍が、頭上で空間を揺らしながら発射される。

 余計な力は必要ない。エルウィンの意思で、銀槍は目の前の獣を狩るために、巨体とは反比例した速度でその身を突き動かす。

 この距離では避けられない。銀槍の余波は空間を削り、すでにヨルムンガンドを消滅させていた。


「焔、ヨ」

「なっ……?!」


 自信もその力に身体を削られながら、ユミルは呟く。

 【神ノ炎】スルト。その静かな声とは対照的に、身体中から高温の炎が瞬時に発せられる。

 爆発のように広がった灼熱の衝撃波は中空にいたエルウィンと、大樹の上で獣と応戦していたグングニルを吹き飛ばすには十分な威力だった。

 極度な高熱と地面に打ち付けられた衝撃で、エルウィンの視界は暗転する。

 明暗する視界に映ったのはこちらを見下ろすユミルの姿と、落ちていく銀槍。術者が集中を欠いたことで軌道はズレ、形状を維持できなくなったようだった。


 ——身体へのダメージは我が肩代わりできる。動け、戦い続けろ。


 普通なら死んでいる転落も、今は少しの痛みと眩暈で済んでいるのはやはり神の御業だった。

 感謝する間も惜しんで、エルウィンは光の剣を再度生成する。


「速い……!」


 体勢を立て直す間もなく、ユミルは空を駆けて向かってきていた。

 【神ノ戦馬】スレイプニル。八本の脚は何もない中空を蹴って、紫炎は尾を引きながら流星のようにエルウィンへと突撃を仕掛けてくる。

 視界を埋め尽くしたのは紫の炎と、黒い刃。全身が灼けるような痛みと、両腕が粉々になりそうなほどの衝撃と重さが身体全体に圧し掛かり、足を地面にめり込ませる。

 【神ノ剣】レーヴァテイン。

 かつて友が、そして自分が振るっていた剣が、今目の前に敵の獲物として牙をむいていた。

 一振り、二振り、それでも動く身体が斬撃を受け止め、繰り返される衝撃で痺れた腕を振るって弾き返していく。きっとオーディンの加護が無ければ今頃腕ごと上半身が吹き飛ばされている。

 頭を、首を、腹を、あらゆる箇所を抉ろうとする殺意は嫌と言うほど感じられるが、反撃の隙を見つけることができない。


「エル!!」


 神ノ力がぶつかり火花を散らす斬り合いの中で、グングニルの声が遠くから聞こえた。

 迫る黒い斬撃を受け止めずに避け、反射的に地面を蹴って後ろに飛ぶ。

 肉が骨ごと断ち切られる嫌な音。

 距離を詰めようと前に出たユミルの、レーヴァテインを握った右腕が血しぶきをあげながら宙へと舞い上がった。

 目を見開くユミルの表情は、背後で強烈に輝く紅い光と炎に見えなくなる。

 それがグングニルの【神ノ槍】による攻撃と認識するのに時間はかからなかった。

 炎の弾丸となった紅い槍は続けざまにスレイプニルの脚を抉り取り、ユミルの身体のバランスを崩す。

 倒れかかかった胸に、腹に、槍は容赦なく突き刺さる。肉を削り取り骨を断ちながら、槍は燃え上って炎をユミルの身体全体へと広げていく。


「ガアアアァァァァァッッ!!!!」


 火だるまと化しながら吠えるユミル。

 傾いて差し出された首を、エルウィンは見逃さない。地面を蹴って、まだ痺れている両手で剣の柄をしっかりと握る。

 狙うは燃え盛る首の根本。

 突進しながら右上方に素早く振り上げ、刃を振り下ろす。


「ディラン!!」


 首元に届く直前、ユミルの叫びとともに現れたのは淡い緑色の光の壁。

 かつての仲間の絶対防壁——【神ノ壁】ヴァルハラ。

 その壁の堅牢さはエルウィンもよく分かっていた。いくら力を込めて刃を押し込んだところで、びくとも動かずユミルには届かない。

 視線の先、まだ残っていたユミルの左腕が有象無象の獣に変化し始めたことを認識して、エルウィンはその場を離れようとする。


「死ね」


 浅黄色の光が輝き、獣たちが膨大な質量を伴ってエルウィンの腹になだれ込む。

 オーディンの力によって光の防壁が展開されるものの、肉を食い荒らし骨を噛み砕こうと牙を立てる獣たちの猛攻は、エルウィンを空高くに吹き飛ばす。

 腹の中をかき回されるような、今までに経験したことの無い痛みと不快感に耐えながら、視線はユミルから外さないようにする。

 肉体を復元しつつあるユミルの背後に、グングニルの姿が颯爽と映し出された。

 紅い槍の切っ先はユミルの首に向いていたが、大口を開けたヨルムンガンドが音もなく出現してその刺突を飲み込もうとする。


「くっ!」


 身体をずらし、地面に倒れこむ形で大蛇の口から避けるグングニル。

 転がりつつ片手を地面について、そのままバネの要領で身体を跳ね上げて体勢を立て直す。

 ユミルを視界に戻すと、その身体に纏わりついていた炎も、傷もすでにほとんど消えかけていた。


「不死身なの……!」

「……」


 グングニルの悪態に答えぬまま、ユミルは身体の炎を完全に消し去る。

 その代わりに、眩しいくらいに白くぼやけた灼炎が、グングニルとユミルを囲むように円状に、急速に広がっていく。

 夜の闇が太陽に照らされたように明るくなる。

 直接炎に触れていないにもかかわらず、肌には直接鉄を当てられたような激痛と、削られるような感覚が走る。

 ここで確実に一人、葬り去ろうとしている。言葉はなくともグングニルは悟る。


「すべてを、貫け……!」


 相手が何を仕掛けるのかは予想がつかない。やられる前にやるだけ。文字通り相手が力尽きるまで、この戦いは終わらない。

 グングニルは声を絞り出して、体内の神ノ力を集中させる。

 白い灼炎の中に、グングニルを中心に紅蓮の炎が渦巻く。その炎は次々に紅い槍へと姿を変えて、空気を重く切り裂きながら火矢の如くユミルへと吸い込まれていく。

 対抗するようにヨルムンガンドが、グリンブルスティの獣たちが百鬼夜行の如く槍を喰らおうと濁流の如く押し寄せる。

 脳天を貫き、穂先を喰い合う槍と獣。

 無機物と猛獣の殺し合い。

 その軌道から逸れて、グングニルは駆け出す。ほとんど同時に、ユミルも同じように地面を蹴る。

 走るグングニルの視界は高温により揺れる。眩暈が止まらなかったが、狩るべき首はしっかりと見据えて槍の柄を握る。

 すでに八本の脚を取り戻しているユミルは驚異的なスピードで間合いを詰めに入り、右手にはレーヴァテインを再び握っていた。

 赤と黒の刃がぶつかり、大気を揺らす。

 頭を割ろうと迫る黒を、赤が薙ぎ返す。腹を抉ろうとする赤を、黒が払いのけて突き返す。

 剣戟が重なるごとにその衝撃は増していき、行き場を無くした神ノ力は何もない大地に歪な傷を作っていく。

 一撃を受け切るごとに、全身の体力も精神力も悉く持って行かれる感覚。

 発せられる神ノ力からは絶望が、怒りが悲しみが波のように伝わり、心がすり減る。

 ひとりでに涙が溢れて来る。感情は消して目の前の敵を倒すと決めたのに、内側から溢れる闇にも押し潰されそうになる。


 ——グングニル、そのままここで耐えてくれ!


 悲しみを打ち消そうとするグングニルの脳内に、エルウィンの声なき言葉が響く。

 暗闇に差す一筋の光のように、神ノ王の力が頭上で少しずつ大きくなるのを感じる。

 この場所で、きっとエルウィンは何かをしようとしている。どんなに傷つけたられようと、どんなに絶望的な状況でも、エルウィンはこの戦いに勝とうとあらゆる手を尽くそうとしている。

 この先の未来で、生きるために。


「今度こそ私はあなたの死と引き換えに……」


 悲しみを、恐怖を振り払うためにグングニルは叫ぶ。

 エルウィンはここで耐えろと言った。この場所にユミルを留めておく必要があるのかもしれない。

 頭上の神ノ力は少しずつではあるが膨張し続けている。ユミルも気が付いていないわけではないはず。

 振り上がった黒い斬撃を見切って、一歩踏み込んで接近する。

 きっと部分的な破壊は意味がない。完膚なきまでに壊滅させなければいけない。

 手に持つ槍に、一点集中して神ノ力を込める。

 腹に向けた、殴りつけるような紅い槍の袈裟斬りは、しかしヨルムンガンドの牙に抑えられる。

 一秒もしないうちに背中に、痛いほどの殺意——黒い刃が向けられるのを感じる。


「生きる!!」


 幾本もの紅い槍が地面から突き出し、八本の脚を、獣の左腕を、レーヴァテインを握る右手——正確には右肩を突き刺して、勢いを殺さず突き破る。

 槍は檻のような形を成し、スレイプニルの機動性を封じる。地面から射出された紅い刃はヨルムンガンドとグリンブルスティのいくつもの首を撥ね、唯一人の形を保っていた右腕を肩口からレーヴァテインごと吹き飛ばした。

 直後に重力が、ずっと頭上に関していた神ノ王の力が、ずしりと身体中を押さえつけるように重くなる。

 視界に映ったのは銀色の光の壁。

 正確には神ノ力で形作られた巨大な剣の腹。

 膨大な質量を持ったそれは、しかし音もなくユミルの頭上に鎮座していた。


 ——還るぞ。我らの世界へ。


 神の言葉が、脳内に響く。

 グングニルは本能で危険を察知して、咄嗟に地面を蹴って距離を取る。いつの間にか自分たちを囲む白い灼熱は消えていた。

 ユミルは動かない。正確にはヴァルハラを展開し、身体からスルトの炎を放出して銀の大剣に対抗しようしているようだったが、剣はすべてを切り刻み、分解しながら消滅させていく。

 ガラスが軋むような音とともに、絶対防壁にひびが入っていく。


「ガアアアァァァァァッッ」


 咆哮は、大地を抉り大気を破って進む大剣の破壊音に搔き消されていく。

 耳を劈くヴァルハラの破砕音が耳に届いて一瞬後、眼を潰すような眩い光とともに爆発が起こる。

 神ノ王の銀の中に赤、淡緑、浅黄、薄紅、山吹、紫、黒、様々な神ノ力が混ざり合い、渦巻き、溶けあっていく。

 美しい。

 そんな感情が湧き上がったのもつかの間、光は徐々に霧散し、大剣も蜃気楼のように揺らいで消えていく。

 空からゆっくりと降りて来るエルウィンの後ろ姿。

 見下ろす先には割れた大地の残骸と、埋もれるように倒れるユミル。

 かろうじて人だと分かる状態を保っている無残な姿に、思わず目を背けそうになる。

 エルウィンが地面に足をつけて、立ち止まる。溢れ出ていた神ノ力は徐々に収縮し、ふっと息を吐く。

 幾度となく神ノ力を受け止めてきた焦土が、未だにその余熱に焼かれている音だけが静かに鳴り響く。

 耳を澄ますと、呼吸は二つ。鼓動も二つ。

 終わった。

 理解が追いつく前に、グングニルは反射的にポケットに手を入れて中に入っているものをその冷たい感触で確認する。


「エル、これ」

「……うん」


 逸る気持ちを抑えて駆け寄り、エルウィンに鉄製の注射器を手渡す。

 張りつめた、それでいて寂し気な表情でエルウィンは受け取る。その手は震えていて、気を抜けば倒れてしまうのではないかと思うほど酷く消耗していることが分かった。

 ふらふらとした足取りで、一歩一歩踏みしめるようにユミルの元へと歩みを進める。

 最後の瞬間まで気を抜けない。

 相手はあのヴァルハラを倒し、幾人もの能力者を屠ってきた存在。

 まだ昂りが納まらないグングニルには、ユミルを倒したという現実感が無かった。

 いざという時のために髪の毛を引き抜き、槍を出現させる。


「さようなら、アレックス」


 エルウィンは跪いて、注射器の針を出す。中に眠る緑色の液体に、気を抜くと意識も含めてすべてを手放してしまいそうな感覚。

 これで地獄は終わる。

 これが自分が目を瞑り続けていた命への罪滅ぼしになるとは思わない。

 それでも、これから生きるすべての命を繋げる行動として意味を持つ。

 別れの言葉を告げて、針を向ける。

 針先が焼け焦げたユミル——アレックスの首裏に入り込んだのを確認して、プランジャーを一思いに押し込む。


「……!」


 すべて押し込んだ直後、ユミルの身体が大きく一回跳ねた。

 心臓の鼓動音のような低い音が一回、静寂を破るように鳴る。それに呼応するように、エルウィンの体内で大きく何かが揺れるような感覚。


 ——やはり溢れたか、離れろ!


 神の警告が耳に入った途端、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。

 痛みと共に誰かの悲鳴が、慟哭が頭の中を割るように駆け巡る。異様な力の奔流が頭をから身体中を暴れ回って、視界には様々な色の光が幻覚のように過ぎ去っていって意識が飛びそうになる。


「エル?!」


 グングニルの悲鳴のような問いかけもどこか遠くから聞こえるようだった。

 かろうじて目を見開いて状況を確認しようとすると、ユミルの身体から吸収したであろう神ノ力があらゆる色の光として奔出し、再び大気を揺らしていた。

 何が起きた。失敗したのか。それともこれが、力を還している時に起きる現象なのか。

 痛みの中で思考を止めないが結論は出るはずがない。神も未知の現象は、これから起こることがすべてだった。


「オマエ、も、いっしょニ……!」


 空風のような声が、少しずつ意味を持って耳に入る。

 ユミルは力を放出させながらも、崩れていた四肢と身体を再生させていく。

 【神ノ慈悲】の残り香が狂気の執念に応えたように、それを表す薄紅色の光は最後の煌めきを見せながら消滅する。

 背後で地面を蹴る音が聞こえた。グングニルが応戦してくれようとしているのだろう。

 エルウィンも光の剣を出現させようとするが思うように力が入らない。


 ——遺憾だが、ここまでか。我が愛槍よ。こやつを必ず貫いて、戻ってこい!


 神の声が響くと同時に、目の前で六角形の光の壁が何重にも形成されていく。

 その意味を理解する前に、眼を焼くような七色の光——光熱弾が幾重にも重なって視界を埋め尽くす。

 壁を破壊して越えてきた光熱弾は容赦なくエルウィンの腕や足を掠め、身体に当たって衝撃を与える。オーディンの加護が続いているためか即刻意識を失うことは無かったが、身体を吹き飛ばすには十分な威力だった。

 声も出すことができないまま、ユミルと、槍を構えたグングニルの姿が遠くなっていく。


 ——残っていた力をすべて反撃に回したようだ。反吐が出るほどの執念深さだが……我も先ほどの防壁で力を使い果たした。と言うより、貴様の薬の効力を制御する力が残っておらん。


 オーディンの声も遠くなる。その言葉の意味を理解するのも、今の状況では難しかった。

 ただユミルが、グングニルと対峙している。

 目の前のその映像だけははっきりと認識できた。


 ——力のほとんどはあるべき場所へ還った。大した技術だと、直々に我が讃えてやる。あとは我が愛槍が貫くか、醜き獣が世界を喰らうか。我らの世界で見届けさせてもらう。


 その言葉を最後に、オーディンの声が途絶える。すぐに眠気のような、地の底に落ちていくような浮遊感が全身を襲う。

 意識を手放しちゃいけない。まだ、グングニルが一人で戦おうとしている。

 エルウィンの意思とは裏腹に、視界が暗転する。

 消えゆく意識の中で認識できたのは、まだ、神々の黄昏が終わらないということ事実だった。



*****



 視界を埋め尽くしていた虹は消え、目の前には黒い神ノ力を纏ったユミルが立っていた。

 さっきまでの怪物のような異様さは薄れ、肥大した左腕と、右手に握られたレーヴァテイン以外は、最初に出会った時のような人間の形を保っていた。

 ウィザードリキッドだけではすべての神ノ力を還せない可能性もあると、オーディンは言っていた。けれどユミルの元に残る力もあるという可能性は、神でも想像できないことだったのかもしれない。

 あるいはこれはユミルの執念なのか。

 それでも残されている神ノ力も目に見えているだけなのだろうとグングニルは浅い呼吸をしながら確認する。

 ギリギリでオーディンが防壁を展開したおかげで致命傷は避けられたが、炸裂した光熱弾のいくつかはグングニルの身体に傷をつけ体力を奪っていた。


「ミリィ、もうすぐ……!」


 ふらつきながら一歩、地を踏みしめてユミルは叫ぶ。

 膨張した左腕の所々で噴水のように吹き出ていた。身体のあらゆる場所にある切り傷からは血が流れ、そのまま崩れてしまうかのようだった。エイルが無い今、それらを治す力も存在しない。

 それでもレーヴァテインの切っ先をグングニルに向けていた。


「もうやめよう、アレックス」


 グングニルのか細い声はユミルに届かない。

 黒い刃は同じ色の炎を纏って力を増していく。

 ユミルが地面を蹴る音に、グングニルは反射的に後ろに跳ぶ。

 切っ先は紅い槍に触れ、重い衝撃は腕を震わせる。満身創痍の身体にはこの振動すら重く堪えるものだった。

 ユミルがこの状態なのであれば、ラグナロクは納まっているはずだとグングニルは頭の中で状況を整理する。

 ここで自分たちが殺し合いをする理由は、もうない。

 もう一度ウィザードリキッドを作りさえすれば、今度こそユミルの中の神ノ力も還っていくかもしれない。

 生き延びて、罪を償ってもらう。エルウィンがしようとしたことを、今ならできるのではないか。

 そんな選択肢がグングニルの中に浮かんでいた。


「私も、あなたのように怪物になっていたかもしれない。あなたもこの先誰かと、何かと出会えたら……」


 口にしかけた言葉は、距離を詰めて放たれた斬撃を受け止めたことで途絶える。

 絶望、悲しみ、虚無。

 黒い刃の向こうで、紅い瞳は仄暗くそんな感情を映し出していた。

 そこに光は、未来は無い。もう、見えていない。

 夢を見ているような虚ろな表情。

 きっと今の自分がどれだけ言葉を紡いだところで、目の前の怪物は救えない。対峙したことでそれが今度こそ本当に、心の奥底から理解できてしまった。


「ごめんなさい……」


 できることは、苦しみから解放してあげること、その一つしかなかった。

 本当は救ってほしいに決まっている。こんな悪夢から覚めて、恋人や友人と一緒に生きていたいと願っているはず。でもそれはもう叶わないから——。

 そんなことすらも自分の勝手な解釈だということも分かっていた。

 神ノ力は多くの人の命を、未来を奪って悲劇を作り出してきた。

 グングニルも、ユミルも、エルウィンも、数えきれない人が運命を狂わされてきた事実は変わらない。

 運命の鎖を断ち切れるのは、今ここに自分しかいない。

 ならばここが運命の終着点なのだと、グングニルは悟った。

 そしてその鎖を、自分が断ち切る意味と、結末も。

 神の警告が頭をよぎる。

 いろいろな理屈を並べ立てて、結局最後に浮かんでくるのはエルウィンの顔だった。

 これから続いていく世界に、神ノ力は必要ない。


「やっぱり、エルには笑って生きていて欲しいから」


 ’あの時’と、やっていることは同じなんだと心の中で自分を笑う。

 どんなに記憶が消えようと、髪の色が変わろうと、化け物に成り代わろうと、エルウィン=ラックハイムを大切に思う気持ちは、消えずに自分の奥底に残っていたことに安堵する。

 永遠かと思われた刃の迫り合いを、グングニルは押し返す。

 レーヴァテインを薙ぎ返されて、ユミルの両手は広がり、そのひび割れた身体を露わにする。

 素早く槍を逆手に持ち返し、強く握る。

 身体に残った神ノ力が血液のように槍に伝わるのが分かる。

 紅く光った槍はどくん、と強い鼓動を発しながらその手を離れる。


 ——。


 身体の中心を抉り骨を砕く音と、噴水のように上がる血しぶき。

 真っ赤に染まる視界の中で、グングニルはユミルの笑顔を見た。

 今までに見たことの無い、何の邪気も感じられない穏やかな笑み。きっとこれが、いつもミリィやディランに見せていた表情だったのかもしれない。

 望んだ結末を迎えさせてあげられた。

 いくつもの感情が渦巻く中で、グングニルはそれだけを嚙み潰すように認識する。

 そして同時に、形容しがたい痛みとともに身体に入り込んだ二つの神ノ力を感じ取って顔を歪める。


「はぁ、はぁ……! やっぱり、そうだよね」


 心臓が早鳴りし、身体の内側から剣で刺されているような痛みを感じながら、グングニルは笑う。

 血液がマグマのような熱を帯びて沸騰し、神ノ力が体内で暴れている。

 これが力の暴走かと、自分でも驚くほど冷静に状況を理解する。

 不思議と後悔は無い。きっと自分はこのために今まで生き延びたのだという納得感すらあった。


「きっと、連れて行くからね、エル」


 手に舞い戻ってきた槍を掴んで、グングニルは一人、膝をつく。

 痛みに耐えるために視線を下げると、胸の黒い痣が首元まで大きく広がっているのが視界に入った。



*****



「あ、起きちゃったんだ」


 ずいぶんと長い間眠っていたような気がした。

 遠くからすくい上げられるように、どこか懐かしい女の子の声。

 ゆっくりと眼を開けて、それから深呼吸をする。

 視界に映っていたのは穏やかに笑むグングニルの顔。

 その顔を見てひどく安心している自分がいた。釣られるように自分も笑う。後頭部に感じる少し柔らかい感触から、今自分は膝枕をされているのだろうと見当をつける。

 少し恥ずかしいが、今はこの穏やかさに身を沈めていたい。夢心地で、宙に浮いているかのように身体が軽い。

 ぼうっと思考を止めて、グングニルの顔から少し視線をずらして空を見る。

 白い雲の間から青空と、日の光が差し込んでいた。明るさからして朝だろうか、涼しげな風が肌を撫でる。


「朝、か。ここは……」


 自分でも驚くくらい掠れた声で言って、グングニルに視線を戻す。

 グングニルは変わらず笑っていた。ただ、その口から流れる一筋の血を見て、エルウィンの脳はすべての記憶を高速で呼び起こした。


「ユミルは?!」

「私が倒したよ。ラグナロクは終わったんだ」


 慌てて半身を起こしたエルウィンに、グングニルは穏やかな声で答える。

 グングニルが、倒した。

 ユミルにウィザードリキッドを注入した後、迫ってきた強力な光熱弾と急遽展開された光の防壁。

 それ以降の記憶は曖昧だが、結局自分は気を失ってしまったらしいことを理解する。


「ごめん、肝心な時に力になれなくて」

「良いんだよ。エルが無事ならそれで」


 グングニルの返答は変わらず穏やかだった。むしろ出会ったどんな時よりも心が凪いでいるような、夢心地のような印象。

 そして思い起こされる激しい戦闘の数々も、なぜか夢のようにぼんやりとしていた。自分の傷は、きっと今は存在を確認できないオーディンが治癒を施してくれたのだろうが、グングニルの身体の傷つき具合を見ればそれが夢ではないことが分かる。

 口元の血、腕や腹の切り傷、そして——。

 

「グングニル、その痣……」


 エルウィンはグングニルの首、もはや頬にまで広がった異変に気付く。

 どうしてと問う前に頭の中に答えが浮かぶ。

 グングニルが、倒した。その意味が重く、エルウィンに圧し掛かって血の気が引いていく。

 能力者を殺せば、殺した能力が吸収される。それは神ノ力がより多くグングニルに流れ込むということ。

 そしてそれは当然のように神ノ力の暴走までのタイムリミットを縮める。

 グングニルの痣の発症からちょうど一か月が経とうとしていた。


「実を言うと、理性を保っているのもやっとって言うかさ。気を抜くと自分が自分じゃなくなっちゃいそうで。……待ってたんだ、エルのこと」


 グングニルは少しふらつきながら立ち上がって、エルウィンを真っすぐ見つめる。

 待っていた。

 言葉の意味を理解したくないと脳が拒んで、呼吸が浅くなっていた。

 アバン研究所の牢屋でグングニルが口にした言葉が勝手に頭の中で響く。


 ——もし、どうにもならなくなって私が暴走したら、エルがその手で止めて欲しい。


 エルウィンも立ち上がって首を横に振る。

 一番迎えてはいけない結末が目の前にあるという現実を受け入れられない。


「ダメだ。できないよ。一緒に生きるって、約束したじゃないか」

「うん、ごめん。約束を破ることになっちゃう。本当に、ごめんね」


 俯いて、グングニルは謝りながら寂しそうに笑う。

 責める資格なんてもちろん無い。あるわけがない。分かっているがどうしても語気が強くなってしまう。


「僕は……僕が、」


 あの時自分が気を失わずに立ち上がれていたら。

 その前にユミルを倒しきれていたら。

 後悔が腐るほど湧いてきて、それに対する怒りと情けなさが溢れて来る。

 こんな思いだけはもう二度としないために、ここまで来たはずなのに。

 衝動的にポケットに手を入れるが、何も入っていない。ウィザードリキッドはユミルに打ち込むための一本しか持ち合わせていなかった。

 視界が歪む。全身が無力感に苛まれていく。


「自分を責めないで。むしろここまで二人で生き残れたことが奇跡なんだよ。神ノ王に力を貸してもらって、スヴェントやその他数えきれない人たちが力を貸してくれた。たまたま、最後にユミルと対峙したのが私だったの。倒さなくちゃいけなかった。エルが、みんなが生きる世界に、神ノ力は残しておけないって思ったの」


 流れ込んでくるグングニルの言葉が頭の中をかき回すように乱反射する。

 考えろ。何かできることは無いか。

 ウィザードリキッドをもう一度作るのはどうだ。この戦いの功労者の一人であるグングニルなら、たとえ暴走しても安全な隔離シェルターを政府に用意してもらえれば、その間に完成させられる。

 希望的観測すぎると、すぐにもう一人の自分から反論が入る。ウィザードリキッドを完成させられたとして、誰が暴走したグングニルに投与できるのか。少なくない人数が犠牲になるのは目に見えているし、きっとグングニルはそんなことは望まない。

 思考を巡らせて、考えれば考えるほど深い穴に落ちるように考えがまとまらなくなっていく。


「きっと何か方法が……」

「時間は、もうないの。私はエルを殺したくないよ……!」


 嗚咽を抑えるような声で、グングニルの体勢が崩れたことに気づく。

 エルウィンは慌てて駆け寄って、その身体を支えて地面に横たわらせる。柔らかく、けれどか細く軽いその身体に、グングニルの状態の深刻さを嫌でも突き付けられる。

 思考は完全に止まり、開けかけた口は閉ざされた。

 沈黙が流れる。柔らかく吹く朝の風が、今はもはや鬱陶しい。きっとこの間にも痛みに耐えているのだろうと思ったが、このまま答えなければ時間は進まないのではないかとも思った。


「やっぱりどうしても、自分じゃ怖くて。エル、お願い」


 ——私を殺して。


 押し殺したようなその声は、エルウィンの頭に鈍器で殴られたかのような重い痛みを生じさせる。

 グングニルの懐から革のカバーに巻かれた一振りのナイフが取り出されて、地面に放り出される。

 その手は震えていて、そこからどんな凶行に及ぼうとも不思議ではなかった。

 選択肢は無い。

 生きると決めた自分に、罪を償うと決めた自分に、グングニルを殺さないという選択肢は無い。

 理性の大半は口をそろえてそう言うが、心の奥底で一人抗う自分がいた。

 だがどうすることもできない。暴走が引き起こすのは自分の死だけではない。戸惑えばすべてが水の泡。サイドバリー研究所で果たさなかった研究者としての責任を果たす時なのだと、無慈悲な理性は告げていた。


「もう、昔から泣き虫なんだからエルは」


 涙の混じる声に、自分の頬に温かいものが流れているのを感じ取る。

 それを認識したせいか、言葉の違和感に気づくのが少し遅れる。


「え……」

「最後だから、私の本当の名前を言うね。実は結構前から思い出してたんだ」


 グングニルは深呼吸をして、目を瞑る。

 言葉を待つ。胸の中心が妙にざわついていた。

 紛らわせるためにエルウィンも少しだけ目を瞑って暗闇に浸る。

 次に目を開けた時、もはや見慣れたグングニルの表情が、やけに懐かしいものに変わった気がして目を凝らす。


「イオナ……?」


 目の前の少女が口を開く前に、ひとりでにエルウィンからその名前が漏れる。

 見下ろした少女の顔が、幼い記憶の面影と重なる。

 グングニル——イオナはこくりと頷いて、目を細める。


「最後まで言わないつもりでいたの。エルは私がいなくなってからずっと、誰かを守る、救うことに全力だったんだって知った。頑張ったその積み重ねは結果的にこの世界を救うことになった。すごいことだよ。そんなエルに、私が生きてるなんて言ったら、きっとその歩みを止めることになってた」


 心の整理が追いつかないまま、言葉とともにこれまでの人生が頭に流れていく。

 存在しない背中をずっと追い続けて、もう二度と助けられない命を救おうとしている自分に呆れたことも何度かあった。

 空いた穴を埋めるように、狂ったように突き進んだ数年間。

 でもイオナはグングニルとして生きていた。

 近くで笑って、泣いて、戦っていた。

 その事実は、まるで今までのすべての経験が夢で、たった今目が覚めたような感覚をエルウィンの全身に走らせていく。


「そうだよ。僕は、やっと力を手に入れて、その罪も背負ってこれから生きようと思った! だったら尚更、グングニル……イオナと一緒に、だよ! ここでキミを助けられなかったら僕は……」


 脳裏にユミルの顔が浮かぶ。

 ひたすら過去の幻影を夢遊病者のように追っていた男。

 ともすれば自分もあんな風になってしまう未来だって想像できてしまう。

 グングニルは小さく首を横に振った。


「でもそれはね、私がかけちゃった呪いでもあるんじゃないかって。私の死を引きずって、ずっと誰かのために生きようと苦しむ必要なんてないの。自分のために生きて欲しい」

「自分のために……」


 思い返して初めて、そんなことを考えたことが無かったと自覚する。

 生きて欲しい。

 何度もグングニルにかけた言葉だったが、自分に返ってくるとまったく別の意味を持った。

 何のためにという自問に、すぐに答えは返ってこない。それほどまでに’誰かを救う’というのはエルウィンにとって芯に刻まれた命題だった。


「すぐに見つからなくても、きっとみんな、あなたを必要としてくれる。私——グングニルがエルに出会えて変われたように、生きていればきっと、出会ったすべてのものが、少しずつ自分を変えてくれる。エルが、この旅の中で教えてくれたことだよ」


 プリル、ビドー、ラルク、フェンリル、スヴェントや兵士、研究所の人たちの顔が代わる代わる浮かんでくる。

 彼らのためにできることは、罪滅ぼしも含めて思いつくものが無数にあった。

 静かに咳をしたイオナの口から血が溢れ出る。

 長く喋らせ過ぎてしまっていることは分かっている。この時間が永遠に続けば彼女は死なないんじゃないか。そんな幻想はイオナの表情と、内から溢れ出始めた神ノ力によって否定される。

 イオナは力なく垂れるエルウィンの手を取って、弱々しく握る。

 温度はほとんど失われてしまっていたが、まだ少し温かかった。


「確かに私も怖いし、エルが悲しむのは私も悲しい。でもこれは、あの時の勇気と同じなの。私はあの時、エルに生きていて欲しいって思ったから逃げてって叫んだ。後悔なんてなくて、それでエルが自分を責めるなんてことはないの」


 フラッシュバックする廃墟。

 ランタンの明かりが照らす小さなイオナの苦痛に歪んだ顔と、叫び声。

 あれが今のエルウィンのすべての始まりだった。

 あの時離してしまった手は今、しっかりとエルウィンが握っている。


「私がグングニルになってから、エルは命を懸けて戦ってくれたよね。エルが命を張ってくれたように、私もここが命を懸ける時なんだよ。そして次はエルが、また誰かに……。きっとそうやって命は続いて、繋がっていく。それに……」


 苦しそうに紡ぐ言葉は少しずつ小さくなっていくが、脳裏に一つ一つ刻まれていく。きっと死ぬ直前まで忘れることは無い。

 決まりつつある覚悟の中、エルウィンは言葉を待つ。


「今回はちゃんとさよならが言える」


 その一言に、燃え盛っていた悲しみも悔しさが、空気が抜けるように引いていく。

 嗚咽混じりの息を吐くが、涙は出なかった。


「この先も、エルの人生は続いていく。私は、あなたの後ろをついて行く。忘れて欲しいなんて残酷なことは言わないけど、忘れないでなんて未練がましいことも言わない。たまに振り返って、私を思い出してくれれば嬉しいな」

「うん……分かったよ、イオナ」


 力の抜けたように笑うイオナに、エルウィンは静かに答える。

 固い覚悟だけを心に定めて、焼ききれそうな頭で無理やり、今から自分がするべきことを自覚する。

 同時にエルウィンの中の魔力が雷のように震える。目の前の存在が、異常な力を放っていることを警告していた。

 転がっていたナイフを手に取る。もはやそれは一種の防衛本能と言ってよかった。


「ただ、最後にお願い。振り返る場所として……」


 最後の力を振り絞って声を出すイオナの口元に、顔を近づける。

 耳に吐息のような声に乗せて、最後の願いが届けられた。

 

「あぁ、もちろんさ。ダメなもんか……!」


 ほんの些細な、でもきっと大切な願いにエルウィンは笑ってしまう。

 自分は今から最後の、最も重い罪を犯そうとしている。

 それなのに殺す方も殺される方も、穏やかに笑っていた。

 革の鞘を振りぬいて、白い刃が朝日を反射して光り輝く。


「さよなら、イオナ」

「さよなら。大好きだったよ、エル」


 空気を切り裂く音とともに、イオナの言葉が耳に届く。

 その言葉と、イオナの紅い瞳を胸に焼き付けて、切っ先を天高く振り上げた。



*****










 ——狙った獲物は必ず貫き、必ず主の元へと戻る。よくやった、我が愛槍よ。


 ——だが、なぜ貴様まで戻ってきた? あの醜い獣の中に入った薬が貴様に引き込まれることで、余すことなくすべての力が我の元へ戻る手はずだったのだが……。


 ——ふん、たった数年その名を名乗っていただけで、なんという驕りようか。よもや自分を【神ノ槍】だと思い込んでいるのか。


 ——貴様には本当の名があるだろう。


 ——その名を思い出して、その名を呼ぶ者の元へと戻るが良い。ただし時間はかかるぞ。【神ノ慈悲】はすべての者に平等だからな。


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