【第二十二話】最後の戦場
神ノ力と魔力は触れ合えば反発しあう。昔からの常識だった。
少なくとも神ノ力が発見されて研究され始めた黎明期には、この特性は分かりやすい特徴として研究者の間では挙げられていた。
魔法使いと神ノ力の能力者では、お互いがお互いの弱点になりうる。かつては暴走した能力者を殺すために処刑人のような魔法使いをオーディニア政府が採用した時期もあった。それも幾度かの処刑の後、魔法使い側が返り討ちに逢い、以降後継者はいない。
逆に神ノ力の運用が軌道に乗り始めた頃、オーディニアの過激派たちによって’魔女狩り’と呼ばれる魔法使い排斥運動が行われたこともあった。神ノ力の唯一の弱点になりうる力の抹消が目的だったが、元々息をひそめるように生活をしていた魔法使いたちの集落を捜索するのが困難を極めたことに加え、抑止力の不在を恐れた政治家たちの判断によって運動は終息した。
限られたものにしか使えない魔力——それを使用する魔法使いは科学技術の発展に伴い異端とされ、迫害された。
だが科学技術を圧倒的な神秘と力で凌駕し、さらには人間の管理下に置くことができた神ノ力の抑止力として再度価値を見出された魔力。
——その絶妙なバランスを崩したのは、この人間が作成したウィザードリキッドだったわけだ。
少年の中で神が一人、口角を上げる。
間違いなく最高のタイミングで人間の世界に降りることができた。もう自由に生きるが良いと半ば見捨てた世界に、こんなに愉快な展開が待っていようとは思わなかった。
ウィザードリキッドの製作方法や効果などは、エルウィンの思考を通じて神——オーディンも把握した。
’魔法が使えるようになる’=’対象に魔力を付与する’という効能だけでも、この惨劇の中心人物を沈黙させる効果があるだろう。
もちろんそれは、暴走する獣に一本の針を打ち込むことができればという前提の話ではあるが。
平時であればこの効果だけでも、能力者を強制殺処分するための薬としての特許を付与される称賛されるべき発明品であった。
そして神ノ力を本来あるべき場所へ戻そうとする効果。どのような奇跡的な組み合わせで生まれた産物なのか、神ですら全容を把握しきれていない。
神ノ力と魔力が触れ合うことによる従来の拒絶反応ではなく、ただ自然に戻そうとする反応。対象を殺すに至らず、力と力を引き離すのみ。
それは奇しくも彼が求めていたユグドラシルとほぼ同様の効果をもたらす。
エルウィンにとって最愛の人間を、唯一助けられる方法になりうる。
体内の神ノ力が消え、ただの人間として生きられる可能性もある。
宿した神によって結果は異なる可能性もあり、グングニルにとっては劇薬になるかもしれない。
結果は神ですら知れず。
それでも一か八か、いやゼロかイチかも分からない可能性にかけるエルウィンの感情をオーディンはひしひしと感じていた。
——見せてもらうぞ人間。その覚悟と、未知の可能性を。
神は再び少年の中で笑う。
人間の世界で起きる出来事など、神にとっては些事に過ぎない。
けれど僅かに、期待のようなものが胸の内に宿ったことを、驚きつつ気づいたのであった。
*****
——本部の地下にあるラボにあるものなら好きに使ってもらって構わない。必要なものがあったら言ってくれ。
ビドーからの心強い通信を頼りに、エルウィンは機材や材料を机の上に並べる。
足りないものは明日、なんとかしてこのスヴェント本部に届けてもらうように頼んだ。全世界が混乱のさなか、無事に荷物が届くことを祈るしかない。
今手元にある材料で、半分くらいの制作工程を終えることはできる。
「さて、始めるか」
視界に映るのは大小さまざまな機材、数種類の薬剤、そして——魔法使いの血液。
ウィザードリキッド作成のカギの一つは、もちろん魔力だ。
それも大気中に流れる微量な魔力ではなく、人間の体内に流れた極微量な魔力でなければ効果は無かった。
魔法使いではない一般の人間から採れる魔力は本当にごくわずかだが、今回は魔法使いの村人数人に協力を要請して、採らせてもらった。
「……」
試験管に入った血液は非常に魔力濃度が高い。自分の体内のウィザードリキッドの影響か、それは数値を測らなくても感じ取ることができる。
これを普通の人間でやろうとしたら、どれだけの血液と時間が必要だろうか。少なくとも十年単位はかかる。
振り返れば、自身に打ち込んだあの一本を作るのにかかった期間は数年だった。理論をくみ上げてから承認、実験、完成までは政府が完璧に援助をしてくれた。
価値があるものとして認めてもらえたことが嬉しかった。この力が誰かを失わずに済む方法になる。そんな感情だけが、当時のまだ幼さの残るエルウィンを埋め尽くしていた。
「どれだけの人が犠牲になったのだろう」
呟いて、理解よりも吐き気が先に胸にせり上がった。
ウィザードリキッド一人分を作るのにも、ただの人間であれば成人何人分の血液が必要だったのだろうか。それを考えると、今までどれだけの人を犠牲にしてきたのだろうか。
加えて、拒絶反応やそのほか適合に失敗した被験者の殺処分。それはただ自分の中では「失敗」に過ぎなかった。人を殺している実感は、研究所という閉じられた環境の中では結局最後まで持てなかった。
事実は揺るがない。幼馴染の少女を失ってしまったあの時から、エルウィンの中で何かが壊れてしまったのだろう。
’誰も失いたくない’という執念が、犠牲になった被験者が別の人の「誰か」であるという当たり前の事実を曇らせたのだ。
——彼女だって生きてるんです!簡単に、殺してしまうなんて……!
あの時、グングニルが殺されると聞いて目が覚めた気がした。
ロラド所長はさぞかし笑いをこらえていたことだろう。
何を今さら、と。
思えば思うほど、考えれば考えるほど、そんな嘲笑と罵りの声が頭の中に響く。
よくも殺してくれた。なぜ今も平気な顔をして生きていられるのか。
今さら償えるわけもない。
今さら自覚したところで、謝ったところで名前の知らない命たちが戻ってくるわけも、残された人が許してくれるわけもない。
ただ失いたくないという一心でここまで来た。
守る力は、多少は手に入ったかもしれない。けれど、守りたいものは手をすり抜けていくことが多かった。
テリー、ロラド所長、ヴァルハラ、そして、イオナ。
数多の犠牲の中で、ようやく失いたくないものを失わずに済むのなら、その瞬間まで、このエルウィン=ラックハイムの罪に対する罰は待っていて欲しい。
これは、オーディニアひいては全世界の人々を救うための最後の手段になるかもしれない。
だからと言ってすべての罪が洗い流されるわけはないが、それでも今日この日のために自分はここまで生き抜いてきた。
失ってしまった命が戻らないのなら、今ある命を少しでも生かすために、この命も知識も、技術もすべてをかけてやる。
「見ていてくれ、イオナ」
今の自分の原点に向けて、エルウィンは宣言する。
頭の中にある設計図。それに従ってできるところから作業を始める。
いつの間にかエルウィンの頭の中は驚くほどの静けさを取り戻していた。
*****
——エルウィンの作るウィザードリキッドが、ユグドラシルの代わりに神ノ力をこの世界から消してくれるかもしれない。完成まで、なんとか耐えてくれ……!
スヴェント幹部と主力メンバーに持たされた通信機から、懇願するようなビドーの声が響いたのはつい数分前のことだった。
あれから何体の機械巨人を壊し続けただろう。どんよりと空を覆う厚い雲は、疲労感とともに全身に重くのしかかるようで、ダガーを握る手の感覚もなくなりかけている。致命傷は無いが、完全に無傷というわけでもない。
周りに転がった鉄くずたちをぼんやりと眺めながら、フェンリルはビドーの言葉の意味をゆっくりと咀嚼する。
「つまりは俺も、普通の人間に戻れるかもしれないってことか」
ほんの数時間前に覚悟を決めたばかりだというのに。
獣のまま生きてやる。修羅の道を走り切ってやる。
受け入れて、半ばあきらめた光をこんなところで振り返ることになるとは。
冷たく、鋭利に凍り付いていた氷の心が、徐々に解かされて、絆されていくような感覚。
「ただの人間に戻ったところで、今さらどうやってこの世界で生きるというのだ」
声は背後から聞こえた。
気配も殺気も気づいていたが、手足の筋肉がやけに緩慢で反応が遅れた。
フェンリルが振り返るとそこには、湾曲した刀を両手に持った短髪の女の姿があった。顔に見覚えがある。シーナという名前だったか、グングニルから聞いた。ユミルの後ろに付いて自分たちに刃を向けてきた——いわゆる敵というやつだ。
「別に。適当に生きて、食って、寝るだけだ」
腕を上げてダガーを向ける気力が、言葉とともに身体から出て行くような感覚だった。
悠長に会話をしている場合ではない。ユミルほどではないにせよ、相手が相当の手練れであることは分かる。それでもエンジンのかからない車のように、力が身体から湧ききらなかった。
「研究所で会った時のような獣じみた殺気はどこへ置いてきた。別人かと思ったぞ」
不服そうにシーナは言う。何かを期待していたのか、だとしたら自分に何を求めているのか分からずフェンリルは首を傾げる。
「こんな状況で人間相手に刃を向けるのはユミルの他に、おめーくらいのもんだろうよ。で、何の用だよ」
傾げるついでに、純粋な疑問も浮かぶ。どうしてこの女はユミルに付いているのだろうか。正常な頭を持っているのならまずしない行為だ。正常でないのは訊くまでもないとして、理由があるのなら殺す前に訊いておきたかった。
「私はあの方の強さに惹かれてここまで来た。彼の姿を最後までこの目に収めるために、邪魔をする者がいるのなら、斬り伏せるまで。それに……」
言って、シーナは両手の湾曲刀を構える。
「きっとこの戦場が最後だ。この場所にいるほとんどの者にとって。だから命ある限り楽しもうと思ってな」
「俺が言うのもなんだけど、相当狂ってるなお前」
シーナの持つ刃の切っ先が、周囲で燃えていた火に照らされて光る。
それを目にしてようやく、燻っていた火が点くように力が身体に行き渡る。しかしまだ能力を解放するまでには至らない。
「今は身体を動かすより、考え事をしたい気分なんだけどな」
考え事など、普段は滅多にしなくて良い。与えられた命令をこなし、ターゲットを殺していれば飼い犬としてでも生きることができた。
それでも考えずにはいられなかった。
この地獄みたいな殺し合いが終わって、人間に戻れた後のことを。
一度諦めたからか余計に、それは願望としてフェンリルの中で大きくなっていく。
「この世界は、力ある者が勝って生き残る。オーディニアの拡大がそれを物語っているじゃないか。邪魔者は殺し、弱者は奴隷にする。力を手放すのは、自ら奴隷に落ちるようなものなんだぞ」
ユミルの声が刃とともに襲い掛かる。身体は勝手に動いて、刃をダガーで弾き返しながら地面を蹴って横に跳んでいた。
分かっている。食うものにも住む場所に困り果てて、自分が人か獣なのかも分からなくなりそうになりながら生き延びる日々。
今よりも惨めに泥水をすすって、盗んで、殺してを繰り返すことになる可能性は高い。
頭では分かっている。
けれど心は、この狂った力を手放すことを望んでいた。
「生きた心地がしねーんだよ。ちょっと気を抜くと誰かを殺したくなっちまう……イカレちまうんだよ。生きるために殺してんのか、殺すために生きてるのか分からなくなるんだ」
刃は軌道を変えて、フェンリルの首を狙う。矢継ぎ早に繰り出される斬撃をダガーで受け流しながら、降り始めの雨のような声で言葉を紡ぐ。
シーナの顔には、限りなく無表情が張り付いている。何を思って、何を考えているのかフェンリルには読めなかった。
「生きるために仕方のないことだった。盗みも、殺しも、騙しも。それは今も変わらないが、この力は急速に俺を蝕んで変えていくんだよ。それが本当に……怖い。お前には分からないだろうけど」
言ったところで相手が攻撃をやめるわけでも、ましてや憐れんでくれるわけではない。頭を回すまでもなく理解できる。けれどフェンリルは半ば助けを求めるように、言い訳でもするかのように言葉を吐き出す。
当然シーナは応えず、刃を振るう。あらゆる方向からの斬撃を、フェンリルは正確に読み切って返すことができていた。これも内に眠る神ノ狼の力によるものなのか、だとしたら力を失ったらこんな芸当もできなくなるのか。そんな考えが浮かんでは消えた。
浮かんだ考えを口に出していけば、胸の奥にある自分でも分からない感情を理解できる気がして、また言葉を繋げようとする。
「もったいないことだ。本当に」
しかしそれはシーナの失意に満ちた声で止められた。
ひとしきりの攻撃の後、シーナは後ろに飛んで距離を取ってから、苦々しい顔で言葉を続ける。
「私のこの身体は、祖国で改造された。人を超える人として、体力、筋力、再生力、すべてを向上させた強化人間だ。強化人間に選ばれることは祖国では誉だった。強き者として、生き延びる術を持つ者として」
声色に比例するように、身体から溢れる殺気も激しさを増す。
強化人間。
ただの人間はないことは分かっていたが、他国ではそんな手法で人外の力を手にしているのか。
具体的にどんな理屈なのかは分からない。飼い犬には知り得ない情報だった。
「法など戯言だ。政治などままごとだ。そんなものに意味は無い。力ある者が政治だと言えば政治になるし、法だと言えば法になる。だが自ら力を持てば、それに抗う道はいくらでも生まれる。今の私のように、自由にだってなれる」
再び刃が襲い掛かる。
脳天を狙う上段斬りを受け切ると、剣身を挟んでシーナの瞳が視界に入った。奥底には仄暗い赤い光が、パチパチと火花のように瞬く錯覚。
言っていることは理解できる。そんなことは名もなき浮浪者だったころから思っていたことだ。
だが根本的に違う。
シーナが持っている力がどんなものかは分からないが、少なくとも神ノ力は圧倒的な能力を与えるだけにとどまらない。
津波のように胸の内から流れ込んでくる殺人衝動。
増大された狂気はフェンリルの意思に関係なく身体を、感情を蝕む呪いに等しい。
「俺たちの持っている力はまったく別物なんだろうよ。あげられるならあげてやりてぇくらいだ」
ぐっ、と受け止めていた刃が重くなる。
そろそろ防御一辺倒では対処しきれなくなると、相手の力量と自分の残り体力から判断できた。
「この狂った世界では、もはや狂った方が楽だぞ神ノ狼。正常に、普通に、平穏に、今さら暮らせるなどと思っていないだろうな」
さらに重圧がのしかかる。
並の人間ではありえない力に、腕の骨がきしみ、足が地面にめり込み始めていた。
「は、ははっ……」
痛みと苦しみの中で、ふと身体が軽くなるような感覚。
平穏な暮らし。
そう。その通りだ。
当たり前に、最初からそれが欲しかったからもがいていただけ。
「……あぁ、そうだよ」
ただ、それだけだった。
すっかり諦めて目を逸らしていたが、本当に欲しかったのはそれなのだ。
そのために騙して、盗んで、殺し続けた。
そんな狂気は平穏な暮らしから一番遠い場所にあるべき、邪魔なもの。
手放したいと思うのは当たり前のことで。
「それの何が悪いって言うんだよ!!」
脳裏に浮かんだのは、いつかの少女の笑顔。
フェンリルは圧し掛かっていたシーナを払いのける。
勝手に瞳から溢れ出た涙は、無意識に解放していた力によって急速に凍りついていく。
「そうだよ。俺は、あの笑顔が見られればそれで良かったんだ。力も、狂気も、そんなのはいらねぇんだよ」
かつて住んでいたオーディニア第二都市ニーヴルス。繁栄こそしていたが、貧富の差がはっきりと分かれ、対立が血と火薬によって可視化された街だった。
決して破ることができない窓から花園が見える地獄。かつての仲間はそんなことを言っていた。
地獄には不釣り合いに咲く一輪の花のように、フェンリルが出会った少女は輝いていた。
それを、自分の獣を抑えられなかったばかりに、彼女の唯一の肉親を殺してしまうことで摘んでしまった。
もう二度と同じ笑顔に会うことはできない。
もう一度同じような笑顔に出会える可能性は限りなく低いかもしれない。
それでもこれは能力を持ち続け、狂ってしまった自分では決して手に入らないものだ。
——ありがとう。
懐かしい声が刃のぶつかり合う音の間で聞こえた気がした。
いつか少女に言われた言葉だ。
ちょうどさっき、瓦礫から女の子を救い出した時と同じように、彼女の手を取った。
冷たく凍ってしまっていた当時のフェンリルの心に、ほんの少しだけ皹を入れた言葉。
今なら、今さらながら分かる。
「確かに最後だ」
神ノ力が身体の奥底から湧き上がる。
冷気とともに尻尾、体毛、耳が形成されて、獣の身体が変わっていくのを感じる。
同時に衝動も押し寄せる。だがフェンリルの目は、今まさに無慈悲に刃を振るおうとしているシーナを真っすぐに見据えている。頭は冴えて、心は今までにないほど平穏のまま、押し寄せる力をただ認識して二振りの氷刃を構える。
「俺——神ノ狼にとっても、最後の戦場だ」
静かに叫んで、地面を蹴る。
ダガーに纏った氷は刀身を伸ばし、すでにロングソードにも迫る長さでシーナの首を狙う。
頭で判断するよりも早くシーナは後ろに飛んで、湾曲刀で払いのける。
間髪入れずに氷刃二手、三手と襲い掛かるのをほとんど本能で弾き返し、静かに攻撃の隙を伺う。
「は、ははっ。そうだ。あはは、その調子だぞ氷狼!」
少年のような見た目からは想像できない程の重い一撃を腕に感じながら、シーナは白い歯を見せる。
ユミルの背中を見続けていたせいで、しばらく自分の力で戦っていなかった分の鬱憤も溜まっている。相手は人外の力を扱う能力者なのだから、すべてを解放しない理由は無い。
横殴りに飛び込んだ氷刃を力任せに払って、フェンリルの身体ごと弾き飛ばす。
瓦礫のように吹き飛んで転がる獲物の無防備な身体を切り刻むために、容赦なく距離を詰める。
「ガァッ!!」
だが一歩遅かった。
獣のような咆哮を上げたフェンリルが地面に手を付いた直後、一瞬だけ肌に冷気が触れた。
反射的に身体を逸らすが、次の瞬間には幾本もの氷柱が地面から突き出され、腕や頬を掠める。
鋭い痛みと、それに追い打ちをかける刺すような氷の冷たさが不快だった。
「さすがは能力者。分かってはいたが剣術だけではないか」
刺された勢いを使って身体を回転させ、素早くフェンリルの側面に向かって走り出す。その間にも傷は癒え始め、不快感も消えかけていた。
「それがお前らの貰った力かよ」
「貴様らのように魔法のような力は操れないが、なかなか愉快だぞ」
不快な表情を隠さず吐き捨てるフェンリルに、シーナは目を見開きながら両手の湾曲刀を振るう。
叩き潰す勢いで振り下ろされた刃を氷刃で受け止めようとするが、今度は耐える間もなくその衝撃に吹き飛ばされてしまう。
「馬鹿力がよ」
中空に飛ばされながらフェンリルは周囲に氷柱を作り出し、矢のように飛ばしていく。シーナはそれを一本残らず見逃さずに叩き落して、再び距離を詰めようとする。
「……!」
だが身体、正確に言えば足が動かない。
視線を降ろすといつの間にか足首まで氷に覆われていた。熱を奪う切っ先が肉に食い込み、体温と体力が奪われていくのを感じる。
「食い意地が張りすぎなんだよおめーは。ちょっとは大人しくしてろ」
声が届くよりも速く、身体を丸めた氷狼が懐へ飛び込む。
反応する間もなく腹を抉られる感覚と、鋭い痛みが脳天まで届いた。
「貴様……」
「まだだ」
絞り出されたうめき声を、フェンリルが無慈悲に遮断する。
瞬きの間に背後に回り込み、今度は肩を背を、もう一度懐に入って腕や足を斬りつけて、さながら猛吹雪のように次々と身体を削っていく。
「くっ……」
膝をつくシーナの項を捉え、弾丸のように飛び込む。能力を使うまでもない。その手に持つ二振りの氷刃を振り下ろせば、シーナの首は落ちる。
「終わらせんぞ!!」
叫びとともに目前に再び湾曲刀の刃が二本、項を守るように現れる。振り上げて後ろに回された両腕で斬撃が防がれたようだった。受けているダメージから考えれば不可能な技だったが、それほど自己回復が迅速かつ強力だということ。
刃がぶつかる重い感覚もつかの間、身体が浮くような感覚とともに景色が一回転する。背負い投げのような形で投げられたのだと認識する頃には、フェンリルは中空で突進してくるシーナの姿を捉えていた。
氷刃を振るうがシーナの姿はブレる。視線を動かす一秒にも満たない間に、腹に熱い鉄を当てられたような熱と、鋭い痛みを感じる。
「……!」
声を上げられないまま、衝撃に逆らえず地面に叩きつけられる。身体全体の骨が軋み、視界がぐらぐらと何度も回っているような感覚。
衝突によって煤と砂埃が交じった灰煙が舞い上がり、フェンリルを中心に広範囲に広がる。
「浅かったか。それとも防御したのか」
抑えてはいるが漏れ出る愉悦の感情を隠さないまま、シーナは倒れるフェンリルに向けて走り出す。
立ち上がる気配はない。あれほどの衝撃であれば、いくら能力者と言えどすぐに体勢を立て直すのは困難なのだろう。
剣を逆手に持ち、灰煙をかいくぐって、横たわるフェンリルの腹を視界にとらえる。シーナの予想通り、フェンリルは自身の腹に氷を纏わせて斬撃を防御したらしい。だがそれも真上からの上段刺突には耐えられない。
「惜しい。非常に惜しい。お前ほどの強者と、あとどれほどこの戦場で巡り合えるか! だがこれで……」
惜しむ気持ちはあったが戸惑いは無かった。シーナは剣を真っすぐに振り下ろす。
パキリ、という小気味の良い音とともにフェンリルの身体が真っ二つに割れて弾け飛ぶ。まるでガラスか、氷の塊のように。
「……ッ?!」
キラキラと散る氷の破片が目を焼くように煌めく。
それが神ノ力を帯びていることに気づくのが遅すぎた。
周りの空気ががくんと下がり、まるで突然北国に放り投げられたかのような感覚とともに、固い何かが身体の表面で蠢いたような気がした。
自分の身体が急速に凍り付いている。認識した時には氷が首筋までたどり着き、指先一本も動かすことができなくなっていた。
「だから言ったろ。食い意地張り過ぎなんだって」
足音一つ立てず、フェンリルの声だけが背後から聞こえる。さっきまで微塵もしなかった気配が、今は殺気とともに溢れている。
「あの斬撃から瞬時に立ち直って、囮の人形を氷で作り出したのか」
首を回し、フェンリルの顔を視界に収める。
得意げというわけでも憐れむというわけでもない、ただ無表情を張り付かせてシーナを見ていた。
冷たい表情。それに反応するようにシーナを覆う氷はさらに侵食を進め、内部からは棘のように伸ばされた氷が身体のいたるところを突き刺していた。
脱出しようと力を込めるほど、氷は破壊されるどころか身体を傷つけていく。
「これでご自慢の再生も意味がなくなったな。お前は永遠にこの氷の檻で回復を続けて生き永らえるか、諦めて切り刻まれて死ぬかを選び続けなければならなくなった」
フェンリルの言葉に、燃えるように滾っていたシーナの闘争心を徐々に、だが確実に鎮火させていく。それは次第に、別の感情へと変わっていく。
何かに似ている。そう、ユミルを初めて見たあの戦場を思い出すが、どこか違う。
「国に帰るって言うならここで見逃すが……そんなことは死んでも言わなそうだな」
吐血しながらも氷を砕こうともがくシーナを見て、フェンリルは口を噤む。
確かに死ぬ前に氷を内側から壊すことで脱出は可能だが、フェンリルにその気はない。
「お前みたいなやつを生かしたら、この世界はずっと変わらないままだ」
放った言葉は、そのまま自分に返ってくる。
その通りだ。
平穏で平和な世界に、自分たちのような狂った獣は必要ない。
だからこの戦いが終わったら、ウィザードリキッドで神ノ力を捨てる。
その後のことは、想像がつかない。
力の無い自分を受け入れること。湧き上がる狂気はすでに自分に沁みついてしまっていて、神ノ力を捨ててもなお異常な殺人衝動として現れる可能性も無いとは言えない。
「は、がはっ……何度でも言うぞ。力こそがすべてなんだよ氷狼。力に縋って、狂わなければやっていけない世界だ。お前もその力に焦がれ、狂わされていたから分かるだろ? 狂っている間は楽しかっただろ?」
問いかけに、フェンリルの拳がきつく握られる。
自我が溶けていくような快楽にも似た感覚。
まるで自分の中の何かに、身体の舵を取られているかのような浮遊感。
楽しかったのかもしれない。いや、楽しかったのだ実際に。だから今まで政府の飼い犬として尻尾を振っていた。
「お前は私と同じ獣だフェンリル。さぁ、とどめを刺せよ神ノ狼……!」
目を見開いて、白い歯をむき出しにして訴えるシーナ。
ダガーを持つ手が震えているのに気づいて、自分でも驚く。
——この女は、俺だ。
力に溺れて、狂気に身を委ねて、すでに戻れない深い沼に快く漬かっている。
赤黒く、ドロドロとした沼。
それでも、その中でも。
——ありがとう。
それでもまだフェンリルには聞き取れて、感じることができた。
頭の中で、再び響いた声を噛み締める。
「力を手放した俺はいずれどこかで野垂れ死ぬかもしれねぇ。それでも俺は、戻りたいと思ったんだよ。’ありがとう’って言葉に素直に笑って頷けるような、そんな心がもしも取り戻せるなら、俺はこの力を捨てたって良い」
さようならだ。
一息に言って、フェンリルは振り返る。最後のひと振りを振るう気にはなれなかった。力を弱めなければこのまま氷檻に切り刻まれてシーナは死ぬ。
フェンリル自身が手を下すまでもない。
——ジャア、オレガクッテイイカ?
脳内に直接響いたような声に、フェンリルは視線を上げる。
「……」
そこには初めから存在していたかのように、見上げるほど巨大な、青白い狼が佇んでいた。
冷気と、溢れて有り余るほどの神ノ力。幻覚と言うにはあまりにも絶大な存在感に、フェンリルは動けずにいた。
だが同時に、それが何なのかを本能で察して言葉を紡ぐ。
「喰え、氷狼。最後の餌だ。お前の衝動を全部ぶつけろ」
自分の中に眠っていた神ノ力——神ノ狼そのもの。
どうして具現化して目の前にいるのか、そんなことは考えてもきっと答えは出ない。元々得体のしれない力だ。
ニヤリと口角を上げて、その巨体を立ち上がらせて飛び込む。冷たい突風がフェンリルを通り過ぎていく。
目を凝らしながら再び振り返ると、一瞬ですべての熱を奪ってしまうほどの牙と爪は、真っすぐにシーナの方へと向いていた。
「あぁ、そうだこの感覚だ……お前にもいつか分かる! その狂気がお前をお前たらしめていたことに……!」
それはきっと呪いに等しい言葉。
だがそのすべてが耳に届く前に、シーナの全身は巨大な氷狼と重なって塵のように霧散する。
まるで最初からそこに何もなかったかのように、僅かに視認できる黒い塵以外、そこに人間が存在していた痕跡は消滅した。
命が一つ消えた。それだけが、静寂の中で分かった唯一のことだった。
「……くそ」
糸が切れたように全身の力が抜けて、両ひざをついて地面に倒れこむ。
楽しく無いし気持ち良くもない。その代わりに悲しくも、罪悪感も抱かない。
ただ空しい。あの巨大な氷狼が走り抜けて、自分のありとあらゆる感情を持ち去って行ってしまったかのようだった。
力なく空を見上げる。
いつの間にか分厚い雲は無くなって、晴れ間が見えていた。
今の気分には最高に合わない青空。
フェンリルの頬に涙が一筋流れて、地面に沁み渡った。




