【第二話】ウィザードリキッド
自分が何か温かいものに包まれている感覚に目を覚ました。
少し湿った枕から顔をあげると、温かみのある羽毛ぶとんが私の上にあった。 壁に掛かった時計が示すのは午前七時。いつの間にか寝てしまったらしい。布団をかけてくれたであろうエルウィンはいなかった。
起き上がって、ふと右肩の黒い痣が目に入り、私はすぐに視線をそらした。
「所長、お話があります」
オーディニア帝国医療局サイドバリー研究所。エルウィンは白衣を着て、マスクや帽子を被った白い集団の一人——メガネを掛けた妙齢の男に声をかけた。
「おはよう。エルウィン=ラックハイム。何か用かい?」
男、ロラドはモニタ―の画面を見ながら、忙しく手を動かしていた。
「グングニルのことです。実は……」
言葉を止めて、エルウィンは一度深呼吸をする。その先の言葉が、なかなか口から出ない。
「グングニルが? どうしたって? 彼女の寝顔の写真でもゲットしたのかい? まぁ、確かにあの子は女性としてはレベル高いと思うし、一部のマニアには売れるだろうねぇ」
ロラドはそんな軽口を叩きながらも、忙しく動いて作業を的確に進めていく。
「か、彼女の右肩に! ……黒い痣を発見しました」
「……なんだって?」
エルウィンはロラドの軽口を吹き飛ばす勢いで、ほぼ叫ぶように言った。
その報告を聞くなりロラドは動かしていた手をようやく止めて振り向いた。驚愕に歪んだ表情が、エルウィンの硬い表情と対面する。ロラドが驚くのも無理はない。昨日忠告した矢先の出来事だったのだから。
「痣が起きると必ず暴走してしまうものなのでしょうか。何か、彼女を助ける方法はありませんか?」
エルウィンは驚いているロラドに構わず懇願するように言った。ロラドはしばらく唸りながら、思考を巡らせている様子だった。
「ヴィーザルは痣が出て一ヶ月後、暴走して死んだ。これは動かすことのできない事実だ。可能性がわずかでもあるかぎり僕らができることは、彼女の処分以外に無い」
「処分ってどういう意味ですか?」
エルウィンが震えた声で聞く。ロラドはそれに無表情で答えた。
「殺処分だ。彼女の存在ごと抹消する」
「……!」
エルウィンは目を見開き、次の言葉を告げずにいた。
「エルウィン、彼女を呼んでくれ。早く済ませてしまった方がいい」
ロラドは冷たく言い放ち、またモニタ―の方に目を向けてしまった。
「所長! そんなことをして良いんですか?! 彼女だって生きてるんです! 簡単に、殺してしまうなんて……!」
「じゃあキミは! 実験用のマウスにいちいち同情しているのかい?メスで切り刻まれていく彼らに、哀れみの目を向けるのかい?それにだ——」
ロラドはエルウィンの言葉を遮るように言った。そしてもう一度エルウィンの方を向いて、目に光を宿して次に言うべきことを言葉にするために口を動かす。
「キミだって僕を責められる立場じゃない。実験のために、キミは何人の‘実験体’を犠牲にした?」
「……!」
——そうだ、僕は。
「キミだって実験のために‘人’を殺した。薬品の作用で精神に異常をきたした実験体を、キミも殺した。その時にいちいち同情はしたかい? そもそも、彼らを人として見たことがあるかい?彼女は―グングニルは特別じゃないんだよ」
——僕だって人を殺した。実験のため? 自分の研究のため? いや、違う、だって……。
「エルウィン=ラックハイム。これは僕の命令だ。早くグングニルを連れてくるんだ」
言い切ったロラドの顔にいつもの笑みはなかった。エルウィンは弾かれたように、返事もせず研究所の扉を開けて走って行った。
*****
—— 明日所長に精密検査を頼もう
昨夜のエルウィンの声が頭の中で再生されて、私は彼を探すために研究所内を歩いていた。
——私が死んだら、エルウィンは悲しむ。
自分など死んでも良い。そう思っていた私の心が、エルウィンの、たった一言で揺れていた。
歩きながら、ふと目に止まったのは医療班第一研究室。検査のことを頼んでいるとすれば、きっとこの中にいるかもしれない。
私は深呼吸をしてから、扉を開けて中に入った。
中には大勢の白衣を着た人たち。わずかな不快感が私を襲った。
「やぁ、グングニル。おはよう。おや?エルウィンは一緒じゃないのかい?」
声をかけてきたのはロラド所長。眼鏡の奥に映る一見優しそうな目を、どうにも好きになれなかった。この目は、似ているけれど、エルウィンのものとは決定的に違う。
「おはようございます。私もエルウィンを探しているのですが知りませんか?」
そんな気持ちをおくびにも出さずに訊く。
「さっきキミを呼ぶために出て行ったよ。入れ違いになったみたいだね。と、いうことは‘治療’の話は聞いていないのかな?」
所長が笑顔を崩さずに聞く。
「治療?治療する方法があるんですか?」
その言葉に私の声は反射的に高くなった。
「あぁ、安心しなさい。僕にできないことはないよ。キミが良ければすぐにでも準備をしたいのだが……良いかな?」
二人が会っているなら、きっと話はついているのだろう。私は少し考えてから答えた。
「分かりました。お願いします」
「では、今日の間は別室に移ってもらおうかな。今日は準備、明日治療に入りたいからね」
所長はそう言うと、私に手招きをして部屋から出て行った。
*****
エルウィンは急ぎ足でグングニルの部屋に向かっていた。その顔には焦りの表情が浮かんでいた。
—— グングニルに伝えるべきなのか?
キミは明日死にますって?そんなことできるはずがない。
それに昨日引き止めたばかりじゃないか。
でも、このまま本当のことを伝えないまま嘘をつくなんてできない……。
ここは、伝えるべきなのかもしれない。そして……。
グングニルの部屋の前につく。変わらず灰色の扉がそびえ立っていた。
「グングニル。入るよ」
エルウィンは深呼吸をして扉の向こうにいるはずのグングニルに声をかけた。だが、声どころか物音ひとつ帰ってこなかった。
「まさか!」
エルウィンは嫌な予感がして扉を開けた。
予感通りそこにグングニルは居らず、ベッドがぽつりと置いてあるだけだった。
「グングニル……。もしかして自分からロラド所長のところに行ったのか?」
エルウィンは勢いよく扉を閉めて、来た道を全速力で走った。
走っているその道がエルウィンにはやけに長く感じた。
曲がり角を曲がると前方には白衣の男、ロラドらしき人物がいた。
「所長!!」
「ん―?あぁ、エルウィン。どうしたんだいそんなに息を切らして」
「グングニルはどこです?部屋にいなかったんですが」
息を切らしながら、エルウィンは詰め寄るように言った。
「そんなに怖い顔しないでくれよ。彼女は‘治療’のために隔離室へ移ってもらった。同意を得てね」
「その治療というのは……」
「もちろん殺処分だ」
いつもと変わらなかったロラドの声が、再び重くなった。
「彼女がそんな治療に同意するはずが……!」
——いっそのこと……死にたい。
言いかけて、昨日のグングニルの言葉が頭に響いた。
——死にたい?そんなことしてほしくない。させたくない。
彼女は知らないだけなんだ。こんな狭い部屋で閉じ込められて、生きるということを知らないだけなんだ。
研究者という立場から見れば、エルウィンにとっても、ロラドにとっても、グングニルという能力者の少女は特別ではない、研究の対象なのだろう。
——でも、僕にとっては……。
エルウィンは言い様のない激しい怒りを覚えながらも、グングニルがいるであろう隔離棟に走り出そうとしていた。
「行っても何も変わらないよエルウィン。キミが彼女をどう思っていようと止められない」
後ろから聞こえるロラドの忠告を無視し、エルウィンは全速力で走って行った。
ロラドは黙ってその背中を見つめていた。
エルウィンは廊下を走り抜け、隔離棟へと向かった。扉を開くと研究棟と隔離棟を繋ぐ通路があった。生暖かい風がエルウィンの身体を吹き抜ける。そこから見える空はどんよりと暗いものだった。
隔離棟に入るといくつもの扉が並んでいた。
エルウィンは扉に貼り付けてあるプレ―トの番号を確認しながら走って行く。
——107。エルウィンの目に止まったのはグングニルと初めて会った時に、ロラドが彼女を呼ぶときに使っていた番号だった。
「グングニル! グングニル! 今すぐそこから出てきてくれ! このままじゃキミは―殺されてしまう!」
もうエルウィンに迷いなどなかった。必死にグングニルの名前を呼びながら扉を叩いた。
拳と鉄の扉がぶつかる音、エルウィンの叫び声が隔離棟を駆け巡った。
「エルウィン?どうしよう、扉がこっちからも開けられないの!」
エルウィンの声に気づいたグングニルが震えた声で答えた。今までのグングニルからは感じることのなかった怯えのようなものがそこにはあった。
「遠隔操作で開くようになっているのか……」
エルウィンは叩くのをやめて目の前にそびえる鉄の扉を見ながら言った。
ここまで走ってきて整いきっていない息の乱れが治っていくと、ずきずきと右の拳が痛むのを感じた。顔の前まで持ってきて確認すると、皮が擦りむけて血が滲んでいた。
「もっと、力があれば……」
血に汚れた右手を見ながら、エルウィンの頭の中にひとつの考えが浮かんだ。ポケットに手を入れ、その中のものを握りしめる。
エルウィンは一度、深く息を吐いた。
「これは彼女を助けるためだ!」
一研究者ではなく、一人の生きている人間として。
力強く呟き、ポケットから出した手には注射器——ウィザードリキッドが握られていた。
エルウィンは注射器の先端のキャップを引き抜き、その針をむき出しにした。
これを打てば魔法が使えるようになり、扉を壊す力だって手に入る。確信と同時に、実験中に認められた副作用の数々が頭に浮かぶ。
しばらく針を見つめた後、意を決して右腕にそれを射し込んだ。
「くっ……!」
何かが入って身体中をめぐるような心地悪い感覚がエルウィンを襲った。プランジャ―を最後まで押し込み、注射器を乱暴に引き抜いて投げ捨てた。
ドクン、と心臓が一回大きく跳ねあがった気がした。それから、だんだんとその鼓動が速度を増していく。
「グングニル、扉から離れて!」
右の拳から熱を感じ、エルウィンは叫んだ。
——今なら壊せる!
さっきまで、心のどこかにあった戸惑いは消えて、エルウィンの拳が吸い込まれるように鉄の扉に向かっていった。拳が扉に当たり、凄まじい音とともに、さっきまでの堅牢な壁としてそびえ立っていたのが嘘のように崩れ去って行った。
中はグングニルの仮眠室と同じような寂しい部屋だった。
「グングニル、大丈夫かい?」
部屋の隅でうずくまっていたグングニルを確認して近づいて側に座った。
「エルウィン……?」
グングニルは声を震わせながら不思議そうにエルウィンを見上げる。
「グングニル、ここから逃げよう。このままだと……どうしたんだい?」
ようやくグングニルの表情に気が付いてエルウィンも問う。
「髪の毛の色が……」
「えっ?」
グングニルの言葉に、すぐ真横に合った鏡を確認する。こげ茶色だった髪色は、鉄のような灰、銀色に変わってしまっていた。
——副作用か。
瞬時にそれを確認するが、今はそれどころではなかった。
「死ぬの?私、死んじゃうの?」
エルウィンの思考を遮るようにグングニルがすがるように言った。目には涙を溜めていて、軽いパニックを起こしているようだった。不安と恐怖が入り混じった表情に、エルウィンの心に悲しいものがせり上がってくるのを感じた。
「落ち着いてグングニル。キミが死ぬはずないだろ? だって……だってさ、僕が守るんだから!」
そんな悲しみを顔には出さず、笑顔でエルウィンが言った。今はこれで良い。彼女に少しの希望が与えられるなら。そう思っての精一杯の作り笑顔だった。
「エルウィン!」
グングニルは堰を切ったようにもう一度エルウィンの名を呼んで抱きついた。エルウィンはそれを身体で受け止めて、左手で彼女の背中を優しくさすった。
「良い愛情劇だ。だけど、僕の命令に従わなかったエルウィンには死んでもらわないと、僕の立場が無い」
拍手の音と言葉に振り返ると、壁にもたれて立っているロラドの姿があった。
「ロラド所長?」
エルウィンはロラドの言葉と、彼の持っている黒い塊に嫌な予感を覚えた。無意識にグングニルを後ろに隠すように立ち上がる。
ロラドはニヤリと笑みを浮かべ、塊—— 銃の先をエルウィンに向けた。二人の距離はほんの二メ―トル。その口から鉛玉が吐き出されれば、エルウィンは確実に死ぬ。少しでも動けば、きっとロラドは引き金を引く。
そのまま長い時間が流れたような気がした。
「ば―ん!」
エルウィンは銃声と勘違いして顔を背けた。しかし瞬時に、その音が銃口からではなくロラドの口から発せられたものだと気が付いて顔を上げる。身体を貫くような痛みが来ないのは当たり前だった。
「えっ?」
呆然としているエルウィンの前で、ロラドがニヤニヤと笑っていた。
「はい、これでキミたちは死にました。逃げるなり何なりすれば良いさ」
ロラドは銃を下ろして言った。
「どういうつもりですか?」
エルウィンは疑いの目を向けながら問う。一度生まれてしまった猜疑心は、上司であったはずのロラドを信じさせるのを難しくさせていた。
「まぁ、強いて言うならキミのその勇気がどこまで続くかを見てみたくなったというところかな。ウィザードリキッドを打ち込んだ時はびっくりしたよ。命に関わる副作用を伴う薬品をキミが打ち込むんだから」
ロラドが感心したように言った。
「命に、関わる?」
「大丈夫、気にしなくて良いよ」
案の定、ロラドの言葉に反応したグングニルに安心させるように言葉をかける。
「ふふっ。さ、納得したら早くここから出るんだ。……と言いたいところだが、さすがに僕も傷ついたキミたちを放り出すほど鬼じゃない。今日だけ別の隔離室で休ませてあげよう」
ロラドはそう言って二人に背を向ける。エルウィンはまだロラドを信じることができなかった。もしその隔離室が今回のように監禁するための部屋だったらと考えると、簡単に了承することはできなかった。
「なんだい?疑ってるのかい?こりゃ信頼ガタ落ちだなぁ。大丈夫、もう殺そうなんて思っていないよ。さっきも言ったように、キミらは死んだことにする。明日の朝、こっそりと逃がしてあげよう」
ロラドはいつもの二人が見慣れた笑顔を浮かべた後、壊れた扉の向こうに消えていった。
「た、助かった……」
深いため息とともに張り詰めていた全身の力が抜ける。ロラドを完全に信じることはできないが、この状況を脱するには彼の言葉に従うほか選択肢は無かった。
「ありがとうエルウィン……本当に、ありがとう」
「良いんだよ。キミのためだから」
未だに鈍い痛みを発し続ける右手を横目に、また泣き出しそうなグングニルにエルウィンは優しく言った。
「でも、これからどうするの?逃げるって言ってもどこに?」
グングニルが震えた声で訊く。
「僕はキミを助けたい」
エルウィンは一言、それだけ強く言い切る。
「だから、その痣を治す方法をどうしても見つけなくちゃならない。そのためにまず、最初の痣が現れたルバヴィウス研究所に向かおうと思ってる」
エルウィン自身も、いきなり解決策が見つかるとは思っていないが、何かの情報は掴めるかもしれない、そんな期待を抱いて、これからのことを話した。これはロラドにグングニルの殺処分を宣告された時からぼんやりと描いていたものだった。
「エルウィンがそう言うなら、私はそれに着いて行く。私はやっぱり……死にたくない!」
ようやく落ち着いた様子のグングニルはエルウィンの言葉に、今度はしっかりと言い切った。
顔を上げたグングニルの、信頼して、託すようなその眼差しに、エルウィンは痛みを無視して拳を握りしめた。
——良かった。
目に涙を浮かべながらも、強く言い切ったグングニルの姿に、エルウィンはただ一言、心の中でそう呟いた。彼女の本当の気持ちが、昨日の‘死にたい’なのか、今の‘死にたくない’なのか、そんなことはどうでも良かった。そういう言葉が、グングニルの口から出てきたこと自体が嬉しかった。
グングニルは特別ではない。
仮に本当に死にたがっていたとしたら、自分はすごくわがままなことをしたのだろうと、エルウィンは考える。本人が死にたいと考えていて、暴走によってこのまま生き続ければ危険が伴うのなら、いっそ殺してあげた方が良かったのだろう。この場所に所属する研究者として。
「でも……」
——グングニルは、僕にとっては特別なんだ。
エルウィンは、まだ震えているグングニルの肩を抱いて、強く実感した。
自分がすべてを捨ててまで、グングニルに惹かれてしまっているということを。
*****
——やっぱり、あの二人は‘繋がっている’のかな。
暗い廊下を歩きながら、ロラドは心の中で呟く。
名簿に記された「エルウィン=ラックハイム」と「グングニル」の名前を黒い線で消去しながら。