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【神ノ槍】  作者: 黒崎蓮【原作:みなぎゆう】
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【第十七話】覚醒

「ミリィ……」


 目前にふらふらと、おぼつかない足で歩を進める男の姿。昨日、研究所を訪れた後から彼の様子がおかしい。荒く息を吐きながら、苦しそうに呻いている。何時間も、夜も眠らずに、どこに向かっているのかも分からない。ただひたすら、今では木の枝のように頼りなく見える足で歩く。


「くっ……!」


 彼の足が、地面から顔を出していた木の根に足を取られる。どうっと倒れかけた彼の身体を私は無意識に駆け寄って支える。腕の中でも、なお苦しそうに呻く彼の額からは、玉のような大きな汗が流れていた。


「少し、休まれてはいかがですか」


 しばらく私は言葉に迷った後、私は月並みの言葉を彼にかけて、近くにあった大きな木のそばまで彼を運んだ。


「分かっているんだ……キミがいないことは、もう、分かっているんだ……!」


 木陰に入り込むそよ風が、彼の薄緑色の髪を揺らす。ここに着いてから、ずっとうわ言のように何かを、辛そうに、悲しそうに言っていた。


「ミリィ……。それでも、二人で生きよう。キミがいないと意味がないんだ……。すべてが終わった、世界に……」


 先ほどから彼が口走っている、ミリィ―おそらく女性で、おそらく故人。彼女が彼をここまでさせた要因だということは、たった二日間彼に付いて行っただけでよく分かった。問題は、彼が何をしようとしているかということだ。彼女を蘇らせる?神ノ力の能力の中にそのような能力があるのか?だから彼は各地の能力者を殺して自分の力にして、それを確かめている?

 おそらく違う。神ノ力などという人智を超えた力を操る国だ。死者を蘇らせる技術くらいどこかにあって良いようなものだ。しかし、彼は政府どころか反政府組織にすら頼らない、いわば孤高の存在。ただ彼女を生き返らせるだけなら、命を懸けた戦いに身を投じる必要はない。少なくともこのような状況になるまで。


「新しい世界に……」


 新しい世界。この言葉も私の第一論を否定する。彼女が生き返っただけなら、その世界を‘新しい世界’と呼ぶ必要はない。古い世界を壊して新しい世界が生まれる。ならば彼の目的は、今の世界を完全に消滅させることなのか?消滅させて、何になる?彼のいちばん大切な存在は、もういない。すべて消し去れば、今度こそ彼は、彼の言う‘新しい世界’で独りぼっちだ。


「ミリィ……!」


 彼が呻いて、何かを掴むように、右手を伸ばす。幾分声がはっきりしてきたところをみると、そろそろ現実と夢の狭間から帰ってくるのだろう。


「……」


 私は苦しむ彼の右手を、掴み返す。通常の人間からは考えられないような、異常なほど高い体温だった。

 突然、彼が上半身を起こす。そして、私にはまったく気づいていないかのように立ち上がる。


「行かなきゃ」


 彼はそう言って一歩踏み出す。しっかりとした足取りだった。


「お供します、ユミル様」


 ——自分より力の強い者には誰であろうと敬意を表す。

 自国のしきたりだった。もっとも、国を抜け出した私に、それを守る義務はない。しかし、それとは違う何かが私に、彼をそう呼ばせていた。

 彼はどこへ向かって、誰を殺しに行くのだろうか。



*****



 肩と背中の痛みに、エルウィンはゆっくりと目を開ける。まず目に入ったのは、目の下に、墨で上書きしたかのような黒い隈がくっきりと浮かんだラルクの顔だった。本当に眠そうに、ただぼんやりと牢の外を見ていた。


「お、起きたかよイチャコラ野郎」


 そんな顔を動かして、エルウィンを見るなり薄ら笑いを浮かべてそう言った。


「……?それは僕のことかな?」

「あぁ、俺とお前以外の野郎がどこにいるんだよ」

「いや、まぁそうだけど。そんな名前で呼ばれるなんて……あっ!」


 心当たりはない。そう言おうとしたエルウィンはつい昨夜のことを思い出す。勢いで言ってしまった言葉が思い出されて顔が熱くなるのを感じた。


「で、でもラルクはあの時寝てたじゃないか……!それにあの時はいろいろ焦っていて……」


 寝起きの頭で必死に言い訳を考えるも、なかなか言葉にならない。その間にもラルクの意地の悪い笑みはどんどんと愉快そうになっていく。


「お?もしかして、これ、なのか?」


 ラルクは笑みを消さないまま、胸の前に両手でハ―トの形を作る。


「やめてくれよ恥ずかしいって!」


 エルウィンが軽く絶叫したのと同じタイミングに、こんこんと後ろから石壁を叩く音が聞こえた。


「エル、ラルク起きてる?おはよう」

「えっ、あぁグングニルおはよう!」


 慌てて答えたせいで声が裏返ってしまった。今のやり取りが聞かれていないかヒヤヒヤしながら、そっと冷たい石壁に耳を当てる。


「ケンカしてる……わけじゃなさそうだね。よかった~!どうしようかと思って、あたし夜も眠れなかったわよ!」

「プリル、一番早く寝てなかった……?」


 どうやら聞こえていなかったらしい。安心してラルクの方を向くと、笑みを消して真顔に戻っていた。


「その、なんだ、昨日は悪かった。いきなり殴っちまって」

「いや、僕の方こそ。昨日は本当におかしかった」


 ラルクの謝罪にエルウィンも素直に答える。殴られて切ってしまった口の中の傷は、ウィザードリキッドの副作用で当分治りそうになかった。しかし、そんなことより昨日の無駄な争いに一応の終止符を打つことができた安心感の方が強かった。


「さて、今の状況だが、正直俺たちじゃどうにもできねぇ。あっちから何かしてこない限り無理だな」


 頭を切り替えて、エルウィンは今の状況を再び考える。ラーサーは‘明日’、つまり今日に何かをするつもりのはずだ。その時まで、ひたすら待つしかない。心なしか明るくなった牢の中で、その後はほとんど口をきかずに‘その時’を待った。



*****



 カツカツと、石の床を踏みしめる音とともに‘その時’はやってきた。


「ネズミども、起きてるか」


 現れたのはガ―ディアンのフェンリルだった。朝日が昇ってからだいぶ時間は経っているはずだが、寝起きのような眠そうな表情をしていた。


「目が冴えすぎて困ってるところだぞネクラ野郎」


 不機嫌そうなフェンリルに挑発するようにラルクが答える。フェンリルはそれには答えず、エルウィンとラルクがいる牢の入り口の前に立って二人を見下ろす。


「そっちの銀色。ラーサーが呼んでいる」

「僕だけ、なのか?」


 エルウィンは自分が指名されたのだと気付いて訊く。フェンリルはまた無視して牢のカギを開ける。扉が、何の躊躇もなく開かれる。普通なら、ここから飛び込んですぐに取れる位置にある自分の得物を抜いて抵抗するべきなのだろうが、フェンリルから放たれる静かなプレッシャ―がそうはさせなかった。ラルクもそれを感じているのだろう、動こうとはしなかった。


「出ろ」


 エルウィンは言われるがままに牢の外と中を分ける境界線をまたぐ。瞬間、扉が素早く閉められた。


「ラーサーからの伝言だ。お前を、能力憑依実験の被検体として採用する。拒否した場合は殺処分の許可が出てるんだが、どうする」

「……!!」


 能力憑依実験の被検体。それはつまり、エルウィンが、グングニルや目の前にいるフェンリルと同じように能力者になるということ。


「どういうことだよ!!」


 エルウィンより先に、ラルクが叫ぶように反論する。エルウィンも、確かにラーサーの意図を計りかねていた。憑依実験の対象者は、第一条件として体内に魔力を多く含んでいないことだ。プリルが選ばれない理由はそれで説明がつく。しかし、それはエルウィンも同じことだった。ウィザードリキッドの影響で肉体的にも、魔力的にも強化したおかげで、神ノ力と対をなす多量の魔力が身体を巡っているはずなのだ。


「どうする」


 機械のように、フェンリルが繰り返す。

 魔力を多く持った被験者に処置をすれば命の危険があることは確かだし、もしかしたらそれだけでは済まされないかもしれない。

 そんな分かりきったことを、危険を冒してまでするだろうか。ラーサーの狙いが読めなかった。


「エル、行っちゃダメよ!」


 思考の渦を突き破るように、グングニルの叫びが届く。できることなら行かずに、ここで反抗してフェンリルを倒すのが一番良いのだろう。しかし、少しの隙を見せればフェンリルはいとも簡単に自分を殺せる。昨日の戦いから、そんな確信がエルウィンにはあった。

 そして、ラーサーがこの行動に移るまでの考えを知りたいという思いがエルウィンの中で強まっていた。同じ科学者として、ラーサーの実験を見届けたいという思いが、場違いだと分かっていながらもわずかにあった。成功すれば神ノ力を手に入れて、今よりも良い状況を作れるかもしれない。


「行くよ」

「エル!!」


 グングニルとラルク、それにプリルがほぼ同時に叫んだ。


「大丈夫。絶対に戻ってくるから」


 エルウィンはそれだけ言って、三人に背を向ける。


「そう、か」


 視線を少し逸らしたフェンリルの表情に、少しだけ影が見えたような気がした。


「ついてこい」


 その顔を十分に確認する間もなく、フェンリルは振り返って歩き出す。エルウィンもそれに続く。武器は取らなかった。


「エル……神ノ力に負けないでね」


 グングニルの消え入りそうな声が、重く心に刺さる。神ノ力を取り入れることは、グングニルの苦しみを分かち合うことでもあった。


「うん」


 足は止めず、短く、グングニルの願いに答えた。


 ただ、見送ることしかできない自分に無力感を感じながら、グングニルは強く牢を握りしめていた。いつも通りの神ノ力があれば、フェンリルを倒して、エルウィンを危険な実験に巻き込むことはなかった。肝心な時に力を使えない自分に、無性に腹が立った。


「神ノ力って……エルはどうなっちゃうの?」


 プリルは不安そうにグングニルを見上げる。


「分からない」


 深呼吸をして、怒りを鎮めて考える。能力者になる。成功すれば、ただそれだけは確かだった。しかし、それがどういう結果になるのかは、文字通り神のみが知ることだった。


「エルだって、危険だってことは分かってる。きっと、何か考えがあるに違いないわ」


 グングニルはそう言って、エルウィンがいなくなった廊下をじっと見つめる。ただ、それだけしかできなかった。



*****



「あそこで俺に殺されておけば、と思うかもしれないな」


 廊下を進む中、フェンリルが唐突に口を開いた。


「お前がどういうつもりで受け入れたかは知らん。だが、能力者になることは……」


 振り返らず、独り言のように続けられた言葉が止まった。異様なほど長い間が二人を包む。


「人間をやめることだ」


 ようやく紡がれたのは、恐ろしいほど無機質な一言。

 エルウィン自身、それは十分に分かっていたことだった。研究者として、実験に関わっていく中で、人間ではなくなっていく‘モノ’たちをたくさん見てきた。


「分かってるさ。それでも、僕は生きなきゃならない」


 ただ一人を助けるため。生きる可能性に賭けるため。それだけではないのかもしれない。研究者として、実験の被検体になった人たち、ラルクの弟、グングニル、そして目の前を歩くフェンリルへの負い目があったのかもしれない。それは口には出さなかった。自分が被検体になったからといって、彼らの‘普通に生きていた時間’は戻らない。

 フェンリルの後姿を見て、エルウィンの頭にそんな考えが浮かんだ。

 そのまま無言で歩き続けたエルウィンの目に、昨日、どうしてもたどり着きたかった‘第一保管室’の文字が目に入った。


「この中だ。あとはラーサーに従え」


 フェンリルの言葉に、エルウィンは白いドアノブに手をかける。


「ありがとう」


 扉を開ける前に、エルウィンはフェンリルの方を振り返って一言、そう言った。エルウィンはその反応を確認しないまま、扉の中に入った。


 ——被験者の健康状態は良好。心拍数、血圧ともに異常なし。

 ——神ノ力制御システム正常です。

 ——神ノ石装填完了です。

 ——被験者の魔力が制限値の二倍ですが……。

 ——構わん。続けろ。


 二言三言言葉を交わした後、すぐに固いベッドがエルウィンを迎えた。

 複数の機械音がそれぞれ別々のバランスで規則正しく鳴り響いていて、頭の中をかき回す。

 グングニルも、こんな体験をしたのだろうか。能力者になる前の記憶が無いと言っていたから、このあたりの記憶は忘れてしまったのかもしれない。

 何も見えない。耳だけがやけに敏感に周りの音を拾っていく。それもつかの間、微睡が、僕を襲った。


 ——能力憑依実験開始。


 その言葉と、ピ―ッという長い電子音が最後だった。

 完全に何もわからなくなった。



*****



 どれくらいの時間がたったのだろうか。突然のけたたましいサイレンの音でグングニルは牢を掴んでいた手を放す。


「なに?!どうしたの?!」


 プリルが叫んだのとほぼ同時に、廊下から黒い影が瞬時に飛び出したのが見えた。それがフェンリルだということに気づくのに数秒かかった。


「お前らも手伝え」


 息つく間も与えないまま、フェンリルは腰のダガーを抜いてグングニルたちとラルクの牢を順に破壊していく。


「何が起きたの?」


 努めて冷静に訊こうとしたが、異様にせわしないフェンリルの姿と、急かすように鳴り響くサイレンの音にグングニルの声が震えた。


「暴走だ」


 短く一言、変わらない冷徹な口調で、残酷な答えが返って来た。


「ついてこい」


 フェンリルが言い終える前にグングニルの足は牢の外から出ていた。

 心臓早鳴り、息が浅くなる。

 地面を蹴ったフェンリルは瞬きの間に曲がり角へ消えていく。それにグングニルもしがみつくようについて行く。


「おーい、はえーって!」


 背後から消えるようにラルクとプリルの声が過ぎ去っていく。気を遣う余裕は無かった。

 前を走るフェンリルの姿が霞んで見えた。後ろを走るラルクとプリルの足音が、ぼやけて聞こえた。

 暴走。その言葉が、ずっとグングニルの頭の中で鳴り響いていた。

 暴走は、神ノ力の憑依に失敗した時、神ノ力の“適応期間”の限界が来た時に起こるとエルウィンは言っていた。被憑依者から、濁流のように流れる神ノ力を噴出させ、すべてを破壊し尽くす。


「エルウィン……!」


 自然に声が出ていた。暴走の報告の直前まで、エルウィンの言葉は信じていた。何か考えがある。そう思って、そう思うしかなくてエルウィンに頼りきっていた。


「もっと強く止めていれば……!」


 私があなたを守る。そう言ったあの時の自分の決意が、ずいぶんと冷めたもののように思えた。

 白い廊下を駆るフェンリルは先に、“第一保管室”という金字の看板だけがさみしく残された、壊れかけた扉をくぐっていった。


「エル……?」


 様々な器具が安置されていた保管室は嵐が過ぎ去った後のように荒れていて、その先にあった“実験室”は異様なまでに静かだった。

 床には、もともと白かったのであろう服を赤く染め上げた研究者や、作動しなくなった機器の残骸が虚しく横たわっているだけで、あとは何もない空間だった。


「いるだろ。エルウィンとかいったか。出て来いよ」


 フェンリルがダガーを抜きながら、少し声を張って言った。その背中が、わずかに震えているように見えた。

 その声に、何も答えない。

 この空間は静かなだけじゃない。大きな何かが、この空間を制御しているのがグングニルには分かった。張り詰めた鋭い静けさが痛いほどだった。

 しかし、確実に“何か”がいる。


「おい、そろそろ、いいだろ?」


 痺れを切らしたかのようなフェンリルの声と、ダガーを床に落とす音が重なった。

 それが合図だった。

 ようやくグングニルにも、全身を包み込んで潰してしまうような殺気を感じることができた。

 瞬間的に紅い槍を出す。後ろでラルクが銃を構えた気配を感じる。

 淡い水色の力を纏ったフェンリルに、灰色の塊が勢い良く落下する。

 二つがぶつかり合い、鈍い音と衝撃が生まれた。


「エル、なの?」


 その衝撃に伏せていた顔を上げる。

 落下とともに振り下ろされた拳を、力を纏ったフェンリルが受け止めていた。振り下ろした本人は、灰色の力―神ノ力を纏ったエルウィンだった。

 その銀色の髪に呼応するかのように、エルウィンの周りには渦を巻くように灰色の力が奔流していた。数秒前の静けさが嘘だったかのように、力の渦が轟々と音を立てる。その渦の中に光るのは、いつもの優しい緑色ではなく、紅い瞳だった。


「……!」


 表情もよく見れないまま、フェンリルが両腕でエルウィンを押し返す。


「ただの殺戮マシーンだろ、お前も。人間をやめたな、ははっ……!」


 フェンリルが、堪えきれなくなったように吹き出す。一歩、また一歩と力を増幅させながら後ろに退いたエルウィンに近づく。


「なんだあのネクラ!狂っちまったのか!」


 銃を構えて降ろさないまま、ラルクが叫ぶ。横には拳を握りしめて動かないプリルの姿があった。


「辞めたなら、俺もそれなりに力出して戦ってやるよ」


 その一言を言い切らないうちに、神ノ力がフェンリルを覆い尽くし、一瞬の轟音とともに、周りを囲むように青白い光の柱を出現させた。


「ガアァァァァアッ!!」


 その青い柱も一瞬だけだった。空気を震わせる雄叫びとともに光を突き破って出てきたモノが、一直線にエルウィンに向かう。


「あれは、狼……?」


 伸びたまま目元まで隠していた青白い髪は逆立ち、頭部の両側面からは獣の耳が突き出ていた。振り上げた腕と、地を蹴る足は銀色の獣の毛に覆われ、腰の部分からは尻尾がたなびいていた。

 人狼。【神ノ狼】の能力を解放させた、今のフェンリルを表す言葉だった。

 獲物を狩る狼の如く、右手から生えた鋭いかぎ爪が、エルウィンを抉らんとばかりに迫る。

 それに対抗してエルウィンを囲む渦からなつむじ風のような衝撃波が無数に吐き出されていく。

 フェンリルはそのかぎ爪で、まるで蜘蛛の糸を払うかのような仕草で衝撃をかき消していく。

 その爪が首元に迫る寸前で、鋭い弾丸のような衝撃がフェンリルを吹き飛ばした。壁まで飛んだフェンリルは空中でくるりと一回転をしたかと思うと、その白い壁に“着地”した。


「今のは普通に殺せてたはずだぞ。甘ったれてんのか殺すぞ」


 足のかぎ爪を使って壁と垂直に立つフェンリルが口元に笑みを浮かべながら低く唸った。再び淡い水色の力が流れ、両手の爪がさらに長く鋭くなる。

 狙いは変わらず灰色の力の渦を纏ったエルウィン。強力な衝撃波は、その渦の中のほんの一部分にすぎないようだった。


「エル!やめて!戻ってきてよ!」


 このままではエルウィンかフェンリル、どちらかが倒れることになる。言いようのない、引き裂かれるような感情がグングニルの胸からせり上がる。


「エルには、死んで欲しくもないし、殺して欲しくもない! ……目を覚まして!」


 圧倒的な力を持ち、それを自分でも制御できなくなっているエルウィンの姿を見て、研究所から出たばかりの頃のことを思い出した。

 エルウィンは、能力者であり、そんな自分が嫌いなグングニルに、頑なに人を殺させないようにしていた。

 ——僕が守るから。グングニルは人を殺しちゃいけない。

 そう言って前に立ったエルウィンを、グングニルは今になって自分に重ねることができた。


「いつも、自分の責任だって、全部自分だけで被ろうとして……!もう、これ以上エルに汚れて欲しくない」


 エルウィンの纏っている渦が、さらに強くなったような気がした。


「私が止める!」


 言い放ったグングニルが地を蹴ったのと、フェンリルが壁を蹴り崩して飛び掛かったのは同時だった。

 一直線に向かうグングニルを、渦から放たれる突風が容赦なく切りつける。その鋭い痛みをごまかすように、槍と同じ紅い力を身体に纏わせる。そして迷いなく、渦の向こう側にあるエルウィンの身体に槍を振るう。同時に隕石のように落下したフェンリルが、その長く伸びたかぎ爪を振るった。


「くっ!」


 槍とかぎ爪は、エルウィンの手に握られた紫銀の槍に止められていた。持ち主の身長ほどもある、大きな槍だった。

 殺気を一瞬で感じて、二人は同時にその場から飛ぶ。振り払われた槍があと一秒遅ければ、身体ごと無くなっていたかもしれなかった。

 槍の風圧に吹き飛ばされそうになりながらも前を見据える。グングニルとは反対側に跳んだフェンリルは、再び壁に着地する。その勢いを殺さず、壁を蹴って走り、エルウィンの後ろに回り始める。足の着いた壁には、足跡の如く氷が張り付いていた。


「さっさと……」


 フェンリルが壁を強く蹴って飛び上がる。両手にはかぎ爪ではなく、冷気を纏った氷の刃が握られていた。


「くたばりやがれ」


 食らいつくように渦の中に飛び込んだフェンリルは、振り返ったエルウィンを槍ごと切り裂いた。グングニルはその隙を逃さないように、槍を真っ直ぐに構えて走る。


「ごめん、エル」


 フェンリルの攻撃の影響か、少し弱まった渦へ紅い槍が真っ直ぐに入る。確かに、その身体を貫いた感覚があった。

力の嵐が、少しずつ弱まる。


「エル!」


 グングニルが名前を呼ぶ。後ろを向いていて顔は見えないが、項垂れているようだった。力の影響で致命傷にはなっていないはずだったが、それでも不安がグングニルを襲っていた。


 ——人間が……!


 返ってきたのは、エルウィンの声であってそうではないもの。轟くような声と同時に、突き刺した槍を伝って打つような痛みがグングニルの全身を駆け巡った。


「ぐあぁっ!!」


 痛みに思わず叫んで槍から手を放す。力の衝撃からか、グングニルの槍はガラスのような音を立てて粉々に砕け散る。フェンリルも同じ痛みを感じたのか、顔を歪ませながら後ろに退いた。


「今のは……何?」


 身体に残る痺れに耐えながら、頭に響いた声に悍ましさを感じていた。激しい憎悪のようなもの、少なくともエルウィンのものではない別の誰かの感情が流れ込んできたようだった。


*****


「違う、戦ってるのはエルじゃない」


 隣で同じように手を出せずにいたプリルが、再びの静けさの中で呟いたのが聞こえた。


「ど、どういうことだよ?」


 ラルクはタイミングを逃して引くに引けない引き金に指をかけながら訊く。


「魔力じゃないけど、いつものエルとは違うんだよ。神ノ力が、エルのやつじゃなくて、違う誰かのものってこと」

「そう、なのか」


 年齢は一番下のはずなのに、一番冷静に今の状況を判断しているように見えるプリルに自分の情けなさを感じながら曖昧に答える。


「……というか、ラルくんも剣持ってるなら戦いなよ!」

「……!こ、この剣は護身用だし、そういうキャラじゃねぇっつ―の!俺もト―ル持ってなかったらただのか弱い一般市民だわ!」


 腰に掛けてあった剣を指さしてプリルが噛みつくように言ったのを、ラルクは内心ひやひやしながら噛みつき返す。


「なによそれー!」

「文句つけんな!それにこの戦いじゃ、これ以上助っ人しても足手まといだぜ」


 頬を膨らませながら不満を言うプリルを横目に、対峙する三人を見つめる。本物の神ノ力を見せつけられ、今までの政府とスヴェントの小競り合いが馬鹿らしく思えてきた一方で、ラルクの心の奥底からしまっていたものが顔を出しそうだった。


「くそ、こんな時に……」


 それを振り払うかのように再び視線を、目の前で繰り広げられている異次元の戦闘に向ける。

 先に動いたのはグングニルだった。新しい槍を出し、エルウィンに向かう。声のことは頭から消して、今は彼を止めることを優先する。対するエルウィンも紫銀の長槍を繰り出す。身体の切傷や、刺突の痕は綺麗に塞がれていた。

 目前に、槍の穂先が迫る。リーチは圧倒的にエルウィンが優っていた。


「はぁ!」


 気合とともに、地を蹴ったグングニルは長槍のリーチの内側に跳ぶ。身体の軌道を数ミリずらし、槍を構える。速球の刺突が、首の皮一枚の所でグングニルの真横を過ぎる。金色の髪の毛が数本、消し飛ばされたのを感じた。

 すれ違いざまに、紅い槍を精一杯に振り抜く。エルウィンの腹を、一直線に切り裂いた感覚がグングニルの両腕を伝う。同時に反対側をすり抜けるフェンリルと目が合った。グングニルと同時にエルウィンの背中を氷刃で刻んだようだった。


「グオオオオオオォ!!」


 痛みに吠えたエルウィンの切り返しは速かった。片足を軸に半回転したエルウィンの身体と一緒に銀槍が勢いよくグングニルの眼前に迫る。


「やっと出番だぜ!」


 痛みの代わりに、ラルクの声と何か硬いものを弾いたような音が響いた。目だけ動かして確認すると、エルウィンの槍が上空でくるくると回っていた。ラルクのト―ルによる銃弾が、槍を弾いたようだった。


「ありがとうラルク!」


 叫ぶように礼を言って、グングニルは後ろに跳ぶ。エルウィンとグングニルの間に長槍が突き刺さるが、すぐに光の粒子になって消え失せる。

 その隙をフェンリルが逃すはずはなかった。

 飛び掛かったフェンリルは丸腰のエルウィンの身体に戸惑い無く刃を入れていく。フェンリルが腕を振るうごとにエルウィンの身体から血が噴水のように吹きだしていく。しかし、次の斬撃を与えるまでに傷は完全に癒えていく。


「おい!おい!化け物!早く死ねよ!バラバラになっちまうぞおい!!」


 フェンリルは狂ったように身体を切り刻み続ける。その目まぐるしい斬撃の嵐に、エルウィンは動けない様子だった。グングニルには、あえて抵抗していないようにも見えた。


「ごめんね、あと少しの我慢だから……!」


 エルウィンが無残にも切りつけられ、化け物と呼ばれている目の前の光景に目を伏せながら、グングニルは再び槍を構える。

 一歩踏み出した瞬間に、切りつけていたフェンリルの左腕が、エルウィンの右腕に掴まれる。


「っ!!」


 フェンリルの顔に浮かんでいた満面の狂気の笑みが消える。そして、エルの周りに再び灰色の嵐が吹き荒れた。


「がはっ!!」


 突風に煽られたフェンリルは、ぼろ布のように吹き飛ばされ、身体中をつむじ風に切り刻まれていく。だんだんと広がっていく渦の中で、徐々に紫色の雷が轟々と音をたてながら発生していった。


「エル!エル!戻ってきて!私はここにいるから!神ノ力になんか、負けないで……!」


 歩くことも困難な暴風の中で、辛うじて確認できるエルウィンに向かって、グングニルは叫び続けた。


 ——夢の中では、あなたの肩を掴めたから。


「一人じゃないから、苦しまないで」


 ラルクは目の前で起こっている状況が理解できずにいた。

 荒れ狂う灰色の嵐が、少しずつ冷気を帯び始め、動きを鈍らせていた。


「なんだよこれどうしたんだ?!」


 言っている間にも、風が、雷が、そして空間自体が凍り付いていくようだった。


「あ!あれだ!」


 プリルが声を上げて指をさす方向を見ると、フェンリルがしゃがみ込んで地面にダガーを突き立てていた。冷気の中心はどうやらフェンリルのようだった。


「あのネクラ、全部凍らせるつもりなのか?」


 ラルクは傷だらけのフェンリルを確認して呻くように言った。


「で、でもこれならあたしたちでこの渦を壊せるよ!」

「は?!どうやって?!」

「いいからラルくん!あたしが合図したらその銃を思いっきり撃っちゃって!」

「なんでお前が……分かった、やってやるよ!」


 短いやり取りを終え、プリルは短い腕を前に出し集中力を高める。時間を置かずに、天井いっぱいに黄色い魔法陣が描かれる。ラルクもまっすぐに神器を構え、今度こそ引けるように引き金に指をかけた。

 徐々に、部屋の温度が下がって空間が固まり始める。


「ナイスわんちゃん!よ―し、いくよラルくん!シジョ―サイダイのぉ!」


 プリルが両腕を振り下げたのと、ラルクが引き金を引いたのは同時だった。


「痺れろぉ!!」

「貫けぇ!!」


 上空からの太い雷の柱と、それに追従するように迸る雷の雨が、眩い光で部屋全体を照らした。



*****



 ‘あの時’の嵐の中だった。僕は大事な人を守れなかったことをずっと後悔しながら泣いていた。守れなかったくせに、普通に生きている自分が許せないけど、どうすることもできなくて泣いていた。

 今も、守るべき人を守るために歩かなければならないのに、もう疲れて、足が痛くて苦しくて動けない。


 ——一人じゃないよ


 守れなかった人なのか、守るべき人なのかは分からないけど、誰かの声が聞こえた。

その誰かの手が、肩に置かれる。

 振り返った僕は、彼女を何て呼べばいいか分からなかった。

 ただ、差し出された手が、雨に濡れた僕には温かくて、やっぱり声を上げて泣くしかなかった。


 ——……ナ……?……グ…ニル



 轟音と、空間の割れる音が耳を劈くほどだった。顔を上げて周りを見てみると、白い空間に、キラキラと光るカケラが雨のように降り注いでいた。時間がゆっくりと流れているようだった。

 目の前にはエルウィンが、その背中に黒く透き通った美しい翼を生やして、両手には禍々しい黒紫の光を溜めていた。光を失った、暗く紅い瞳がグングニルを真っ直ぐに見据える。


「エルウィン……!」


 グングニルは名を呼び、全身に力を滾らせる。奥底から、ぐつぐつと溢れんばかりの神ノ力が身体を巡るのを感じた。

 力がだんだんと外に放出され、円形を描くように無数の槍がグングニルの周りを取り囲む。切っ先はすべてエルウィンへ向いていた。

 槍が紅い光と熱を、急速に眩さと温度を上げて纏っていく。


「……っ!」


 グングニルが短く息を吐いたと同時に、すべての槍が火矢の如くエルウィンに突撃していく。エルウィンはそれに対抗するかのように羽根を精一杯に広げて、黒紫の光の塊を投げつける。

 赤と黒の光が、空間を揺るがすような爆発音とともに真っ白な空間を染め上げた。


*****



 空気にはまだ、電流が走っていた。その中でグングニルは無傷で立っていた。周りを見ると、呆然と立ち尽くすラルクとプリルや、膝をついたままのフェンリルの姿。そして、床に倒れるエルウィンの姿があった。

 グングニルは恐る恐るエルウィンの方へと足を踏み出していく。


「エル……良かった」


 グングニルは静かに寝息を立てるエルウィンの顔を見て、安堵のため息をつく。服はボロボロに破けてしまっていたが、身体にはいっさいの切り傷もなかった。


「よくやった能力者諸君」


 安心したグングニルの心を、鼻にかかったような男の声が乱した。


「予想通り、暴走は収まり憑依は完了したようだな。やはり彼の発明した——ウィザードリキッドだったか、あれで生成された魔力は通常のものとは……」


 背後のラーサーが言い終える前に、グングニルが槍を片手に振り向いて走り出す。


「お前のせいでエルウィンは!!」


 不敵な笑みを浮かべるラーサーに向かって槍を何度も振りかざす。実際にいるように見えるその姿は、やはり魔法で作られたもののようで、斬撃が当たるたびにその姿を蜃気楼のように揺らす。


「おい、グングニル落ち着けって……」


 ラルクの静止の声も耳に入っていない様子で、標的に当たらない切っ先が虚しく床を打ちつけているだけだった。


「ふふっ、そんなに熱くなるな【神ノ槍】よ。名づけの親をそこまで攻撃することもあるまい」


 槍の斬撃に揺れるラーサーは笑いながら片手を上げる。


「エル?!」


 プリルの叫び声で一心不乱に槍を振っていたグングニルの手は止まる。振り向いた一瞬後には、エルウィンが光に包まれて消えるところだった。


「エルウィン!」


 叫んで手を伸ばすも遅く、光の粒子がかすかに残っただけだった。


「安心したまえ。彼は安全な場所に移した。しかし……これから私が言うことに従わなければ、彼の命が無いと思え」


 最後に冷たく振り下ろされた言葉に、ただ心の中で怒りを燃やして睨み付けるしかなかった。

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