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【神ノ槍】  作者: 黒崎蓮【原作:みなぎゆう】
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【第十六話】誰が為の力

「はぁ、はぁ……」


 草原を、二人の少年が息を切らしながら走っていた。金色の髪を短く刈った、まるで双子のような兄弟が夕暮れ時を駆ける。


「遅いぞシエル!そんなんじゃ兵士になれないぜ!」


 先頭を走る少年が後ろを振り向いて得意げに言う。


「兄ちゃんが速いんだよ!はぁ、疲れた!」


 シエルと呼ばれた少年は、兄である少年に追いつこうと必死に足を動かしていた。


「まぁな!これでも訓練所ではトップを競うラルク様だか……ぐえっ?!」


 ラルク——そう名乗った少年は後ろを振り向いてい向にそびえ立っていた大きな木に気づかなかった。走った勢いで激突し、奇声を発する。


「ははは!捕まえた!兄ちゃんドジだなぁ!」


 満面の笑みを浮かべながら、シエルは倒れて目を回しているラルクの両肩に触れる。


「うおー!こんな罠がぁ!だけど次は捕まらないぜ!」


 照れ隠しのように笑ったラルクはそう言った途端、勢いよく起き上がって、また走り出した。


「なんであんなに走ったのにまだ走れるんだよ!」


 シエルも愚痴を零しながら走り去ったラルクを追いかける。ラルクは追ってくるシエルの足音を聞きながら、今度はしっかりと前を向いて、全速力で走る。草原は先が見えないほど、真っ直ぐに続いていた。

 しばらく走って、自分以外の足音が消えたことに気がついて、ふと後ろを振り返る。追ってきていたはずのシエルの姿がなかった。


「おい、シエル?」


 走りを止めて、来た道を歩く。周りを見渡しても、シエルは見当たらなかった。


「兄ちゃん!!」


 突然、助けを求めるような切迫した声が耳に届く。瞬時に振り返ると、シエルが複数の真っ黒な手に手足を掴まれ、攫われようとしていた。


「シエル!」


 追いかけっこの時とは比べものにならないくらい速く走っていたつもりだった。しかし、シエルは近づくどころか、どんどんと離れていっているように見えた。


「うっ!」


 シエルに向かって走るラルクの胸に、強烈な衝撃が走る。その衝撃に、思わず後ろに吹き飛ばされてしまう。

 地面に身体を打ち付けられたラルクの手に、いつの間にか鞘に収まった剣が握られていた。


「な、なんだよ、これ……」


 “いつもの銃”ではないことに猛烈な違和感を抱く。前を見ると、今度は黒い手と弟がすぐ近くまで迫っていた。シエルは気を失ったのか、目を瞑ってうなだれている。


「今、助けるからな」


 ラルクはそう言って、剣を両手に持って鞘から引き抜こうとする。


「な、なんでだよ……。ちくしょう!」


 手の震えが止まらなかった。カチカチという無意味な金属音が響くだけで、ラルクの苛立ちは加速した。剣が抜けない。そうしているうちにも、シエルがどんどんと黒い手に飲み込まれていく。


「シエル……」


 消え入りそうな声で呼んだ弟の名は、届くことはなかった。草原には、無力なラルクと、何も斬れない無力な剣が残っているだけだった。



*****



「どうしたのラルくん。すごく眠そうだよ」


 アバン研究所へと向かう船の上。船室の大きめな木のテーブルには皿に盛られたシェルチキンが湯気を立てていた。貝に鶏の肉汁が溜まり、香ばしい香りを立てる。

 ビドーの代理として船に乗ったラルクは、不機嫌そうにフォークを取って無造作に肉に突き立てる。


「あ~、なんか変な夢見てな。……ってかラルくんって何だよ!」


 ぼけっと料理を貪っていたラルクの目が覚めたように見開かれる。


「いいじゃん、呼びやすいんだから」

「おめ―、いくらビドーさんの子だからって舐めてると……」

「舐めてないもん!ほらさっさと食べちゃいなよ!」


 プリルの素早い反撃にラルクの額に青筋が浮かび上がる。


「ガキンチョが生意気に!」

「ガキンチョじゃないもん!バカにしてると雷でビリビリにするよ!」

「はっ!俺のトールの方が強いっつーの!」

「神ノ力なんだから当たり前でしょ~!」


 いがみ合う二人を、パンを運んできたグングニルが眺める。


「どっちが子どもなのよ……」


 ため息をつきながら、少し笑って、二人の間にパンが載った皿を置いた。


*****



「ラグナロクを起こす可能性があるユミルを政府が何もせずに放っておくのは……確かにおかしい」


 エルウィンは一人、薄暗い明かりの中、船室で考え事をしていた。能力者を取り込んだのだろう、様々な力を使うユミルの姿を思い出す。それだけ多くの能力者を殺されているにも拘らず、政府が動かないことがおかしかった。

 もしかしたらユミルとヴァルハラの死闘によって政府本部が動かないのではなく、“動けない”のかもしれない。そんな不安が、エルウィンの中で渦巻いていた。

 最後の希望であるユグドラシル。アバンにそのカギがあるのなら、政府がそこまで弱っている今攻めるしかない。プリルの意志を無視することになるかもしれないが、少しの犠牲も必要なのかもしれない。もしかしたら、プリルも心の中では戦わざるを得ないことは分かっているのかもしれないが。

 それに何より、あまり時間が残されていないという現実があった。エルウィンがグングニルの右肩に痣を確認したのが発症から五日と考えると、すでに痣が現れてから二十一日が経ったことになる。


「急がなくちゃ……!」


 エルウィンは思考を止め、電灯に照らされた両手を見つめる。心なしか、黒ずんでいるように見えた。

 ——僕の手なんて、いくら汚れたって構わない。

 気付けばアバン研究所まであと少しだった。



*****



 ——孤島アバン。

 船が港に着いたようだった。エルウィンたちが乗る船は、表向きは武器を運んできた行商ということになっているらしい。島は港を見渡す限りでは人工的な街という外観だったが、さらにその奥へ視線を移すと、木々が生い茂る島の原型を残していた。


「じゃ、あとは頼んだぜ。お前らは商人らしく武器を売ってりゃいいんだ」

「了解ですラルクさん!」


 ラルクの指示に、彼より何歳か年上に見える男が敬礼する。副官というのは本当らしかった。


「さ―て、あとは俺たちだな」


 振り向いたラルクはポケットから紙を取り出して広げる。島の地図のようだった。


「ビドーさんに話してもらった通り、この島に研究所に行くための秘密の通路があるんだ」


 腕を折られ、動かせなくなってしまったビドーが言っていた、研究所への侵入方法を思い出す。

 この島は研究所以外にも、研究員たちが住む宿のようなものも各地に点在し、ひとつの町の形を形成しているらしい。その宿のひとつに、すでに古くなり使われなくなったものがあるという。政府にいたころのビドーは、その宿の地下から研究所へ侵入するための通路を作ったということだった。


「ビドーさんが政府からいろいろ情報を集めるために使っていた通路だ。きっと安全なはずだぜ」


 通路の確認をしながら、ラルクを先頭に一行は古宿に向かうために、木々が高くそびえる森の中をかき分けて行った。



*****



 目の前にいる男は、あれだけのダメ―ジをたった一晩で回復してから、導かれるように荒れた紅い大地に歩を進めていた。

 自分自身、なぜ彼に付いて行っているのか分からない。

 あの日、無敵の力を手に入れた私を打ち負かした紫炎を操る能力者。死を覚悟した私の目の前で、その能力者を赤子の首を捻るかのごとく瞬殺してしまった圧倒的な力。

 私はそこに魅せられたのだ。


「キミはいつまで付いてくるんだ?」


 虚ろな目から、紅い眼差しで射抜かれ、私は無意識に身構える。そういえば、どこまでだろう。私は彼の力のすべてを、その源を見たいと思った。


「最後まで、です」


 少し考えて出した答えはそれだった。私は自国の作法で彼に片膝をつく。力が手に入るのならば、誇りなど捨ててしまう覚悟だった。


「……好きにすれば良い」


 虚ろな目を反らし、彼はまたふらふらと歩きだした。彼の後姿から、能力者を殺した時や、あの少年たちと戦っていた時のような力の源を感じることはできなかった。


 たどり着いたのは廃墟だった。建物の構成部分だったのであろう灰色の破片があちらこちらに散乱していた。鼻を刺すような薬品の匂いから、ここがかつての研究所だったということの予想がついた。

 ——神ノ力。

 彼の国で行われた異質の研究。この研究のおかげで、自国どころか他の近隣諸国もオーディニア帝国に飲み込まれるのも時間の問題だと言われてきた。神ノ力を持つ能力者に対処するために作られたのが私たちのような存在だったが、目の前の男を見る限り、とても適う相手ではない。

 しかし、もう私には関係の無いことだ。私に帰る場所などない。異次元からの産物だという神ノ力がどのように利用され、どのようにオーディニアの力になっていようと関係の無いことだった。


「ミリィ」


 静かな廃墟の中で、彼の声がか細く響いた。何かに話しかけているようだったが、覗いてみるとそれは一輪の花だった。驚くほど純真な白い花だった。


「もう、ディルには会えたかい?キミたち兄弟は仲が良いから、きっとすぐに会えたよな」


 彼の横顔からは、今まででは想像できないほどの満面の笑みが見えていた。私は一見穢れの無いように見えるその笑顔に、全身に鳥肌が立つのが分かった。無意識に左腕を右手で強く掴む。

 彼の過去に何かがあったのは明らかだった。しかし、それすら私には無関係だ。彼の力の根源を見ることができればそれで良い。


「もうすぐだからね。新しい世界は、もうすぐだからね」


 様々な力を駆使し、憎しみを露わにして戦っていた昨日の彼とは別人がそこにはいた。穏やかな表情で、声で微笑んでいた。

 ——新しい世界

 それを作ることが、彼の力の源になっているのだろうか。



*****



 所々窓ガラスが割れ、蜘蛛の巣が張り巡らされた古い宿。その床下にあった地下へと続く階段を下り、長い道をひたすら歩いていた。先頭を歩くラルクの持つ懐中電灯が、薄暗いコンクリートの道を照らす。長く使われていなかったのか、カビの臭いが強く鼻を刺した。


「この通路が長年政府に見つからずにいたっていうのは驚きだな……」


 エルウィンが思わず感心したように声を上げる。


「まぁ、アバン研究所はめちゃくちゃでかい研究所だからな。どこか一か所くらい穴があったんだろ。それをビドーさんが見つけて利用しただけって話だな!」


 ラルクは言い終えて地面に転がっていた石を蹴飛ばす。あの石が神ノ石だったらどれだけ良かっただろう。エルウィンは考えかけて、首を振る。

 神ノ石は研究所にしかない。道端に落ちているようなものなら最初からこんな危険を冒す必要はないのだ。

 考えるのをやめて、エルウィンは再び足を動かす。四人とも言葉を発さない。足早になっている自分が分かった。何も起こらず上手くいけば、ここで旅は終わってグングニルを助けることができる。


「よし、ここが出口だ」


 コンクリート造りの階段が上へと続いていた。いよいよだ。この先で手に入れられる神ノ石が、すべてを終わらせる引き金となる。


「エル……」


 一歩踏み出そうとしたエルウィンの袖を、グングニルが掴む。心なしか怯えているように見えた。


「大丈夫だよグングニル。もうすぐ終わる」


 安心させるように笑顔を作ったが、それも強張っていて、うまく笑えたのか分からなかった。

 一足先に進んだプリルとラルクに追いつくために、エルウィンはグングニルの手を引いて階段を一段一段上っていった。


 入ってきた時と同じく、出口は研究所の床下に繋がっていたらしい。床板を外してまず目に入ったのは巨大な本棚。分厚い本が隙間なく収納されていた。


「ここは資料室らしい。滅多に人が来ないらしいからここを出口にしたらしいんだけど……」


 言いかけたラルクは素早くあたりを見回す。エルウィンも神経を集中させて周りに危険な気配がないかを探る。


「よし、大丈夫そうだな。石のある第一保管室はここから真っ直ぐだ。一応ビドーさんから当時のマスタ―キ―を受け取ってるけど、まぁ、変えられてたら扉ぶっ壊すしかないな!」


 ラルクはニッと笑って身体を穴から出す。エルウィンも続いて穴から這い出て、同じく出ようとしているグングニルに手を差し出す。


「行こう」


 あとは一直線に進めばいいだけ。握られた手から、しっかりと温かい体温が伝わってきた。


 資料室の扉を開けて、やけに静かな廊下を真っ直ぐに少し走ると、白い大きな扉が目に入った。扉の上の金色の板には細く‘第一保管室’と刻まれていた。すぐにでもレーヴァテインを引き抜いて扉を壊したかった。

 前でラルクがポケットからガチャガチャと鍵を取り出す音が聞こえる。


「何か来るっ!」


 グングニルが悲鳴のような声を上げる。エルウィンも薄々感じ取っていた殺気。ここまではっきりしてくると無視できるものではなかった。

 扉まであと数歩。突然目の前に質量のある物体が勢いよく落下してきた。

 ちゃりん、と金具が揺れる音がして、三人は反射的にそれぞれの得物をとる。


「ここから先は行かない方が良いと思うぞ」


 耳まで覆うような水色の長い髪の毛と線の細い身体。その発せられた低い声から男だと分かるその人物は、着地した態勢のまま顔を下に向けて表情を見せずに言い放った。


「なんだてめぇは?」


 ラルクは苛立ったように目の前の男に言葉を投げる。


「知る必要なんかねぇだろめんどくせぇ」


 淡い水色の髪から、紅い目が覗く。エルウィンはその怪しく光る輝きに見覚えがあった。


「能力者だ……」


 グングニルが絞り出すように呟く。エルウィンも頷いて男を見据える。目の輝きと全身からあふれ出ている力。ここに能力者がいるということは、アバン研究所のガーディアン。国で唯一能力者を作成する最も重要な研究所の守護者。


「侵入したネズミを狩るのが俺の仕事でな」


 男はそれ以上言わずに、腰に装備されていたダガーを引き抜く。

 ——四対一だ。やるしかない。

 エルウィンは判断した瞬間、地を蹴ってレーヴァテインを振るう。


「あー、おい!慌てるなって!」


 後ろでラルクが叫びながらも、その能力を解放させたことを肌で感じた。全身の毛が逆立つような雷の力だった。

 紅蓮の炎を吹きだした刃は横一線に男を薙ぎ払おうとする。案の定手ごたえは無く、半歩分距離をずらした男が両手に持ったダガーを交差させ、エルウィンの首元に迫らせる。 真っ直ぐに迫ったその軌道から首を傾け、振り切った剣を真逆の方向へと振るう。しかし炎を纏わせた刃は虚空を切り裂いた。

 ちゃりん、と金具が擦れる音と同時に男はエルウィンの斜め後ろに立ち、次の斬撃が殺意とともに振り下ろされる。エルウィンは瞬間的に左足を軸にして回り、受け止める。

 ——速い、そして重い。

 男の俊敏な動きと、その細腕からは想像できない一撃の重さだった。剣にかかっていた重さがふっと軽くなった瞬間、男の腕が何本にも増えたかのようにダガーによる超接近の攻撃が繰り返される。


「もう少しなのに!」


 あらゆる方向から襲ってくる斬撃をほぼ反射的に受けながら、エルウィンは叫ぶ。神ノ石があるはずの部屋の扉は男のすぐ後ろにあった。

 男が腕を振り上げるほんの一瞬の間に、エルウィンはがむしゃらにレーヴァテインを振るった。

 手ごたえは無く、いつの間にか頭上に跳んでいたらしい男から強烈な殺気を感じる。

 振り向いたエルウィンは、男が片手のダガーを真下―エルウィン脳天に落とそうとしているのが目に入った。態勢を立て直す時間がなく、鋭い切っ先が視界を埋める。


「何やってんだこのドジ!」


ラルクの罵倒とともに、今度は視界を眩い雷が占めた。バチバチと唸る雷の弾丸が、あと数ミリでエルウィンの額を貫通していたダガーを弾き飛ばした。ダガーはくるくると回りながら白い扉に刺さる。難を逃れたエルウィンはその一瞬で後ろに跳ぶ。男の方を見ると、すでに地面に着地する寸前だった。

 彼が着地した瞬間、目にもとまらぬ速さで次の得物に刃がかかるのは簡単に予想がついた。それを阻止するかのように、雷弾がまばらに男に襲い掛かる。数弾がダガーによって弾かれたが、男は驚異の動体視力で雷を避けていた。

 たんっ、と地面を蹴ると、ほぼ一直線に雷弾の元——ラルクへと走り寄る。


「速いんだよちくしょうが!」


 悪態をつくラルクの首を取らんとばかりに、男が跳ぶ。

 鉄がぶつかり合う音。迎え撃ったのはグングニルの真紅の槍。


「はぁっ!」


 受け止めた部分から薙ぎ払い、突き、振り下ろした。斬撃は男の胸の前を掠めるも、軽々と距離を取り、次の斬撃もダガーで弾く。


「お前も能力者かよ」


 男の細い目が、少し興味をひかれたように見開かれたのが見えた。金属がぶつかる鈍い音が続けざまに響く。槍を振り払い、大きく振りかぶった紅い神ノ力を宿らせた渾身の一太刀が、男をダガーごと両断する勢いで振り下ろされる。


「そんな……!」


 男の左手に逆手で握られたダガーに、さも簡単に受けられてしまう。グングニルは目の前で起こったことが信じられないといった表情で、同じ紅い瞳を覗いていた。あの衝撃をダガー一本で抑えたことで、男が相当の手練れであることに疑いがなくなった。

 男はそのまま左腕を素早く前に突き出す。その腕力に耐えられなかったのか、グングニルはわずかに腕を上にずらしてしまう。隙のできたグングニルの腹めがけて、男の右足が容赦なく突き出される。


「かはっ!」

「グングニル!」


 グングニルは吹き飛ばされ、床に力なく打ち付けられる。一瞬の出来事に、エルウィンは弾かれたようにグングニルの前に立つ。

 男はダガーを弄びながら徐々に近づいてくる。


「さっさと終わらせるか」


 気怠そうに言いながら、男はダガーを振り上げた。


「しびれろー!」


 ダガーよりも速く、後ろからプリルの声とともに雷が迸った。男は難なく雷をダガーで——弾かなかった。空中で一回転して雷をひらりと避けると、エルウィンとの距離を取る。


「ちっ、魔法使いまでいやがるのかめんどくせぇ」


 悪態をつく男の姿にエルウィンは重要なことを思い出した。能力者の力の源である神ノ力は魔力とは水と油のような相反する存在。強力な魔力を浴びると能力者に悪影響を及ぼすものだということを思い出して男の行動に納得する。


「グンちゃん大丈夫?!」


 今まで後ろで不安そうに戦いを見ていたプリルが、たまらなくなったのかグングニルの所に駆け寄る。


「大丈夫よ、このくらい……」


 グングニルはよろけながらプリルの小さい肩を借りて立ち上がる。プリルはその姿を見て一瞬だけ表情を曇らせる。


「もー我慢できない!能力者なら少しくらいの怪我なら大丈夫だよね!」


 プリルは男をキッと睨み付け、その手に雷を迸らせる。ラルクは銃に力を籠め、グングニルは槍を持ち直して構えた。エルウィンが握るレーヴァテインにも余熱が残っていた。


「本当にめんどくせぇ。もう一気に片付けるか……!」


 戦闘準備が整った四人を前に、男はダガーを捨てる。


「なんだ? 降参か?」


 銃を構えた状態のまま、ラルクはからかうように言った。


「降参? それをするとしたら……」


 その刹那。ぞくり、とまるで音が聞こえるくらいの勢いで鳥肌が全身を覆った。男の周りには髪の毛の色と同じ淡い水色のオ―ラが滲み出していた。


「お前らだろ?」


 開いた口からわずかに伸びた牙が見えた気がした。今まで常人以上の動きを見せても、これといって力を見せなかった男が、能力を覚醒させる合図のように思えた。


「そこまでだフェンリル」


 張り詰めた緊張を、一人の男の声が和らげた。声がどこから聞こえてきたかは分からなかった。あたりを見回して、ぼうっと光る人影を、フェンリルと呼ばれた男の真後ろに確認した。


「んだよ。ネズミは駆除するんじゃなかったのか?」


 あふれ出ていたオ―ラを消し、フェンリルは後ろを振り向いて怠そうに言った。フェンリルの向こう側にいる男に、エルウィンは見覚えがあった。


「アバン研究所所長、ラーサー!」


 うっすらと光る姿から、おそらく魔法か何かでそこに立っているように見える男こそ、この広大なアバン研究所を統べる責任者だった。


「あの人……」


 グングニルが小さく呟くのが聞こえた。能力者を作る研究所の長だ。グングニルにも見覚えがあるのだろう。


「そこにいるのはただのネズミではない。裏切り者の能力者に、疑似能力者が二人。おまけに魔法使いまでいる。私が彼らを‘モルモット’として使わない手はないだろう?」


 癖なのか、長くカールした金髪を指で弄りながら薄ら笑いを浮かべて言った。それから笑みを消して左腕を上げた。


「……。好きにしろよ変態が」


 ぶっきらぼうに言い放ったフェンリルの声が耳に届いたのが最後だった。彼が視界から一瞬にして消えた直後、腹部に鈍い痛みが走り、そのまま意識が闇の中に落ちていった。



*****



「二回目だよね」

「……うん」

「あたし結構ショックだよ」

「……ごめんね」


 牢に入れられたのは政府本部での出来事に加えて今回が二回目だった。若干九歳で、この短期間に二回も牢屋に入れられのはプリルにとっては精神的にくるものだろうと思いながら、グングニルは慰めもできずに謝る。

 後頭部の鈍い痛みで起きた時にはすでに狭い牢の中でプリルと二人だった。声が聞こえてくるあたり、隣の牢にはエルウィンとラルクがいるようだった。


「お目覚めかねモルモットたち」


 状況を確認し終えたのを見計らったように、アバンの所長であるラーサーが、ガ―ディアンのフェンリルと呼ばれていた男を連れて顔を見せた。鼻にかかったような特徴的な、そしてグングニルにとっては忌まわしい記憶を呼び覚ます声だった。

 忘れもしない、目覚めたあの日。

 ——グングニル

 彼は確かに、こう呼んだ。‘元の名前’など無視して。


「【神ノ雷】がいるところを見ると、スヴェントの手の者だな。まったく、あの男は政府を裏切ったばかりか、ここまで執拗に邪魔をしてくるとは。厚顔無恥とはあの男のためにあるような言葉だな」


 ラーサーは心底呆れたように深いため息をついて言った。


「てめー、ビドーさんのこと侮辱してんのか? ぶっ飛ばすぞ?」


 がしゃん、という音ともに、ラルクが低い声で言ったのが聞こえた。ラーサーを睨めつけるラルクの顔が容易に想像できる声色だった。


「侮辱? はっ、本当のことではないか! あいつは神ノ力の技術を盗み、お前たちのような半人前を作り出して我々に逆らっている!」

「誰が半人前だこらぁ!表出ろ!」

「うるせぇやつ……」


 感情に任せてがしゃんがしゃんと檻を揺するラルクと、それを楽しんでいるかのようなラーサー。このままでは話が先に進まなかった。前回と同じように、腕には能力者の力を制御する金具が装着されているため、牢を破壊して外に出ることは不可能だった。

 外から助けが来る見込みも、ずっと低い。言い争う二人をよそに、エルウィンは腕を組んで一人思考を巡らせていた。


「お父さんは……」


 二人の声が背景音楽と化しかけていたグングニルの耳に、プリルの声が届く。


「お父さんは、みんなのことを救おうとしてるだけだもん!」


 プリルのその一言に、二人の言葉の応酬が止んだ。


「お父さん?あぁ、まさかお前がプリルか?あの赤ん坊が? ほぉ、では、母親の後を継いで魔法使いに……?」


 ラーサーは言葉を切って、にやりと笑みを作る。


「ビドーの娘なのか……。ちょうど魔法使いも不足していたところだ、研究材料にするのもよし。それとも私の専属の魔法使いにでもなってもらおうか……? くくくっ!」

「絶対に嫌!!」


 愉快そうに呟くラーサーにプリルは真っ向から否定する。ラルクとの喧嘩を聞いていても、ラーサーはビドーに個人的な恨みがあるように見えた。


「おいラーサー、くだらねぇことしてねぇで用があるならさっさと済ませろ。俺は眠いんだよ」


 ラーサーの隣でフェンリルが欠伸を噛み殺すような表情で言った。


「なに、用というほどのことではない。こいつらの間抜け面を拝みに来ただけだ。本格的なのは‘明日’からだ」

「なんだそれ。めんどくせぇやつ」


 牢の近くにあった鉄パイプの椅子にどっかりと腰を下ろしながら、牢から踵を返すラーサーに悪態をつく。


「お前はそこで見張っていろ。出られないだろうがな。……そうだ、エルウィン=ラックハイムとグングニル、だったか」


 振り向いたラーサーに名前を呼ばれ、二人は顔を上げる。


「調べさせてもらったぞ。サイドバリー研究所期待の新人と能力者の除名。特に能力者の方は暴走した記録なんてなかった。原因不明の死なんてのはロラドがでっち上げたものだったんだろう。そうであれば逆に、お前たちは死んだ身だ。私がどう弄ろうが、誰も文句など言えないのだよ」


 ギラギラと目を輝かせながらそれだけ言って、愉快そうに笑ってその場を後にしていった。無意識のうちに、グングニルは自分の身体が震えていることに気が付く。

 自分たちは牢の中。抵抗できない、文字通りのモルモット。そして、誰もラーサーを止める権利が無い。遠い昔に感じられる研究所での記憶が、嫌でも蘇ってくる。


「……」


 ラーサーが去り、一瞬だけ静まった。ここからどうすれば良いのか、エルウィンは沈黙の中で再度思考を巡らす。ラーサーが置いていった番犬は目を閉じていて、起きているのか寝ているのかすらも分からない状況だった。例え寝ていたとしても、力を奪われている状態ではこの牢をどうすることもできない。

 状況を変える手立ては無いのだという結論に、エルウィンはすぐにたどり着く。急がなければいけないはずなのに、どうしても動けない今の状況がもどかしかった。


「もう、時間がないっていうのに!!」


 エルウィンは半ば飛び掛かるように牢を殴り始める。自分の中の苛立ちをぶつけるように。


「うるせぇよ。寝てんのが分かんねぇのか」


 無心に牢を殴るエルウィンに、目を開けたフェンリルは虫を見るような目を向ける。


「キミは、能力者だろ?普通の人間に、戻りたいと思ったことはないのか?」


 エルウィンはそれを無視し、しかし殴る手は止めずに訊いた。


「普通の人間?戻れるわけねぇだろ今さら」


 フェンリルは冷めた笑いを浮かべて椅子から立ち上がり、ラーサーと同じように踵を返し始める。相手にする気はないようだった。


「僕たちなら!それができる。この世界から神ノ力を消す装置―ユグドラシル!これのために、僕らは……!」


 フェンリルの足が止まり、エルウィンも言葉を止めた。

 ゆっくりと振り向いた彼の顔には何の表情も浮かんでいなかった。


「あったらいいなそんな装置。だが、俺は今の方が都合が良い」


 それだけ言ったフェンリルは、闇の中へと消えてしまった。

 牢を殴る手も止まった。


「あ―あ、せっかくの頼みの綱が」


 俯くエルウィンの横で、ラルクが気の抜けたような声で言う。たったその一言で、言いようのない怒りが胸の中で瞬時に広がっていくのを感じた。


「そもそも、あの秘密の抜け道が政府に気づかれていたんじゃないか?あのタイミングで襲撃に合うなんて都合が良すぎる」


 侵入者が入ってきたにもかかわらず、警報機も鳴らずに静かだった第一保管室までの廊下を思い出す。もしかしたらラーサーは、このことを事前に知ったうえでフェンリルを差し向けたのかもしれなかった。


「あぁ、たぶんばれてたんだろ―な。でもビドーさんも言ってたんだ。滅多に人が通らなくても、万が一の時は気を付けろって。今回はその一が起きちまったって話だろ」


 エルウィンの口調の荒さに気づいたのか、ラルクもぶっきらぼうに答える。そんなラルクの態度と開き直ったような物言いに、エルウィンの怒りはさらに増した。


「ビドーさんもビドーさんだ。本当に信用できるのか?」

「なっ……!」


 エルウィンの頭には、遥か前の出来事のような、つい最近の裏切りが鮮明に思い出されていた。信頼し、尊敬していた上司や協力者の裏切り。ビドーが立てたとも言える作戦が失敗し、今の状況になってしまったことを考えると、どうしてもそんな考えが浮かんできてしまう。


「今回は僕らだけじゃない。スヴェントにとっても戦いを終わらせられるかどうか瀬戸際の作戦じゃないのか?それを僕ら四人だけ。しかも図っていたかのような襲撃。スヴェントじゃない、本当にビドーさんは……!」


 最後まで言い切る前に、ラルクの鉄拳がエルウィンの口を塞いだ。唇が切れたようで、血の味が一瞬で広がった。ラルクの反撃は口より先に拳だった。エルウィンは殴られた衝撃で壁に激突し、そのままズルズルと地面にへたり込む。


「いい加減にしろよ! さっきからうじうじ言いやがって! 過ぎちまったことはしょうがねぇだろ!」


 追撃のようにラルクが吠える。


「エル?ラルク?どうしたの?」

「なに!ケンカ?!」


 隣のただならぬ雰囲気を感じたのか、壁の向こう側でグングニルとプリルが不安そうに声をかける。二人とも、その声が聞こえないかのように無視して、互いを睨めつける。


「……でも、どう考えたって……!」

「考えるんじゃねぇんだよ信じてやれよ!」

「何を根拠に信じれば良いんだよ!」


 エルウィンも立ち上がり、ラルクの胸ぐらを掴んで叫ぶように言う。


「根拠なんていらねぇだろ!!」


 最後の渾身の叫びに、エルウィンは手を離して言葉を詰まらせる。

 ——この世界を救ってくれ。

 あの言葉に込められた重みが、ずっしりと再現される。あの重みはたしかに本物だった。決して、嘘やデタラメでは吐けない言葉。神ノ力による研究で巻き込まれた人々や、なにより自分の娘であるプリルのいる世界を守る。それを託した彼の顔が、すでに十分な根拠なのかもしれない。


「やっぱりお前も政府のやつらと一緒かよ!なんでも頭で考えて、絶対だと思えるものがねぇと安心しない!ビドーさんがどんな思いでここまでやってきたか話したよな?」


 政府を裏切り、妻を失い、娘にまで恨まれたビドー・スヴェント。彼が望むのが神ノ力で引き起こされた戦いの終わり以外に、何があるのだろう。作戦には危険が伴うはずなのにプリルまで行かせて。根拠があるとすれば、彼に残った最後の希望を捨てる危険を犯してまでやろうとしたその行動自体。


「失敗しちまったのは結果だ。ガ―ディアンはあんなに早くじゃなくても、俺たちに気づかないわけがなかった。俺らだけを行かせたのも、俺らを信用してくれてるから。んで、もし裏があるとすれば、これ以上のメンバーから犠牲を出さないためだ」


 ラルクはエルウィンの目を離さず、一字一句冷静に言葉を口にしていく。その中にはビドーへの圧倒的な信頼があった。


「お前はビドーさんと知り合ってそんなに時間が経ってないから、もしかしたら信用できないのかもしんねぇ。スヴェントなんてみんなに悪者みたいに言われてるしな。だけどあの人は、誰かを助けたいって思ってるやつを絶対に裏切ったりしない!」


 断定とも言えるその言葉を皮切りに、ラルクは地面に座り込んで話し始めた。



*****



 俺には昔、弟がいたんだ。ひとつ年下なだけでな、いつも一緒にそこらへんを走り回って遊んでた。走り回ってても有り余るくらいの体力で、俺たちは帝都の兵になるために訓練所に入った。別に国のためだとかそんな立派な気持ちはどこにもなくてさ。ただ、親父が本を読むのが好きでな。その中に出てくる主人公が剣を片手にばっさばっさと敵を倒してく姿に憧れて、俺もあんな風に戦って、人を守れたらなって、そのくらいの気持ちだったんだ。

 ある日の訓練所の帰り道。俺たちは疲れも忘れていつも通り帰り道まで競争してた。


 ——遅いんだよシエル!そんなんじゃ兵士になれないぜ!

 ——兄ちゃんが速いんだよ!はぁ、疲れた!


 ちょっと目を離して後ろを振り向いたら、シエルは知らない男たちに連れてかれるところだったんだ。


 ——兄ちゃん!


 あっという間だった。覆面を被った奴らにかき消されるみたいに、シエルはどこかに連れ去られた。肝心の俺はというと、完全にビビっちまって、動けなかった。腰に掛けてあった剣なんて、本当に役に立たない、ただ重い荷物なだけだった。

 後から聞いた話だと、その覆面男たち、政府から神ノ力の実験体になりそうな人間を攫うために送られたチンピラたちだった。俺、それ聞いたときに本当に、自分に失望した。誰かを守るためとか兵士になるとか粋がってたやつが、チンピラ相手に弟一人も守れねぇって。

 だけど、それと同じくらいに、政府のやってることに納得がいかなかった。神ノ力がどれだけ国のためになってるのかなんて関係ねぇ。これが無きゃ国が平和じゃなくなるとか言われてたが、そのためにシエルみたいな何の罪もない人を犠牲にしても良いのかよって。

 だから俺は、シエルはもうだめかもしれねぇけど、他の人たちが同じ目に合わないように守りたいって思うようになった。


 悩んで、考えて、憎んでるうちに、スヴェントの存在にたどり着いた。ビドーさんは、いきなり転がり込んできた俺の過去を黙って聞いてくれた。メンバ―もほとんど俺みたいなやつだったから、すぐに入れたし馴染めた。

 もちろん政府は憎かった。だけど、ビドーさんがよく言ってた、‘憎しみだけじゃ守れない。’って言葉をいつも忘れないように死に物狂いで修行した。研究所を襲撃することが何度かあったんだけど、その時だって無駄な殺しは絶対にするなって、あの怖い顔で言ってたんだ。敵はこいつらじゃない、俺たちの目的は神ノ力を無くすことだし、目の前で馬鹿みたいに剣振ってる兵士もきっと守りたいやつがいるから戦ってんだって。

 あの人に、立場なんて関係ないんだ。とりあえず苦しんでるやつは全員助けちまおうってくらい、俺にも考えられないくらいでっけぇ人なんだ。



*****



「ビドーさんを信じてやってくれよ」


 ——同じだ。

 エルウィンは聞き終えて、ただそう思った。自分がグングニルを助け出したいのと同じように、ラルクもビドーもこの現状を苦しむ人たち、あるいは苦しむであろう人たちを助けたいということなのだろう。

 グングニルも、ラルクの弟だというシエルも、基本的には何の罪もない一般人のはず。神ノ力の能力者に選ばれる適正は彼らが帯びている魔力の量をはじめ、いくつかの条件がある。その条件がたまたま合ってしまったが故に、それまでの家族や暮らしから引き裂かれ、多くの者は能力者になることなく死ぬ。現在確認されている能力者の数と特徴を考えると、シエルはおそらく——。

いつの間にか、あふれ出ていた怒りと、唇の痛みは引いていた。


「……」


 もうこれ以上の言葉はいらなかった。自分でもなぜビドーを疑いにかかったのか分からなかった。それくらいまでに焦燥感に駆られていた自分に驚き、後悔する。利害の一致とはいえ、ビドーがいなければ、ユグドラシルや神ノ石のことについて何も分からなかった。


「ごめん」

「分かれば良いってことよ!」


 項垂れて一言謝ったエルウィンに、ラルクはそう言って満足そうに冷たい床に横たわる。


「そういえば一つ気になってたことがあったんだけど良いか?」


 それから一回大きく深呼吸をして、眠たそうに目を擦って訊く。


「なんだい?」


 ラルクは訊き返したエルウィンから視線を少し反らして、牢の外側——さっきまでフェンリルが座っていた椅子の方を見る。つられて振り向くと、二人のそれぞれの神器が無造作に置いてあった。


「あのレーヴァテイン、テリーのやつだよな?」


 その言葉に、エルウィンは身体に雷が落ちたような衝撃が走る。すっかり自分の物のように使っていた神器は、かつての親友が、自分が殺したと言っても過言ではない旧友の物だった。二人は同じスヴェントのメンバ―。神器を託されるほどビドーに信頼を得ていたのならお互いを知らないはずはなかった。


「そう、テリーは僕の昔からの友だちでさ。あれはテリーが託してくれたんだ」


 早鳴る鼓動を落ち着かせながら、エルウィンは答える。少し声が震えていた。


「……そうか。ルールポルカ襲撃の時に死んじまったってのは聞いてたし、あんまり深くは訊かねぇけどよ。あいつもそそっかしい奴だったからさ」


 ラルクはそう言って笑った。無理な笑顔のようにも見えた。


「あいつがどんな気持ちでレーヴァテインを渡したのか知らねぇけどよ。今のエルウィンはすっげぇ焦ってるように見える。何かを託してくれたのかもしれないけど、少なくとも、お前を焦らせるつもりで渡したわけじゃないと思うぜ」


 ——政府がやろうとしていること、俺たちスヴェントがやろうとしていること。どっちが正しいか、お前の目で確かめればいいさ。

 テリーの最後の言葉が蘇る。何が正しいのか。考え直すのは何も政府とスヴェントのことだけではなかった。

 大きく深呼吸をする。

 はやりすぎていた心に、身体が追いついていくような感覚をエルウィンは感じていた。



*****



「エルがあんなに怒ってるところ、私初めて見たかもしれない」


 冷たい壁に背中をぴったりとくっつける。その向こう側から、グングニルの声が聞こえた。プリルは寝てしまったのか、声が聞こえない。目の前で横たわるラルクも目を瞑ったまま動かない。


「僕、焦りすぎてどうにかしてたのかもしれないな。ビドーさんを疑ってしまうなんて、どうかしてる」


 ここまで焦る理由は、自分が痛いほどよく分かっていた。先例のヴィーザルの痣の発生から暴走までの時間が一か月。その一か月がタイムリミットだとするならば、もう半月も残されていなかった。


「怖いんだよ、本当に。何かを、誰かを失うのが。いくら生きる覚悟を持って、僕自身が強くなったって、失う痛みが軽減されるなんて、そんなはずない」


 何かを犠牲にして生き残らなければ目的は達成できない。しかしその犠牲は、自分の前に立ちはだかる‘敵’だけではなかった。気が付けば、自分の大切なものが失われていった。テリーも、ヴァルハラも、そしてあの子も。


「僕が何かをしようとして、傷つくのはいつだって僕だけじゃないんだ。次も誰かが死んでしまうかもしれない。もしかしたら……」


 その先は怖くて、口から言葉が出てこなかった。


「いろいろ考え直してみて、そういう生き方が怖くなった。どうしても、そこは僕の変われないところなのかもしれない」


 弱いよね。そう言ってエルウィンは乾いた笑みを浮かべた。


「私も」


 グングニルが壁の向こうで、一言呟く。


「私も、できることなら助かって、またみんなで海を見たり、ご飯を食べたい。みんなとここまで来て、本気で生きたいって思うようになれた」


 ルールポルカでも口に出したグングニルの意志。生きたいという意思が、その時よりも強くなっている気がした。


「でもね、やっぱり思い返してみて、無くしてしまった物が大きすぎたかなって。他の人を犠牲にして生き残っても……って。みんなの命と引き換えの命なんて私……!」

「グングニル!僕はそういうつもりで言ったんじゃないんだ!」


 最後まで言わせたくなかったし、聞きたくもなかった。言いたいのは、そんな綺麗ごとじゃない。


「キミだけは絶対に守ってみせる! キミには生きてほしいんだよ! これからずっと一緒にいたいんだ……その、キミが好き、だから……」


 思わず口から出てしまった言葉は徐々に小さくなっていく。今さらながらに恥ずかしくなって、エルウィンは一人で顔を膝に沈めてうずくまった。


「……冗談だよ。エルは、サイドバリー研究所でも、政府本部でも、壁を乗り越えて、壊して私を助けてくれた。今回もきっと、助けてくれるって信じてる」


 少し微笑んで、真っ直ぐに言い切ったグングニルの顔が見えた気がした。すべてを預ける、重い言葉のようだったが、エルウィンの心の中に溶けるように吸い込まれていった。 それから深く息を吐いて、右手に力を込める。いろいろなものを壊してきた、右の拳に。


「ここまで来れたんだ。今の状況だってきっと……!」


 ラーサーは‘明日’だと言っていた。明日になれば、またきっと何かが動き出す。その時まで、拳の力は抜いておくことにした。


「もし、どうにもならなくなって私が暴走したら、エルがその手で止めて欲しい」


 そのままの調子で言い切ろうとしたのだろうが、語尾が震えていることはすぐに気づけてしまう。それもそのはずだった。暴走を止める―それはつまり死を意味していた。


「そうしたら私、安心して……」

「死なせないよ、絶対に。グングニルも、他の人たちもね」


 グングニルの言葉を遮って、今度はエルウィンが言い切った。後悔も弱音も、もう必要なかった。ただ苦しいくらいに首を固定して、前を向くしかなかった。



*****



 牢の中は最初から薄暗く時間が分からなかったが、今はそれが分かるくらい暗く、静まり返っていた。


「あいつらイチャコラしやがってまったく……。なんでよりによってこんなところで……。牢獄で結婚式でも上げてろよまったく……」


 エルウィンが壁に寄りかかったまま熟睡している中、床に横たわっていたラルクは一睡もできずにいた。ぶつぶつと文句を言いながら、ごろごろと寝返りを打つ。


「みんな寝たみたいだな。さ―て、これからどうすっかな」


 神器も取られた今、中から牢を開けて脱出することは不可能だった。無線通信機も荷物と一緒なので、スヴェントに連絡を入れることもできない。

 しばらくの沈黙。


「ま、明日考えりゃいいか!俺も寝よ」


 ラルクはそう言って、再び瞼を閉じる。今度はよく眠れそうだった。


「……ん?」


 数秒も経たないうちに、近くから誰かが泣いているような声が聞こえて身体を起こす。方向からして、どうやら隣の部屋からのようだった。


「死にたくない……!」


 身体全体を震えさせているかのような声と、押し殺したようなすすり泣きが、確かに隣の部屋——グングニルの部屋から聞こえた。


「……」


 何度も、何度も小さな嗚咽が繰り返された。結局、それが完全に止まって、すすり泣きの主が寝静まるまで、ラルクはじっと灰色の壁を見つめていた。

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