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【神ノ槍】  作者: 黒崎蓮【原作:みなぎゆう】
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【第十二話】あの時代へ

 電灯が照らす、薄暗い廊下に三つの人影が風のように走り抜ける。サイレンを聞きつけて彼らを捕まえようと迫る鎧に身を包んだ男たちは、先頭を走るヴァルハラに素早く斬りつけられて倒れる。

 ヴァルハラが一人を倒した先に、隔離室のある階に続く階段が見えた。


「急ぐぞ」


 後ろに目を移したヴァルハラがそう言って少し足を速めた。

 ——グングニル……無事でいてくれ!

 外の世界に出ているうちに、忘れかけていた感覚を再び払うように、エルウィンは強く願う。自然とエルウィンの足も速まった。

 階段まであと少しのところで、角から突然、大きめの人影が現れる。ヴァルハラが反射的に剣を大きく振るう。一撃が、その標的である男の首を捉えるが、刎ねる寸前で刃が止まった。


「アル……」


 ヴァルハラの目に映ったのは、髪は色褪せた草色になってしまったが、かつての面影を残した旧友の顔だった。振るった剣の長さと同じ距離に、彼が最も会いたくて、会いたくなかった男の姿があった。


「人違いかな?“ヴァルハラ”。俺はユミルっていうんだ」


 無表情だったユミルと名乗った青年の顔は、眩しすぎるほどの笑顔で緩む。


「……!」


 ヴァルハラは突然腹に強い衝撃を感じ、一瞬の沈黙が破られた。


「何も、俺じゃなくても良かったのにな」


 剣を地に突き刺し、なんとか膝をつかずに体勢を保っているヴァルハラの目を、ワインのような紅い目が射抜く。声はひどく冷め切って聞こえた。


「なに?」


 ヴァルハラも下から、その長い前髪から覗く瞳をしっかりと捉えた。


「“あの研究”の臨床実験のためだったんだろう?俺を能力者にしたのは。所長に頼み込むほどお前が研究熱心だったなんてな」

「何のことを、言っているんだ?」


 淡々と、なおも言葉を吐き出しそうなユミルをヴァルハラの、わずかに震えた声が止める。目の前にいる男は、確かに旧友の顔をしていた。しかし、確実にかつてと変わってしまっていた。


「所長が言っていたよ。彼は俺たちの研究内容を——ユグドラシル計画を知った上で俺に警告した。ディランは俺を研究材料にしようとしているってな。そんなわけないと笑って部屋を出たその日の夜、あの実験の前日に俺は襲われたんだ。……そうしてこの様さ。俺は何もかも失ってしまったよ」


 懐かしさを感じさせる言葉とともに、徐々に、ユミルの声にも色がつき始める。それは怒りの紅か、憎しみの黒か、ヴァルハラは見たくなかった。


「なぁ、ヴァルハラ。俺を犠牲にして、計画は上手くいったんだよな?だったら、俺を助けてくれるよな?」


 責めているのか、すがっているのか、ヴァルハラには判断ができない声色で、じわりじわりと殺気が詰め寄ってくるのを感じる。


「お前は、本当にそんなことを信じているのか?」


 ただ、言葉を絞り出してそう言うしかなかった。その言葉に、ユミルの表情が突然変わる。それに気づいたヴァルハラの、咄嗟に前に出した、剣を掴んだ手に鈍い圧力がかかった。


「お前のせいだ。ヴァルハラ」


 ヴァルハラの剣の腹が、素早く突き出されたユミルの右腕を受け止めていた。

強く出された拳とは対照的に、静かに吐き出されたユミルの言葉がヴァルハラの心を抉る。


「エルウィン、プリル!お前たちは先にグングニルの隔離室に向かえ!」


 そんな傷を誤魔化すように、ヴァルハラは後ろに立って動かずにいたエルウィンとプリルに声をかける。二人はその言葉を理解する前に、弾かれたように動き出した。ユミルは二人に見向きもしなかった。


「ヴァルハラは?」


 すぐ先にある階段に一段足をかけて、ようやくエルウィンはヴァルハラの方に振り向いた。


「俺は……」


 言い淀んで、エルウィンとユミルの顔を交互に見る。


「俺はこいつと決着を着ける」


 ユミルに視線を定めて、ヴァルハラは強く、静かに言った。

 エルウィンとプリルは、後ろを振り返らずに階段を飛ぶように駆け上がる。


「ねぇ、エル!ヴァルくんはあれで大丈夫なの?!あの男の人、たぶん能力者だし、アブない気がするんだけど!」


 走りながら、プリルは息を切らして言った。


「たぶん、大丈夫さ。今は信じよう」


 エルウィンも前を向いたまま、低い声で答えた。そしてヴァルハラの後ろ姿を思い出す。いつものヴァルハラからは考えられないような、微かに震えた声。威厳のあったその背中はいつもより小さく見えた。

 それでも、エルウィンは彼の実力を信じて、さらに足を速めた。ヴァルハラの向こう側にいた、あの男の見えない力を振り払うように。

 しばらく二人とも口を開かずに走り続ける。

 曲がり角を曲がったところで、ひときわ大きな、黒い扉が目に入る。扉の上には白い文字で、二人の期待通り、“隔離室”と書かれていた。

 エルウィンは一瞬だけ立ち止まって、一歩足を進める。


「なに?!」


 その瞬間、牢が開いた時よりもさらに高いサイレンが響きだす。

エルウィンは反射的に重く黒い扉に飛びかかって拳を突き出す。ガンッと鈍い音をたてるものの、傷一つつかない。痛みと痺れを感じて拳を見ると、醜い傷がついていた。


「くっ……!」


 痛みに耐えて今度は剣を引き抜く。薄暗い空間に、真っ黒な刃が煌めいた。エルウィンは大きく振り上げる。

 振り払った、そのただ一閃で、黒い扉は脆くも崩れ去った。

 ガラガラと崩れ落ちる扉の破片の向こうに、両手を鎖で縛られた金髪の少女の姿が確かにあった。

 エルウィンの全神経が、彼女を見るための瞳に集中していた。


「グングニル!」


 サイレンの音を突き破って、エルウィンの声がその部屋に響く。うなだれていた顔が上がる。その目には涙が光っていた。

 エルウィンは素早く駆け寄り、まずは腕を縛っていた鎖を断つ。


「エル……!」


 鎖が力無く落ちたと同時に、グングニルがエルウィンの胸に落ちた。


「良かった……。グングニル?大丈夫かい?」


 安心したのも束の間、エルウィンは必要以上に自分の身体を強く抱くグングニルに、わずかに違和感を覚える。

 しばらく、グングニルは肩を震わせながらエルウィンを抱きしめる。高く耳障りな音だけが響き渡っているだけだった。


「もう、大丈夫。今どういう状況なの?」


 エルウィンの胸に沈んでいた、グングニルの顔が上がる。その瞳には強く、射抜かれそうな意志が宿っている気がした。


「ヴァルハラが、助けてくれたんだ。やっぱり分かってくれていた。今度は、たぶん彼がピンチなんだ。助けに行かないと」


 エルウィンが戸惑いを消して、その瞳をしっかり捉えて答える。そしてグングニルの手を握って踵を返そうとした瞬間だった。

 数人の足音がこちらに向かってくる音が聞こえた。安心と不安が入り混じった感情を、緊張感が打ち消す。


「しびれろー!」


 さっそく部屋に入ってきた、鎧を身に纏った兵士を、プリルの雷が撃ち抜く。


「どんどん来るよ!」


 プリルのその言葉を皮切りに、ぞろぞろと兵士たちが剣を持って扉の残骸を踏み越えて行く。


「もう、離れない」


 グングニルがぽつりと呟き、地を蹴る。それに続いてエルウィンもレーヴァテインを振るう。赤と黒の刃が、その部屋を駆け巡った。



*****



 突き出された拳は、あと少しずれていたらヴァルハラの整った顔を、原型をとどめないほどに潰していた。ヴァルハラはそのまま前に跳び、ユミルの白い服に包まれた腹に向けて剣を振る。手応えは無く、ユミルが視界から消える。刹那に振り下ろされた後ろからの重い鉄拳を振り向きざまになんとか防ぐ。一進一退の攻防が続いた。


「力も距離感も、まるで昔のお前ではないな」


 そう言って、ユミルは力を入れる。ドクドクと鼓動が聞こえた瞬間、その腕は大木のように巨大化した。

 一瞬で距離を詰めたユミルは、防御のために眼前に迫った剣を掴み、粉々に砕く。猛獣の口のようなその変色した黒い手は、そのままヴァルハラの頭を砕こうと大きな口を開ける。

 黒い獣が喰らったのは、ヴァルハラが出現させた緑に光る壁。その鉄壁を前に、獣は牙を散らせる。それを目の前に、使い物にならなくなった剣を捨てたヴァルハラが右手から光弾を発射させた。ユミルの腹に当たった衝撃で生じた爆発で、二人は距離を取る。


「能力も十分、か。その力が、あの時も変わらず出せていたら良かったのにな……!」


 ユミルが絞り出すように言う。その言葉に、次の攻撃のために拳に纏わせていたヴァルハラの緑色の炎が曖昧な形のまま揺らめく。

 何かを言おうと口を開きかけるが、何を言っても無駄だと、心の中の自分が悲しいくらいに語りかけてきた。


「お前にもっと力があれば!」


 叫んだユミルの、爪を再生させた手から、赤黒い力の塊が吐き出される。憎しみの熱と光が、ヴァルハラを灼かんと迫る。もはや熱さすら感じず、ヴァルハラ自身も距離を詰めながら、無心で向かってくる炎を殴りつける。


「過ぎてしまったものは、もう取り戻せない」


 ただその一瞬だけ、感情が顔を出す。その感情はヴァルハラの拳に纏っていた炎を刃に変えた。高く、ユミルの頭上へと跳ぶ。


「だが、その言葉はそっくりそのままお前に返そう」


 紙一重で目の前に迫った炎を切り裂き、殴りつけるように右腕を突き出す。


「ユミル」


 そのまま落下したヴァルハラの光の剣は、確かにユミルの硬い筋肉で覆われた腹を貫いていた。

 確かな手応えは直接その手にきた。素早く引き抜き、後ろに跳んで距離を取る。


「俺も、そう思うよ」


 一瞬だけ光が戻ったように見えたユミルの瞳を離さないようにと、伏せようとした目を上げたが、その大きな身体は天を仰いだ姿勢で崩れ去った。


*****


 エルウィンたちは兵士たちを倒し、ヴァルハラに加勢すべくもとの道を走り続ける。

 何かの焼けた臭いと、鉄なのか血なのか分からないような嫌な臭いが強くなっていくのを感じ、エルウィンは足を速めた。階段を飛び込むように降りて行った先に、腹から血を流して目を閉じて倒れている長身の男と、呆然と立ち尽くすヴァルハラの姿があった。近くの壁のあちこちに、焼け焦げたような跡があった。


「……行くぞ」


 しばらくの間を開けて、ヴァルハラが三人に気づいて言った。


「これで、良いの?」


 後ろを振り向いて歩こうとしたヴァルハラを、プリルの一言が止める。とても悲しそうな表情だった。


「良いんだ」


 ヴァルハラもそれに短く、寂しそうに言って歩き出す。三人は無言でヴァルハラの後に続いた。


 ——……ァ!


「……?!」


 何千もの針のような、鋭い殺気がヴァルハラの背中に突き刺さる。反射的に振り向くと、身体中に禍々しいオ―ラを纏わせたユミルが立ち上がっていた。黒く蠢く身体に二つ、血のように紅い狂気を帯びた瞳が妖しく光っていた。


「下がっていろ」


 ヴァルハラが危険を察知して三人を自分の後ろに隠した瞬間だった。弾丸のような黒い塊がヴァルハラの方に目がけて、黒いユミルの身体から吐き出された。反射的に光の壁を出現させるが、その弾丸の威力でガラスの割れるような音とともに消滅する。


「アル……」


 思わず名を口走り、その姿を確認する。そこにはかつての友は居らず、異形のモノがそこにいた。高さはおよそ三メ―トル。枯れた樹木のような色の身体に、大木のような太い腕。手足の爪は枯れ木の枝のように鋭い。全体に鋭い突起を生やし、近寄るものすべてを傷つけてしまいそうだった。本来顔であるはずの部分にある穴から、妖しく光る紅い光でこちらを見ていた。

 その姿は、神話にのみその存在が確認される、魔物そのものだった。


「その名で呼ぶナ……。ヴァルハラ」


 掠れた声が薄暗い空間に響く。一歩踏み出したユミルの足元は、鉄球が落ちた時のようにめり込んでいた。


「外に出ろ。ここは危険だ」


 ヴァルハラは後ろで動けないでいる三人に声をかける。三人とも、目の前で起きたことが信じられないといった表情だった。


「で、でもヴァルハラを一人残すわけにはいかない!」

「そんなことを言っている場合じゃない!状況をよく見ろ。お前たちが加勢したところで変わらない」


 震えた声で言ったエルウィンにヴァルハラが一喝する。エルウィンがユミルの方を見ると、ゆっくりと、だが着実に近づいてきていた。


「でも……」


 エルウィンは焦る気持ちを言葉に出そうとするも、視線を合わせようとしない、静かに立つヴァルハラの姿に言葉を詰まらせる。


「逃げろ。この先も生きたければな」


 そう言って、ヴァルハラは完全に背中を見せる。エルウィンは、グングニルまでもが動けなかった。


「言葉が伝わらないのは、十分に分かった」


 ゆっくりと近づくユミルに、ヴァルハラも一歩ずつ近づいて行く。踏み出すごとに、ヴァルハラの身体が光り、その輝きが増す。


「だったら俺はお前を力ずくで止める。そして戻ろう」


 ヴァルハラの姿が完全に淡い緑色の光に包まれる。


「あれが、ヴァルハラの神ノ力……!」


 グングニルがその光から目を離さずに呟く。

目の前にいるユミルの紅い瞳に映ったのは、光を振り切った、金色の鎧を身に纏ったヴァルハラの姿だった。力の影響か、左の瞳はユミルのものと同じくらいの紅色に染まっていた。

 ——【神ノ城】ヴァルハラがそこに立っていた。


「グァァァァァアアッ!!」


 ユミルが獣のように吼えた瞬間、二人の距離はほぼゼロに詰められる。

 襲い来る大蛇のような腕を右手で受け止め、左腕に装備されたリングから光弾を発射する。ユミルは瞬時に姿を消して、光弾は標的を見失ってそれに当たった壁は崩壊する。


「くっ!」


 消えたユミルの腕が真横から現れ、ヴァルハラの身体ごと掴む。そしてそのまま、何度も何度も壁に打ちつける。ヴァルハラが打ちつけられる度に、建物自体がユラユラと揺れる。


「ヴァルくんが……死んじゃう!」

「ダメだ、プリル」


 ガンガンと嫌な音が後ろで響くのを無視しながら、泣き顔のプリルが雷を発射しようとするのをエルウィンが止める。


「この戦いに手を出しちゃいけない。二人の戦いなんだ」


 歯がゆそうに見守る横顔を、前もどこかで見たことあるような気がして、プリルは雷を消す。

 また壁に叩きつけられる、その瞬間に胸部にあったエメラルドグリ―ンの宝玉が輝き、一太刀の刃を出現させる。それはぐるぐるとブ―メランのように回って、ユミルの右腕を根元から切り裂いた。


「ァァァア!!」


 叫び、血を吹き出して膝をつくユミル。ヴァルハラはコントロ―ルを失って主から離れた右腕とともに落ちる。


「がはっ……」


 よろよろと立ち上がるヴァルハラの額からは血が流れていた。それでも、緑の炎を拳にまとわせながら、もがき苦しむユミルに走り寄る。

 ユミルは残った左手から無数の紅黒い光弾を放つ。ヴァルハラは走る勢いを止めずに壁を発生させる。壁で弾かれた光弾も、壁に当たらなかった光弾も、建物の床や壁に血のような紅い炎の花を咲かせた。


「うわっ!」


 炎がエルウィンの目の前で炸裂する。伏せた顔を上げると、揺らめく炎の向こうでヴァルハラの姿がぼやけて見えた。


「エル!そろそろ本当に危ないわ!」


 グングニルが叫ぶ。二人の激闘のせいなのか、ガラガラと嫌な音が遠くから聞こえた気がした。それでも、エルウィンは戦う二人の姿を、目の前で燃え盛る炎よりも、その目に焼き付けたかった。

 一気に距離を詰めたヴァルハラが右腕を振り上げる。強力な突きを、血が溢れ出る右肩から再生した腕が迎え撃った。二つの拳がぶつかり合い、空気を震わせる衝撃が部屋中に傷をつける。


「俺は、ミリィさえいればそれで良いんダ」


 口のような場所から、掠れた声でそんな言葉が聞こえた。ふと、ヴァルハラの頭に、ミリィの死体を抱きかかえたままどこかへと消えたアレックスの姿が浮かぶ。


「お前、姉貴をどこにやったんだ……?」


 ヴァルハラの質問に返ってきたのは強烈な殺意と、ムチのようにしなるユミルの尻尾だった。バリアを張る暇も無く、左腕で瞬間的に防ぐも、その重い一撃にヴァルハラは吹き飛ばされて壁に打ちつけられる。息の止まるような衝撃が襲った。


「彼女はずっと俺といる。彼女のいないこの世界を破滅させても、ずっとナ……」


 掠れた視界から見えたユミルの顔。表情は見えなかったが確かに分かった。満面の、恍惚の笑みを浮かべているのが、なぜかヴァルハラにははっきりと分かった。


「どうせ壊すんだ。まずは、お前ダ」


 ユミルは言って、ヴァルハラに右手を向ける。禍々しい紅黒い光が、徐々にその手の中で大きくなっていく。

 それを、淡く光る青白い布のようなものが止める。それは、ヴァルハラの背中に装飾されたものの一部だった。脆く見えるそれは、確かにユミルの太い腕と力の増大を止めていた。


「なぜ壊す?なぜ、あいつと一緒に生きてやってくれない?」


 ヴァルハラがゆっくりと立ち上がる。掠れた声は微かに震えていた。


「俺はこれからもずっと生き続けるよ。彼女と一緒に。こんな世界を終わらせてネ」

ユミルはそれに静かに返す。やはり、笑っているように見えた。

「違う。なんで、何も無い世界で生きる?なぜ、彼女が見るはずだった景色を見ずに、食べるはずだった食べ物を食べずに、会うはずだった人に会わずに生きようとするんだ?世界を壊して、お前だけ生きて、何になる?」


 ヴァルハラ自身、溢れ出る言葉を止められずにいた。狂ってしまったユミルに言葉で説得しても分からない。頭で理解していても、心がヴァルハラを置いてけぼりにした。


「お前は……!」


 ヴァルハラは、淡く青く光る布、触れた者の力を吸収する布をもってしても制御しきれないほどの強い力を感じて言葉を止める。


「もう、遅イ」


 紅い血のようなオーラがユミルを包む。

 何かが来る。

 そう直感した瞬間には地を蹴っていた。石造りの床にひびを入れて、ヴァルハラは右手に炎を滾らせて弾丸のように突進する。淡い緑の弾丸は一瞬にしてユミルの腹に吸い込まれる。ドン、と重い音を一回だけ響かせて、二人の間で大きな爆発が起こった。

熱い爆発の衝撃はエルウィンのいる場所まで届く。

 顔を上げて爆煙の中から見えたのは、炎に包まれて燃えているユミルの姿と、それを見つめるヴァルハラだった。

 まだ、終わっていない。二人の間の張り詰めたような空気を察してエルウィンの直感が言った。しばらくその鋭い沈黙は続いた。


「すべて、殺ス」


 それは突然だった。淡い炎を噴き出して燃えていたユミルから沈黙を破った。左腕をうねらせて槍のように鋭くしたかと思うと、その穂先がヴァルハラに向かうことはなかった。

 ドリルのように回転をかけられ、伸びた左腕は真っ直ぐにエルウィンたちに向かっていた。

 今まで息づく暇もない攻撃と言葉の応酬に魅せられていたエルウィンたちは咄嗟の反応ができずにいた。

 豪速で迫る腕を前に、時間が怖いほどゆっくりと、しかし確実に流れた。


 薄目を開けると、槍の穂先が、赤黒く染まってすぐ目の前で止まっていた。

 恐る恐る目を開けて、後悔した。

 黄金の鎧を身につけたヴァルハラが両手を広げて立っていた。その胸を、ユミルの腕に貫かれて。貫通した指先からは赤い血がポタポタと垂れていた。


「ヴァルハラ!!」


 さっきプリルを止めた時のような意志はもう無かった。エルウィンは怒りに任せてレーヴァテインを抜く。


「待て!」


 ユミルに走るエルウィンを、もう片方の手から吐き出された炎の塊が襲う。なんとか切り裂いて消滅させるものの、その威力はエルウィンを元の場所に吹き飛ばすのに十分だった。

 顔を上げてヴァルハラを見る。胸の宝玉の部分を貫かれて苦しそうな表情を浮かべていた。すぐに腕がそこから抜かれ、ヴァルハラもエルウィンの隣に力無く崩れる。顔は陶器のように青白かった。


「ヴァルハラ……嘘だ……」


 エルウィンは起き上がり、震えた手を伸ばす。グングニルとプリルも足早に駆け寄る。


「俺は、止められなかったか。まさか、こんな対面だとは思わなかった」


 そう言って自重気味に笑うヴァルハラの瞳が少しだけ濡れていたのは気のせいではなかった。


「お前たちとの旅は、短かったが楽しかった。昔の俺を、俺たちを思い出させてくれたからな」


 思い返すように言った。そしてひとつ、咳をして立ち上がる。鎧が重そうに見えた。

——立ち上がるなら引こう。生き残るために。

 そんな言葉がエルウィンの喉までせり上がってきて、消えた。


「あと、サプライズパーティーはバレバレだったぞ」


 鼻で笑って、エルウィンに何か四角いものを手渡す。それが何なのか、涙で霞んでしまってよく見ることができなかった。



「今度こそ逃げろ。生きる覚悟を持って、愛する人を守り抜くために」


 ——お前ならできる。


 ヴァルハラの言葉が重く心に刻まれる。

 地を蹴った、彼の両腕には光の剣。ゆっくりと近づく巨人に、肌が痺れるほどの神ノ力を纏わせて突進した。


「うぅっ…」


 プリルが大粒の涙をこぼしながらエルウィンとグングニルの肩に触れる。床には赤い円形の魔法陣が瞬時に描かれる。

 巨人に立ち向かう、ヴァルハラの金色に輝く後ろ姿が、その映像が、一瞬にして消えた。


 ——戻ろう。あの時代へ。


 差し込んだ光が眩しすぎて、エルウィンは目を開けていられなかった。

 ようやく顔を上げると、綺麗すぎる朝日が、東の方角から昇っていた。

 いつの間にか、エルウィンはグングニルとプリルと一緒に箒に跨って空を飛んでいた。

 それに気づいた数秒後、前方、政府本部の建物から凄まじい轟音が響き渡った。

 建物の一部から、赤々と炎が燃え上がっていた。まるで悪魔の舌のように建物全体を舐めまわしていく。数秒も経たないうちに、炎が上がった場所から中心に黒い石造りの建物が崩壊していく。


「ヴァルハラ?」


 小さな声で、名前を呼ぶ。兵士だろうか、政府の役人だろうか。多くの人々が黒い建物から逃げ出して行く。その中に、その男を見つけることはできなかった。


「ヴァルハラぁぁあ!!」


 今度は喉が枯れるほど大きな声でその名を叫ぶ。木霊すら返してくれない、静寂が、その声を虚しく吸い込んでいった。


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