【第十話】バースデイ
「誕生日おめでとう!ディラン!」
ある夜の街角。
店から出てきた栗色の、巻き毛の女性がパンの袋を抱えて少年に微笑みかけていた。
「姉ちゃん遅いぞ!」
それに噛み付くように言った、ディランと呼ばれた少年に俺はとても見覚えがあった。
「誕生日ケーキを選ぶのに時間がかかったのよ。ねぇ、アル?」
「あ、あぁそうだ。ほらディル、お前の言っていたチョコレ―トケ―キだ」
女性の隣にいた長身の若い男が、ケ―キが入っているであろう小さい箱を少年に渡した。少年が小さいのか、その青年が大きすぎるのかは分からないが、二つしか歳が違わないというのがとても信じられないような身長差だった。
「ありがとよアレックス!さっそく帰って食べようぜ!なぁ、早く!」
「はいはい分かったわよ。そんなに急がなくても、誰も盗んだりしないわ」
はしゃぐ少年の姉である女性。名前はミリィだったか、彼女は柔らかい笑みを崩さずにディランの手を取る。反対側の手を、アレックスと呼ばれた青年が黙って取る。
三人は繋がって、ゆっくりと家路に着いた。
「ディラン、誕生日おめでとう!」
ある家の中、ミリィとアレックスの声が重なって、少年に向けて祝いの言葉が向けられた。
「さぁ、ディル、ろうそくの火を消して」
ミリィが、火に照らされて一層顔を輝かせている少年を促した。
少年は大きく息を吸い込んで、思いっきり火に向かって息を吹きかけた。それにもかかわらず、大きく揺れただけでどのろうそくの火も消えなかった。首をかしげて、少年はもう一度大きく息を吹きかける。結果はまったく同じだった。
「これ、ぜんぜん消えないぞ?」
いよいよおかしいと思ったのか、少年は隣にいる姉の方に向けて言った。しかし、姉のミリィは笑顔を保ったまま、まるで彫像のように動かなかった。
「姉ちゃん?アル?」
振り向いてアレックスを見ても、微笑を浮かべたきり動かない。
突然、少年は顔をじりじりと焼くような熱さを感じた。見ると、ろうそくがケ―キに燃え移り、大きな炎が生まれていた。少年が見とれている間に、炎はケ―キが乗っていた机に広がり、どんどんと大きくなる。
「うわぁっ!」
火の粉が少年に降りかかる。カ―ペットに炎が燃え広がった。
「姉ちゃん!アル!逃げないと!何固まってんだよ!早く!!」
こんな事態なのに、二人は動こうとしなかった。表情も、何一つ変えることなく固まっていた。
炎が、悪魔の舌のようにメラメラと揺らぐ。その舌はケ―キだけでなく、固まっている二人を飲み込んでいく。
「うわぁぁぁぁぁあああ!!」
あっという間だった。二人の身体は、形を崩していった。
少年は恐怖に慄き、扉の方へ向かう。
「なんで!開かないんだよ!」
扉はいくら押しても開かなかった。殴りつけるように叩いている間にも炎は容赦無く迫ってくる。背中にヒリヒリとした痛みが走った。
「やめろ!やめてくれぇぇぇえ!!」
*****
ノックの音がやけに大きく聞こえてヴァルハラは目を覚ました。
「ヴァルくん起きた?お昼ご飯の時にも呼びに行ったんだけど、よく寝てたから……。どうしたの?顔色悪いよ?」
入ってきたのは旅の同行人である少女プリルだった。今はとある事情で一緒になった目の前の少女を含む数人たちと、帝都に向かう途中の船の中だった。彼女はパンとスープが乗ったプレートを持っていた。寝すぎてしまったようで、昼飯を食べそこなってしまったらしい。
「あ、あぁ大丈夫だ」
早なる鼓動を落ち着かせるように、ヴァルハラは静かに言った。
「そう。じゃあ、ご飯ここに置いとくから食べてね。……あとさ、」
プリルはプレートをベッドの横にあるテーブルに置いてから、言いにくい言葉を舌で転がすように口元をもごもごさせていた。
「疑っちゃって、ごめんなさい!」
「……何のことだ?」
勢いよく飛び出したのは謝罪の言葉だった。突然のことに、ヴァルハラは少し驚いた様子を見せた。
「あたし、ヴァルくんが悪い奴の仲間なんじゃないかって怪しんでた。でも、エルとその友達の戦いを止めたのを見て、考え直してみたの。本当に悪い奴なら、あそこで止めずにエルが友だちを殺しちゃうのを黙って見ていたと思う。でもヴァルくんはそれをしなかった。それでヴァルくんは悪い奴じゃないって分かった。だから……」
「ふふっ」
プリルの言葉を遮るようにヴァルハラが吹き出した。それから少し間をあけて、
「あれは俺が血生臭いのが嫌いだったからだ。特に気にしてないぞ。あと、食事ありがとう」
安心させるように言った。
「そ、そうなんだ、良かった~!じゃあ、ちゃんとご飯食べてね!」
「あぁ。……そうか、もう明日になるのか」
「明日?何かあるの?」
短く返事をして、深呼吸とともにぼそりと呟いた言葉をプリルは去り際に聞き逃さず拾った。
「……そうだな。“ヴァルハラが生まれた日”とでも言っておこうか」
ヴァルハラは言い淀んだ後、目を伏せて言った。
「ヴァルくんが生まれた日……。へー、ふーん、そうなんだ!分かった!」
プリルはそれを聞いてニヤリと笑みを見せ、部屋から出て行った。
扉が閉まって、小走りに去っていく小さな足音が遠ざかったのを確認する。
「悪い奴、か。違うな。俺は……最悪な奴だ」
それから丸い窓から見える青い空を見つめて呟き、もう一度目を閉じた。
しかし、一番見たかった映像が、薄れてなかなか見ることができなかった。
*****
――帝都ルバヴィウスに向かう船中。ある部屋の中。
「ふぅ……」
椅子に座っていたエルウィンは持っていた資料を読み終えて、深く息を吐いた。
「どうだった?何か新しいことは分かった?」
「いや、ラシュガンさんの言ったとおり、これならサイドバリーで得た情報とほぼ同じだよ」
向かいに座るグングニルがその様子を見て緊張したように訊く。それにエルウィンは気を落とした様子で答えた。
「グングニルには直接言ってなかったかな。ひとつの予測として、その痣は能力の適応期間が終了するサインだっていうものがある」
「適応期間の終了?」
グングニルが不安そうに言葉を繰り返すのを見て、エルウィンは少しだけ後悔した。資料の間からグングニルの表情を伺う。最近になって、外の世界に出た影響からか明るくなったように見えたグングニルの表情が、研究所にいた時の曇ったそれに逆戻りしていた。
「……でも、ありがとう。安心はできないけど、自分の身体のことを知れて良かったよ。知らないって、すっごく不安なことだから」
エルウィンの気持ちを察してか、グングニルが慌てたように言った。
「そう、だよね。今は現状確認で終わってしまっているけれど、帝都に行けば、もっと詳しい情報が分かるはずさ!」
「うん、早く、着かないかな……」
お互いがお互いを元気づけたような会話の後、グングニルのため息交じりの一言に、二人の空気が重くなるのをエルウィンは感じた。
――きっと、残された時間はそんなにない。
俯いたグングニルの顔を見て、エルウィンは考えたくなかったことを、頭から引っ張り出さなければならなかった。グングニルの痣が現れてから、およそ十日が経った。ヴィーザルの痣が確認されてから死ぬまで、およそ一か月だったと聞く。帝都に行って情報を探し出し、グングニルを助けるなんらかの方法を見つけて、それを実行するまで、あと二十日あまり。
「絶対に、助けるから」
エルウィンの決意の言葉は、扉をドンドンとノックする音に掻き消された。。
どちらかが返事をする前に、プリルがまるでダンゴムシのようにベッドに転がり込んできた。
「聞いて二人とも! 明日はヴァルくんの誕生日なんだって!」
起き上がってベッドの上に立つなり、プリルは興奮気味に言った。
「ヴァルハラの誕生日?」
「そう! 明日、ヴァルくんが誕生日らしいの! 自分で言ってたわ!」
椅子に座っているエルウィンとグングニルに対して、ベッドの上に立っているプリルが見下ろすように言った。突然のことに、エルウィンは言われたことを繰り返すだけになってしまったが、プリルはさっきまでの部屋の暗い雰囲気を打ち消すような笑顔を崩さずに言葉をつづける。
「みんなで誕生日パーティーしない? ヴァルくんに秘密でさ!」
「サプライズパーティーってやつだね」
プリルの提案にエルウィンが答えた。
「そうそう! 理由はどうであれ、ここでみんなに会ったのも運命だと思うの! だから、このパーティーでみんなともっと仲良くなれれば素敵じゃない?」
プリルは顔を輝かせて言った。
「うーん、そうだね。ルバヴィウスまで丸一日かかるっていうし、昨日ラシュガンさんからもらった資料も読み終えたし……」
エルウィンはそう言って、持っていた資料を机の上に置く。悩みすぎて痛くなりかけていた頭を押さえて言葉を切る。
「悩んでいても仕方ないしね。僕は賛成かな。それにヴァルハラにはお世話になったし」
エルウィンはそう言ってグングニルの方を見る。
「うん、私も賛成。ヴァルハラにはいろいろと助けてもらったし……それになんだか楽しそう!」
グングニルも、さっきまでの暗い表情を消し飛ばすように表情を明るくして言った。
「よし! そうと決まれば、何が必要かな?プリルちゃん特製スープは絶対に作るとして~! クッキーとか、シェルチキンも食べたいな!」
プリルは手を叩いて、すぐに具体的な話に入っていく。
「あははっ、プリルは食べ物ばかりね」
「いーじゃん! パーティーと言ったらごちそうよ!」
グングニルが笑って言うと、プリルが頬を膨らませる。
「うーん、ヴァルハラの好きなものってなんだろう?やっぱり誕生日って言ったら好きなものが欲しいよね」
「ヴァルくんの好きなものか~……。お酒とか?」
エルウィンの疑問に、プリルは以前ヴァルハラが兵士たちと一緒に楽しげに酒を飲んでいたことを思い出して言った。
「あの時のヴァルくん、すごく楽しそうだったけどな~」
「お酒を飲めば大人はみんなあんな風に楽しそうになるものなんだよ」
「なに、エルも飲んだことあるの?」
「え? いや、ないけどさ……」
「へ~、飲んだこともないのにシッタカブリ? もうこれだから子どもは……」
「こ、子どもって、プリルの方が年下だろう? それに、パーティーなんだからお酒を飲むのは当たり前だし、他に何かないかな?」
「なによー、文句あるの!」
話題を移そうとするエルウィンに、プリルは噛みついて離れない獣のように食って掛かる。
「いや、だってパーティーと言えばお酒でしょ! それにこの船には特別高いお酒があるわけでもないし……」
「この船も役に立たないわねー」
「僕に言われても……」
プリルに責められてたじたじとなっているエルウィンの横で、二人を止めるタイミングを完全に見失ったグングニルがあたふたと仲裁に入る。
「お、落ち着いて二人とも……ヴァルハラの好きなものと言ったら、そうだな……空、じゃないかな?」
グングニルの一言で二人の言い合いが止まる。
「あぁ、」
「たしかに!」
グングニルも、そして二人もそれぞれヴァルハラが空を眺めていたのを頭の中で思い浮かべる。
空の、さらに向こうを眺めるような、悲しそうでいて何かを懐かしむような和やかな表情。
船の中で、研究所のテラスで、沈黙を埋める代わりに空を見上げるヴァルハラの顔は、どこか形容しがたいものだったとエルウィンは思い返す。
「で、でも空って言っても、あげられるわけじゃないしなぁ」
プレゼントとして現実的ではないことがすぐに分かったようで、プリルは言った。
「何も空それ自体って考える必要は無いと思うよ」
「どーいうこと?」
エルウィンの言葉にプリルは不思議そうに訊いた。
「そうだな、例えば……絵を描いてみるとか」
「絵か~良いかも! あ、でもあたし、あまり絵は上手に描けないや」
プリルはエルウィンの提案に賛成してから、口をへの字にして言った。
「大丈夫!僕、小さい頃は絵を描くのが好きだったんだ。だから少しは自信があるよ」
「本当?!」
エルウィンの言葉にプリルの顔が再び明るくなる。
「うん!だから絵は僕に任せて。でも色塗りとかは手伝って欲しいな」
「手伝うわ。エルウィンの絵も見てみたいし」
「私もー!」
話が盛り上がったところで、エルウィンがひとつ咳払いをする。
「とりあえず、できることから始めてみよう。料理を作るなら材料の確認もしなくちゃいけないし」
「そうね!いい、二人とも?絶対にヴァルくんにバレちゃいけないからね?」
プリルはそう言うとベッドから飛び降りて扉の方に歩く。扉を押そうとした瞬間、逆に扉の方からひとりでに開いた。
「ふぉっ?!」
よほど強い力だったのだろうか、プリルは手に掴んだ取っ手とともに持っていかれ、外から入ってきた何かにぶつかって奇妙な声を出す。
「……」
扉から出てきたのは、さっきまでの話の中心であるヴァルハラだった。部屋に奇妙な緊張が走った。
「プリル、部屋に入れないんだが」
ヴァルハラの真正面で固まっているプリルに、特にその雰囲気に気づいた様子も無く、いつも通りの口調で言った。
「や、やぁヴァルくん! お昼ご飯はちゃんと食べたかな~? あはは……」
プリルはそのヴァルハラの様子に少し安心して、ぎこちなく笑う。
「あぁ、まあな。エルウィン、少し話があるんだが良いか?」
プリルに軽く答えてヴァルハラは部屋の中に入ってエルウィンに言った。
「う、うん、大丈夫、大丈夫だよ」
二人が話している間に、プリルとグングニルはヴァルハラの後ろに回り込んで部屋から出ようとする。
――先に準備してくる!
口だけでそう伝えたプリルにウィンクをして応えた。
「どうしたんだエルウィン」
「いや、ちょっと目にゴミが……」
*****
――船室。食料庫。
この船には長い旅を予想して大きな食糧庫が充実しているらしかった。階段を下りると、野菜や肉、酒や料理に使う粉が所狭しと並べられていた。
「スープは明日作るとして、今日はクッキーを作ろう! って言っても実はあたし、あんまりクッキーは作ったことないんだよね~」
ここまで早足で走ってきたプリルが少し息を切らせながら言った。困り眉を見せながらも上がった口元ははっきりと機嫌が良いことを知らせてくれる。
「私もよ。上手く作れるといいな」
私もつられて頬が緩む。それから材料の一つであるタマゴを棚から取り出す。
「今日はそのための特訓ね!グンちゃんはエルにも作ってあげるでしょ?」
「えっ?」
プリルの言葉に手が止まる。言われるまで、意識もしていないことだった。
「グンちゃんが作ったものだもん。エルも喜ぶと思うよ!」
プリルは白い粉の入った袋を片手に笑みを浮かべる。エルウィンが私の作ったクッキーを食べて、喜んでいる場面を想像してみる。緩んでいた頬が、さらに緩んだ気がした。上手く作れば、エルウィンはきっと喜んでくれる。そう思うと俄然やる気が湧いてきた。
「そうだね。がんばってみる! よろしくね、プリル!」
「もっちろん! よし、材料は揃ったから厨房まで行こう!」
私たちは材料を両手に、階段を駆け上ってデッキの上に出た。すぐ先に顔を見せる厨房までの扉に行こうと駆け出したとき、今だけは最も会いたくない人物に遭遇してしまった。私はプリルがそうしたように反射的に持っていた物を後ろ手に隠す。
「ヴァルくん! もう話は終わったの?」
走っていた勢いをそのままにプリルは言った。
「あぁ、資料の内容と、その他少し話しただけだからな。……それにしても今日は落ち着かないな」
ヴァルハラの言葉に心臓がドキリと音を立てて跳ね上がったような感覚を受けた。
「うん、あのね、船の中って退屈じゃない?あたしたち落ち着いてられない性格なのよね!ね、グンちゃん?」
「え?うん、そうそう!いくら綺麗でも海ばかり見てちゃ退屈かなって、うん」
プリルの咄嗟の言い分に、私も適当なことを言って誤魔化す。
「そうか。だが何があるか分からないからな。体力は温存しておけ」
「はーい!」
ヴァルハラが言って去って行った背中に向かってプリルが元気よく返事をする。
「ふぅ、ヴァルくんはシンシュツキボツね。さ、行こう!」
「……うん!」
プリルは深く息を吐いてから、扉までのあと数歩を早足で駆けていく。すごく焦ったけれど、でも同じくらいワクワクして、すぐにでも笑い出したくなるくらいだった。
*****
エルウィンはたった今、ヴァルハラが出て行った扉を見つめていた。
それから腰に掛かった鞘に収められ、その中で黒く輝いているであろう剣に目を移す。
――普通、神ノ力が宿った武器、神器を握るということだけでも強い力の反発が起こると言われている。だが、お前はロングソ―ドと同じ感覚で今、その剣を握ることができるだろう?
ヴァルハラの言葉をなぞるように、エルウィンは剣の柄を掴んで抜き放った。その刃は、吸い込まれそうなほど黒かった。
――強い意志を持ったものしか手にすることが許されないものだ。おそらくお前の旧友は、『誰にも負けない』ということを強く誓ってこのレーヴァテインを持ったんだろうな。
エルウィンに負けた直後に、剣がひとりでにテリーを切り裂いたことを思い出す。神器との契約のようなものなのだろう。テリーは納得したように、自分が斬られたことを受け入れたのだから。
――お前がこの剣を握った時に何を誓ったのかは俺には分からない。この剣は、今まで以上にお前に力を与えてくれるだろう。だが、お前が誓いを破れば最後、グングニルを守ることはできないばかりか、自分の命すら落としかねない。
ヴァルハラの最後の言葉の意味を胸に、エルウィンはレーヴァテインを鞘に収める。
「グングニルを、守るために」
エルウィンは、深呼吸をしてもう一度、自分の意志を確認した。この意志だけは絶対に揺らぐことはないと確信してから、資料が散らばった机に向かう。
「さてと、ヴァルハラのためにプレゼントを作らなきゃな」
呟いて、机の中にあったペンと紙を取り出す。
「まずは下書きからだね」
エルウィンはどこか懐かしさを感じながら、なんとなくぼんやりと頭の中にあるイメ―ジを描き出すために手を動かし始めた。
*****
――夜、食堂。
賑やかな笑い声と一緒に、ラシュガンから護衛を命じられて同行している兵士たちが一気に部屋に入ってきた。皆、汗を拭きながら笑いあっていた。その中にはくたびれた様子のエルウィンの姿もあった。
エルウィンは長机の端の方に座る私とプリルを確認すると、手を振って向かってきた。
「やぁ、ヴァルハラの訓練に参加させられちゃってさ。あはは」
エルウィンは言ってから、片手に持っていたコップの水を一気に飲み干して、私の正面の席に座る。船の上でも気を抜くことのない熱心なヴァルハラの訓練に、エルウィンも参加させられてしまったようだった。
「お疲れ様。大丈夫?」
身体の骨を鳴らしながら伸びをするエルウィンに、私は声をかける。
「大丈夫さ。ヴァルハラの訓練が厳しいのはいつものことだし。それから、下書きは完成したから、あとは色を塗るだけだよ」
エルウィンは机の反対側の端に座るヴァルハラにバレないように、声の大きさを落として言った。周りの兵士たちの声で、ヴァルハラには届いていないようだった。
「そう、良かった。こっちは……」
そう言いかけて私はプリルを見る。
「どこで分量間違えたんだろ…。粉が少ない?バターが多い?うーん……」
クッキー作りの失敗を引きずって、ブツブツと呟きながら唸っていた。食糧庫にクッキーの作り方やいろいろな料理のレシピが書かれた本を参考にして頑張って作ってみたけれど、なかなか上手くいかなかった。最後には真っ黒で、絶対食べられないと一目で分かるようなものまでできてしまって、二人でへこんでいた。
「もう少しかかりそうよ」
「あはは、そんなに大変なんだね……。でもまだ時間はあるから大丈夫さ!」
私たちがクッキーに苦戦していたことを知らないエルウィンは、苦笑いをしながら答えた。
ほどなくして、全員が席について食事が始まった。
賑やかな雰囲気の中で、三人で‘プレゼント’について話し合っていた。プリルは私たちの会話にはあまり加わらず、難しい顔をしながらパンを無心にほおばっていた。ヴァルハラの方に目を向けると、兵士たちに受け答えながら酒を飲んでいた。
あっという間に夕食も終わって、兵士たちがどんどんと出て行く。
「三人とも、少し残ってくれないか」
兵士たちの波に紛れて部屋から出ようとした私たちをヴァルハラが呼び止める。
「えっ、どうして?」
内心ビクビクしているのが私にも分かるような声でエルウィンは振り返る。
「まぁ、な」
飲みすぎたのか、少し顔を赤くしたヴァルハラが言い淀んだ。
「少し話がしたくなってな」
兵士たちが全員部屋を出るのを待ってから、ヴァルハラは切り出した。
「実は明日は、‘ヴァルハラの’誕生日なんだ」
明日、誕生日という単語に三人の間に電流みたいな緊張が走ったのが分かった。バレてしまったのだろうか。そんな不安があったけれど、ヴァルハラの言い方に違和感を覚えたのは私だけではないはず。
ヴァルハラはグラスに入った酒を一口飲んでから、また言葉を続ける。
*****
これを話すのは、そうだな。強いて言うなら、エルウィンとグングニルに知ってほしいからだ。今から話すのは、二人には絶対に辿って欲しくない道だ。現実にこういったことがあったということを知るだけでも気持ちが変わるはずだからな。
十年くらい前の話だ。
ある三人の若者が帝都近くの研究所で働いていた。彼らは原因不明の強力な力、神ノ力の研究をしていた。その当時は、今以上に神ノ力について分からないことが多かったから、多くの研究員が我れ先に大発見をしようと躍起になっていた。
その中で、ディランという男が、若干十八歳にして副所長を勤めていた。彼は学院を首席で卒業し、研究所に入ってからも常に先陣を切っていた、謂わば天才というやつだった。だが、才がある代わりに他人を信じるということができない寂しい男だった。そんな彼が信じた数少ない人物が、彼の姉であるミリィと、その婚約者であるアレックスだった。
ディランと、頭は切れるが内気な性格が原因でなかなか皆と馴染めずにいたアレックスは似た者同士だったからか、少しずつ打ち解けるようになった。それを見守るようにミリィが支えるといった感じで、だんだんと三人の仲は良くなり、研究も三人を中心として進められることが多くなった。
そんなある日のこと。所長である男が三人を呼び出した。
「キミらに集まってもらったのは他でもない。『神ノ力憑依実験』のことだ」
口髭を整えた、片眼鏡をかけた男はそう口にした。彼が言った計画は、能力者を造るための実験。神ノ力という原因不明の、異次元にあるらしい力を呼び出す画期的な方法を発見した、彼の考えを証明するための重要な実験のひとつだった。
彼を師として尊敬していた彼らは早速実験の準備にとりかかった。しかし、実験前日というときになってアレックスが行方不明になった。
「ディル、やっぱりどこを探しても見つからないわ」
「なにやってるんだアルは。まぁ良い。後は俺たちで十分に準備できる。姉貴も疲れたろう?早く寝てくれ」
機械をいじりながら、ディランは疲れたように言った。
「ディル。そんな言い方無いんじゃない?何かあったのかもしれないんだよ?」
そんなディランにミリィは表情を濁らせながら返した。友人よりも実験を重視するような発言だったから、当たり前の反応だった。
「姉貴もアルの強さは分かるだろ?学校では体術であいつの右に出る者はいなかった。例え何かに襲われても、あいつならきっとなんとかする」
「でも、心配じゃない……」
そんなやりとりの後、二人は研究所の中や外をくまなく探したが、とうとうアレックスを見つけることはできなかった。
そして実験当日。
実験場には実験体が入るためのカプセルが並べられていた。そして今回はその中の一つに実験体が入っているということだった。その一つの周りには、もし実験体が神ノ力に適性があり、憑依させることができた場合に備えて兵士たちが銃を構えていた。今考えれば、もし暴走でもしたら、銃なんかじゃ止められないから、ほぼ無意味に等しかったのだけどな。
ディランとミリィ、そして所長が上の階にある観察室の窓から覗いている中で、実験が始まった。
ミリィが部屋に設置されたメインコンピュ―タのボタンを押した。すると、カプセルの後ろに設置された巨大な機械が起動し、低く音をたて始める。その音はだんだんと高くなり、高さの上昇がそれ以上分からなくなった時、機械の上空に雨雲のような真っ黒な雲が現れた。それがどんどんと大きくなっていったかと思った瞬間、虹色の雷のようなものが、凄まじい轟音とともにカプセルめがけて落下した。その衝撃で周りに黒煙が発生して視界を遮った。
同時にディランたちや、銃を構えた兵士たちに緊張が走る。
「なに……?」
ディランはそれを目にしてうめき声をあげたのと同時に、隣に座っていたミリィも椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
煙が晴れて出てきたのは、昨日から行方不明になっていたアレックスだったからだ。彼は最後に会った白衣姿のまま、壊れたカプセルの前で仁王立ちをしていた。その時、史上初の神ノ力を手にした能力者が生まれたんだ。彼が纏ってしまった異様な力の強さが、観察室からでも十分感じられるほどだった。
「やはり彼には適性があったか!素晴らしい!」
後ろで聞こえた声に、ディランは反射的に振り返る。所長が、血走っためで食い入るように窓の外を見つめていた。
「どういうことだ……?」
所長の一言ですべては理解できたが、それでもディランには信じたくない事実だった。
「神ノ力に耐え切れる、そして適性のある者などほとんどいないからな…。彼には尊い犠牲になってもらったよ」
所長の愉快そうな顔に、ディランは今までの敬意など吹き飛ぶくらいの怒りを感じた。
「貴様……!」
ディランが怒りに身を任せて剣を抜こうとした刹那、大きな音とともに建物が大きく揺れた。驚いて音の方、窓の外を見ると、そこは血の海になっていた。引き金を引く余裕も無かったのか、兵士たちは無惨にも全員が殺されていた。自分がやったとでも示すように、不自然に大きくなったアレックスの右腕には大量の血がベッドりとついていた。
「何やってんだ…アル!目を覚ませ!」
長い前髪から時折見える、正気を失った目をしたアレックスに向かって精一杯に叫ぶ。目の前で友人が人を殺した。それだけでもディランにとってはショックなことだった。
「憑依したは良いが安定するまでに時間がかかるということか。良いデータが取れた」
冷酷なまでに冷静な口調に、ディランは怒りを通り越して恐怖を感じた。
「本当は安定するまでの経過も見てみたいところだったが……。さすがに危険だ。後処理は頼んだよ、副所長」
所長はそう言うと、指をパチンと鳴らして姿を消してしまった。ワ―プの魔法を使ったようだった。
部屋に残されたのはディランとミリィの二人になった。二人とも、しばらく動けずにいた。ふと、ディランは横を見る。ミリィも必死に策を考えている様子だった。そして自分よりいくらか冷静に考えているようにも見えた。
――どうすればいい。何か策はあるのか?アルを止めるのが最善だが、そんな方法は……。
ディランも必死に考えを巡らせたが、アレックスが扉を破壊した音で途切れてしまう。窓から見ると、アレックスの姿は見えなかった。扉の向こう側、下のフロアでは混乱が起きているだろうことを予想した。ベテランの兵士を瞬殺する力なら、普通の人間などひとたまりもないはずだった。
「……そうだ、姉貴。俺も能力者になればいいんだ」
歯には歯を。能力者に対抗する最後の手段はこれしか無いと、ディランは瞬間的に判断した。
「何言ってるのディル!今目の前で見たでしょ?失敗しても成功しても、あなたの無事は保障されないし、もっと大きな被害が出るかもしれないのよ!」
「じゃあ他に何がある?!どの道アルを止めなきゃ被害は広がる!」
いつものミリィからは考えられないくらい血相を変えて反対したことに少し怯むが、ディランも負けじと言い返した。
「姉貴、機器の操作を任せた」
ミリィが言葉に詰まったのを見て、ディランは足早に非常階段から実験場まで駆け降りた。
「ディル!」
ミリィが呼んで窓を見た時にはすでに、ディランが空いているカプセルに入ろうとしているところだった。
「頼む!早くしてくれ!」
カプセルの蓋を閉める寸前でディランが叫んだ。ディランに迷いは無かった。何もしなければ死ぬだけだったから。ミリィはその声に弾かれるように反射的にメインコンピュ―タの前まで走った。いくつもの文字や数字が並ぶディスプレイを眺めて、一度深呼吸をする。それからスイッチが入ったように作業を始めた。最後のスイッチを押す寸前でまた手が止まった。もう一度、息を吐いた。
「無事でいてね、ディル」
その一言ともに、ミリィがスイッチを押す。さっきまでの現象が再び繰り返された。
ミリィが部屋から出ようとして向けたその背後で虹色の光が落ちた。
ディランが目を開けた時にはすでにカプセルが壊れていて、扉だったものにアレックスがあけた大きな穴が見えた。まったく幸運なことに、ディランに降りてきた神ノ力に彼は適性があり、さらには暴走することなく自我が保たれていた。
彼が一歩踏み出すと、目眩と全身の痺れが彼を襲った。
扉に空いた穴から、研究員たちが何人も血を流して倒れていた。その中には見知った顔もあった。
「アル、今行く!」
ディランは地を蹴る。全身に雷を撃たれたような感覚。それもだんだんと自分の中で落ち着いていく。みるみるうちに研究所内を駆け巡っていた。
「アル、何してるの?」
ミリィがその部屋に入って目にしたのは、信じたくない光景だった。アレックスの白衣は真っ赤に染まり、所々破れたところからありえないほど盛り上がった筋肉が見えていた。そんな彼の手に、研究員の一人の首が掴まれていた。すでに彼は事切れているようだった。ミリィの声に振り向いた彼の目は、瞳も真っ赤に染まるほど充血していた。
「ねぇ、戻ってきてよ、アル……!」
ミリィは掠れた声で言って、ふらふらと中に入っていく。アレックスに自分は見えていない。見えていても、ただの獲物に写っていることは分かっていた。
アレックスが、掴んでいた男を離す。次の獲物だと言わんばかりに、アレックスもミリィの方に歩みを進める。
「おいで」
ミリィは手を広げる。アレックスは無防備な彼女の身体に、鉄拳を振り上げた。
「姉貴!」
その間に光の速さでディランが割り込む。降りてきた拳をロングソ―ドが受け止める。巨大な戦斧を受け止めたような重い衝撃がディランの腕を襲った。普通だったらひとたまりもなく腕は折れていただろうが、やはり神ノ力で強化された肉体はそう簡単に壊れることはなかった。
「うおぉぉお!!」
ディランはなんとかその戦斧のような腕を押し返す。
「アル!お前を止めてやる!」
学生時代、体術関係だけはアレックスに勝てなかったのが脳裏によぎったが、泉のように力が湧いてくる状況で負ける気はなかった。殺しはしない。気絶させるだけで良い。どうせ一太刀で死ぬことはないだろう。ディランは剣を振り下ろす。しかし、刃はアレックスの身体に届くことはなかった。
「本物のバケモノになっちまったのか?」
隆々とした鉄のように硬い腕の筋肉が刃を防いだからだ。傷一つついていないように見えた。怯んだ一瞬に、アレックスの残った左腕がディランの腹に突き出される。
「ディル!」
ミリィの悲痛な叫びが聞こえる。呻き声すらあげることのできない強烈な突きに、ディランの呼吸は一瞬止まった。衝撃を利用して後ろに跳ぶ。
「強いじゃねぇか、アル!」
痛みが残ったままディランは鉄砲玉のように飛び出す。幾度の斬撃を繰り返す中で身体に当たった一撃もあったが、それもすべて硬い筋肉によって致命傷を免れる。
「もうやめてディル!」
無心に剣を振り回していたディランに声が届く。その時になってようやく自分の意識が朦朧としていることに気がついた。本当に神ノ力を手に入れたのかと疑いたくなるほどの体力の消耗だった。だが、力を手にしていなければそもそも一撃目で息絶えていたはずだから、どんな力かは知らないが手に入れたのだろうと結論づける。
ふらついた足で、剣を振り上げてアレックスの方に走る。ガラ空きの胴を、アレックスの鉄拳が突いた。
息が止まる打撃を再び受けて、ディランは力なく壁まで吹き飛ばされた。アレックスは倒れたディランに目もくれず、立ち竦んでいるミリィに視線を移す。
アレックスがゆっくりと腕を上げる。あの速度なら逃げることができたはすだが、ミリィは恐怖のためなのか動こうとはしなかった。
――おい、アル。今お前の目の前にいるのは、お前の婚約者だぞ……。
心の中で、声にならない叫びが生まれる。
――その近くで情けなく倒れてんのは、その弟で、お前の友人だ……。それくらい、分かってくれ。
口に出そうときても、声にならない。意識は半分失いかけていた。目の前のアレックスは、もう腕を振るうだけでミリィを殺せてしまう。
――やめろ……!
いっそ夢なら良いのにと、落ちそうになる意識を奮い立たせて立ち上がろうとした瞬間だった。
肉を断つ音が、ディランの意識をはっきりと呼び覚ましてしまった。ディランが目を見開くと、鮮やかな赤い血が、その目に焼き付いた。そしてそれが、ミリィを貫いたアレックスの手であることに気づくのに数秒かかった気がした。頭をハンマ―か何かで殴られたような衝撃を感じた。目の前の光景が信じられず、何も口にすることができない。
アレックスはミリィから腕を引き抜く。ミリィが力無く地に倒れるが、最期の表情を確認することができなかった。
アレックスは最後の獲物であるディランに、一歩ずつ近づく。その足音がディランの、恐怖ではない、怒りを加速させていった。
「なんで……」
掠れ声ながらも、ようやくのどから音が出た。
「なんでお前は、姉貴を殺してそんなに笑ってられんだ……!!」
アレックスは狂気の笑みを浮かべていた。二人以外にあまり見せたことのない、いつもの、どこか寂しさを感じさせるような笑みを、この状況でも変わらず見せていた。
ディランの身体が、怒りによってようやく徐々に動き出す。ボロボロのロングソ―ドを掴む。アレックスが腕を振り上げて、同じようにディランを殺すまでに数秒の時間もなかった。
そしてその時は突然やってきた。
アレックスの拳がディランの顔面を潰す前に、何かがそれを阻んだ。なかなか来ない痛みに、伏せていた顔を上げると、目の前に緑色の光の壁がうっすらと現れていた。あまりにも遅い、ディランの能力の覚醒だった。
その時はそれが何でも良かった。ロングソ―ドを横に振り切った渾身の一撃がアレックスの腹を捉えた。
「グァァァアア!!」
アレックスの口から獣のような叫びが放たれる。気味の悪い声だった。
斬撃を受けたアレックスの身体が後ろに吹き飛ぶ。追撃をしようと立ち上がると、アレックスに異変が起きていることに気付く。
「ディル……?」
アレックスは確かに、掠れた声でそう言った。その瞳に狂気の光はなくなっていた。
「何が起きたんだ……。これは、いったい……!」
周りを見渡して絶句しているアレックスに、さらなる衝撃が襲った。
その視線はまっすぐに、倒れているミリィに向かった。よろよろと、ミリィに近づくアレックスを確認して、ディランは身体を支えられなくなって倒れる。
薄れゆく意識の中でディランが見たのは、今まで見たことのない、アレックスの号泣した姿だった。ミリィの抜け殻を抱いて、大声で泣くアレックスの姿だった。
そしてそのまま、アレックスはミリィを抱いたまま、どこかへと行ってしまう。
――待てよ……!
今度こそ、蚊の鳴くような声も出なかった。生きている人の気配がなくなった頃、轟音とともに建物が揺れた。
*****
「そこでディランは死んだ。そして生まれたのが、ヴァルハラだ。記憶はまったく無かったが、気づいたら研究所だったガラクタの山が目の前にあったよ」
机の上のグラスに入ったお酒がずいぶん減っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。私もかける言葉が見つからない。いつだったか、ヴァルハラは能力者である自分のことを大嫌いだと言っていた。その理由が、きっと今話したことと深く関わっていることは確かだった。
「じゃあ、ヴァルくんの本当の誕生日じゃないってこと?」
ようやくプリルが口を開いて言った。
「あぁ、そうだな。そもそも本当の誕生日なんて忘れてしまったよ。覚えているのは、明日があの日から十年ってことだけだ」
ヴァルハラはどこか寂しそうに答えた。
エルウィンも私も、相変わらず何も言わない。言えなかった。
「お前たちが、これで何かを感じてくれればそれで良い。俺も少し話してみたかっただけだからな」
ヴァルハラはそう言って立ち上がると、足早に部屋から出て行ってしまった。
*****
「ヴァルハラも、大変なことがあったのね」
結局、三人とも、それぞれ飲んでいた飲み物を手に同じテーブルに戻っていた。引きずったままだった沈黙を、グングニルが破る。
「そうだね……」
エルウィンが曖昧に答える。突然の昔話に、やはりどう反応して良いか分からなかった。自分たちの身に起こるかもしれない。でもそんなことは遠い世界の話のように聞こえた。
「明日のパーティー、どうしよう。なんだか祝えるような日じゃないよね……」
プリルが沈んだ表情で、カップに入ったホットミルクを啜る。
「でも、せっかく準備したからさ。ヴァルハラの誕生日っていうには変わりないんだし」
エルウィンはそう言って立ち上がる。
「そうよね!あたしもこのままクッキーが未完成じゃ気持ち悪いし!」
プリルがそれを見て、やる気を取り戻したように言った。
「それに、色塗りも手伝って欲しいしね!」
エルウィンは自分の心の奥底にある不安を振り切るように、努めて明るく言った。
「うん!今夜はエルウィンの絵を手伝いたい!」
グングニルもそれに答えるように明るく言った。
「あー、グンちゃん逃げるの?!逃げちゃうの?!クッキー作りやろうよ~!」
「色塗りは二人でやればすぐ終わるし、そしたら今度は僕もクッキー作りを手伝うよ」
「男子はキッチンに立っちゃダメでーす!!」
「えー……」
玉砕したようなエルウィンの表情に、二人から笑い声が漏れる。重苦しかった空気が、その時だけ晴れたようだった。
ひとしきり笑い合った後、三人は立ち上がって部屋から出る。長い夜になりそうだった。
*****
「“彼”が、こちらに来るそうですよ」
狭い部屋に、彫刻や絵画が所狭しと並べられていた。その中でしわがれた男の声が響いた。
その声に、扉に寄りかかった長身の男が長い前髪をかき上げる。その下から見える瞳は血のように紅い。月の光に照らされた彼の髪色は白けた緑。
「名は?」
男が短く聞く。
「今はヴァルハラと名乗っているようだ」
男の返答に長身の男は鼻を鳴らす。
「そうか。久しぶりだな」
長身の男はそう言って、かつての友も眺めているであろう、夜空を見つめた。




