【第一話】痣
赤い、紅い炎を上げながら燃えている‘元’ルバヴィウス研究所。その建物はもはや原型をとどめておらず、何かに抉られたかのように破壊し尽くされていた。
その残骸をぼんやりと見つめる人型の‘モノ’。彼の腕はまるで大木のように太く、異様に伸びたその爪からはどす黒い液体が滴っていた。
「ウッ……! グァ!」
突然彼は左腕を抑えて呻き出す。
膝をつき、どうと倒れる。激しく痙攣を繰り返しながら、左腕をもぎ取らんばかりに掴んでいた。低いうなり声を不規則に繰り返して、苦しそうに、あるいは悲しそうにのたうち回る。
そこに―黒いフードを深く被った人影が歩みを進めてきた。手には長剣がしっかりと握られていた。苦しんでいる大男のすぐ横まで来て、足を止める。フードの奥の表情は真っ暗な影で見えないが、苦しむ大男にただひたすら顔を向けていた。大男は彼に気が付かないのか、変わらずもがいている。
「……」
そんな大男の胸に、黒フードは躊躇なく、逆手に持った剣を突き落とした。
「グッ……!」
男は短い呻き声を上げただけで、何も抵抗はしなかった。
やがて痙攣が弱まり、完全に止まった。
それから大男の身体が深緑色に光り出す。黒フードの男の身体も同じように、まるで共鳴するかのように白けた緑色に光りだした。紅く地獄のように燃えるその場所を、高い共鳴音を響かせながら淡い光が照らしていた。
しばらくして大男の光は消え、黒フードの男の光も一瞬だけ強く光って消えた。
「―――」
男は何か言ってから、その場を去って行った。
後に残った大男の左腕には必死に掴んでいた手の跡とは明らかに違った黒色の大きな‘痣’が、くっきりと現れていた。
生温い風が吹き、もう動かない彼の頬に伝っていた涙をさらっていった。
*****
——被験体107起動します。
濁った緑の視界から見えたのは揃って白い服を着た人間たち。
みんな私を、異物を見るような目で見ていた。
——精神安定しています。
——神ノ力も基準値で安定しています。安全です。
わけの分からない言葉を聞きながら、私は中央に立っていた初老の男の口が開くのを見た。
——おめでとう107号。まずはこの世に生を受けたことを祝おう。そうだな、記念に名前をつけてやろう。
男が勝手に喋り出す。お前に貰わなくても自分の名前くらい……。
思い出そうとして一瞬時が止まった気がした。
思い出せないのだ。何もかも。
名前は?住んでいる場所は?友達は?それに、ここはどこだ?
私は自問自答を何度も繰り返した。だがそれも虚しく、返ってくるのは沈黙以外に無かった。
——所長、精神値に多少の乱れが。
——覚醒初期にはよくあることだ。ふむ、何にしようか。
彼はくるりとカ―ルした金髪を指で弄りながら、薄ら笑いを浮かべて言う。
その笑い顔が私の癪に触った。
突然、人間の声以外の甲高い電子音が鳴り響いた。
それと同時に白い服を着た人間たちが忙しそうに動き出した。
——そう混乱することはない。あぁ、そうだ。思いついたぞ。
彼は再び私の目を見た。
そしてゆっくりと言葉を続ける。
——【神ノ槍】グングニル。今日からのお前の名前だ。
……グングニル。私の、名前。
私はその言葉を何度も繰り返しながら、だんだんと意識が遠のいていくのを感じた。
*****
「グングニル、グングニル! 起きてる?」
一瞬、その声がまだ夢なのか、それとも現実なのか分からなかった。
嫌な夢を見た。それは‘私が私になった日の夢’と言っても良かった。‘神ノ力’という特別な力を持つ‘能力者’として、グングニルという名前として生まれた私の最初の記憶。
いや、実際には、あの時、あの場所であんな風に私に名前を付けた白衣の男に怒りを抱いていたりはしていなかったかもしれない。何が起きているのか分からないまま、何も思い出せずに、何故か自分のものではないような名前を与えられた。感情が起き上がる前にすでに意識は飛んで、気づけば自分の異様さを見せつけられる毎日が続いていた。
こんな人生を歩む前の私は、いったいどういう生き方をしていたのだろう。過去の記憶は、驚くほどぽっかりと、抜け落ちてしまっていた。
嫌な夢で、自分の生を呪って、それからそれらを頭に片隅に追いやって、私は、狭い仮眠室にある小さいベッドからのそのそと起き上がる。
「エルウィン?入って良いよ」
周りを——と言っても今私が座っているベッドと正面の鏡しかないのだけれど、それらを確認して現実だと認識してから、私の名前を呼ぶ声に答える。
開いたドアから現れたのは、少し長めでこげ茶色の髪を持った私と同じくらいの歳の男の子、エルウィン=ラックハイムだった。彼は能力者である私の世話役で、この研究所の研究員。
この研究所が何をしているところなのか、私はかなり長くいるけれど、よく知らない。でも神ノ力を持っている私を、まるで実験動物と同じように扱って、たまに私の中にある力を見せろと怖い顔で、冷たい声で言ってくる。その力を使って、生きている人を殺せとさえ言われたこともある。何の意味もなく人を殺したくなんかないのに。それでもやるしかない。
私が生きる場所は、ここしかない。
逃げることもできたのかもしれない。私に何かをさせる時、力の発動を抑えるという特殊な枷は外される。その時に力を使って、研究所を破壊して、逃げることができたのかもしれない。
でも彼らの視線が、声が、私を否定する。外に出れば私は明らかに異端で、生きてはいけない存在なのだと。
そういう空気の中に居続けたせいなのか、いつの間にか私の中で、「生きたい」という意志は消えていた。
それに加えて、言われるがままにさせられている自分が、どうしようもなく、消えてしまいたいくらいに嫌いになっていった。
「おはようグングニル。特に異常は無いかな?」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、いつもと同じように白衣を着て、書類を片手に持つエルウィンはその細い目をさらに細くして微笑んで訊いた。
この研究所に来て、すでに何年かは経過している。ずっと自分の部屋と、限られた空間への行き来しかしていない私に時間の感覚がはっきりしているとは言い難いけれど、自分の体の成長を見れば分かる。来た時よりだいぶ視線は高くなった。その視線を真下に移せば、膨らんだ二つの胸が、過ぎていった年月を物語っていた。
そんなことを、もう生きたくないと思いつつ成長する自分の身体を皮肉交じりに眺めていたところに、彼はやってきたのだった。
彼は少なくとも、他の研究員とは違う、温かい微笑みを私に向けてくれる。
世話役としてエルウィンが傍にいてくれるようになったからこそ、今の今まで私は正気を失わずに、むしろ徐々に感情を取り戻すことができたのかもしれない。彼が笑顔を向けてくれれば、私もなるべく笑顔で答える。最初こそ慣れない表情だったけれど、今では自然に作ることができる。
そしてこれもいつもの笑顔。私にとって牢獄であるこの部屋で、唯一温かみを感じられるものだった。
「おはようエルウィン。大丈夫よ。今日は何かあるの?」
私は隣に座ったエルウィンが持っていた書類に目を移して、なるべく笑顔を作って言う。私が暗い顔をしていると、それが移ったようにエルウィンの顔まで暗くなる。私にとって、それはとても辛いことだった。
大丈夫、鏡に映る金色の長い髪の毛と紅い瞳の女の子は、ちゃんと笑っている。
「あぁ、実は……今日は能力の定期検診なんだ」
「そう……なんだ」
能力、検査。そんなことを思っていても、その言葉が出るたびに私の表情は、どう頑張っても沈んでしまう。それはたぶんエルウィンも気付いている。戸惑い気味に言ったところから、気を遣ってくれているのだと思う。こんな風に言ってくれるのも、エルウィンだけ。他の人は恐ろしい力を持つ私に、機械のように冷たく声をかけるだけ。
「簡単な健康診断と能力のチェックだけだから、すぐ終わるさ。大丈夫。僕が今見ている限り、グングニルには何の異常もないよ。だから、大丈夫」
そう笑顔で言ったエルウィンは書類に簡単に目を通して、ペンで何か書いてから、ベッドから立ってドアノブに手をかける。
「じゃ、また後で。朝ごはんを食べたら第二検査場に来てね」
「うん、分かった」
何か他の仕事があるのだろうか、急ぐようにそう言って、エルウィンは部屋から出て行ってしまった。もう少し何か、この暗い気持ちを紛らわせるように話がしたかったが、仕方なく返事をして彼の背中を見送った。
*****
年齢は自分と同じくらいのはず。なのに、なぜ彼女はこんな実験体のような扱いを受けなければならないのか。
エルウィン=ラックハイムは出てきたばかりの部屋の扉に寄りかかりながら、日ごろから心の中に渦巻いていた疑問を引っ張り出して、向き合っていた。
答えは、嫌というほど教え込まれた。彼女が神ノ力を持つ者、つまり能力者だからだ。
神ノ力とは、魔力とは違った不思議な、そして絶大な力。元々は異次元にある世界に存在するもので、この世界の人間たちが扱える力ではなかった。つい数十年前までは、一部の研究者だけがその存在を認識するにとどまっていた、幻想の中だけの力だった。
しかし、この国——オーディニア帝国が神ノ力を現世に呼ぶ特別な鉱石を発見したことにより、幻は現実になった。
神治時代の神話に登場する神々や神器に酷似した力と、その名前を冠した能力者。
例えばグングニルは【神ノ槍】の異名を持つ。それは狙った獲物を必ず貫く神槍に由来し、身体の一部——彼女は引き抜いた髪の毛を使用することが多い——を強靭な槍に変形、自在に操る能力を有している。
オーディニアはこういった力を人に憑依させる技術を発展させ、能力者と呼ばれる強力な生物兵器を作り上げ、急速に国力を伸ばした。その力欲しさにこの国と同盟を結び、戦争を優位に進めようとしている国は増えている。
仮眠室を含むこのサイドバリー研究所も、能力者そのものではないにしても、それに関わる薬品、兵器などを作っている。
ひとつの研究所にはその場所を守護するために一人の能力者、ガーディアンが置かれている。そして現在この研究所にはグングニル以外の能力者はいない。つまり、もしものことがあったら、グングニルはこの研究所を守るために戦って、死んでしまうかもしれない。
彼女の部屋に入るといつも見せてくれる笑顔を思い出す。初めて見る人なら、そのへらっとした笑顔と、可愛らしさに、彼女は元気で明るい性格なのだと思ってしまう人も多いはずだとエルウィンは思う。実際初めてグングニルの笑顔を見たときに、そんな印象を、エルウィン自身も持ってしまった。しかし、それは本当の姿ではない。紅い瞳や、その横顔から翳る影が、彼女のやりきれない悲しみや苦しみを移している。その負の感情の対象は、彼女が置かれている環境や、もしかしたら自分自身。そんな想像が、エルウィンに纏わりついていた。
——このままで良いのか?
エルウィンは再び自問する。
——助けたい。
グングニルの笑顔の裏に移る影を見つけてしまう度に、そんな想いが頭の中を回るのが少なくなかった。特別な力を持っているということ以外は、普通の女の子と変わらないはずなのに。
それに、無理をしているような、影を帯びている彼女の笑顔は見たくなかった。心の底から笑っているような、そんな笑顔が見たかった。
考えはしながらも何もできず従ってしまう自分に、彼女をどうにもしてあげられない自分に情けなくなりながら、エルウィンは次の仕事がある部屋の扉を開けた。
ガラス越しに見えるのは、まるで血のように赤く、長い槍を持ったグングニル。
対峙するのは、丸い鉄の塊に手足をつけたような異様なマシ―ン。
マシーンがその手をグングニルの方に向け、先から光弾を数発発射した。グングニルは一発を避け、二発目を槍で弾き返しながら素早く距離を詰める。
グングニルは地を蹴り、槍をマシ―ンに向かって薙ぎ払う。マシ―ンは光弾を出した手とは逆の手から鋭い刃を出して応戦する。しかし、彼女はそれを紙切れのように切り裂き、その勢いを利用してマシ―ンの中心部である球体を両断した。
マシ―ンは切り口からバチバチと火花を散らす。グングニルは右足で両断された球体を一気に蹴り飛ばし、距離を大きく離す。
グングニルが地に足を付けたと同時に、マシーンだった鉄の塊は、大きな音を立てて爆発した。
爆煙から現れたグングニルの顔に表情は読み取れなかった。
「うむ、神ノ力も安定してるね。特に異常はないな」
その様子をエルウィンと共に見ていたサイドバリー研究所所長のロラドが眼鏡の淵に手をかけながら満足そうに言った。
「ふぅ、良かった」
エルウィンはロラドの言葉に安堵のため息を漏らす。
「ただ、‘痣’が現れたら注意した方が良い」
「痣、というのは?」
ロラドの真剣な表情にエルウィンは再び嫌な予感を覚える。
「五日前のことだ。ルバヴィウス研究所のガーディアンであるヴィーザルが暴走して研究所をめちゃくちゃにして、挙句の果てには死んでしまった事件は覚えているだろう?原因は不明だが、暴走の一か月前くらいにできた‘痣’が何かの原因らしいということを政府から警告されている。キミもグングニルに痣、もしくは何かの異変があったらすぐ教えてくれ」
エルウィンは淡々としたロラドの説明を聞いて戦慄した。暴走の事件は確かに研究所内でも話題になった。能力者は神ノ力を制御しきれなくなり力を暴発させ、自我を失い、最後には——死ぬ。
そんな暴走をするはずがない、してほしくないと思いながら窓越しのグングニルを見る。彼女は検査場から出ようとしていた。
「分かりました」
彼女の姿が検査場から消えた後、エルウィンは少し遅れて返事をした。
「まぁ、それに気をつけてくれればキミは自分の研究を続けてくれれば良い。楽しみにしているよ、君の発明品の最終報告書をね」
ロラドは窓から目を離しエルウィンに笑みを向ける。
「ありがとうございます。それでは失礼しました」
エルウィンはそう言ってロラドに背を向ける。
上司からの期待の言葉。エルウィンがこの研究所に入ってから、一身に研究を続けてきたものが、ようやく形になり始めていた。いつもなら喜べるはずのものも、今のエルウィンにとっては雑音のようなものだった。
*****
シャワーから注ぐ温かい湯がとても気持ち良かった。私の数少ない一日の楽しみのひとつはシャワーだった。自分の、汚れた心まで洗われるような気がするから。お湯が私の胸、腰、足先と隅々までに行き渡る。この温かい心地よさのまま、消えることができたら良いのに。実際、そんなことはないのだけれど。
水が私の金髪を濡らす。ふと、黒色の何かが彼女の目に映る。
五日ほど前、同じようにシャワーを浴びている時に気付いた‘痣’が右肩にあった。気のせいかもしれないが、少しだけ大きくなっている気がした。
かすり傷や打撲程度なら、能力者の持っている超人的な治癒能力で治ってしまう。だから、検査場で負った傷とは考えられない。だとしたら、病気の類なのかもしれない。能力者の力でも回復できないような、重大な病気。
だけど、それならそれでも良いと私は思っていた。
自分の中にある特別な力で現れる赤い槍。それで機械、ひどいときは人間を、斬ったときの感覚。普通の人ではあり得ない(と、エルウィンは言っていた)身体能力や治癒能力。今日のことだって、私にとっては他愛のないことなのだ。たけど、最初にそれを見たエルウィンの表情でさえ、私を恐れるような、そんな目をしていた気がする。
水を両手に貯めて、顔を何度もこする。
——病気なら、それで良い。私が死んでも、心から悲しんでくれる人なんかいないのだから。
シャワールームから出て、私はまたあの牢獄のような仮眠室へ歩いていた。戻りたくはなかったけれど、私の居場所は、他にない。角を曲がったところで、誰かが自分の仮眠室の前に立っているのが見えた。
「あ、シャワー浴びてたんだね。おかえりグングニル」
今朝とあまり変わらない格好で立っていたエルウィンが私に声をかける。仕事が忙しかったのだろうか、少し疲れた顔をしていた。
「ってグングニル! いつも言ってるじゃないか。ちゃんと髪を乾かしてから部屋まで戻るようにって。床に水滴がこぼれちゃうんだよ」
まだ濡れた頭にタオルを乗せただけだった私を見るなり、エルウィンは注意する。何回か言われたことはあるけれど、いつもというほどは注意を受けていない。少しだけ、大げさに言っているようにも聞こえた。
「ん、ごめん」
私はほんの少しだけ違和感を覚えながら、それに短く謝る。
「なんか、あんまり反省してない?まぁ良いや、とりあえず部屋に入ろう」
エルウィンは苦笑いで答えてから、私を促して仮眠室へと入った。中は相変わらず小さいベッドしかない、殺風景な部屋だった。
「今日は僕が作っているものの試作品が完成したんだ。名付けてウィザードリキッド!」
ベッドに座るなり、エルウィンはポケットから透き通った緑色の液体が入った注射器のようなものを取り出して話し出した。
「これを使えば魔法使いじゃない人たちでも魔法が使えるようになるんだ。今まで厳しい修行をしなくちゃ手に入らなかった力を簡単に手に入れることができる画期的な発明さ! これ、僕が書いたレポ―トだよ」
名前は何度かエルウィンから聞いたことがあった。研究所に入ってからずっと作りたかったものらしい。私は手渡されたレポ―トをパラパラとめくって目を通す。何が書いてあるかよく分からなかったけれど、とにかくすごいものみたいだし、何よりエルウィンが喜んでいるのが私にはとても嬉しく感じられた。
「ふふ、なんだか嬉しそうね」
興奮気味に話すエルウィンの横顔を見て、私も自然に笑みをこぼしてしまう。シャワーを浴びた後だったというのもあったけれど、私は両手を後ろに回して支えにして、力を抜いた身体をベッドに預けるように近づける。視界を、灰色の天井が覆った。
「そりゃ嬉しいよ! 僕も役に立てるっていうのが……」
エルウィンはそれから機嫌よく話し始めようとしてくれたのかもしれない。だけど、その声がだんだんと小さくなって、私を見つめる表情が固くなっていくのを感じて違和感を覚える。私は視線をエルウィンに移す。
「どう、したの?」
私は恐る恐る聞く。エルウィンは、何かを拒むような悲しい表情をしながら、視線を‘その場所’から私の目に移して、口をゆっくりと動かした。
「ごめんグングニル。右肩を見せてもらえないかな?見間違いであって欲しいんだけど……」
右肩。そういうことか。たぶん、さっき体勢を変えたことで、エルウィンの視線がズレて、服の隙間から見えてしまったのだろうと自分のことながら冷静に判断して、私は黙って囚人服のような服をずらす。
肩の上にあったその模様は、普通のものとは明らかに違っていて、私はもう見慣れてしまった真っ黒な‘痣’だった。
「これは、いつ頃からあったの?」
「……五日くらい前よ」
「どうしてそのことを早く言わなかったんだ!」
いつにないエルウィンの厳しい口調に私は肩をびくりと震えるのを感じた。
「だって、放っておいても何も起こらなかったし……」
「何かあってからじゃ遅いじゃないか! 良いかい?この痣はね……」
エルウィンは言いかけて、言葉を止める。何かを言おうか言うまいか悩んでいる、そういう風に見えた。それから思い切ったように、ルバヴィウス研究所で起こったという一件を話してくれた。
私と同じように痣が現れた能力者が、痣が発生した一か月後に、力を暴発させて、研究所を破壊して―死んだ。
「……ということでとにかくこの痣は危険なんだ。明日館長に精密検査を頼もう。暴走なんてしないで済むはずさ」
エルウィンはすべてを話し、まるで自分に言い聞かせるかのように私に言った。
私に気を遣ってくれているような、そんな優しい、いつものエルウィンの言い方。私が怖がって取り乱したりしないように言ってくれているのだと思う。だけど——。
「グングニル?」
エルウィンは私の表情に違和感を覚えたようだった。自分の今の心と表情が一致していれば、今私は、どこか納得したような落ち着いた顔をしているに違いない。
そして、私は言葉を発していた。朝起きて、周りを見渡しても灰色の天井と鏡しかないこの部屋でずっと過ごし、同じ部屋で眠りにつく。こんな日が何日、何年続いたのだろう?そんな年月が私の心に貯めこんでいた暗い気持ちが、音になって、言葉になって口からあふれ出す。
「それなら、それで良いわ。どうせ私が死んでも悲しんでくれる人なんかいない。むしろ、化け物みたいな存在が消えて安心する人の方が多いはずよ。どうせ生きていても、誰かの命を奪ったり、酷いことをしてしまうだけ! 生きていても誰かを苦しめてしまって、辛いだけ! 苦しいだけ! だったら、いっそのこと、暴走ってものをしないうちに……死にたい」
口を開いて出てきたものは自分が思っていたよりも激しい言葉となった。まるで自分の心のダムが決壊してしまったかのようで、しまっていた言葉が止めどなく出てくる。最後の言葉は、まるで間違って触れてしまった汚れたものを投げつけるかのように、だけど投げる力はとても弱い、 そんな力無いものだった。
ひとしきり言い終えた私は、エルウィンの目を見ることができなかった。
「僕は、悲しいよ」
沈黙の後に、ぽつりと吐き出されたエルウィンの言葉に、私はハッと息を吞んで、ゆっくりと顔を上げる。
「僕が悲しいんだよ! グングニルが死んじゃったら! だからさ、だから……死ぬなんて、死にたいなんて言わないでくれ」
最後はもう絞り出すような声だった。
「エルウィン……」
私の口から自然にエルウィンの名前が漏れる。しばらく、目を伏せている彼をじっと見つめていた。そのうち、頬に熱い水滴が伝っていくのを感じた。私を抑えていた二つ目のダムが、音を立てて崩れていく。
「ありがとう」
ようやく、その言葉だけ口から出すことができた。ダムで抑えていたはずの感情が激しく私の胸を揺さぶって身体を支えられなくなる。よろめくように私は、エルウィンの身体に寄りかかり、そして強く抱きしめた。彼の心臓の鼓動を、確かに感じながら。