邪神エイランは友達が欲しい
エイランが地上に降り立ったのは今から数百年前のことだ。空が裂け、大地が揺れ、人々は恐怖の中で叫び声を上げた。その日、彼女の姿を目にした者たちは皆「終末が来た」と口々に囁いた。
しかし、エイラン自身はその騒ぎに困惑していた。
彼女が目を開けたとき、目の前に広がるのは青々とした空と穏やかな風、そして足元に広がる緑豊かな大地だった。彼女の世界とは全く違う、美しい場所。エイランは思わず微笑み、その場にしゃがみこんで地面に触れた。
「ここが……地球……」
別の時空から彼女を呼ぶ声に引き寄せられるようにしてやってきた異世界の神。それが彼女、エイランだった。彼女が現れたときには召喚者の姿は既に消えており、彼女をここに呼び出した者が何を望んでいたのかさえ分からないまま、彼女は一人この新しい世界に取り残された。
しかしその孤独が彼女にとって苦痛であることはなかった。むしろ彼女は期待に胸を膨らませていた。
「この世界でなら、友達を作れるかもしれない……!」
彼女のいた異世界では、エイランはあまりにも強大な力を持っていたために誰も彼女に近づこうとすらしなかった。彼女は常に孤独だった。けれどここは違うはずだ。ここでなら自分を恐れずに話しかけてくれる存在がいるだろうと、そう信じていた。
だが、現実は甘くなかった。
彼女が初めて人間の村に足を踏み入れた時、周囲に広がったのは恐怖の叫びだった。彼女の姿を見た村人たちは顔を真っ青にし、逃げ惑い、そして鐘を打ち鳴らして警報を発した。エイランが何もしていないにも関わらず、彼らの目には『巨大な怪物』が現れたと映っていたのだ。
「待ってよ!私は……ただ、君たちと話したいだけなんだ!」
エイランは慌てて声を上げた。しかしその声はどこまでも不気味に響き渡り、村の広場は瞬く間に逃げ惑う人々の足音と悲鳴で満たされた。数分後には彼女は一人取り残され、そこには一人の人間も残っていなかった。
「……どうして、逃げるんだ……?」
彼女は俯いて自らの姿を見つめた。触手が揺れ、目が幾つも輝く異形の姿──これが彼女の"問題"だった。エイランは手を伸ばしその姿を変えようと試みる。人間に近い穏やかな外見を作り出そうと。しかしどうにも不慣れで、不自然な形態しか作り出せない。それは余計に人々の恐怖心を煽るだけに終わった。
それでも彼女は諦めず、次の村へと向かうことにした。きっと次こそは──と。
しかし、それは何度繰り返しても結果は同じだった。彼女がどれほど優しく接しようとしても、人間たちは彼女を『怪物』『邪神』として恐れ、泣き叫び、武器を取って彼を追い払おうとする。世界中にその恐怖は広がり、やがて彼女の名前は忌避すべき存在として刻まれた。
エイランは、何度も傷つき、失望し、疲れ果てていた。
それでも、彼女は願うことをやめなかった。
──いつか、誰かと友達になれる日が来るはずだ、と。
***
エイランは再び人間の村にやってきた。これで何度目だろうか?もう数え切れないほどだが、彼女は今回こそはうまくいくと信じていた。過去の失敗の原因を反省し、今回はもっと『親しみやすい姿』で登場するつもりだった。
「ふむ、今回は……これでどうだ!」
エイランは人里離れた湖面に映る自分を見ながら姿を変えた。目が無数に輝くのを止めて、代わりに人間と同じような目を二つ作り出す。人間は大きな目が好きだと聞いたからできるだけ大きく、輪郭からはみ出すくらいに。触手もすべて引っ込めて、背中に天使の羽のようなものを生やしてみた。これなら完璧だ!と、彼女は自信満々だった。
そして、村に現れる。
「やあ、みんな!私はエイラン!世界を救う天使みたいな存在だから、心配しなくていいよ!」
笑顔を浮かべて村人たちに手を振るエイラン。しかし──
「ぎゃあああ!今度は天使の怪物だぁぁぁぁ!」
「新種か!?おお神よ、我々をお救いください!」
天使風にアレンジしたはずの姿に、村人たちは再び逃げ出した。エイランは呆然と立ち尽くす。なんで、なんで逃げるんだ!?今回は本当に可愛らしくしたつもりなのに!
「ううむ、天使ってのは逆効果だったか……次は何にしようかな?犬とかなら、きっとみんな喜ぶはずだ!」
エイランは前向きだった。彼女はめげない。それが彼女の最大の美徳だ。落ち込む暇があったら次の作戦を考える。それが彼女のモットーだった。
***
数時間後、エイランは小さな子犬の姿で別の村へ向かっていた。
「今度こそ完璧だ!」
彼女の姿は、ふわふわの毛並みを持った愛らしい犬に変わっている。誰が見ても「カワイイ」と思うはずだ!エイランは自信満々で村の広場に歩み寄った。
「わんわん!ワタシ、みんなと友達になりたいワン!」
彼女は声をあげ、尾を振った。しかし、村人たちは驚いた表情で集まり──
「犬が喋ってる!!」
「きっとこいつはエイランだ!エイランが出たぞ!」
「な、なんてことだ……あの邪神が、動物に変身して人々を欺こうとしている!」
「油断するな!これは罠だ!邪神の恐ろしい力を甘く見てはいけない!」
再び逃げ惑う村人たち。今度は鍬や剣を持って、子犬姿のエイランを追い払おうとしている。
「え、ちょっと、なんで!?可愛くなったでしょ!?」
尾を振り続けながら逃げるエイランは、そう大声で叫んだ。
***
エイランは村を出て元の姿に戻ると原っぱの隅で座り込んだ。地面に触手を巻きながらため息を吐く。
「うーん、やっぱり犬でもダメか……もしかして、私の問題は可愛さとかじゃなくて……?」
少し考えた後、彼女はひらめいた。
「そうだ!"人間"に変身すればいいんだ!」
次なるアイデアに燃え上がったエイランは、早速新たな姿に変身することに決めた。地球に来たばかりの頃は、人間の姿というものをよく理解していなかったため上手く変身できなかったが、今は違う。いくつもの町や村を巡りたくさんの人間たちを見てきた今ならできるはずだ。起死回生の原点回帰。次は"完璧な美女"に変身して、村の男性たちのハートを掴んでやろう。そうすれば、きっと人間達と仲良くなれるはずだ。──そう、彼女は信じて疑わなかった。
エイランの前向きで失敗続きの冒険は、まだまだ続く。
***
エイランは満足げに自分の姿を見つめていた。今回は人間の美女の姿を完璧に作り上げた。スタイルは良く、髪はサラサラの黒髪に大きな──今度は大き過ぎないようほどほどに気を付けた瞳。そして整った顔立ち──これで間違いなく村の男たちの注目を浴びるはずだ。
「フフッ、さあ、今度こそ大成功だ!ついに友達ができる日が来た!」
彼女は自信満々で村の門をくぐり、広場へと足を進めた。すれ違う村人たちは彼女の姿に驚いた表情を見せたが、今回は逃げ出すことも武器を取ることもなかった。「作戦成功!」とエイランは内心で小さくガッツポーズを決めた。
「おい、あの子は誰だ……?」
「あんなに綺麗な人、見たことないな……」
村の男たちがひそひそと囁く声が彼女の耳に届いた。エイランは心の中で歓喜の舞を踊っていたが、表面はあくまで穏やかに振る舞う。完璧な変身の効果に満足しながら、軽く会釈して微笑んだ。
「やあ、みんな……」
その瞬間だった。
「エイラン様あああああ!!」
突然、後ろからものすごい勢いで男が駆け寄ってきた。彼は崇敬の眼差しを浮かべエイランを見つめていた。
「エイラン様!見ていましたよ!まさかこんな美しい姿にまで変身できるなんて、やっぱりすごい力をお持ちなんですね!流石邪神として恐れられているお方!さあ、あなた達もエイラン様を崇め奉るのです!」
ざわざわとどよめきが広がったあと、広場にいた全員が一斉にエイランを凝視し、静寂が広がった。
「ちょ、ちょっと待て、そんな呼び方しないで!私は別に邪神じゃなくて──」
エイランが慌てて訂正しようとしたが、男はもうすでに興奮しており彼女の話を聞く様子はなかった。目を血走らせ早口で邪神エイランを讃える言葉を吐き出し続けている。エイランが言い訳する間もなく村人たちの間で噂が広がり始める。
「エイランがこの村に来たのか……!」
「でも、邪神って聞いてたけど、意外とかわいいな……」
「いやいや、きっとこれも何かの罠だ!油断してはいけない!」
エイランはため息をついた。まただ。人間たちは彼女を誤解し続ける。せっかくの完璧な変身もこの男のせいで台無しだ。
「……くそ、次こそはうまくやるさ……」
彼女は自分に言い聞かせながら広場からそっと立ち去ることにした。だがその背後で村人たちが警戒しつつも興味津々に彼女を見送るのを感じて、もう一度だけ振り返って微笑んでみせた。
「これが友達作りの道のりか……なかなか険しいなぁ」
エイランの冒険は続く。果たして彼女が人間と仲良くなれる日は来るのだろうか?
***
──次の日。
エイランは村の外れにある小さな丘の上で考え込んでいた。前日の失敗はさすがに応えた。しかし諦めるつもりはない。むしろこれまで以上に作戦を練ることで、今度こそ人間たちと仲良くなれるはずだ。
「ふむ……次の作戦はどうしようかな……」
考えた末に、彼女はポンと膝を打った。
「そうだ!お金だ!人間はみんなお金が好きだろう?」
彼女はそう確信し、早速『大金』を持って次の村に行くことに決めた。だがエイランにはひとつ問題があった。"お金の価値がわからない"。ただでさえ異世界出身の上、邪神として人間達から忌避されて長い年月を生きてきた彼女は人間社会の貨幣経済には疎かったのだ。そこで彼女が目をつけたのは──
「そうだ、金色に光る石だ!これを山ほど集めれば、人間は喜ぶに違いない!」
彼女はそう思い立ち近くの山の岩場から石をたくさん拾い集めたあと、再び人間に──今度は変身する姿を誰にも見られないよう細心の注意を払いながら変身し、昨日の男が『献金』と言って渡してきたお金を使って金色の塗料を買い、拾い集めた石を一つ一つ塗り始めた。
「ふぅ……よし、できたぞ」
彼女はそう言って塗り終えた石を袋に詰めていく。もちろんそれはただの塗料によって輝く石でしかなく本物の金ではない。しかしエイランはすっかりそれを財宝だと思い込み、意気揚々と村に向かった。
***
エイランは大きな袋を肩に担いでいる。その中には彼女が拾い集め、塗りたくった『金色の石』がギッシリ詰まっている。エイランは広場の真ん中に立ち村人たちに向かって声を上げた。
「村のみんなー!私は君たちと友達になりたい!だから、この『財宝』を君たちに贈るよ!」
そう言って袋の中身をドサッと地面にぶちまけた。キラキラと光る石が地面に散らばり、村人たちは一斉に注目した。
「おおおっ!すごい……!」
「邪神の財宝だ!!」
村人たちは一瞬、目を輝かせた。エイランは心の中で小さくガッツポーズを決めた。
(今度こそうまくいった!)
だが、その瞬間。
「待て……これ、ただの石じゃないか?」
一人の村人がしゃがみ込んで石を手に取ると、その素朴な疑問を口にした。エイランの笑顔がピタリと凍りついた。
「え、嘘だろ?これ、金じゃないのか?」
「いや、これただの普通の石だよ。しかも、よく見たら塗料で塗ったような感じだぞ」
村人たちは次々に石を手に取り、あっという間にエイランの『財宝』の正体に気づき始めた。ざわざわと広がる失望の声。
「なんだ、期待して損した……」
「やっぱり邪神は私達人間を騙そうとしてるのね……恐ろしい……」
エイランは頭を抱えた。どうしてこうなるんだ!?こんなに頑張っているのに……
***
──それから数分後。
エイランは村の門の外にそっと身を潜めていた。そんなすっかり落ち込んでいる彼女の元にひとりの少年が近づいてきた。
「ねぇ、あなた……もしかして、あの『エイラン』さん?」
少年は好奇心いっぱいの目でエイランを見つめている。エイランは驚いた表情で少年に振り返った。
「そ、そうだけど……君、怖くないのかい?私のこと、みんな邪神だって言ってるのに」
少年は首を横に振った。
「僕は怖くないよ。むしろちょっと面白いと思ってさ。だって、みんなと仲良くなりたいって言ってる邪神なんて聞いたことないもん」
エイランの目がぱちぱちと瞬きをした。こんな反応をされるのは初めてだった。
「え、えっと……そ、そう?君、私と……友達になってくれるの?」
少年は笑顔で頷いた。
「もちろんさ!それにこの石、結構カッコいいし僕が全部もらってもいい?」
エイランは少し戸惑ったが、笑いながら頷いた。
「もちろんだよ!全部君のものだ!」
少年は嬉しそうに石を集め始め、エイランはようやく一歩進んだ気がした。
「やっと……やっと友達ができた……!」
エイランの冒険はまだまだ続くが、少なくとも彼女にとっては"初めての成功"だった。
***
──次の日の朝。
エイランは丘の上でぼんやりと空を眺めていた。昨日の出来事は彼女にとって大きな転機だった。ついに人間と友達になれた──たった一人だけど、それでも大きな一歩だ。
「友達か……」
エイランは胸の奥に温かいものを感じながら少年との再会を心待ちにしていた。すると遠くから元気な声が聞こえてくる。
「エイランさーん!」
あの少年だ。
彼は手に何かを抱えながら全速力で丘を駆け上がってきた。エイランは微笑んで手を振る。
「おはよう、君。早いね、どうしたんだい?」
少年は息を切らしながら手に持っていたものをエイランに差し出した。それは小さなパンの包みだった。
「これ、僕の家で作ったんだ。お礼ってわけじゃないけど、昨日の石、すごく気に入ったからさ!」
エイランは一瞬驚いたがすぐに優しく微笑んだ。人間が彼女に何かを与えるなんて考えてもみなかったことだ。
「ありがとう、君……えっと、名前をまだ聞いてなかったよね?」
少年は笑顔で答えた。
「僕はティアだよ!僕のうちはパン屋さんで、僕も将来世界で一番のパン屋さんになるのが夢なんだ!」
エイランはその言葉に胸が温かくなった。ティアは目を輝かせながら話を続けた。
「ねぇ、エイランさんはどんな夢を持っているの?」
その質問にエイランは少し考え込んだ。夢か──考えたこともなかった。彼女は長い間ただ孤独に過ごしてきた。だが今の彼女には新たな目標がある。
「そうだな……私の夢は、人間たちと仲良くなることかな」
ティアはそれを聞くとにっこりと笑って言った。
「それなら僕が手伝ってあげる!村のみんなを紹介してあげるよ!あ、でもまだ怖がってる人が多いから、少しずつね」
エイランはその言葉に感謝の気持ちを抱きながら、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう、ティア。君がいれば、私もいつか……本当にみんなと仲良くなれるかもしれない」
そうして二人は、並んで丘の上でパンを分け合いながら、のんびりとした時間を過ごした。
***
──数日後。
エイランとティアは村の広場で作戦会議をしていた。どうすれば村人たちの信頼を得られるかを真剣に話し合っている。
「まずは、エイランさんの力を使って何か役に立つことをするのがいいんじゃない?」
ティアの提案にエイランは考え込む。
「そうだね……でも私の力、あんまり目立つとまた誤解されるかもしれないし、慎重に使わないと」
「そうだ!僕の家でパンを焼くのを手伝ってみない?」
その突拍子もない提案に、エイランは少し戸惑った。
「え、私が……パンを焼く?でも私、料理なんてしたことないよ?」
「大丈夫だって!僕が教えてあげるからさ!」
ティアは自信満々に笑った。エイランはしばしの沈黙の後、ふっと微笑んだ。
「よし、やってみよう」
***
エイランはティアの家のパン屋で巨大なエプロンを着けられ、ティアの母親に心配そうな目で見守られながらパン作りの準備をしていた。
「じゃあ、まずはこの生地をこねて……」
ティアが手本を見せるがエイランの手元はぎこちない。神の力を持つ者がパンをこねる姿は滑稽そのものだった。
「こうか……いや、なんか違うな……」
エイランは生地を不自然な形にこねくり回してしまい、ティアは思わず吹き出した。
「ははは、違う違う!そんなに力を入れたらダメだよ!もっと優しく、こうやって──」
エイランはティアに教わりながらなんとか形を整えていく。しかし最終的には不格好なパンが次々とできあがってしまった。
「これで……いいのかな?」
「うーん、まあ、味はきっと大丈夫だよ!さあ、焼いてみよう!」
エイランは少し不安そうだったが、ティアの言葉に励まされてオーブンにパンを入れた。そしてしばらくして──
「焼けたよ!」
ティアが窯からパンを取り出し、エイランが作った不格好なパンが次々とテーブルの上に並べられた。ティアは笑顔でそのうちのひとつを手に取り、大きな口を開けてかぶりつく。
「うん!美味しいよ!」
エイランは驚いた表情でティアを見た。
「本当に?私、こんなの初めて作ったのに……」
「うん!見た目はともかく、味は最高さ!これで村の人たちにも喜んでもらえるよ!」
***
エイランとティアのパン屋プロジェクトは村に少しずつ広がりを見せ始める。エイランは村人たちの間で『不器用だけど優しい存在』として、少しずつ誤解が解け始めていた。
***
ある静かな夜、村は不気味な沈黙に包まれていた。
エイランとティアがパン作りに励んでから数週間が経ち、村人たちの警戒心も徐々に薄れてきた。エイランはようやく、少しだけ受け入れられ始めたのだ。しかしそんな穏やかな日々の中、村のはずれにある森で奇妙な出来事が起こり始めていた。
「森の中に何かが潜んでいるらしい……」
村人たちの間でささやかれる噂は日に日に広がっていった。夜になると森から聞こえてくる不気味な声や、暗闇の中に光る赤い目を見たという者もいた。
エイランはその話を聞くたびに胸がざわついた。かつての彼女の力が誤って解き放たれたのか、あるいは別の何者かが動いているのか──エイラン自身も確信が持てなかった。しかし村人たちは次第に恐怖を感じ、再びエイランを疑うようになっていった。
***
──ある夜、ティアの家。
エイランはティアとその母親と一緒に夕食をとっていた。楽しい食卓のはずが村人たちの不安が空気を重くしている。
「エイランさん、森の噂って……やっぱりあなたの力が関係してるのかな?」
ティアは申し訳なさそうに問いかけた。彼はエイランを信じているが、村の皆が怯える様子を見て不安を隠しきれないようだった。
エイランは目を伏せて小さく息を吐いた。
「私も分からない。でも、もし私のせいなら……何とかしなくちゃいけない」
エイランは立ち上がり静かに決意を固めた。彼女は自分が村に害を及ぼすことだけは避けたかった。
「ティア、君はここにいて。私が森に行って、確かめてくる」
ティアは驚いたが、エイランの真剣な顔を見て反論できなかった。
「……分かった。でも、気をつけてね」
***
──森の中。
夜の闇が森を覆い尽くし、月明かりもほとんど届かない。エイランは一歩一歩慎重に足を進めながら異変の源を探していた。周囲は静かすぎる。動物の気配も感じられないこの静寂は、何かがおかしいことを物語っていた。
「何かが……いる」
エイランがその気配を感じた瞬間、闇の中から不気味な声が響いた。
「久しぶりだな、エイラン」
その声は低く、冷たい──かつてのエイランの故郷にいた別の邪神のものだった。彼はエイランを見下ろすように森の奥から姿を現した。背はエイランよりも高く、漆黒のオーラを纏っている。
「君もこの世界に来ていたのかい?」
エイランは驚きとともに後ずさった。彼女はこの存在と再び顔を合わせるとは思っていなかった。
「フン、これはこちらのセリフだ。向こうではお前がいたせいで俺の世界征服の野望は叶わなかった。だからお前のいない世界で全てを支配してやろうとしていたのに……何故俺を追って来た?」
「私は自分の意思でこの世界に来たわけじゃない、誰かに呼ばれたんだ。私を呼んだその人はどこかに行っちゃったけど」
エイランは邪神を睨み返した。邪神は鼻で笑った。
「フン、まあいい。お前がこの村でのんきにパンを焼いている間に俺は新しい計画を進めていたのさ。だが、その計画には──お前が邪魔だ」
その言葉が終わると同時に邪神は闇を操りエイランに襲いかかってきた。エイランは咄嗟に身をかわしながら反撃の準備を整えた。
「私はもう、君と同じように世界を恐怖で支配するつもりはない!この村を傷つけさせるものか!」
エイランは拳を握りしめ自分の中にあるかつての力を呼び起こした。しかし彼女は気づいていた。長い間その力を封じていたため全盛期の頃ほどの力はもう残っていない。
「ククク……お前の力はもう衰えた。今のお前に何ができる?」
邪神は嘲笑しながらエイランにさらに追い打ちをかけた。エイランは必死に抵抗するが、力の差は歴然だった。
その時──
「エイランさん!!」
遠くからティアの声が聞こえた。ティアは心配になりエイランを追って森に来てしまったのだ。エイランは驚いて振り返る。
「ティア!来ちゃ駄目、逃げて!」
だがティアは逃げるどころか石を持って邪神に向かって投げつけた。
「エイランさんをいじめるな!」
邪神は一瞬動きを止めティアを見下ろした。
「フン、愚かな子供め……」
だがその隙にエイランは残りの力を振り絞り、邪神に向かって突進した。
「今だ──ティア、逃げて!」
エイランは邪神の攻撃を防ぎ何とか時間を稼いだ。その間にティアは何とか無事に森を抜け出した。
「これ以上、村を巻き込むわけにはいかない……!」
エイランは心の中で叫びながら最後の力を振り絞って邪神と対峙した。
***
エイランは全身に力を込め邪神に立ち向かった。しかしその力は明らかに限界に近かった。かつての自分なら簡単に対処できたはずの相手に、今は一歩一歩押し返されている。
「お前の力は最早かつてのものではない、エイラン!」
邪神は勝ち誇ったように笑いながら闇を渦巻かせた。エイランはその黒いエネルギーの波をなんとか防ごうとしたが、既に力尽きかけていた。
その時──
「エイランさん!!」
ティアが再び遠くから走り寄ってくる声が聞こえた。彼は逃げたのではなく村から何かを持って戻ってきたのだ。エイランが驚いて振り返るとティアの手には、何と"小さなパンの袋"が握られていた。
「これで──これで倒すんだ!」
ティアは必死に叫びながらパンをエイランに投げ渡した。エイランは目を見張りつい思わずパンを受け取ったが、状況が全く理解できない。
「ティア、これはただのパンだよ!」
「違うんだ!これは、僕が作った一番のパン!これを食べれば、力が湧いてくるはずなんだ!」
ティアの目は真剣だった。その純粋さに、エイランは思わず一瞬笑ってしまった。パンで邪神を倒すなんて常識ではあり得ない。しかしその笑顔の裏にはティアの"揺るぎない信頼"が込められているのを感じた。
「君が信じるなら……私も信じよう」
エイランはパンを握りしめ、思い切ってかぶりついた。すると──
不思議なことに、エイランの中にエネルギーが戻ってくるのを感じた。
「え……?」
エイランは驚愕しティアを見た。ティアは笑顔で頷き、言った。
「ね、言ったでしょ?僕のパンは特別なんだ!」
エイランは笑いが止まらなかった。まさか、本当にパンに力が宿るなんて──ティアの純粋な気持ちが、魔法のように力を与えてくれたのだ。
「ありがとう、ティア……」
エイランは新たな力を感じながら再び邪神に向き直った。
「さあ、これで終わりにしよう!」
エイランの体は光に包まれ、以前の力を思い出したように輝き始めた。 彼女は自分の中に眠っていた本来の力を取り戻し、闇に立ち向かう準備が整ったのだ。邪神はそれに気づき顔をしかめる。
「何だと……!?」
「君の野望はここで終わりだ。私がこの村を、この世界を守る!」
エイランは再び闇の渦に飛び込み邪神の攻撃を全て打ち破った。闇の中で二人は激しくぶつかり合い、エイランの光が闇を切り裂いていく。
そして──
最後の一撃を放った瞬間、邪神の姿は消え森には静寂が戻った。エイランは荒い息を吐きながら膝をついたが微笑みを浮かべていた。
「終わった……」
遠くからティアがエイランに駆け寄ってきた。彼の目には涙が浮かんでいたが、その顔は笑顔だった。
「エイランさん!本当にすごいよ!僕のパン、役に立ったんだ!」
エイランはティアの頭をそっと撫で、静かに言った。
「君のおかげで、私はもう一度立ち上がれた。ありがとう、ティア」
ティアの信頼と友情が、エイランを救ったのだ。
***
──数日後。
村ではエイランの活躍が広まり、村人たちは彼女に対する恐れをようやく捨て始めていた。村ではティアの店が大人気になり『邪神を倒すパン』と称して売り出されたパンが飛ぶように売れていた。
エイランはティアの手伝いをしながら、少し照れくさそうにその光景を見つめていた。
「まさか、パンで邪神を倒す日が来るとはね……」
ティアは笑って言った。
「僕たち、最強のコンビだね!」
エイランは頷き、この村での新しい人生が始まったことを感じていた。かつて孤独だった彼女は今や村の大切な一員として受け入れられ、そして何より──『友達』ができたのだ。
絆を得たエイランの物語はこれからも続いていく──