お弁当
「──んっ」
「あっ、起きた。柚、大丈夫?」
保健室のベットで目を覚ました俺の視界には今、天使が映っている。
「あれ? 俺って死んだ……?」
「もう、冗談とかいいから」
「でも……」
「じゃあ聞くけど、どうして喋れてるの?」
「あっ、確かに。矛盾してたわ」
一瞬独特な世界観に浸ろうかとも思ったが、今はやめておこう。実際、身体が少し重い。
「ふぅ」
「えっ、もう起きて大丈夫なの?」
ゆっくり身体を起こすと、ふわっといい香りが目の前を通過する。
この匂い、知ってる。
「……シトラス……」
「えっ、そう! なんで分かったの!?」
ほーら知ってた。
すぐ横に椅子を持ってきたあゆは、興味津々といった様子で俺の顔を覗き込む。
すると再び、シトラスの香りが鼻を抜けた。
「まぁ、お腹すいてるからかな」
……あれ、何言ってんだ俺。
「へ、へぇ」
(うん、全然わかんない)
ほら引かれた。
あゆの冷たい視線が俺を襲う。
でも、本当の理由は言えない。
だって、俺と同じ柑橘類だから分かったとか、ちょっと恥ずいし。
それになぜ、この時の俺は気づかなかったんだろう。ただ単純に『偶然知ってる香りだったってだけ』と言えばよかったことに。
「ところで、授業はいいの?」
「ん?」
これは感覚でしかないが、俺は30分以上寝ていた気がする。つまり、この場にあゆがいるのはまずいんじゃなかろうか。
あゆは俺と違って、優秀な生徒なのに。
「ふっふっふ。二限は確か、数学だったよね?」
おっと。この言い方、何やら自信があるようだ。
「うん」
「まさか忘れてないよね? 私は室長だよ?」
「えっ、それがなに?」
いや、まさか……な。
この時、俺は何となく察していた。
あゆならきっと、
「だから大丈夫ぶい! しかももうすでに、今日の範囲は予習済みです!」
こう言うだろうって。
ただ、いくらバカっぽい答えでも、こればかりは文句が言えない。
「ほぅ、完璧超人ってか」
「その通りなのだよ」
俺はその域に達したことがない凡人。
でもまぁ、『出席率には響くよね』って、ツッコみくらいは出来たかも。
なんて言ってたら、俺のお腹がなった。
「あっ」
「あっ、予想通り! わっはっはー!
私は腹ぺこくんのために、お弁当を持ってきたのだよ!」
椅子の下から取り出したそれは、見覚えのあるお弁当箱だった。
「どうも」
「・・・えっ、反応薄っ!?」
それもそのはず、この時の俺は、喜びより恐怖の方が勝っていた。
だって、普通に怖くない?
流石に人のこと理解しすぎでしょ。
「ほらっ、ちゃんと持ってきたのだよ!」
あゆの膝上に広げられたお弁当。
中でも、光り輝く黄金の玉子焼きが俺の目を釘付けにした。
ふーむ、美味そう。
「では早速、いただきます」
俺は玉子焼き目掛け手を伸ばす。
しかし、なぜか辿り着けない。
「チッチッチ。ただであげるとは言ってないのだよ」
そう。俺とお弁当の間には、あゆの手のひらという壁がある。
「えっ?」
何かに影響されたであろう気になる話し方はさておき、今のはどういう意味だ?
だってそれ、俺のために持ってきたんじゃ──
「は、はい、あーん……」
・・・へっ?
一瞬、思考が停止した。
「あれ、食べないの……?」
いえ、食べれないんです。
主にあなたのせいで。
「な、なら、私が食べちゃおっかなー」
(なーんて)
あっ、食べられる。
そう思った時、箸に挟まれた玉子焼きが俺に話しかけてきた。
「はぁ、俺は幸せ者だぜ。こんなべっぴんさんに食べてもらえるなんてよぉ」
えっ、喋った……?
突然のあーんに動揺しすぎたせいか、俺は幻覚を見ている。
「お前さんも早くこっち側に来いよ。
あーんくらい、別に誰でもやるぜ」
「へぇ、そうなんだ」
でもこいつ、ちょっと話しやすいかも。
「ああ、もちろんさ。あーんなんて、友達同士なら常識だぜ」
「なるほどな」
そんなわけで、俺は覚悟を決めた。
「いただきます」
パクッと1口。
(……えっ、近っ!?)
勢いよくかぶりついた俺は、じっくり玉子焼きを味わう。
「おー、美味しい」
不思議とそれは、いつも以上に美味しく感じた。学生弁当らしい冷たさも、黄身と白身の割合がちょうどいいこいつの前では、全くもって気にならない。
ただ強いて言うなら、あゆの様子がおかしい……。
「……ほ、ほんとにしちゃったよ……私のバカバカ」
顔を背けているが、見えている耳は真っ赤っか。
なるほど。顔を隠して耳隠さず。
どうやらあゆは、完全にバグってしまったらしい。
不・正・解!!!
「おーい、大丈夫かー」
「う、うん……!? 大丈夫、無問題」
なぜに広東語?
直後、弁当を枕上に置くあゆ。
「えへへ」
とりあえず、大丈夫じゃないことだけは理解した。
正・解!!!
「あっ、もう終わり?」
「えっ、いや、ちょっと待って!?」
「えぇ、まだお腹すいてるのに」
「わ、分かったよ! はい、あーん……」
先程よりあゆ側に寄っている玉子焼きに、俺は迷わずかぶりつく。
距離は味に関係ないからね。
「うまうま」
しかし、当然無理をすればその反動がやってくる。人間の体は、宙に浮いたりしない。
「あっ、重力忘れてた」
結果、俺は勢いそのまま、あゆの腿に着地した。
「ええっ……!?」
なぜだろう。
この吸い込まれるような感覚、ベッドよりも安心して眠れそうな気がする。
「……おやすみ」
「──む、無理無理無理無理無理無理無理!!!」
気づくと俺は、ベッドに弾き返されていた。
あれ? 無問題じゃなかった?
「よっと」
その際、空高く飛び上がったお弁当は俺が華麗にキャッチしておいた。
ほんと、こういう時は動けるんだけどね。
運動神経は悪くない。といっても、運動神経がいいの指標が分からないから、いいとまでは言いきれないけど。
それにしても落ち着きがないな。
「わわわ私、教室戻るね……!
ゆゆゆ柚、ななななんか、げげげげ元気そうだし……!」
あっ、授業に出たくなったのか。
そうならそうと、早く言ってくれればよかったのに。
「分かった。あっ、お弁当は?」
「あああ後で返してくれればいいから!
ま、またね!!!!」
そう言うと、あゆは凄まじい勢いで部屋を出ていった。その際、勢いがよすぎて僅かに空いた隙間を、俺はしばらく眺めていた。
「台風みたいだったな。あっ、もちろん、目が無いタイプの」
そんなことを呟きながら、俺は玉子焼きを口に運ぶ。
「ほんと、最高に美味しい」
俺はこの幼なじみが嫌いだ。
どこを取っても完璧な、そんな幼なじみが嫌いだ。
その後、教室では……。
「じゃあこの問題を天乃川」
ぼーーーーーーーーっ。
「──は、無理そうなので、誰か代わりに頼む」
「「「やります!!!」」」
こんなことが起きていた。