第三話
「──紡? ぼーっとしてるけど、何かあったの?」
考え事に耽る紡を現実に引き戻したのは、友人の少女の声だった。
栗色のナチュラルボブに素朴な童顔。
紡が着ているものと同じデザインの高校の制服。教室の前に掛かっている時計を眺めて、今が一時限目と二時限目の間の休み時間であったことを思い出す。
焦ったような声で少女からの電話があって、彼女の家に泊まっていた紡は一度家に帰り、制服に着替えて鞄を持って、高校に来たのだった。
十日ぶりくらいに学校に来たせいか、休み時間の喧騒が新鮮なものに感じる。
「……ぼーっとしてたかな?」
「してたよー。なになに、恋? 話あったら聞くよ?」
机の上にずいっと身を乗り出してきて、少女が興味津々に目を輝かせる。
勘がいいのか、ただ単に恋バナがしたいだけなのか。或いは、この間できた彼氏について惚気たいだけかもしれない。その説が有力そうだった。
面倒な話に発展する前に紡は先手を打つ。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」
「怪しいなあ。最近、めっきり学校来なくなってたし。……やめちゃうのかと思ってた」
「メールは返してたでしょ。単位落とす直前になったら教えてって」
「それ、先生に聞く私の身にもなってよね!」
むっと唇を窄める少女。
「いつも感謝してるよ」
「感謝だけされても……今度、駅前のクレープくらい奢ってもらわないと」
下手くそなウインクをしながら少女が提案する。
「分かった分かった。また今度ね」紡はそれを軽く流す。
こうすれば、もしあとで断ることになったとしてもあとくされないからだ。
「……にしても、本当に恋してるんじゃないの?」
しつこく食い下がってくる少女に紡は辟易する。この様子だと、本当に気になっている様子だった。そんなに分かりやすいだろうか。彼女にもちょっと前に言われた気がする。
「……そんなに分かる?」
紡が意味深に首を傾げると、少女はなぜか意気揚々と食らいついてくる。
「分かる! 最近かわいくなったし、ぼーっとしてること増えたし!」
「そっか。……うん。好きな人、できたんだ」
紡は乾いた笑みを零した。
好きな人。口にしてみて初めて自覚する。ああ、そうか。
会えば勝手に顔が綻ぶのも、離れていると心細くなるのも、好きだからなんだ。
「えー、どんな人? 見た目は? 優しい?」
紡は彼女のことをかいつまんで話した。少女は時折、相づちを打ったり、びっくりしたり、夢中になって会話に興じていた。
「女の人なの? それも、大人の? はえー……さすが紡」
「さすがって」
一頻り話し終えて沈黙が訪れる。休み時間の残りもほとんどなくなっていた。
紡が前へと向き直ろうとする。そこで、少女が思い出したように言った。
「……でも、その人。なんか見たことある気がする」
「……なんか、含みある?」訝しげに紡は薄目を作った。
「ううん。違う人かもしれないし、その可能性の方が高いとは思うから」
「何かあるなら、教えて」
言葉を濁す少女に詰め寄り、紡は真剣な表情を作る。
「……んー。怒らないでね? その特徴に似てる人を、この前、街の方で見かけて。あ、すっごく綺麗な人だから目を集めてたんだけどね」顎に人さし指を当てながら少女が言う。
「その人、紡じゃない女の子と手を繋いでた気がして……」
「……それって、いつのことか聞いてもいい?」
食い気味に紡が聞くと、少女は少し考える素振りをしたのち、口を開いた。
「──確か先週の月曜日、だったかな」
数秒あと。
がたりと音を立てて席を立った。周囲の視線を一瞬集めた気がするが、紡は気にしない。すぐに周りの子たちも紡から興味を失って、それぞれの休み時間に戻る。
先週の月曜日。仕事に入ってない彼女が夜まで、帰ってこなかった日。
「……。あのさ。今日、私お休みするって先生に言っといて」
「え。ちょっと、紡?」
早足気味に教室の出口へと向かう。
「あとでお礼はするから!」
たったった、と早歩きから段々小走りになる。教室の出口付近で談笑していた数人のグループが目を丸くするのを横目に流して、通学鞄も持たずに教室を出る。
「そうじゃなくて……今日の午後授業受けないと、単位落とすってば! 紡ぃ!」
追いかけてくる叫び声に聞こえなかった振りをして、紡は学校を後にした。
♢
彼女の家の鍵は開いていた。というか、そういう日はままあった。
紡は二人分の飲み物──お酒は年齢的に買えないからジュースを買って向かった。オレンジジュースとりんごジュース。彼女がジュースを飲んでいるところを紡はあまり見たことはなかったが、なぜかオレンジジュースが好きそうな気がして選んだ。
彼女がよくつけている香水が、柑橘系のものだからかもしれなかった。
玄関に彼女のよく履く靴はあった。
学校を抜け出してきたことに対する罪悪感は多少はあれど、同時に発生する高揚感みたいなものに呑み込まれて、気にならなくなっていた。むしろ気分は悪くなかった。
月曜日のことを問い詰めようとやってきたはずなのに、彼女に会えると思うとどうでもよくなっていた。我ながらちょろいなと思う。
けれど、部屋に入る直前で、紡はドアノブに手を掛けるのをやめた。
部屋の中から、彼女の甘い話し声が聞こえてきたからだ。
「──うん。一人だよ。今日はでかけてるから」
誰のことだろうか、なんて考えるまでもなかった。きっと紡のことだ。
「ううん。好きだよ。でも、許してはくれないかな」
それ以上聞きたくなくて、紡は避難先としてキッチンに足を運んだ。けれど、数分経って部屋のドアの前に帰ってきたとき、紡は一番聞きたくなかった言葉を聞いてしまった。
「あたしには千夏ちゃんしかいないよ。──うん、愛してる」
ぱりん、と胸の奥で何かが壊れたような音がした。幻聴かもしれない。
踵を返して、がちゃりとドアノブを回した。一人で住むには広すぎるくらいの彼女の部屋。部屋には沢山の照明が置かれているけれど、そのどれもが点いていない。
藍色のカーテンが外からの光もほとんど遮って、彼女の手元のスマホだけが部屋を照らしている。
暗がりの中、彼女は何事もなかったように、紡に柔和な微笑みを向けた。
「ごめん。ちょっと切るね。……んーん、違うよ。それじゃ、あとで行くね」
まだ声が聞こえていた気がしたけど、ブツっと無機質な音を立てて通話は切れた。
「どうしたの? 紡ちゃん。あ、もしかして忘れ物しちゃったとか?」
「忘れ物……。学校に鞄、置いてきちゃいました」
「そっかー。……じゃあ、取りに戻らないとだね」
「そんなこと、言いたいんじゃなくて」何を言えばいいのか分からない。
「──あたしのこと、殺したくなったの?」
あくまで笑みを崩さないまま彼女が聞いてくる。
「……。殺されるようなこと、したと思ってるんですか」
彼女は首を傾げるのと首肯を同時に、曖昧な角度で斜めに頷いた。
「……うん。だって、紡ちゃんはあたしのことが好きだから。裏切られたと思ったでしょ?」
それに、と彼女は続ける。
「その左手に持ってるの、今から料理するためじゃないよね」
彼女はスマホのライトを点けて、紡の左手を照らした。その手には小さなナイフが握られている。切っ先がぎらりと鋭く光を反射して、その刀身を白く浮き上がらせる。
「…………怖いとか。ないんですか?」
全然? と彼女は本当に何でもないように告げた。
「それよりあたし、これから出かけなきゃなんだ。お留守番、お願いしてもいい?」
「私のことは、遊びってことですか」
「紡ちゃんのことも、大好きだよ」
「……はぐらかさないでください」
「……じゃ、遊びじゃないって言って欲しい? 紡ちゃんしかいないよって。……もうすぐ、そうしたことも忘れるのに?」
彼女が言っていることの意味が分からなくて、紡はぎゅっとナイフの柄を握る力を強める。
これ以上、何も言わないで欲しかった。自分が制御できなくなっていく感覚がある。
そして彼女が行くというなら、紡はきっと、その衝動を止められない。
「あなたが、私を……選んでくれるなら、それで」
気付けば紡は滂沱と涙を流していた。頬を伝い、足の甲にぽたり、ぽたりと雫が落ちた。
彼女はいつものように悲しそうな顔をして、けれど紡の頭を撫でることはしなかった。
きっと、紡の今一番欲しいものを分かっていながら。
──まるで、それが決別の行為と取られることを厭うように。
「ごめんね。愛してるよ、紡ちゃん」
作り物めいた柔らかい笑みを浮かべて、彼女が言う。初めて言われたけど、初めて聞くわけじゃない彼女が愛を囁く言葉。できることなら、紡が最初に聞きたかった。
そうすれば、まだいくらかは、許せたかもしれないのに。
「嘘」
「……ごめんね」
何に対して謝っているのか分からない。そもそも謝られているのは紡なのか。
でも、彼女の意志は、ハンガーラックから上着を取ったことで、はっきりと分かった。
紡は彼女の側に歩み寄った。その整った顔をじっと見つめて、まず煙草くさいなと思う。神様が造形美を求めて、それぞれのパーツを精緻に配置したような綺麗な顔。
視線を落とすとシャツを歪ませる大きな膨らみがあって、華奢な手が、足が伸びている。指先にはやや長くて、でも表面まで滑らかに手入れのされた爪が生えている。服を脱がないと見えないけれど、背中の肩甲骨あたりには二つ並んで、かわいらしい黒子がある。
見た目だけでこれだ。中身なんて筆舌に尽くせない。
優しいところ、甘いところ、頭がいいところ、話が上手なところ、料理ができないところ、よく笑ってくれるところ、紡の前ではお酒も煙草もしないところ。
今だって、全部好きなのに。
「……いいよ。紡ちゃんが行くのを止めたいなら、このまま刺して。思いっきり」
彼女が紡の手首を掴んで、自分の身体にナイフの切っ先を宛がう。
あとは、体重をかけて力を加えるだけでよかった。
鎖骨の少し下あたり、豊かな乳房の付け根に刃物の先がすっと通った。
子供の頃に見たことがある、彼岸花を思わせる鮮やかな色の血がナイフを伝って手を汚す。微睡む瞬間にも似た穏やかさの中、静かに衝撃を受けた。
「あ、あ……」
紡が大好きな柔和な笑みに、淋しさが浮かぶ。
それは彼女の垣間見せた弱さに見えた。
徐々に、彼女の脈が弱まっていって。息が途切れて。
ふっと、見えない糸が切れたように頽れる彼女を、紡は抱き留める。
長い睫毛に触れようとした瞬間、とぷんと、不透明な水の中に沈んでいくかのように、視界が暗くなっていく。しっとりとした彼女の柔肌と、シトラスノートの香水の香り。身を委ねたくなるような陶酔感。
やがて感覚も、境界すら曖昧になって。
底のない泥濘に深く、深く沈んでいく。
「──大丈夫? 泣いてたけど。……嫌な夢でも見た?」
紡は滑らかな感触のベッドシーツを指先で寄せ、少し立った部分を別の指でなぞる。
まだ全身を支配する浮遊感に浮つきながら、夢のことを考える。
ゆめ、夢。さっきまで覚えていたはずなのに、彼女の顔を見た瞬間、忘れてしまった。
思い出す気力もなく、紡は取り敢えず涙を誤魔化すように欠伸をする。
「今、何時?」
「十一時。学校行く? それとも、まだ寝る?」
「……ううん」
────。