第一話
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鎖骨の少し下あたり、豊かな乳房の付け根に刃物の先がすっと通った。
子供の頃に見たことがある、彼岸花を思わせる鮮やかな色の血がナイフを伝って手を汚す。微睡む瞬間にも似た穏やかさの中、静かに衝撃を受けた。
見上げれば、すぐそばに彼女の顔がある。
ずっと触れたくて、でも近付けば躊躇ってしまうほど綺麗な顏。
彼女は驚くわけでも痛みにもがき苦しむでもなく、ただ淋しそうに笑っていた。
ゆったりと進む時間の中、彼女の口が動く。
激しい耳鳴りの中で、どうにか耳を澄ます。
「……じゃ、遊びじゃないって言って欲しい? 紡ちゃんしかいないよって。……もうすぐ、そうしたことも忘れるのに?」
耳元で、煙草より苦く、砂糖菓子よりも甘ったるい声が囁く。
その声を聞けば、魔法をかけられたように全身に力が入らなくなる。
ナイフは彼女の身体から引き抜かれた途端、手から離れて床に落ち音を立てた。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、彼女の白い肩をより不健康そうな色に照らす。
徐々に、彼女の脈が弱まっていって。息が途切れて。
ふっと、見えない糸が切れたように、彼女は腕の中で瞼を閉じた。
長い睫毛に触れようとした瞬間、とぷんと、不透明な水の中に沈んでいくかのように、視界が暗くなっていく。しっとりとした彼女の柔肌と、シトラスノートの香水の香り。身を委ねたくなるような陶酔感。
やがて感覚も、境界すら曖昧になって。
底のない泥濘に深く、深く沈んでいく。
♢
頬になにか優しい感触が触れた気がして、紡は目を覚ました。
常夜灯が点いている。でも、夜じゃない。
藍色のカーテンが室内を暗く保っている。
肌着姿でいたためかやや肌寒く、寝ている間に蹴っ飛ばしていたタオルケットを足先で手繰り寄せる。肩まで被ると爪先が出て、ちょっとした不満が残る。
「──大丈夫?」
目線だけを動かして、すぐ隣にいる声の主を視認する。
真っ白なベッドの上に扇状に広がる艶やかなストレートの黒髪。
彼女は左腕を自分の身体の下に敷いて、横向きに寝ている。
自由な方の右腕は伸ばされて、紡の頬を指の腹で拭うように撫でている。
「泣いてたけど。……嫌な夢でも見た?」
紡は滑らかな感触のベッドシーツを指先で寄せ、少し立った部分を別の指でなぞる。
まだ全身を支配する浮遊感に浮つきながら、夢のことを考える。
ゆめ、夢。さっきまで覚えていたはずなのに、彼女の顔を見た瞬間、忘れてしまった。
思い出す気力もなく、紡は取り敢えず涙を誤魔化すように欠伸をする。
「今、何時?」
「十一時」
紡からは死角の壁掛け時計を見ながら彼女は答える。
「学校行く? それとも、まだ寝る?」
「……ううん」
質問に曖昧に返して、紡は上体を起こした。横になった彼女の上を通過するように這っていって、カーテンを開ける。「眩し……」と目を細める彼女の上で、紡は力尽きる。
「重い……」
「……重くない、です」
「どうしたの? ちょっと不機嫌?」と彼女が下敷きになりながら聞く。
「……やっぱり人に触れるのって、緊張して」
意識がぼぅっとする。
漠然とした不安感に苛まれ、紡は思いついたままに呟く。
慣れない部屋で目覚めたからだろうか。その割には、自室よりも安心する部屋だけど。
唯一クリーム色の壁紙を除いて、暗い色の家具で統一された広い部屋。
部屋のスペースの四分の一を占めている巨大なダブルベッド。いくつあるのか数えるのも億劫になるくらい、至る所に置かれた照明器具。そして、微かな煙草と香水の匂い。
一人暮らしというものに憧れていた紡からすれば、喉から手が出るほど欲しくなる部屋だ。
「それならあたしだって、緊張してるよ」
紡の手が持っていかれ、彼女の胸の少し上あたりに宛てがわれる。
首筋をすーっと撫でられたような、ぞわぞわする感覚に総毛立つ。
紡の手を握り込む手は体温が高くて、手の形がはっきりと分かる。細い指の小さな手だ。
今の彼女は衣服らしいものを何も身に着けていない。だから、紡の手のひらが彼女の肌に触れる感触も直に脳に届く。気を抜けば脳が蕩けてしまいそうだった。
確かに鼓動が少し早まっているのを感じる。でも、彼女の肌の柔らかい部分に触れたことで、頭が沸騰しそうになっているのは紡の方だった。指から脈が伝わってしまわないか心配で、爪が立たないように注意を払いながらそっと指先を立てる。
「その緊張は、未成年に手を出したことに対するものですか?」
照れ隠しのように紡は零した。
手を彼女の顔に持っていくと、彼女は猫のようにその手にすり寄ってきた。
手の甲が彼女の触れた個所からじわりと痺れていく。背徳感、というか、犯罪感がある。
事実、今の関係性は犯罪なんだろうけど。
紡の気分次第で彼女の人生ごと終わらせられる、ただ歪というには整い過ぎた関係。
歪んでいるというよりは、カメラのレンズのように複雑に屈折している。
ファインダーから覗き込めば綺麗なものにも見えてしまうけれど、実際には綺麗とは程遠い。
「どうかな。多分、そうじゃないと思うけど」
彼女は言葉を濁した。本当に分からなかったのかもしれない。
紡は二、三度目を瞬かせて、それからベッドの上に立ち上がった。
ベッドから降りると足裏がふわりとした絨毯の感触に迎えられる。
ベッドシーツのさらさらとした感触も好きだけれど、紡の好みとしては毛の長い絨毯の方だった。
あとでここにダイブしたら彼女に引かれるだろうか、なんてことを考える。
ふわふわを堪能するようにすり足で歩き、廊下へと繋がる扉へ向かう。
「ご飯は食べる?」
背後から彼女の声が追いかけてくる。
「あとで」
「もしかして、なにか作れたりしない? それなら買い物行ってからがいい」
彼女は自炊を所望のようだった。作ってあげられるものなら是非ともそうしたいけれど、残念ながら、紡は料理は得意じゃない。というか、あまりしたことがない。
少しでも練習しとけばよかった、なんて臍を噛む。
「……作れないけど、買い物は一緒に行きます」
「ふふ。わかった」
彼女が悪戯っぽく笑った。
「今からお風呂? なら、一緒に入ってもいい?」
そんなお願いに、ドアノブに手を掛けたまま立ち竦む。勿論、困るけれど、そう思ったところで紡は彼女のお願いを断れない。多分、出会った時からだ。
せめてもの抵抗として紡は何も言わなかった。
ドアを開け放したまま部屋を出る。
その沈黙を是と捉えたのか、或いは断られる前提のもと話していなかったのか、彼女はベッドから勢いよく起き上がったかと思うと、紡の後を着いてきた。
身体を洗うだけじゃ済まないんだろうな、と思う。貧相な胸を見下ろして、わざわざ自信をなくす。
頭の片隅で渦を巻いている独占欲が後押しして、後ろ手に彼女の手を掴んだ。
彼女のスマホにはよく着信が来る。
「アラームだよ」と彼女はよく言うけれど、絶対に違う自信がある。
けれど、紡の前で電話を取ることはない。きっと紡が不機嫌になるのを知っているからだ。
今も着信音が鳴り続けている。
「……出なくていいんですか?」
買い物かごを受け取りながら、聞いてみる。かごの中に入っているのはチューハイの缶と割いて食べるチーズ、あとは菓子パンが二つと、カップラーメンが四つ。
とても彼女を構成する成分とは思えない。紡の前でだけ食事の水準を著しく落として、紡を安心させようとしているのではないか、と本気で思う。
それくらい彼女の肌は透き通っていて、染み一つない。
「いいよ。紡ちゃんとの時間の方が大切だから」
そう言って彼女は顔を近づけてくる。人懐っこい柔和な笑みを浮かべている。店の中だからかキスをしてくることはなくて、少し胸の奥がきゅっと残念になる。
それにしても、と紡は気をそらすように話題を変える。
「野菜コーナーなんて見て、何か買うんですか?」
「もし買ったら、紡ちゃんの手料理が食べられないかなって」
言いながら、キャベツ半玉を両手で持ち上げる彼女の目は真剣そのものだった。
ほら、とこちらにキャベツを寄越してくるので、紡はかごでそれを受け取る。
「……野菜炒めくらいなら、なんとかなるかも」
ならないかもしれない。でも、彼女が喜んでくれるならなんでもいい。
無表情を装って人参をかごに入れる紡の横顔に、彼女が声を掛けてくる。
「紡ちゃん、料理で一番重要なのって何か知ってる?」
「目分量」
「そこは愛情とかじゃないんだ」
彼女が少し残念そうにふむ、と唸る。
「もしくは時間、でしょうか。炒める時間とか、茹で時間とか」
愛情なんて不確かなものを入れても、食べるときには抜けきっているかもしれない。それに、そんな万能調味料で料理が美味しくなるなら苦労はしない。
つまり、紡がどれだけ彼女のためを思って料理をしても、できるのはきっと誰が作ったのかも分からない量産型野菜炒めだ。
味付けも塩コショウ以外は失敗しそうで使いたくないし。
なんて考えながら店内を歩いていると、また着信が鳴った。
彼女のポケットからだった。
「出てもいいですよ」
嘘だった。
着信が鳴り続けるのも嫌だけど、出たら出たできっと紡は不機嫌になる。
それを見抜いているのかいないのか、彼女はポケットに手を突っ込むこともしない。代わりに紡の手をいわゆる恋人繋ぎで捕まえてきて、ぎゅっと力を込めた。
「やきもち? かわいい」
愛おしむような視線が向けられていることに、どうしてだろうか。居心地が悪くなる。
きっと電話の向こう側にいる相手のことを考えていたからだ。
私だったら、と置き換えて紡は考える。彼女が電話に出ることは稀だ。だからダメもとで電話をかけることが多い。それでも、電話が繋がらないと不安になる。
着信が途絶えた。
今、電話をかけてきた人も、同じように不安を感じているのだろうか。
一抹の思いを握り潰すように彼女の手を強く握り返す。
だからといって。
──この視線が別の相手に向けられている時があるなんて、考えたくもない。
「……妬いてなんかない」
「紡ちゃんって分かりやすいから」
牛肉のパックをかごに入れる、彼女の横顔は口元が緩んでいる。
「……分かりやすい、なんてこと」
多分それは彼女の目がいいのであって、紡が特別顔に出るわけじゃないと思う。少なくとも、彼女以外、例えば母親なんかには、そんなこと言われたことは一度もない。
その心の奥を見透かすような目で、これまでも色んな子を絆してきたのだろうか。
「ありゃ、怒らせちゃった? ごめんね」
「怒ってないです」
ふい、と彼女から目を逸らしながら紡は答える。
本当に怒ってはいない。でも、少し意地悪をするくらいきっと許される。
「……んーと。紡ちゃん、もしかして優しくされたい?」
「はい」
素直に頷いた。
と、繋がれていた手が解かれ、名残惜しさに紡の手が後を着いていく。
けれど、その手が紡の頭を優しく撫でてきたことで、紡は手を元の位置に戻した。
指先で髪を梳き、手のひらで頭を撫で回す。紡は感覚を総動員させてそれを堪能する。
「………………」
紡と彼女の関係が始まったのは大体ひと月前だ。
家出をして夜の街を歩いているところで、散歩をしていた彼女にお持ち帰りされた。
その日のことははっきりと覚えている。家に泊めて貰って、同じベッドで眠りについただけで何もせずに、名前すら聞かずに次の日の朝別れた。
というか、名前は未だに聞けてないし、今更聞き出そうという気もあまりない。
今まで教えてくれてないということは、そういうことだろうし。聞いたところで本名を教えてくれるのかどうか分からないから、それなら意味がない。
じゃあそれ以降、なぜ関係が続いているかというと、家出をするたびに彼女に会うからだ。
彼女は一人の時はよく街を歩いているようで、二度目に出会ったときは昼間だった。
出会った時から思っていたけれど、彼女は街を歩けば十人中十人が足を止めるような美人で、服も目立つわけではないもののかわいいものを着ていた。
街の喫茶店で彼女はブラックコーヒーを、紡はレモンティーを飲んで。そこで紡は彼女から家の合鍵を渡された。「いつでも来ていいよ」という砂糖を二つ入れた紅茶以上に甘美な響きに、紡はこくりと頷いた。やがて、彼女の唇の味を知って、身体の柔らかさを知った。
紡が考え事に耽っていると、ふと。鼓膜が震える。
「そろそろ、機嫌直してくれた?」
気付けば頭の上に乗った手はもう動いていなくて、彼女が紡の顔を覗き込んでいた。
紡は数秒、考え込んだのちに告げる。
「もっと会ってくれる日を増やしてくれるなら、直る……かも」
「かも、なんだ」
彼女がふふっと吹き出しながら眦を下げる。
「紡ちゃんって、意外とわがままだよね」
「わがままだと嫌いになりますか?」
しおらしく肩を窄めて、紡は彼女の服の裾を握る。
「ううん、その方が素直で好き」
かわいくてしょうがないといった風に、彼女は紡の頭を撫でてくる。部屋では彼女の方が若干背が低いけれど、外に出ると並ぶようになる。彼女は結構な厚底の靴をよく履くからだ。
多分、五センチくらい身長の伸びた彼女の顔が、紡の顔と同じ高さにある。
紡はふいと顔を背ける。
「……そうですか」
「さては、照れてる?」
「……はい」
どう返したものか迷った挙句、普通に答えてしまった。
彼女はちょっと意外そうな顔をする。
「素直な方が好き、って言ったので」
紡がぼそりと呟くと、彼女は温和な笑みを浮かべて紡の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「かわいいなあ、紡ちゃんは」
紡はされるがままに、折角セットした髪がぼさぼさになるのを寛恕した。
2作目、3話構成となります!
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