帝国放送協会報道特集『統一への道 第七回 1994年 豊原』
長かった……
間もなく統一から十周年を迎える今年は各地で記念行事が行われている。
しかし、バブル崩壊から続く経済不況と統一にかかったコスト及び社会問題は未だ多くの軋轢を残しつつ今も横たわっている。
今回、統一記念番組として各局合同の報道特集番組を制作したのは、このような状況下において我々の選択を今一度振り返り、よりよき未来へ共に歩んでいくことを願うからである。
願わくば、二十周年を迎える頃においては、これらの問題を過去のものにできている事を祈って。
--冒頭ナレーションより抜粋--
『北日本政府崩壊。今では「マースレニツァ革命」なんて呼ばれていますが、内実が長期政権だった党主席兼政府首相の死去に伴う後継者争いと秘密警察と軍の対立だったのは当時の豊原市民ならだれでも知っていますよ。
あの時、寒波と食料不足で多数の凍死者と餓死者を出して、市民は食料要求のデモを起こして秘密警察に弾圧されたんです。
あの薄暗い地下通路で装甲兵の赤い目を見た時は死を覚悟しましたよ。
銃声と悲鳴と逃亡の靴音が地下通路に響いてなんとも言えない、我々は「魔女の笑い声」と呼んでいましたね。
この地下弾圧が「マースレニツァの嘲笑」なんて市民で語り継がれているのはそんな記憶があるからなのです。
「豊原地下には魔女が居る。その魔女は赤い目の猟犬を連れている」なんて都市伝説の出どころは多分そこでしょう』
--当時の豊原市民のインタビューより--
『日本政府が左派連立政権を樹立した事で、統一の機運が盛り上がったのは事実です。問題は統一政府を北日本政府主導にするのか日本政府主導にするのかで対立していた事ですが、党主席兼首相の死去に伴う権力争いの勃発で北日本政府は交渉すらできなくなりました。
当時の権力闘争は軍の方が優勢だったのです。軍はロシアの支援で得た核兵器があり、それで脅迫する事で政府中枢を掌握しようと企んだのです。
また、民衆も弾圧をしていた秘密警察よりも軍を支持していました。
このままだったら、ルーマニアのようになっていたのでしょうね。
そこに手を差し伸べたのが日本政府であり、米国でした。』
--当時の北日本政府党関係者のインタビューより--
『あの革命は全て米国政府の厳重な監視下にありました。
米国にとってみれば、同盟国である日本の左派連立政権までは許容できても、北日本政府主導の統一国家までは許容できる訳がなかった。
左派連立政権がスキャンダルと連立政権内部の確執で支持率を落としつつあったにも関わらず、北日本政府の混乱に乗じて、日本政府主導で統一出来たのはどうしてなのか。その後の歴史を見ても明らかと言って良いでしょう。
左派連立政権の首相は華族特権を用いた実質的恩赦を北日本政府にばらまき、それが致命傷となって政権を失いましたが、立憲政友党が政権に返り咲いた際に左派政党と連立した事でその恩赦はそのまま継続される事になりました。
そして北日本政府が持っていた核は日米交渉によって全て解体され、日本は統一の莫大なコストがバブル崩壊の後にのしかかって現在に至るまで喘ぐことになります。
全て陰謀論で片づけるのは面白いのですが、美味しい思いをしたのは米国だったというのは事実でしょうね』
--当時の諜報関係者のインタビューより--
『「マースレニツァ革命」で最も大事だったのは、地下政府施設を秘密警察が占領し続けかつ、自衛隊と米軍が到着するまでのおよそ二日間を守り切れるかでした。
この時、北日本政府に送り込まれたのが北日本出身の民間軍事会社です。
彼らは、ソマリアで、ユーゴで活躍しており、その支援者の中には日本政府の左派連立政権の影がありました。
尤も、彼らは名前だけの存在で、その多くは自衛隊、もしくは米国の兵士だったのだろうとは言われていますがね。
装甲の下に誰が入っていたのかは未だ機密だそうで。
クーデターというのは兵士が多すぎても少なすぎても成功しません。送られたのは中隊規模だったとか。
人道支援名目で北海道から送られた貨物船に装備を隠して行動し、クーデターを起こした秘密警察を支援したそうです』
--当時の民間軍事会社役員のインタビューより--
『あのクーデターが成功した要因はただ一点。誰もが「この国はもう駄目だ」と確信していたからです。
しかし、その現状を乗り切るための日本政府による救済併合という錦の御旗を誰なら掲げられるか、それが問題でした。
軍は面子があるため不可能でした。民衆の暴動に呼応する形で体制そのものを崩壊させた場合に、自分たちが自衛隊に吸収されるのは明らかでしたし、冷や飯を食らうことも分かっていました。
一方、民衆だけで暴動を起こしても、秘密警察に勝てる武力はありませんでした。それでも、これまで秘密警察に弾圧され多数の死傷者を出し続けてきた経緯から、秘密警察への民衆側の怒りは限界を超えつつありましたが。
あの放送は神がかり的なタイミングでしたよ』
--当時の豊原市民のインタビューより--
『本日未明。偉大なる同志主席兼首相は永遠の眠りについた。
彼の偉大な功績を称え、ここに黙祷を捧げる。
黙祷!
……偉大なる同志主席兼首相の最後の指示を伝える。
長く同じ民族が南北に争う事を憂い、ここにいかなる統一交渉も妥結するように外交団に指示を……』
--北日本政府国営放送朝の特別番組より--
『あの二日間の地下都市の混乱はひどいものでしたよ。
実質的な無政府状態で、反政府勢力や犯罪組織が暴れまわっていたのですから。
地下政府施設のあたりでは非常に激しい戦闘が起こったそうですが、主導権を奪回したい軍が特殊部隊を送り込んだとか、党主席兼首相一族個人に忠誠を捧げる親衛隊がクーデターを起こしたとか言われていますが、真相は闇の中でしょう。
分かっているのは、自衛隊と米軍第一陣が到着する二日後まで秘密警察が政府施設を守り切り、北日本軍が武装解除に応じた事でしょう。
秘密警察?
逃げ遅れた末端が私刑に合ったぐらいでそのほとんどは綺麗に消えて……』
--当時の北日本政府職員のインタビューより--
『我々は本当に統一して良かったのだろうか?
樺太には未だ二千万近い住民が貧困に喘ぎ、本土では数百万の二級市民たちが我々の職を奪っているではないか!
この国は、日本人の国だ!
日本人の日本人による日本人のための政治を!!』
--2003年 衆議院議員総選挙に立候補した極右政党候補者の演説より--
『統一の代償はすぐに出ましたよ。
バブル崩壊で不良債権処理に追われていた上に、樺太統治のコストが上積みされたのです。
ドイツを見習ってEUのような共同体を作ろうという動きはありましたよ。
アジア通貨基金構想はその第一段階として計画されたのですが、それを嫌がった米国の横やりで潰れましたけどね。
結果、消費税の値上げはこの財源に頭を悩ませていた大蔵省が必死になって通した法律でしたが、世界経済の金融危機の連鎖と大蔵省のスキャンダルで98年参議院選挙に立憲政友党が大敗した事で、樺太問題は政府が抱える超特大な不良債権になってしまったのです。
政府は財閥と組んで必死に経済の立て直しに奔走しますが、IT革命に伴う経済のグローバル化がこの超特大不良債権処理を進めにくくしています』
--元経済財政諮問会議メンバーのインタビューより--
(2001年9月1日 ニューヨーク同時多発テロ事件の画像)
『改革なくして成長なし』
--恋住総一郎総理 政府メールマガジンより--
(2003年 成田空港テロ未遂事件の映像)
『手榴弾!』
--2003年成田空港テロ未遂事件で犯人を取り押さえた桂華院瑠奈公爵令嬢--
統一から間もなく十年を迎えるこの年、世論調査を行った結果、「統一してよかったか?」の問いに44%の人が『良かった』と答え、46%の人が『良くなかった』と答えています。
また「統一後、生活は良くなったか?」の問いに41%の人が『良くなった』と答え、『悪くなった』と答えた人は50%に達しました。
統一から十年。
我々は未だその歩みを止める事はできないのです。
左派連立政権のスキャンダルと確執
国民福祉税構想の挫折と東京佐川急便事件。
ここからの自民の巻き返しがえぐいんだよ。ほんと。この後の羽田政権の失敗があったからこそ、小沢さんは二大政党の方向にという話を聞いたことがあるが、それは民主党政権下である程度の成功を得ているあたりは教訓にはしているらしい。
なお、崩壊に導いたのも小沢さんなので、なんとも言えないのだが。
立憲政友党が左派政党との連立
自社さ政権。
これも評価は良くないのだが、未だ大分では悪くいえない人が上の世代を中心に一定数居るのを知っている。
どうしてかというと、予算編成において総理優遇枠というのが自民政権時にあって、地元にある程度の利益をまわすことができたからで、当時の平松知事がやり手だったというのもあるが、あの時期に大分県は大分道が全通した事もあって「村山さんが総理になったから大分まで高速が通った」という話を私はリアルタイムに聞いていたからである。
核放棄
この時に核放棄に絡んだのが加東さんという設定なのだが、年代がずれるはず……あ。
この話だと丁度幹事長時代か。ならそのままにしておこう。