帝国放送協会報道特集『統一への道 第三回 1991年 クウェート』
架空史を作っているのに、このリアルの激動ぶりよ……
間もなく統一から十周年を迎える今年は各地で記念行事が行われている。
しかし、バブル崩壊から続く経済不況と統一にかかったコスト及び社会問題は未だ多くの軋轢を残しつつ今も横たわっている。
今回、統一記念番組として各局合同の報道特集番組を制作したのは、このような状況下において我々の選択を今一度振り返り、よりよき未来へ共に歩んでいくことを願うからである。
願わくば、二十周年を迎える頃においては、これらの問題を過去のものにできている事を祈って。
--冒頭ナレーションより抜粋--
『装甲兵という兵種がいつできたのかというと、第二次世界大戦のドイツで生まれたらしく、武装親衛隊のプロパガンダ用儀仗兵だったという記録が残っています。
それが、現在に至るまで兵種として残っている理由にはいくつかの事情が関わってきます。
第二次世界大戦末期、追い込まれつつあったドイツはBC兵器の使用に踏み切りました。
運用には必然的にマスクをはじめとした対策が必要になりますが、全身を覆う装備に穴が空いてしまうと意味が無くなるため、砲弾の破片を防ぐ程度の簡易装甲がつけられました。これが装甲兵の始まりだと言われています。
ただ、このあたりの記録はあまりはっきりと残っていないのです。
なぜならば、この時期の武装親衛隊には装甲擲弾兵という兵種が存在しており、多くの資料がそれと混同していたからですね。
このあたりの話は本筋ではないので脇に置いておきましょう。
ドイツの降伏後、ソ連はドイツの優れた技術をできる限りかき集めたのですが、その中でこの装甲兵が注目されたのは満州戦争以降になります。
満州戦争は休戦という形で終わりましたが、実質的には核まで使って休戦に持ち込んだソ連の敗戦でした。
この時、ソ連首脳部は西側諸国に勝つためにはNBC全面使用に持ち込むしかないという考えの元、その中で戦線を突破できる兵を欲したのです。
とはいえ、この計画は実現しませんでした。
命令された自殺に近いですからね。この用途だと。
満州戦争後の戦力再建を名目に赤軍首脳部はこの構想を婉曲的に拒否し、この頃から始まったソ連内部の権力闘争の激化に伴って消えたと思われました。
この消えた構想を復活させ実現したのが圧倒的な日米軍と対峙しなければならない北日本政府でした』
--ドイツ軍研究家のインタビューより--
『装甲兵は発展途上国の独裁国家にとっては実にコストの安い兵器でした。
まず見た目に強そうだと分かりますし、戦車は高くて手に入らなくても、これならば戦車一両の価格で小隊を編成できるのがいい。
さらに言うと、発展途上国の反政府勢力の掃討では、銃どころか弓矢や原始的なトラップが未だ現役でした。
戦車を持つ軍を監視する名目で秘密警察を優遇する必要があった独裁者にとって、彼ら装甲兵は信頼できる最後の盾になっていったのです。
そういう需要に支えられて、装甲兵は進化してゆきました。
最初は簡易な装甲を身に着けるだけでしたが、バネ式のパワーアシストシステムが開発されるに及んで軽機関銃や対戦車ライフルの運用が可能になり、装甲もチョバム・アーマーが使用されたと聞きます。
また、BC兵器の使用が前提だった事もあって鉱山など劣悪な環境での運用にも適しており、民生用として第三世界に広く輸出されました。
構造が簡単で本質的には人間があれば機能するので重機よりも安く、本格投資が始まる前の初期投資として利用できたのも大きな要因です。
この装甲兵が注目されたのはルーマニア革命が最初ですが、次に彼らが軍用として注目を浴びたのは1991年の湾岸戦争でした』
--軍事評論家のインタビューより--
『湾岸戦争。
その初動において多国籍軍の戦略は完全に機能しました。
圧倒的な航空戦力による空爆の元にクウェート奪還の為に進撃したのですが、最後の最後クウェート市街戦は多国籍軍にとって想定外の連続でした。
イラク大統領警護隊の最精鋭が守り、その装甲兵がBC兵器を使用して死に物狂いの抵抗を続けたのです。
米軍兵士の死亡数がそのまま敗北に直結する米軍にとって、この損害を受け入れるのはきついものがありました。
一説には、この時の損害が92年大統領選挙の敗北につながったという話もあるぐらいです。
それを吹き飛ばしたのが、「大和」と「ウィスコンシン」と「ミズーリ」の艦砲射撃でした。
満州戦争で遼東半島に攻め込んだソ連軍を吹き飛ばしたこの戦艦の艦砲射撃は湾岸戦争でも有効でした』
--湾岸戦争従軍兵のインタビューより--
『豊原の地下都市開発は、この装甲兵から転用されたパワーアシストアーマーの存在なしに語る事はできません。
巨大都市豊原は極寒の地ゆえに、地下の方が住みやすいという場所でした。
豊原の人口はベルリンの壁崩壊から急増しつつあり、その積極的な都市拡張工事は北日本経済を潤したように見えます。
ただ、近年の研究ではこの都市拡張工事の費用は秘密裏に移設された東側諸国の秘密財産と、バブルに酔っていた日本の偽札によって賄われた事が明らかになっています。
この頃から、北日本政府へ東側諸国からの住民移住が加速していきます。
豊原地下開発に従事していた中国人をはじめ、ドイツ再統一を見て日本国籍を持てるかもと気づいたロシア系・中華系裕福層が移ってきだしたのです。
これを北日本政府は意図的に歓迎していました。
ドイツ再統一のコストの膨大さは一部の経済学者が指摘していましたが、それを統一の熱狂が押しつぶしたのです。
分断国家となった日本にとってそれは他人事ではなく、北日本政府が持っていた核だけでなくこの移民爆弾の対処すら考えなければならなかったのです。
そして、この政策はやはり諸刃の剣でした。
多種多様な人種と思想と思惑が交錯した結果、反政府活動が激化。
その弾圧に秘密警察の装甲兵が活躍したのです。
この装甲兵にパワーアシストアーマーの技術革新が転用されていきました。
電池技術の進化に伴い電動アシストが開発され、更なる進化を遂げた重装甲兵の存在は豊原地下で活動していた反政府勢力の恐怖の象徴になっていったのです。』
--豊原市元反政府活動家のインタビューより--
ドイツ再統一
その統一コストをEUという幻想で帳消しにしたドイツの策士ぶりが光る。
とはいえ、この時のドイツの熱狂はリアルタイムで見ていただけに批判はできないんだよなぁ……
豊原地下開発
元々『征途』のオマージュは公言していたけど、その際に頭を抱えたのが北日本の人口二千万だったりするのだが、これを解決する為に、国家崩壊に伴う難民流出しかないよなぁと最初から考えていた。
なお、97年の香港返還時に私が香港人から聞いた話だが、
「中国が崩壊した際にその難民がどれだけ出るか、それが何処に行くかを考えるとあの国の崩壊は怖い」
と直に聞いたのを覚えている。
なお、シリアで出た難民のデータを考えると、人口二千万人の内逃げ出したのが六百万人。大体三割が逃げ出している。
これを中国に入れると、十四億だから……四億二千万人。
それを知っていただけに、あの当時の中国ODAは非難できないんだよなぁ。
で、現実はこのざまなのだからままならないものである。