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帝国放送協会報道特集『統一への道 第一回 1989年 ベルリン 前夜』

 間もなく統一から十周年を迎える今年は各地で記念行事が行われている。

 しかし、バブル崩壊から続く経済不況と統一にかかったコスト及び社会問題は未だ多くの軋轢を残しつつ今も横たわっている。

 今回、統一記念番組として各局合同の報道特集番組を制作したのは、このような状況下において我々の選択を今一度振り返り、よりよき未来へ共に歩んでいくことを願うからである。

 願わくば、二十周年を迎える頃においては、これらの問題を過去のものにできている事を祈って。


--冒頭ナレーションより抜粋--




『まず、意識してほしいのは、ソ連の政権交代はそのすべてが穏便には行われませんでした。

 政権交代による暗闘からの失脚・粛清は当たり前であり、同時にそれは僻地に送られた要人の復権に繋がるのです。

 このような状況で、社会主義国陣営にある種の変化が起ころうとしていました。

 ハンガリー動乱やプラハの春などでソ連は軍を送って周辺国の政変に介入していましたが、ソ連内部の政変の激化に伴い、今度は周辺衛星国がソ連に介入するようになっていったのです。

 これらの国は社会主義国の独裁体制下で長期政権を誇っていた国々で、その長い治世がソ連内部の政権の代替わりによって無視できなくなっていくと、その影響力は加速度的に増大してゆきました。

 それらの国の代表格だったのが、欧州のルーマニアであり、極東の北日本民主主義人民共和国だったのです』


--当時のソ連共産党要人のインタビューより--



『ソ連内部の政変に周辺衛星国が関与する。

 一見荒唐無稽な感じですが、それには理由があります。

 ソ連内部のキャリア育成において、周辺国大使及び外交ポストは党官僚や軍と並ぶ出世コースだったからです。

 また、外交関係者は必然的に高等教育を受け、周辺衛星国の監視と指導を担う重大な役目を背負っていました。

 その為、その仕事を終えて党の中央に凱旋するという可能性が高かったのです。

 これに、周辺衛星国が賄賂を始めとした取り込みを企図したのが始まりと言われています。

 それらは、初期においてはソ連の監視及び指導の緩和を意図したものだったのですが、ソ連のアフガニスタン介入以降はさらにソ連中枢の政策を誘導するものに変えられていきました。

 このソ連介入には北日本政府も義勇兵名目で派兵をしており、その経済負担はソ連の援助があったとしても耐えられるものではなかったと言われています』


--当時のソ連外交関係者のインタビューより--

 


『アフガニスタンは米国の意趣返しと我々軍人は痛感していますが、結局の所同じ理由で負けたのです。

 叩いても叩いても、アフガンゲリラにはパキスタンという安全地帯があった。

 そして、ナガシマドクトリン――住民もろともゲリラを処理する――を西側虐殺として叩いていた我々はその選択肢を取れなかった。

 あの時点で我々は負けていたのでしょう。

 つぎ込まれた人員は十五万を超えており、兵站とそれを支える経済の崩壊によって、ワルシャワ条約機構軍の投入だけでなく北日本政府の義勇軍もアフガニスタンの砂の中に消えていったのです』


--当時アフガニスタンに従軍したソ連軍将軍のインタビューより--



『ベトナム戦争は米国を始めとした自由主義陣営の敗北に終わりましたが、それを立て直す経済力は西ドイツや日本などにいくらでも残っていました。

 ですが、我々にはそれを立て直す経済は残っていなかったのです。

 何よりも、一番の稼ぎ頭だった原油の価格が80年代は低迷し、ペレストロイカを行わなければならなかったのですから。

 ここで、ソ連内部の権力争いが勃発します。

 ペレストロイカを主導する改革派と守旧派の争いですが、その背景にはソ連成立から続いている粛清・失脚と復権の争いが見え隠れしていました。

 そして、経済力の低迷にかこつけて内部で蠢いたのが北日本政府だったのです』


--当時のソ連経済官僚のインタビューより--



『当時の北日本政府は序列的には東ドイツの次である第三位の地位を占める国家でした。

 ルーマニア共和国と並ぶ長期政権を維持していた首相はソ連の政府要人が若手のころから表舞台に立っており、彼らの復権に手を貸していたこともあり、ソ連要人ですら表立った物言いがしにくくなっていきました。

 そして原油価格の低迷で経済に陰りが出ていたルーマニアに対し、北日本政府は樺太というその戦略的要地ゆえにソ連の強力な財政支援が維持されていました。また、ワルシャワ条約機構軍でも精兵とうたわれた義勇軍の血の貢献があり、さらにソ連内部の権力抗争で敗れた政敵の流刑地的役割も背負わされていたので、樺太帰りのソ連要人はかなりの数が居たのです。

 これが、西側の最前線でソ連の徹底した管理下にあった東ドイツ政府との決定的な違いです。

 ソ連内部の改革派と守旧派の争いにおいて、北日本政府はルーマニア政府と組んで守旧派に肩入れしました。

 彼らからすればソ連の改革で財政支援がなくなると己の国がなくなるのが分かっていたのでしょう。

 日米安保に激震を与えた極東土地開発COCOM違反事件は北日本政府会心の謀略と言えます。

 まさかあの後ベルリンの壁が崩れるとは思っていませんでしたが』


--当時のルーマニア政府関係者のインタビューより--



『ベトナム戦争の敗北による威信の回復。

 西ドイツおよび日本の経済的勃興に対抗するためにも、米国は西側の盟主としての成果を欲していました。

 極東土地開発COCOM違反事件は日米安保に激震を与え、日本の自主外交が目立ちつつある当時、その対象を欧州の鉄のカーテンに定めたのはある意味必然でした。

 既にポーランドやハンガリーでは民主化の動きが見えていた上に、ハンガリーはオーストリアと国境を接していました。

 鉄のカーテンの一番脆い場所に一撃を与える事を企図したピクニック計画はこうして発動されたのです。

 その成果は予想外でした。

 鉄のカーテンは崩壊し、東ドイツから多くの亡命者が殺到。

 その流れは止める事ができずにベルリンの壁崩壊に繋がっていきます。

 ですが、多くの東側国民は西側への逃亡を選んだのですが、それができない人間もいたのです。

 党の要人たちを中心とした東側政府関係者です。

 ソ連の傍観と共にベルリンの壁が崩壊し、市民の報復が間近に迫った時、彼らの逃亡先はルーマニアか北日本民主主義人民共和国しか残っていなかったのです。

 北日本政府の膨張と崩壊はこうして始まりました』


--当時の米国政府関係者のインタビューより--




東ドイツスポークスマン

「旅券を所持している東ドイツの全ての人民は、いつでも、ベルリンを含むどこでも国境警備のチェックポイントを通って出国することを認めたビザを取得する権利を有する。旅券を持たない人民も出国の権利を付与する特別のスタンプを押した身分証明書を所持することができる」


記者

「それはいつからか?」


東ドイツスポークスマン

「今から直ちに」



--1989年11月9日 東ドイツ政府記者会見より--

ハンガリー動乱やプラハの春

 1956年ハンガリーや1968年チェコスロバキアで起こった民主化運動。

 ソ連は軍を派遣してこの民主化運動を鎮圧したが、この反動はソ連内部の政争に使われ、スターリン批判や国際共産主義運動の分裂を招くが、それすらソ連の政局に組み込まれる事になった。

 何かをやったら、その責任を問われる話。


原油価格の低迷

 逆オイルショック1986年、原子力を中心とする代替エネルギーの導入推進と北海油田を中心としたOPEC加盟国外原油の急増で原油価格は20ドル台まで推移しOPEC産石油のシェアも30 %を割り込む状況に。

 原油やガスの輸出で外貨を獲得していたソ連にとって、アフガニスタン侵攻の軍事費増大とこの原油価格の低迷は致命傷に等しかった。


ピクニック計画

 ハンガリーで発生した東ドイツ市民の大量亡命事件。

 この事件でハンガリーの共産主義体制は終焉を迎えるが、それはベルリンの壁崩壊を引き起こし、東ドイツ・チェコスロバキア・ブルガリア・ルーマニアとドミノ式で次々と共産主義体制の崩壊につながってゆく。



ベルリンの壁崩壊

 これは映像で見てほしい。

 youtubeで『ベルリンの壁崩壊』と打てば、その衝撃と興奮の動画が見れる。

 なお、某放送協会の『〇HKスペシャル 1993年_ヨーロッパ・ピクニック計画~ベルリンの壁崩壊』は物凄く見ごたえがあるのだけど著作権が……が。  

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