下
第6章 序
バレエの発表会は毎年開催される。いつも参加してきたけど、今年は少し違う意味を持っている気がした。
自主練に付き合ってくれたクラウスへ、お礼を込めて踊るんだ、というのが一つ。
そして、もう一つは彰太への励まし――。
あの日、捻挫の治療を終えて診察室を出ると待合室に彰太がいた。松葉杖と左膝に付けられている大きなサポーター。
「あれ?つばさじゃん!」
彰太が明るい声をかけてきた。
「彰太、久しぶり。どうしたの?それ?」
見るからに重症だ。
「あ? ああ、これ? はは。靭帯、やってしまった」
ドジだよな~とか、笑いながら言ってた。
「お前こそ、なんでここにいんの?」
詳細を話したくなかったのか、私のことを聞いてきた。
「ああ。捻挫しちゃって。でも大丈夫」
「そっか。でも、捻挫、なめんなよ。ちゃんと完治するまで踊るんじゃねえぞ!絶対無理すんな!」
彰太が強い調子で言った。その勢いに押されたように「うん」と頷く。
「……オレも、最初は捻挫だった。たいしたことないって固定してやってたら、靭帯やっちまった。たぶん知らず知らずのうちに、捻挫かばうような、変な動きしたんだと思う」
言葉の端端に後悔が滲む。
彰太の名前が呼ばれた。
「絶対だぞ!約束しろ!いいか?完治するまで、運動禁止だ!」
彰太はそう言い残して診察室へ入っていった。
「うん。約束するよ」
彰太の後姿に向ってつぶやいた。
その日はそれきりだった。
詳細が気になって気になってしかたなかったけど、聞いていいのか悪いのか……。何より聞くのが怖かった。もし、彰太がもうサッカーできないとか言われていたら……。
次の日、学校で脩斗を捕まえて脩斗が知っていることを聞き出した。でもやっぱり要領を得ない。だが、悪い方の予測が当たっている気配がした。
第6章
つばさちゃんのバレエの発表会当日、つばさちゃんのママが僕とママを車で会場まで連れてきてくれた。つばさちゃんのママは楽屋に寄っていくというので駐車場で別れる。
ママと僕がロビーで受付をし、お祝いの花束を預けていると、誰かが僕の腕を小突いた。
「よっ!クラウス!」
脩斗だった。
「脩斗も来たんだ」
「クラウスも来てたの?」
僕の言葉にかぶさるように女子の声がした。
ん? クラス委員の松本さんだった。
脩斗と並んでいるのを見て、僕は「お察し」した。ママが挨拶させろという視線を送ってきたので、二人をクラスメートだと紹介する。
ママは挨拶を済ませると安心したように、先に客席に行ってると告げてホールへ入っていった。
「クラウスのママって、きれいね~。歩き方もカッコいいし」
松本さんがママの後姿を見ながら、まるで芸能人を見るような憧れの目で言った。
「つばさのママもきれいだけどな」
脩斗も松本さんに同調する。
まあ、あの二人はモデル仲間だったし。
というか、こういう時は「ありがとう」とか言うべきなのか?日本では謙遜して「そんなことないよ」とか言った方がいいのか?
僕はとりあえず、あいまいに微笑むことにした。今度こういう時はどういう対応をすればいいのか、つばさちゃんに聞いておこう。
「あ! 脩斗、私、開演前に化粧室行ってくるね。女子は混むから」
「おお! 了解! ここで待ってる」
松本さんが僕らから離れた。彼女が僕らの視界から消えると、脩斗はちょっと照れたように僕を見た。
「他のやつらには内緒な。あ、つばさは知ってるけど」
僕は頷いた。もともと他の人に言うつもりもない。クラスのムードメーカーの脩斗と、成績優秀かつクラス委員としてクラスをまとめるしっかり者の松本さん。
「お似合いだね」
思わず脩斗に微笑んだ。
「へへっ」
ちょっと顔を赤くしながら、脩斗は鼻を掻く。こんな脩斗の姿を見るのも悪くない。
そんなやり取りを切るように、僕の後ろから声がした。
「脩斗!久しぶり!」
「よおっ!彰太!」
彰太?僕は振り返る。
背は脩斗より少し高い。脩斗より大人っぽい雰囲気と、脩斗の10倍気が強そうな目。
「あ、クラウス。前に話したじゃん。つばさとサッカーのチームメイトだった彰太だよ」
脩斗が僕に紹介してくれた。
「彰太、こっちは同じクラスに編入してきたクラウス。え~と、ドイツ人だっけ?」
国籍は。民族的にはちょっと面倒だから、ドイツでいいや、と思いながら頷き、右手を出す。
「クラウスです。よろしくお願いします」
彰太くんは僕の右手を受け、握手をすると
「こちらこそ、よろしく」と微笑んだ。
「彰太、お前、怪我、大丈夫なのかよ?」
早速脩斗は気になっていた彰太くんの怪我の状況を聞いている。
ふと僕は彰太くんの隣、やや後ろ気味に立っている女子に目が留まった。ロングストレートで、おとなしそうな印象の子。脩斗と彰太くんの話に入っていっていいのか所在なさげだ。何か話しかけた方がいいのか?
「あ? ああ。真由。脩斗のこと、知ってたっけ?」
僕の表情を読んだのか、彰太くんがその女子に聞いた。彼女は黙って首を振る。
「そっか。つばさと同じ中学のサッカー部キャプテンやってる脩斗。そして、脩斗のクラスメートのクラウス君。あれ?脩斗のクラスってつばさも同じなんだっけ?」
「同じ同じ。オレ達みんな同じクラス!」
脩斗が親指を立てる「サムズアップ」をしながら言う。
彰太くんはそっかと頷き、それから隣の女子に柔かい視線を向け、エスコートするようにしながら皆の前で紹介した。
「んで、オレの彼女の真由」
『オレの彼女』という言葉が、頭の中で鳴り響いた。彰太くんが「つばさ」と何度もつばさちゃんの名前を出して、僕らを紹介しているから、きっとつばさちゃんと真由ちゃんは知り合いなのだろう。
だけど……。
「あああ~っ!思い出した!真由ちゃん!」
脩斗が真由ちゃんに向って言う。
「マネージャーだったでしょ?彰太とつばさのチームの!」
「え…えっと」
真由ちゃんが戸惑ったような表情を浮かべた。
「いや。真由も本当はつばさと一緒で、選手なんだけど……」
彰太くんがその先を言うのを言い淀んでいると真由ちゃんが続けた。
「あまりにヘタクソで……。マネージャーみたいなことをやっていたの」
そしてはにかんだように笑った。
それから先、僕らが何を話したかよく覚えていない。松本さんがいつお手洗いから帰ってきたかも。
僕は彼らと別れ、ママが座っている席の隣へなんとかたどり着いた。
パンフレットを見てママが何かを言ってたけど、上の空だった。
発表会のバレエ公演が始まった。つばさちゃんは第2部に登場する。第1部は幼稚園から小学生といった子供たちの発表。休憩を挟んだ後の第2部が中学生以上の大人の部になっていた。ぼ~っと発表会を見ながら、頭の中でつばさちゃんの自主練を思い出す。
つばさちゃんの自主練は、ウォーミングアップを1時間位かけて行ってから、ドン・キホーテの踊りに入る。
ウォーミングアップの時、「ゆったりめ」「速め」というテンポのリクエストがあるが、曲は何でもいいらしい。なので、練習したい曲やその時の動きに合う曲はなんだろう?などと考えながら弾く。
これまでの僕は与えれた課題曲しか弾いてこなかったから、全くの新しい体験だった。
「これまで興味もなかったけど、ジャズとかも挑戦してみようか?」などと考えている自分に驚いていた。
「つばさちゃん、いつも発表会前って、毎日練習してるの?」
ふと、去年とかはどうやって練習してたのか気になって聞いてみた。
「ううん。去年はバレエ教室のレッスンある時しかやってない」
「え?今年だけ?なんで?」
怪我で遅れたと言ってはいたけど――。
「うん――。」
ちょっと言うのをためらうような沈黙があった。
「あ、言いたくなければ」
僕はつばさちゃんに触れてはいけない事を聞いてしまったような気がした。
「そうじゃないんだけど」
つばさちゃんは何か少し考えているようだったが、意を決したように話し始めた。
「誰にも言わないでほしいんだけど――」
そう断ってから続けた。
「彰太が大きな怪我をしたって話、知ってるでしょ?」
「あ、うん」
「改めてどんな状況か、彰太に聞きに行ったんだ」
つばさちゃんは苦しそうに言った。
「たぶん――以前のようにはもうプレーできない。チームも辞めるって言ってた」
僕は何と言っていいのか分からなくて、つばさちゃんを見つめた。
「サッカー選手になるのが夢で、周りから期待もされてて――なんで、あの彰太がそんな怪我をって、悔しくて」
つばさちゃんは自分を落ち着かせるように大きく息を吐いて、それからドリンクボトルを手に取り一口飲んだ。
「でも、彰太は全然へこんでいなくて、絶対怪我治して、もう一度サッカーやるって。一からやり直すって。自分の目標に向って頑張れるって幸せなことだから、お前、バレエ頑張れって言われたんだ」
つばさちゃんは僕を真っ直ぐ見た。
「だから、私は頑張らなくちゃいけない。彰太を励ますためにも、今できることを最大限やるって決めたんだ」
ああ。そうか。つばさちゃんは彰太くんのことが好きなんだ――。ずっと、好きだったんだね。
僕はいろんなことがストンと納得できた。
「じゃあ、僕ももっと気合入れてピアノ弾くよ!」
練習用の伴奏でどうにかなるわけじゃないだろうけど、少しでもつばさちゃんを、そしてつばさちゃんの恋を応援できたらと思った。僕なりの方法で。
つばさちゃんは彰太くんと真由ちゃんのことを知っているのだろうか? いや、知ってるとか知らないとかいう問題じゃない。
ふいに僕に突き付けられた、つばさちゃんが失恋しているという事実。僕はどう対処したらいいのだろう。
「クラウシィー、何か飲物を買ってくる?」
第1部が終わって休憩に入ったとき、ママが聞いた。僕は全然ママの言葉が耳に入ってこなかった。
「クラウシィー!」
「クラウス・ルドルフス・クラヴィエ!」
「ヤー(はい)!」
僕はハッとして、慌てて返事をする。
呆れた顔のママがいた。
「どうしたの?ぼーっとして」
「あ、ああ。ごめんなさい」
「飲み物、買ってきて。アイスティーがいいわ。はい、お金」
お金を渡される。
「あなたも好きなの買っていいわよ」
「ありがとう」
ママの「どうしちゃったの?」という表情が目に映る。いけない。ちゃんとしないと。
自動販売機で飲物を購入し席に戻る。公演に集中するため、パンフレットをぱらぱらとめくる。
第2部の後半に「『ドン・キホーテ』第3幕より『キトリの友人のバリエーション①』 白川つばさ」との文字と顔写真が載っていた。
「つばさちゃん、このソロしか出ないのね」
ママが僕の見ていたパンフレットを覗き込みながら言った。
僕はパラパラと他のページを見てみる。
本当だ。他の演目につばさちゃんの名前はない。他の子は2つ、3つの演目に名前が載っているのに。
「なんで?」
僕はバレエ経験者のママに聞いた。
「よくわからないけど、ソロで踊るからっていうのがあるかもね。ソロだと圧倒的に目立つじゃない。群舞だとやっぱりその他大勢感が強いから、出場数を増やす……ということで、バランスを取る!」
「そういうものなの?」
「そーよー。誰だって自分の子が一番かわいいんだから、なんであの子はソロでうちの子は群舞⁉ ってなっちゃうんだから」
「実力で評価されるんじゃないの?」
「バレエは採点競技じゃないからね~。まあ、でも、そこらへんは、あなた自身が一番よくわかってるでしょ? 採点できないものを採点され続けて苦しんでんじゃない~」
ママはケラケラ笑いながら言った。
「え?」
苦しんでる?
「苦しんでるの?オレ?」
ママはクスッと笑った。
「めずらし~。クラウシィー、オレとか言っちゃうんだ。自分のこと」
「あ⁉」
そう言えば、いつも「僕」って言ってた。
「まあ、自分で苦しいことが分からないところが、あなたのあなたらしいところよね~」
ママは僕の背中をバンッと叩いた。
「大丈夫よ!クラウシィー!きっとあなたは苦しみすら楽しめる子だから!」
え? どういうこと?
ちょうど開幕ベルがなって、ママとの会話はそれで終わった。
ママのお蔭で、僕はすっかり彰太くんと真由ちゃんのことを忘れ、公演に集中できた。
つばさちゃんは軽々とキトリの友人のバリエーションを踊ってみせた。たぶん、完璧に。最後のポーズを決めると、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。僕も最大限の拍手を送った。
でも、本当のつばさちゃんは、もっとすごいんだ。もっと高く飛べる。もっとのびのびと手足を使って踊れるのに。
ステージ中央で、レヴェランスと呼ばれる観客に向けてのお辞儀をし、舞台袖にはけていくつばさちゃん。僕は無事に終わって良かったという安堵とつばさちゃんの練習に付き合えたという誇らしさを感じた。
第7章 序
発表会が無事に終わってホッとしながら、メイクを落としていると、係りの人がクラウスとエリさんからのお花を届けてくれた。
なんかクラウスって、というかエリさんの方針なのかもしれないけど、こういう所すごいなと思う。
「ちゃんとお礼、言うのよ」
ママは私に釘をさす。
「分かってる。ただですら、自主練をサポートしてもらって、お礼しなきゃと思ってるところだったし」
彰太とか脩斗とかも見に来てくれるって言ってたから、挨拶しに行かなくちゃ。速攻で着替え、衣装の片づけはママに頼むと、ロビーに向った。
「帰りも車で送っていくから待っててって、エリさんに伝えて」
ママが私に言う。
「リョーカイ」
ロビーはお客様で混雑していたが、クラウスとエリさんはすぐに見つけることができた。二人とも背が高いから、ちょっと目立つ。
お礼とママから言われた帰りの件を伝える。そこへ彰太と脩斗が来た。たぶん二人もクラウスが目に入ったのだと思う。真由と詩織も一緒だった。
真由とは1年ぶりくらいに会ったので、思わずハグをしながら「久しぶり~」と言い合う。みんな私の出来を誉めてくれて、労いの言葉をくれた。私はずっとお礼を言っていた。
ふとクラウスの顔が目に入る。
ん?
なんか、心配そうな顔。
なんでだ?
第7章
上野の東京文化会館。パパの所属するオーケストラの「クリスマスコンサート」が開催される。
第1部で「アヴェ・マリア」や賛美歌など、第2部では組曲「くるみ割り人形」。クリスマスにちなんだプログラムだ。
「くるみ割り人形」はバレエ曲だから、つばさちゃんたちを招待しようと、ママが提案した。
僕もパパのコンサートに来るのは久しぶりで、日本では初めてになる。そしてオーケストラでパパがゼルテニニャを弾く姿を見られるのも楽しみだ。
本当は来る予定だったつばさちゃんのママのアンさんが、緊急の仕事で来られなくなったので、つばさちゃんは僕らと一緒に上野に来た。
今日はパパが本来所属しているドイツのオーケストラで、常任指揮者を務めているアンドレアス・フラーケが指揮をする。父とは旧知の仲で、僕のことも生まれた時から知っている。
もちろんマエストロは英語が堪能だが、細かいニュアンスを伝えるため、今回の公演ではママが通訳を引き受けていた。なので、僕らはパパと同じ時間に会場へ入った。
久しぶりに会ったマエストロに挨拶する。
「やあ。クラウシィー。大きくなったなぁ」
優しい笑顔が返ってきて、僕はマエストロに抱きしめられた。
「元気だったかい?君に会えなくてさみしかったよ」
「マエストロ」
「ノンノン、クラウシィー。マエストロではなく、いつも通りアンディと呼んでおくれ」
そして側にいたつばさちゃんに気付くと、
「わお。クラウシィー。こちらのかわいいお嬢さんは君のガールフレンドかい?」
と、ウィンクしながら聞いてくる。
「そうだったら私たちも嬉しいんだけど…。残念ながら、ただのお友だちみたい」
ママが笑いながら答える。なんてこった。ドイツ語だからセーフだけど、英語とか日本語とか、つばさちゃんに分かる言語で話されてたらシャレにならない。
「なんだ。お祝いしてあげたかったのに」
大きく両腕を開いて残念そうな顔をするアンディ。勘弁してほしい。
マエストロ・アンディは、右手を差し出しながら紳士的な笑顔を作って、英語でつばさちゃんにあいさつをした。
「つばさと言います。よろしくお願いします」
つばさちゃんはアンディの右手に応え握手をしながら、学長先生仕込みの流暢な英語で挨拶を返す。
「わお!ツバサ!有名なあのフットボールヒーローと同じ名前じゃないか!」
興奮気味にアンディが応える。ここでもサッカーだ。そういえば、アンディは、バイエルン・ミュンヘンの熱心なサポーターだっけ。
「はい。同じ名前だから、サッカー上手いはずだと言われて、チームに入ってました」
つばさちゃんは笑いながら話す。すごいな。こんな世界で活躍している指揮者と、初対面なのに英語で堂々と渡り合えるなんて。
僕は二人の英語でのやり取りに付いていけなくて圧倒されてしまう。
「開演まで、まだ3時間位あるからパンダでも見てくれば? 私たちはこれからリハーサルに入るし」
ママがドイツ語で僕に言った。
「そうだね。じゃあ、アンディ、パパ、コンサートを楽しみにしてます」
僕はパパたちにそう告げてから、つばさちゃんに聞く。
「開演までどこかで時間つぶそう。どこか行きたいとこある?パンダでも見て来いって、ママが言ってるけど」
「じゃあ、向かいの西洋美術館へ行こう!」
つばさちゃんは即答した。そうして僕らは東京文化会館の向かいにある国立西洋美術館へ向かった。 つばさちゃんは何度か来ているようで、僕に先立ちどんどん歩いていく。
「絵画、好きなの?」
「めちゃくちゃ好きっていうわけではないんだけど……」
入口には現在やっている企画展の看板が大きく出ていた。絵画に全く興味のない僕でも知っている画家の名前が並んでいる。これが見たかったのかな?
門を通ってチケット売り場に来ると
「クラウス、生徒手帳出して」
と、突然言われた。
「え?」
「中学生、無料だから」
ああ。納得。生徒手帳を見せて、無料チケットを受け取ると、人で混雑している企画展とは別方向の常設展示室へ向かった。
「いつも来てるの?」
つばさちゃんがあまりにもすいすいと進んで行くので聞いてみる。
「ううん。たまにだよ。でも、上野に来ると必ず寄るかな~」
展示室に入り、順路に沿って僕らは見ていく。松方コレクションを中心に展示されているらしい。簡単に言えば、松方さんという昔の人が集めた絵画を展示しています、ということか。
ロダンの彫刻が並ぶ1階から2階へ上がり展示作品を順路に沿ってどんどん見ていく。宗教画が並んでいる。ルーベンスとかドラクロワとか、僕でも知っている画家の作品があると「おお~っ」となる。
そしてある絵の前でつばさちゃんの足が止まった。
クロード・モネ「睡蓮」。
つばさちゃんは振り向いて僕を見た。
「学校の中等部と高等部の境辺りに池があるの、知ってる?」
中等部と高等部の境?池?
僕は首を振った。
「ちょうど共用棟の裏なんだけど、池があるんだ」
つばさちゃんは僕から視線を移して、また絵を見た。
「じいじ――、っと、学長先生がね、この絵が大好きで、学校にモネの絵を真似て池を造ったんだって」
僕は改めて絵を見る。やわらかい光と色彩。心が素直になっていくようだ。
「じいじはね、横浜の三溪園にある睡蓮池の前で、睡蓮が咲いている時にばあばにプロポーズしたんだって。だから、何か決意したりする時は学校の池の前に行くんだよって言ってた」
つばさちゃんはモネの睡蓮の絵を離れて、次の絵の前に進んだ。
「モネの池って名前が付いてるんだ。5月の中旬くらいに睡蓮の花が咲き始めて、きれいなんだよ」
クラウスに教えてあげたかったんだ、と言ってつばさちゃんは笑顔を見せた。ありがとう、と僕はお礼を言った。
開幕ベルが鳴った。オーケストラのメンバーがステージに出てくる。パパもゼルテニニャを持って登場した。自分の席の前に立って楽団員の着席を確認するとヴァイオリンを構える。オーボエがAの音を出し、それぞれの楽器がチューニングをする。
パパが着席すると指揮者がステージ下手から登場し、会場に拍手が鳴り響いた。ステージ中央の指揮台に立つ。同時に一瞬の静寂が訪れる。
この静寂が僕は好きだ。今日は客だから90パーセントのワクワク感と10パーセントの緊張感。奏者の時は、ヒリヒリするような緊張感が80パーセントでワクワク感が20パーセント。
そういえば去年のクリスマスコンサートの時、僕はコンサート・マスターを務めたミハイルにこの瞬間の心境について聞いたっけ。
「ワクワクしかねぇだろ⁉」
ミハイルは簡単にそう言った。僕はその言葉を聞いた瞬間、「無理だ。ミハイルみたいな心境になれることは絶対にあり得ない」と思ったんだった。
そしてコンサートが終わった後、僕はミハイルになぜ僕を次席に誘ったのか聞いてみた。
「だって、お前、楽譜めくるの上手いじゃん。オレ、ガーッてめくられんの大っ嫌いなの。すぅーっと丁寧にめくってほしいの!」
え? そんな理由?
「いや。重要だよ。タイミングとか、他人への配慮とかがあるってことだろ? 要するに、他とのバランスを取ろうとするタイプってことだからさ」
オレ様タイプだと思っていたミハイルだけど、実際は違うのかもしれない。
「オレさ、お前は絶対、オケ向いてると思うんだよな。周りの音とかよく聞いてるし、全体の音、いつも意識してるだろ? まあ、ヴァイオリン弾くのはソロだけじゃないってことだよ」
指揮者の全神経を集中しているパパの姿を見て、改めてミハイルの言葉がじわっと心に広がる。
指揮者の一振りと共にトランペットの音がクリスマスの到来を告げるように鳴った。続いて一斉にオーケストラが音を紡ぎだす。
「もろびとこぞりて」「荒野の果てに」「きよしこの夜」など賛美歌が数曲続き「ジングルベル」「赤鼻のトナカイ」「サンタが町にやってくる」など定番のクリスマスソングがオーケストラバージョンになって展開される。クリスマスの宗教感とお祭り感を組み合わせた絶妙のクリスマスメドレーだった。
曲が終わり、会場中の拍手に包まれながらアンディは指揮台から降りる。観客に一礼すると、再び指揮台に上った。指揮棒を持ち構えた右手が静かに振り下ろされると、ハープの音からシューベルトの「アヴェ・マリア」が始まった。先ほどの楽しさからは一転し、厳かだけど優しさに満ちた雰囲気が会場を包む。
三大アヴェ・マリアを披露するという企画だった。シューベルトに続いて、バッハ/グノーのアヴェ・マリアが始まる。シューベルトとは違った荘厳さが印象的だ。
曲が終わり、アンディとオーケストラが全てはける。コンサートスタッフが椅子を移動したりし終えると、第1・第2ヴァイオリン、ヴィオラ各4名ずつ、チェロ2名が登場し位置に付いた。
パパとアンディが一緒に並んで登場し、パパがAを出しチューニングを行う。
アンディが指揮台に立ち、パパが指揮台の横に立つ。
カッチーニのアヴェ・マリアが始まった。
パパが主旋律をゼルテニニャで奏でる。ゼルテニニャはソプラノ歌手のような、キラキラとした輝きに哀愁を滲ませ、会場中にその音色を響かせる。
涙がこぼれそうになった。なんて美しい音なのだろう。僕は本当に心からゼルテニニャに「上手く弾いてあげられなくてごめんね」と謝った。
いつか、本当にいつか、僕はゼルテニニャをゼルテニニャらしい音で奏でることができるのだろうか?
第8章 序
コンサートは素晴らしかった!第2部の「くるみ割り人形」を聞いて、めちゃくちゃ踊りたくなっちゃったし。
でも、なにせ一番感動したのは、カッチーニの「アヴェ・マリア」だった。
クラウスのパパがヴァイオリンをソロで弾いてたのもあるけど、切なくて温かくて泣きそうだった。隣にいたクラウス見たら、泣いていたし。
クラウスのパパ、会場中をあんなに感動させるなんて、めちゃくちゃカッコいい。ヴァイオリンの音が、こんなに心を震わせるなんて知らなかった。
そういえば、クラウスがヴァイオリン弾いてる姿を見たことない。自分で下手だと言っていたピアノですら、あんなにめちゃくちゃ上手いんだから、ヴァイオリンはもうヤバいくらい上手いんだろうな。聞いてみたいな。
っていうか、クラウスのヴァイオリンで踊ってみたいよ、私。
帰りの電車の中で、そんなことを思った。
ん?待てよ。卒業祭があるじゃん!卒業祭で、一緒にやろうって誘えばいいじゃん!
第8章
「クラウス!卒業祭で一緒にパフォーマンスしよう!クラウスがヴァイオリン弾いて、私がバレエ踊るの!」
いきなりつばさちゃんが僕に言った。なんか、めっちゃ興奮してる。
ってか、卒業祭って何?
「あ、卒業祭っていうのはね、卒業生がやる文化祭みたいなやつ」
つばさちゃんは卒業祭の説明を始めた。光原は高等部に内部進学する生徒が多いが、中には外部の高校を受験する生徒もいる。彼らが受験勉強を頑張り、そして試験を受けている間、内部進学組は何か今しかできないことを頑張り、その頑張ったことを最後に発表する。外部受験組へのはなむけも兼ねての、最後の大きなお楽しみ会なのだそうだ。
「本当に何でもよくて、部活頑張った人は、例えばサッカー部なんかは、毎年恒例で下級生とガチ試合やったりしてるし、仲良い人とバンドやったり、大きな絵を描いたり、もちろん一人でもいいの。1年間で観た映画の一覧表とその感想を掲示してた人もいたよ」
つばさちゃんによると、保護者も見に来ていいのだが、一番熱心に見に来るのは高等部の生徒で、これは!と思う生徒を部活にスカウトするらしい。
「おもしろそうね」
横からママがノリノリでつばさちゃんに同調する。
「絶対、見に行くわ!クラウシィー、頑張りなさいよ」
まだやるって言ってないのに、ママに決められてしまった。もう断れない。
「うっ……うん」
受け入れる覚悟を決め、返事をする。
「早速、何を踊るか決めなくちゃ!」
つばさちゃんのワクワクしている感じは、見ていてちょっと嬉しくなる。
家に帰ってきて、早速今日聞いたカッチーニのアヴェ・マリアの楽譜を探す。パパが弾いたということは、練習用にコピーした楽譜があるはず。
ピアノの上に積まれた楽譜のコピーの中にそれはあった。パパの音を思い出しながら、僕はサルカニニャで弾いてみる。
サルカニニャはゼルテニニャより繊細で音が細い。だからカッチーニのアヴェ・マリアには合っているような気がした。
でもサルカニニャでは哀愁が勝ってしまい、ゼルテニニャが出す温かな優しさを含んだ音が出てこない。
――いや、サルカニニャではなく、自分の問題か?
「いいんじゃないか?」
後ろから声がして振り向くとパパがいた。
「あ、パパ。お帰りなさい」
「良く弾けていると思うよ。何が不満なのかね?」
良く弾けている?本当に?
「僕は――パパみたいな音が出せない」
パパは大笑いをした。
「当り前だろう。私と君は違う人間なんだし。だいたい、弾いてきた年月が違う。何より、クラウシィー、君のご飯代も学費も、私がヴァイオリンを弾いて稼いだお金で出してるんだ。なめてもらっちゃ困るね」
「そうじゃなくて」
パパは僕の言葉を遮るように言った。
「久しぶりにサルカニニャも弾いてみたくなったよ。クラウシィー」
そしてパパは部屋を出ていった。
僕は全身の力が抜けていくような気がした。自分の出したい音と、他人が良い音と評価する音には隔たりがあるのか?いや、単にパパが僕を励まそうとしただけなのか?
僕はパパの音を忘れないように、もう一度慎重に思い出しながら弾いてみる。でも、やはり満足した出来にはならなかった。
アヴェ・マリアばかり弾いてるわけにもいかないので、ヴァイオリンの先生から出された課題曲「パガニーニのカプリース24番」に取り組み始めた。
指は動く。たぶん単純に間違えずに弾くだけなら弾けるんだ。だが、そこに強弱をつけたり、何か色を付けようとすると、途端に指が動かなくなる。
僕はため息をついた。
冬休みに入る直前の放課後、つばさちゃんと練習室に向う。
「つばさちゃんが一番踊りたいのは何?」
僕は聞いた。
「ドン・キホーテの第1幕のキトリのバリエーションかな」
つばさちゃんが曲を聞かせてくれた。オーケストラなので、これをヴァイオリンソロにアレンジしなければならない。ヴァイオリンがメインなので、音が薄くなるけどいけそうだ。
「今、耳で聞いたところの主旋律だけど、ちょっと弾いてみるね」
僕は聞きながら頭に叩き込んだ旋律を軽く弾いてみる。
「どう?踊れそう?」
「う~ん。踊ってみないと分からないけど。たぶん、大丈夫」
「じゃあ、とりあえず、ドン・キホーテの楽譜を探してくるね」
「でもね、クラウス、これ1分くらいなの。っていうか、バレエのソロで踊るのって、どれも長くないの。ダンサーの体力が持たないから。だから、クラウスもヴァイオリンをソロで弾いて」
――えっ⁉ まじか?
ドン・キホーテの楽譜を手に入れ、主旋律を拾いヴァイオリンソロの楽譜を起こす。演奏記号を加え、弾きながら、運指、ボウイングを確認していく。何度か弾いてみる。
まあ、こんなもんかな。後はつばさちゃんとうまく合うかどうか、というところだろう。
問題は、ヴァイオリンソロ曲を何にするかだ。ソロだと無伴奏曲に限られるし、つばさちゃんのバレエとプログラム的に合う感じにしないといけない。曲の長さも考えないと……。
以前から課題になっているパガニーニも思ったように進んでいないこともあり、僕は少しナーバスになっていた。
第9章 序
お正月、じいじとばあばの家に行って新年の挨拶をした後、じいじと一緒に学校へ来た。じいじは毎年、元日にモネの池の前で今年の目標を立てるのだ。今年は私もじいじに倣って、目標を立てようとくっついてきた。
「つばさも4月から高校生だね」
じいじが感慨深げに言う。
「うん。高等部への進学だから、あんまり大きな変化はないかもしれないけど」
私の言葉をじいじは笑いながら否定した。
「いやいや。制服が変わるし、選択授業も増える。将来のことを今よりもっと真剣に考えなくてはいけなくなる。もし大学進学を希望するなら、受験への準備が始まる。第2外国語が必修に加わる」
「のんびりしてられなくなるってことだね」
「本当はのんびりしてほしいんだよ。まあ、つばさらしく、元気でいてくれればいいさ。楽しい思い出をここでたくさん作ってほしい」
私はじいじに思いっきり微笑んだ。
「今も、めちゃくちゃ楽しいよ」
「それは良かった」
じいじもにっこり微笑んだ。
「この前ね、クラウスのパパのコンサートを聞きに上野に行ったんだ。だから、モネの『睡蓮』見てきたよ。それでね、クラウスにこの池のこと教えてあげたんだ」
「ヤ」
じいじは英語で相槌をうった。
「でね、卒業祭、クラウスと一緒にやることにしたよ。クラウスのヴァイオリンでバレエ踊る」
じいじは少し意味ありげな「にっ」とした笑顔を向けて、「それは楽しみだ」と言った。それから満足げにウンウンと頷く。
ん?じいじ、何か企んでる?
第9章
冬休みが終わって学校が始まると、つばさちゃんと僕は本格的に卒業祭に向けて練習を開始した。つばさちゃんのバレエの発表会のときも自主練に付き合っていたので、やることはあまり変わらない。だが、あの時はあくまでつばさちゃんの練習のために弾くピアノだったが、今回弾くヴァイオリンは自分の発表でもあるので、意味が大きく変わる。
始めのうちは自分達それぞれのパフォーマンスの精度をあげることに気を取られていたし、とりあえずざっくり合わせ慣れていこうという感じで「まあ、いいか」という雰囲気だった。
だが、だんだん細かい所にまで気がまわるようになると、それぞれの主張が出てくる。
「クラウス、ここ次のステップへのタイミングが取れないから、音入るのワンテンポずらしてくれない?」
とか、あり得ないことを言われる。
「無理。楽譜がそうなってない」
「え~⁉ だって、前のキトリの友人のバリエーションの時、こっちに合わせてくれたじゃん‼」
「あれは、楽譜っていうより、僕が音を拾ったメモ書き程度のものだったから。正しい楽譜がどうなっているかわからなかったし」
そんな諍いがしょっちゅう起こる。
「楽譜、楽譜って楽譜がそんなに重要なの?」
「うん。少なくとも僕は作曲者じゃないから。勝手に変えることは許されない」
「むぅ~~~~っ」
「ほら。もう一度、最初から弾くよ」
「はいはい。クラウスの石頭!」
「イシアタマって何?どんな意味?」
「あ、気にしないで!特に意味はないから。はい。踊りま~す」
嘘だ!絶対、ネガティヴな意味だ!
家に帰ってママに聞く。
「イシアタマって何?」
「頑固な人。融通が利かない人のことよ」
「マジか⁉ つばさちゃんにイシアタマって言われた」
ママはゲラゲラ笑いだした。
「まあ、当たってないこともないけど……。なんでそんなこと言われたの?」
僕は一連のやり取りを説明する。ちょうどパパもいたので、僕はパパに同意を求める。
「『楽譜通りに弾くな』なんて無理だよ」
パパは苦笑いした。
「まあ、原則はね。でも、指揮者が楽譜を無視しろって言ったら、無視するんだよ」
「僕は学校で、楽譜楽譜とめちゃくちゃ言われてきたのに……」
「それはそうだよ。クラウシィー。楽譜通りが大前提なんだ。楽譜を離れていいのは、楽譜通りに弾ける者に許された特権のようなものさ」
特権…か。
「ところでクラウシィー」
パパは僕を真っ直ぐに見る。
「そのパフォーマンスは、君のヴァイオリンにバレエが付くのか、それとも、つばさのバレエにヴァイオリンが付くのか、どっちなのかな?」
――――。
……僕はイシアタマだった。
それから僕はつばさちゃんの一挙手一投足に注意を払うようになった。リズム、テンポをつばさちゃんの動きに合わせたり、逆につばさちゃんの動きをリードしたりしながら弾くようにする。
僕の弾き方が変わると、つばさちゃんの動きも変わってきた。以前は音を探りながら踊っているようなところがあったが、今は音に全身を委ねて踊っている。その分、ジャンプが高く、振りが大きくなっているように見える。何より踊っているのが楽しそうだ。つばさちゃんにつられて、こっちまで弾くのが楽しくなってくる。
「なんか、ありがとう。めちゃくちゃ踊りやすくなった」
つばさちゃんが言った。
「いや。僕の方こそ、イシアタマでごめんね」
「あ。それ、気にしないでって言ったじゃん」
つばさちゃんはバツの悪そうな顔をした。
「なんか、この踊り、つばさちゃんに合ってるね」
つばさちゃんは嬉しそうに笑った。
「ホント?めっちゃ、嬉しい!本当は発表会もこっちが踊りたかったんだ~」
発表会のプログラムを思い出してみる。このプログラムは無かったはずだけど。
「先生がダメだって」
「なんで?こんなに上手く踊れるのに?」
「これ、ドン・キホーテの主役の踊りだから。私がこれを踊ると、全体のプログラムのバランスがうまくいかなくなっちゃうんだって」
つばさちゃんはサバサバした様子で言った。そういえば、発表会の時、ママもそんなこと言ってたっけ。でも……。
「それって悔しくないの?」
思い切って聞いてみる。
「うん。悔しいけど――。まあ、要は自分がまだまだってことだよ。圧倒的に上手くなって、そんなこと言えなくさせればいい」
つばさちゃんの真っ直ぐな瞳が僕に向けられた。そうだ。この瞳。前も見た。自主練をなぜ頑張るのか教えてくれた時だ。
「つばさちゃんは、すごいね。尊敬する」
僕はつばさちゃんみたいに考えられる時が来るのだろうか?
「すごくないよ」
え?
速攻で否定が入った。
「彰太がいつもそう言っていて、実際にそれを実践してたから。自分もそう思って頑張ろうと思っただけ。だから本当にすごいのは彰太なんだ」
「そっか……。つばさちゃんは、彰太くんのことが好きなんだね」
一瞬、おそらく一瞬の沈黙が流れた。
――やばい!なんでこんなことを言ってしまったんだろう。
頭の中でめぐる激しい後悔、自責の念。
この一瞬をこんなにも長く感じたことはない。
「……うん」
つばさちゃんは静かに肯定した。
「でも、誰にも言わないでね。特に彰太には」
「言わない」
言えるわけない。
「真由に悪いからね……」
――つばさちゃん。
僕はつばさちゃんを見た。
知ってるんだ。彰太くんと真由ちゃんが付き合っていること。
僕がつばさちゃんを見たことの意味をつばさちゃんは即座に理解したのだろう。
「真由はさ、私と正反対の女の子なんだ」
少し作ったような笑顔を僕に向けながら言った。
「小さくて、おしとやかで、控えめで、おとなしくて、お菓子作りが趣味」
確かにつばさちゃんとは真逆っぽい。
「私がサッカーで擦り傷とか作っても、そのまま放っておくから、手当してあげないとっていう理由でサッカーチームに入ったの」
つばさちゃんは懐かしそうな顔をして、ケラケラ笑いながら続けた。
「私がお腹空いちゃうからってお菓子作って持ってきてくれたり、試合の時はちみつレモン作ってきてくれたりさ。――だから」
つばさちゃんは念を押すように、真剣な顔で僕を見た。
「彰太が真由を好きになるのも分かる」
絶対二人に言うなと瞳で釘を刺された。
つばさちゃんの話を聞いて、僕はフランツのことを思い出していた。
「つばさちゃんは、嫉妬とかしないの?」
ちょっと考えてからつばさちゃんは答えた。
「う~ん。全くしないと言ったらウソになるけど……。ああいう女の子になりたいな、と思ったこともあるし。でも、私は私だし。何より私は真由のことも大好きで、大切な親友だから」
僕はフランツがゼルテニニャで出した音が好きだったはずなのに、フランツのことだって好きだったはずなのに、そしてフランツの才能も理解していたはずなのに。
僕は嫉妬する自分から逃げてしまったんだと思った。フランツの友人としてふさわしくないという、逃げの理由を作って。本当はフランツの友人としてふさわしい人間になれるように、頑張らなくてはいけなかったのに。
「……つばさちゃん。ありがとう」
僕はお礼を言った。
「えっ⁉ なに⁉ 急に。今、私、何もしてないよ」
つばさちゃんは僕の突然のお礼にちょっと動揺している。その表情がちょっとかわいかった。
そうだ!ソロ曲、フランツがゼルテニニャで弾いた、バッハのパルティータ「ガヴォット」にしよう!明るく柔らかい曲だから、このつばさちゃんが踊るダイナミックなキトリの踊りのちょうどいい耳慣らしになるはずだ。
どうせだから、つばさちゃんにも少し踊ってもらおう。ウォーミングアップをするようなつもりで。
「つばさちゃん、ヴァイオリンソロ曲なんだけど、この曲はどうかな?」
僕はヴァイオリンを構えた。
第10章 序
クラウスが突然私にお礼を言うのでびっくりした。何もしてない。……というか、むしろ「石頭!」とか言っちゃってたから、謝罪を要求されるんなら分かるんだけど。
しかも練習を終えた後、突然「お願いがある」とか言い出すから、先にお礼を言って要求を通そうとする作戦か?とか思って警戒してたら、「これからは『クラウシィー』って呼んでほしい」ってそれだけだった。クラスのみんなにも「クラウシィー」って呼んでって頼む、とか言ってた。以前、私が「クラウシィー」って呼ぼうとしたら、めっちゃ怖い顔で拒否ったくせに。
でも、クラウス、いやいや「クラウシィー」のご両親は彼のことを「クラウシィー」と呼ぶので、おそらくそっちの方が慣れ親しんでいるのだろう。
日本や光原やクラスや、彼が周りの環境に慣れてきて、親しみを感じるようになって、心の距離が縮まった証拠というのならいいんだけどな。
第10章
学園内にあるホールで卒業祭の最終リハーサルを終えて、僕らは帰宅した。後は明日の本番を待つのみ。
僕は弾き足りないので、家でヴァイオリンを弾きまくる。明日、弾く予定のガヴォットとドン・キホーテは特に念入りに。
パパが部屋に入ってきた。
「クラウシィー、明日、卒業祭なんだって?」
「うん」
「何を弾くんだ?」
「バッハのパルティータのガヴォットと、ドン・キホーテの第1幕キトリのヴァリエーション」
パパは頷いた。
「いい選曲だな。つばさちゃんには合ってる」
「うん」
「明日、楽しみにしてるよ」
「パパも来るの?」
「もちろん!クラウシィーがどこまで上達したか見てみたいし」
珍しい。パパが来るなんて。想定外だ。
「クラウシィー」
パパはヴァイオリンケースを差し出した。
「明日はゼルテニニャで弾くといい。ガヴォットやドン・キホーテは、おそらくサルカニニャよりゼルテニニャの方が合っている」
僕はゼルテニニャを受取った。
「それに、何よりつばさちゃんには、ゼルテニニャと同じ輝きを感じるからね」
僕は頷いた。確かに、そうかもしれない。
「ありがとう。明日、楽しみにしてて」
僕は力強くパパに約束した。
久しぶりに手にしたゼルテニニャ。あの日以来か。
パパが完璧に手入れをしているのは分かっているが、自分の手でボディを磨く。
ゼルテニニャ。明日は君と一緒にステージに立つよ。君の力を発揮できるよう、僕は頑張るから、どうぞよろしくね。
心の中でゼルテニニャに話しかける。
楽しもう。ゼルテニニャ!音を楽しもう!君と、つばさちゃんと。
ゼルテニニャをケースから取り出し、僕はいつも通りのルーティンを行う。
爪の手入れ、手洗い、ヴァイオリンの手入れ……。
そして慎重にチューニングを行った。指の運動を行いながら、頭で曲をイメージする。
つばさちゃんはキトリの衣装を身につけ、精神統一をしていた。出番が近づき、僕らはステージ脇に移動する。
前の人達のパフォーマンスが終わり、ステージが片づけられる。その時間を利用して最後のチューニングを行う。
開幕ベルが鳴って、場内アナウンスが流れ、僕らの名前が紹介される。会場係の下級生がステージへ促す。
「白川先輩、クラヴィエ先輩、お願いします」
僕はヴァイオリンを左手に持って、つばさちゃんの右手を取る。
「つばちゃん、行くよ。楽しもう」
「うん」
僕らはステージに出た。
温かい拍手に迎えられ、ステージ中央で一礼する。最初のガヴォットはつばさちゃんの動きが少ないので、僕はステージ中央に立ち、ヴァイオリンを構えた。
つばさちゃんの最初のポーズが整うと、僕は音を奏で始めた。明るく軽やかなメロディが会場を包む。ゼルテニニャが音に光を携えて、会場の隅々まで運んでいくようだ。
つばさちゃんは、ここではジャンプなど大技は控え、ゆったり体を慣らすようなイメージで動いていく。そよ風に揺れるすみれをイメージして振付けたとつばさちゃんは言っていた。
僕はつばさちゃんの動きを意識しながらも、ゼルテニニャのキラキラした音とまるで自分がダンスをしているような気分で約3分の曲を弾き終えた。これまで感じたことのない不思議な感覚だった。
ガヴォットを弾き終え、僕は会場に一礼し、つばさちゃんはレヴァランスでお辞儀をする。割れんばかりの拍手が嬉しい。
「ゼルテニニャ、ありがとう」と心の中でつぶやく。
つばさちゃんの手を取って、ステージの中央後方へエスコートし、僕は下手側前方で、斜めに立つ。
つばさちゃんがトゥで立ったのを見て、弓を引く。ゼルテニニャが唄いだす。
つばさちゃんは全身を使って、片足のトゥで立ちジャンプをし、回転し、ステップを踏んでのびのびと自在に踊る。つばさちゃんの躍動感に水を得たように、ゼルテニニャの音もぐんぐんと輝きを増す。
つばさちゃんの動きは、リズム感があってキレがいいので、そこを生かすようにボウイングを取り、テンポよく奏でていく。
ラスト、ステージを斜めに大きく横切るように片足を軸に回転しながら移動していく。つばさちゃんはぐんぐんとスピードを増すから、テンポを足の着地と踏切に合わせ加速していく。音楽と動きがぴたりと合った一体感は、演奏している僕も気持ちいい。
きれいに最後のポーズを決めると、怒涛のような拍手が沸き起こった。
ステージ中央でお辞儀をする。止まない拍手とアンコールの声。
一度二人でステージから退く。進行係が「アンコールお願いできますか?」と僕らに聞く。
アンコールって、考えてなかったけど。
僕はつばさちゃんを見る。
肩で息をしているつばさちゃん。大技が続く踊りなので、めちゃくちゃ体力を消耗しているはず。踊れるのか?
つばさちゃんはゼーハー言いながら「あと、2分待って。たぶん2分で回復できる」と僕に言う。
僕は覚悟を決めた。
「4分ちょっとの曲を弾くから、ゆっくり息を整えて。その後、この前発表会でやった踊りをやろう。つなぎの曲が終わったら、端に移動するからそうしたら登場して」
つばさちゃんは頷いた。
「ピアノじゃなくてヴァイオリンだけど、つばさちゃんに合わせるから、思いっきりジャンプしていいよ」
「うん」
僕はステージ中央に進み出た。一礼する。
ヴァイオリンを構えて大きく息を吸う。
「ゼルテニニャ、行くよ」
小さな声でつぶやく。
『パガニーニのカプリース24番』
ゼルテニニャが音を紡ぎだす。
左手の指はきれいに回っている。ボウイングもバッチリ思い通りに運べている。繊細にかつ大胆に。切なく、時に甘く優しく。名曲と言われる魅力をいかんなく響かせていくゼルテニニャ。
そうだね。ずっと君とこの曲を奏でてきたね。一度の失敗くらいで僕らの信頼は崩れないくらい、ずっと弾き込んできたはずだったよね。それこそ目をつぶっていても正確に弾けるくらい。
ゼルテニニャの全身で訴えるような響きが会場に溶けていく。憂いを秘めた音が小さな希望となって、ここにいるすべての人の心に沁み込んでいきますように。
約4分の曲。叫ぶように、祈るように、ささやくように、ゼルテニニャに導かれて、僕は弾き終えた。
パガニーニに圧倒された会場は、弓を外し音が消えた後も数秒間水を打ったような静寂に包まれた。息をするのも忘れたかのように。
僕は一礼して下手側に立ち位置を変える。と同時にどよめきと拍手が襲ってきた。
ヴァイオリンを構えたのを合図につばさちゃんがステージ中央に登場し、ドン・キホーテ第3幕キトリの友人の踊りその1が始まる。
つばさちゃんの息はすっかり整っていて、めちゃくちゃ高いジャンプをくりだす。キトリの踊りよりテンポが緩やかなので、つばさちゃんの長い手足が本当に優雅に伸びやかにしなやかに舞う。
ああ、なんて美しいんだろう。鳥が空を自由に舞っているみたいだった。ゼルテニニャの奏でる音と相まって楽園にいるようだ。ずっとこの時間が続けばいいのに。
つばさちゃんの最後のポーズに合わせ弓を外す。お辞儀をするつばさちゃんの横に立ち一礼し、彼女の手を取って退場する。
つばさちゃんと僕の卒業祭が終わった。
最終章
ヴァイオリンの手入れをして、ケースにしまう。このやり切ったという達成感と満足感の心地よさは何と言えばいいんだろう。
僕の中で何かが大きく変わった瞬間だった。
家に帰ってパパの部屋にヴァイオリンを持っていく。
「お疲れ様」
パパがゼルテニニャを受取りながら言った。
「良かったよ。なんか、スランプ脱したんじゃないか?」
スランプって――。
「少なくとも、今まで聞いた中で一番良かった。ゼルテニニャも鳴らせてたじゃないか」
パパは微笑んだ。
「――パパ。相談があるんだ」
僕はパパを真っ直ぐに見た。
パパも僕の目を見つめ返してきた。
「僕は――」
一度大きく息を吸ってから、次の言葉を吐き出す。
「奏者じゃなくて、指揮者になりたい。今日みたいに、なんかうまく言えないんだけど、つばさちゃんの羽ばたく空を作ってあげられるような……。それって奏者じゃなくて指揮者だよね?」
パパはゆっくり頷いた。
「そうだな」
「パパ。これから僕はどういう勉強をしたらいい?」
「――とりあえずは、これまで通りヴァイオリンとピアノは続けるんだな。ソルフェージュも。それから……とにかく、アンディに相談してみよう」
パパは笑った。
エピローグ
4月になって高等部へ進学した。今日は一応入学式だった。あ、高等部から受験で入ってきた生徒もいるから、一応とか言っちゃダメか。
今日から高校生だからモネの池に行こうと、クラウシィーから誘われた。一緒に移動しようとしたら、あいつは上級生に捕まってしまった。
卒業祭でのパガニーニは全校生徒の度肝を抜いて、高等部のオーケストラ部やらバンドやら、高等部校舎に足を踏み入れた瞬間から勧誘が始まっていた。
「ごめんね!先に行ってて」
って、言われたけど、なんかクラウシィーも私も高等部で勝手に有名人になってて、困る。
池のほとりでぼ~っと待ってると、共用棟の裏口からクラウシィーが来た。
「ごめんね。待たせて」
と謝った。
「いえいえ。人気者はつらいね」
私は冗談を言った。
「そういうわけじゃないんだけど…」
クラウシィーは困ったような顔をした。
「あれ?」
クラウシィーの瞳って濃いブルーなんだけど、光の加減によってはすみれ色になる。
「どうしたの?」
クラウシィーが聞いた。
私は瞳の色のことを話し
「きれいだな~と思って」
と、付け加えた。
「ははは。ありがとう」
照れたように笑って、お礼を言った。
「で、モネの池の要件は何?」
私は本題に切り込んだ。
「うん」
クラウシィーは慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「オレさ」
そう言えば最近クラウシィーは自分のことを「オレ」って言うようになった。前は「僕」だったのに、と漠然と思いながら、青時々すみれ色の瞳を見た。
「1学期終わったら、ウィーンへ行くことになった」
え?
「ウィーンって、あのウィーン?」
「あのって、どのウィーン?」
「いや、音楽の都?のウィーン?」
「うん」
「すごいじゃん‼」
私は誇らしく思った。だって、あんなにすごいヴァイオリン弾けるんだもん。当然、音楽の都、行くべきでしょ‼
「指揮の勉強をするんだ」
「シキ?」
「うん。指揮者の指揮ね。コンダクター」
「ああ、指揮ね」
ん?指揮者?
「すごいじゃんっ‼‼」
一瞬、指揮者が分からなくなった。
「あのね。オレね、いつか、本当にいつか、つばさちゃんの空を作るから。絶対作るから」
……ん?何?空?
「つばさちゃんが、ちゃんとつばさちゃんらしく踊れるように、指揮者になって演奏する。つばさちゃんが音に遠慮しないで、バリシニコフ並みにジャンプできて羽ばたけるように」
そういうことか。
確かに、あの卒業祭のステージは私の空があった。気持ちよく羽ばたいてた。
「ここで、つばさちゃんに約束したかった」
なぜか、涙が出てきそうになる。
必死にこらえた。
「…うん。私もちゃんとクラウシィーの指揮で踊れるバレエダンサーになれるように、頑張る」
なんとなくこの場所から離れたくなくて、二人でグルグル池の周りを歩きながら、とりとめのない話をした。
たぶん、この池の睡蓮が咲いている時期に、クラウシィーとお別れになってしまうのだろう。
お別れは寂しいけど、睡蓮の花が私たちの約束を見守り、応援してくれるだろう。
私はクラウシィーの作ってくれる空を信じて、そこで羽ばたけるように頑張ろう。
「つばさ」だからね。
――完――