第79話.開拓
午前の仕事を終えて王城に帰還した時……意外な人物が僕の視野に入った。
「王子……」
エルナン・カヒール王子……彼が日差しの下、王城の庭園で花々を眺めていた。
王子がまだ王城に泊まっているのは知っていた。しかし姿を目視するのは久しぶりだ。いや、もしかしたら僕は王子の姿を無意識に避けていたのかもしれない。彼のかっこいい姿を見ているだけで……自分が惨めに感じられたからだ。
しかし今日は……何ともない。王子は相変わらずかっこいい姿だったけど、だからといって自分が惨めだとは感じない。
王子は王子で、僕は僕だ。僕は僕にできることをやっていけばいい。
「……変わったな」
この世は何も変わっていない。ただ自分自身が変わっただけで……何もかも違く見える。
「どうか姫様をお願いします、王子様」
僕は遠くにいる王子に向かって言った。
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午後にはクロード卿から休憩時間をもらったので、僕は貧民街に向かった。
「スーザンさん、ラナ……こんにちは」
「アルビンさん!」
スーザンさんが僕のことを笑顔で迎えてくれた。ラナはいつもの無表情で視線を投げてきた。
それから3時間くらい介護を手伝った。まず周りを掃除して、シーツを変えて、洗濯物を運んで、お粥を炊く。そして老人たちにお粥を食べさせたら、やっと一段落だ。
「アルビンさんのおかげで早く終わりました」
「それはよかったですね」
一段落したから、少し休んでも良さそうだ。僕は家を出て並木の下に座った。すると柔らかい風が気持ちよく吹いてきた。
「傍に座ってもいい?」
ふとラナの声が聞こえてきた。僕が「ああ」と答えると、ラナは僕のすぐ傍に座った。
「昨日のあんたの言葉、ちょっと考えてみたけどさ」
「そう?」
「本当に助けたいから助けてくれるだけなの?」
「ああ、そうだ」
僕の答えにラナがふっと笑う。
「赤の他人なのに? 私たちについて何も知らないのに何故そこまでするの?」
「何も知らない……確かにな」
そう言えば、僕はまだラナやスーザンさん、そして老人たちについてよく分からない。
「じゃ、聞かせてくれ。君とスーザンさんは何故老人たちの介護をしているんだ?」
「……そうね。何度も助けてもらったし、それくらい説明するよ」
ラナは意外と素直に説明を始めた。
「別に大した話でもないよ。ベッドに寝ている人たちは、もともとこの貧民街の住民たちだけど……高齢だし家族もいないから、私とスーザンが介護しているの」
「じゃ、二人も赤の他人を助けているのか?」
「違う」
ラナが首を横に振る。
「彼らも数年前までは、貧乏でも他の人たちを助けながら生きてきたの。私もスーザンも彼らのお世話になったことがある。だから少しでも恩返しをしたいだけ」
「なるほど……」
「貧民街には、ゴミクズみたいなやつらが多い……でも優しい人々もいる。決して多くはないけどね」
そういう優しい人々が、お互いに助け合っているのか……。
「ラナ」
「ん?」
「もう一つ、聞いてもいいか」
「何?」
「食料や薬のためのお金は……どうやって稼いでいるんだ?」
僕の質問にラナの顔が暗くなった。
「もともとは……私がレストランで働いて稼いでいたの。でも……先日、解雇された」
「何故?」
「数人のお客さんがね、私がエルフ族だから気持ち悪いと言い出して……揉め事が起きたの。それで……」
「そんな……」
「だから仕事を探しているけど……エルフ族を雇ってくれる人はなかなかいなくて ……」
ラナが僕の横顔をちらっと見つめた。
「あんた、魔法で私の本音を聞いたとか言ったよね? それ……本当かもしれない。私は……ずっと助けを求めていたの」
少しの沈黙の後、僕が口を開いた。
「ラナ、一つ提案がある」
「提案?」
「ああ、僕にはいくらかお金がある。たぶん小さな農場やお店くらいは経営できるお金だ。だからそのお金を使って……安定した収入を得られる方法を一緒に探そう」
「え……?」
「僕はまだ都市について詳しくない。けどラナやスーザンさんと相談すれば、きっと何かいい方法を見つけられるはずだ。そしてもっと多くの人々を助けることもできるはずだ」
ラナが目を丸くした。
「あんた、何故そこまでするの? 一体……」
「僕は今まで多くの人々から助けてもらった。そのおかげで平民としては結構出世した。たぶん運がいいんだろう。だからその運を少しだけでも……優しい人々に分けてあげたい」
僕はラナの答えを待たずに、席から立ち上がった。するとラナも立ち上がって、僕の顔を見つめた。
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次の日から、僕はラナと一緒に王都の街を歩き回った。『安定した収入を得られる方法』を探すためだ。
僕が持っているお金は、全部で金貨140枚くらいだ。国王陛下からの褒賞、姫様からの謝礼、そして僕が羊飼いと王室魔導士の助手として稼いだお金を足した結果だ。将来、アイナが結婚する時のために金貨30枚くらいは残しておきたいから、大体金貨110枚の予算があるわけだ。
金貨110枚は結構大きいお金だが……僕もラナも農場やお店の経営には詳しくないから、なるべく慎重に調べなきゃならない。
「商業地区の店舗を買取りするのは難しいっぽいね」
ラナの意見に僕は頷いた。
「じゃ、どうすればいいんだ?」
「王都の東や北の方には、養鶏場や畜舎などがある。それなら買取りできるかも」
ラナの提案に従い、養鶏場や畜舎を見回した。そして二日後……ついに見つけた。
「養鶏場……か」
それは北の門の近くの養鶏場で、周りに卵や肉を供給しているところだった。規模は大きくも小さくもない。ちゃんとした働き手さえ雇えば経営には問題なさそうだ。
慎重を期するために、養鶏場の収入と支出を綿密に調べた。そして更に三日後……今の予算なら問題なく経営できるという結論に至った。
「よし、ここで決定だな」
僕とラナは養鶏場の経営者と交渉に入った。彼は以前から養鶏場を売却して故郷に戻るつもりだったらしい。おかげで交渉は難なく進んだ。
「じゃ、これで……取引完了ですね」
僕は提示された価格を支払った。数十枚の金貨を一瞬で使うことになるとは……流石に少し手が震えてきた。そして金貨の代わりに、今日から養鶏場の経営者は僕であることを証明する書類をもらった。
「無事に終わったわね」
「ああ」
僕は何度も書類を読み返しながら頷いた。
「今日からあんたも立派な経営者ね。おめでとう」
「あの養鶏場は僕だけものじゃない。ラナも共同経営者だ。一緒に頑張って、収入は人々のために使おう」
「……うん」
僕とラナは貧民街に向かって歩いた。この嬉しい知らせを早くスーザンさんにも聞かせたい。
「あの……」
道の途中、ふとラナが口を開いた。
「何だ」
「……本当に、ありがとう」
ラナの声は震えていた。
「つい先日まで、私は希望を失いつつあった。しかしあんたが現れて……何もかも変わった」
「いや、僕の方こそ……ラナやスーザンさんに出会って何もかも変わったよ」
「そう……?」
「うん」
それから僕たち二人は、沈黙の中で歩き続けた。何の会話をせずとも……ラナの感謝の気持ちが伝わってきた。そして僕の胸の中は暖かい感情に満ちた。
今まで僕は……誰かに依頼されて、または誰かに導かれて動いてきた。しかし今日は……僕が計画して、僕が考えて動いたのだ。身近な幸せを僕の手で掴んだのだ。
これで……きっと幸せになれる。そういう希望と確信が湧いた。ラナやスーザンさん、そして助けが必要な多くの人々と共に……幸せになれる……!
やがて僕たちは貧民街についた。太陽はもう沈み始めていた。
「スーザンさん!」
僕は家の扉を開きながら、希望に満ちた声でスーザンさんを呼んだ。しかしその時、僕の目に映ったのは……。
「あ……」
一瞬、目の前の光景が理解できなかった。そんな僕に現実を教えてくれたのは……血の匂いだった。
「ス、スーザンさん……!」
スーザンさんが血を流しながら倒れていた。僕は慌てて彼女に近づいた。いや、近づこうとした。
「うっ……!」
家の中に一歩踏み込んだ途端……僕は頭に強烈な衝撃を受けた。誰かが僕の後頭部を強く殴打したのだ。僕は抵抗することもできなく……そのまま気を失った。