第74話.接触
レオノラさんは『王都全体を守る結界』の開発を進めていた。王室魔導士として、王都を敵対的な魔導士から守護することが彼女の一番大事な役割だ。もちろん彼女の助手である僕もその役割を果たさねばならない。
もう何回も実験したおかげで、王都の内部に敵対的な魔導士は存在しないことが判明した。この隙に『王都全体を守る結界』を完成させ、新たなる脅威に備えるわけだ。
『王都全体を守る結界』といっても、実はその結界を一気に作るわけではない。王城を中心に結界の範囲を少しずつ広める計画だ。
レオノラさんと石工が『結界の力が込められた石碑』を制作すると、僕が兵士たちの協力を得て指定された場所まで石碑を運ぶ。それで結界は少しずつ、着実に広がっていった。
「ふう」
そして今日も石碑を荷馬車に載せ、兵士たちと共に運んだ。晩夏の日差しはまだまだ強くて、僕も兵士たちも汗をかいた。
「助手さん、これでいいんだな?」
「はい、お疲れ様です!」
僕は手伝ってくれた兵士たちにお礼をした。
「俺たちはこのまま荷馬車で王城に帰還するよ。助手さんは?」
「自分はもうちょっと確認してから帰還します」
「おうよ」
兵士たちと荷馬車が遠ざかっていく。
ふと周りを見回した。そう言えばここは……『貧民街』の近くだ。
「貧民街……」
僕と石碑が立っているこの場所は、まだ普通の街だ。しかしここから少し離れると……明らかに周りとは違う雰囲気の空間になる。どこか暗くて、どこか寂しくて、どこか悲しい街……それが『貧民街』だ。
僕は貧民街の方を見つめた。するとあのエルフ族の男の顔が思い浮かんだ。彼はあそこでどんな人生を送ったんだろう。
「あ……」
思わず声を出した。一人の少女が……僕の目の前を横切って、貧民街に向かっていた。その少女の耳も……尖っていた。
僕は何となくその少女を見つめた。エルフ族はみんな美男美女だと聞いたし、実際僕が見てきたエルフ族はみんなそうだったけど……その少女は普通だった。耳が尖っている点を除けば本当にどこにでもいそうな少女だ。みすぼらしい服装からして貧民であることは間違いないだろうけど。
やがて少女は貧民街に入り、僕の視野から消えた。はっと気が付いた僕は、石碑の状態を確認して王城に帰還した。
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それ以来、その少女のことはすっかり忘れていた。僕もいろんなことで頭がいっぱいだったのだ。
姫様への気持ちと寂しさを忘れるために、僕は忙しく働いた。レオノラさんの助手としても、クロード卿の従者としても全力を尽くした。
しかしそれでも……夜一人で部屋にいると、時々胸が痛かった。もう自分ではどうしようもないことだ。痛みが去るまで耐えるしかなかった。
ケイト卿の率いる王立軍と一緒に旅をしていた頃、女兵士たちは夜になるといつも恋愛話で盛り上がった。そして彼女たちは僕に『恋に悩むと胸が痛むのよ』と言ってくれた。当時はその言葉が何らかの比喩だと思っていたけど、まさか本当に胸が痛むとは。僕は思わず苦笑いして、痛みに耐えようと頑張った。
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一週間後、僕はまた貧民街の近くまで行って兵士たちと共に石碑を設置した。
「今日もご苦労さん」
「ご苦労様でした」
設置が終わると、兵士たちは僕を残して王城に帰還した。一人になった僕は素早く石碑の状態を確認した。もうこの仕事もなれていた。
ふと頭の中にある人の姿が浮かんだ。一週間前、僕の目の前を横切って貧民街に入ったエルフ族の少女だ。何故あの少女の姿が浮かんだのか、それは僕にも分からなかった。
「あ……」
そして僕は今度も思わず声を出してしまった。 一週間前のあの少女が……また僕の目の前を横切っていた。
茶髪に茶色の瞳、少し低い背、みすぼらしい服装…… 尖っている耳を除けばどこにでもいそうな少女だ。強いて言えば、大きな髪留めがちょっと個性的だ。
僕は今度も何となく少女を見つめた。しかし今度は前回とは違って……少女も僕の方を見つめた。それで二人の視線が交差した途端……声が聞こえてきた。
「助けて!」
僕は驚いて目を丸くした。少女が僕に向かって『助けて!』と叫んだと思った。しかし少女は口を黙ったまま僕を見つめているだけだった。声が聞こえたと思ったけど……幻聴だったのか?
「助けて!」
もう一度声が聞こえてきた。これは一体何だ……? 僕の頭が変になったのか?
僕がずっと見つめていると、少女は僕のことを無視して貧民街に入ろうとした。
「ちょっと待って……!」
僕は少女に向かって歩き出した。自分自身でさえ何故そんな行動をしたのか分からなかった。ただこの少女が……助けを求めているような気がしてならなかった。
「……何だよ、あんた」
少女が僕を警戒した。当然だ。いきなり知らない男から声をかけられたんだから、警戒しない方がおかしい。
「その……」
僕は『もしかして助けを求めていたんじゃありませんか?』と聞こうとした。しかし次の瞬間、自分自身がどれだけ馬鹿な真似をしているのか気付いた。これでは完全に頭のおかしいやつだ。
「……あーあ、またこういうやつか」
軽いため息をついてから、少女は自分の頭に手を伸ばして大きな髪留めを外す。
「言っておくけどさ」
そして少女はいきなり……僕の体に密着してきた。互いの呼吸すら感じられるほど近い距離まで。僕は驚いて何の対応もできなかった。
「エルフ族はおもちゃじゃないんだよ」
少女が大きな髪留めを僕の首に軽く押し当てた。髪留めの先端はとても鋭くて、十分に凶器になりえるほどだった。
「二度と話しかけるな」
少女が僕から離れ、貧民街の方に足を運んだ。僕は何も言えないまま少女の後ろ姿を見つめた。