第37話.軍隊の中の羊飼い
進軍が始まると、僕はケイト卿の傍で歩きながら周りの風景を眺める。どこにでもありそうな普通の山や川……しかし僕はその普通の風景にドキドキする。
何しろ戦争以来6年間ずっとデイルで生活したんだから、目の前に広がる風景の全てが新しく感じられるのはしょうがない。そう、まるで『冒険』でもしているような気持ちだ。
もちろんそんな感傷にいつまでも浸っている余裕はない。進軍が止まると、僕はなるべく仕事を探してやる。おかげで毎日忙しい。
僕は一応雑務員として雇われたけど、それはあくまで僕を王都に連れて行くための方便に過ぎない。だから雑務員としての仕事が用意されているわけではなく、ある程度は自分で仕事を探してやるしかないのだ。
まず優先的にヒルダさんを手伝って、それが終わると兵士たちを手伝う。重たいものを運んだり、天幕を張ったり、焚き火のための薪を準備したり……探せば仕事はいくらでもある。
そうやって忙しく生活しているうちに、もう1週が過ぎた。この1周で部隊内での生活にちょっと慣れてきた。僕に対する兵士たちの視線もちょっと優しくなった。
兵士たちは僕のことを『おい』とか『ほら』ではなく『羊飼い』と呼び始めた。「羊飼い、ちょっと手を貸せ」と言われたら僕が「はい!」と答えて駆けつけるわけだ。もう羊飼いではないのに羊飼いって呼ばわれるのはちょっとおかしいけど、仕方のないことだ。
兵士たちとちょっと親しくなったおかげで、夜には天幕の中で彼女たちと一緒に会話を楽しむようになった。まあ、会話を楽しむっていっても、彼女たちは主に恋愛話をするから僕はただ黙って聞く方だけど。
『王国の盾』と呼ばわれている王立軍の兵士たちが恋愛話で盛り上がるとは想像もしなかったが、考えてみれば兵士も人間だ。恋愛に興味ある方が自然なんだろう。
「羊飼い、あんた、本当に恋愛したことないの?」
「はい」
「何で? まさか男の方が好きだとか?」
「いいえ……違います」
兵士たちにからかわれるのももう慣れてきた。正確に言うと慣れたんじゃなくて、この部隊の唯一の男性で、アイナを除けば一番年下の僕がからかわれるのは仕方がない……と諦めたわけだが。
「恋愛経験がないってことは、女の裸も見たことないの?」
「は、はい……」
「ふぅん……じゃ、私が一度見せてあげようか?」
「い、いえ……」
僕が答えに困っていると別の兵士が笑った。
「やめな。こいつ、本気になって襲い掛かるかもしれないよ」
「私たちが羊飼いを襲ったらヒルダに殺されるけど、羊飼いが私たちを襲ったら殴られるだけで済むかもしれないでしょう?」
僕の全身に凄まじい危機感が走った。もう諦めたつもりだったけど、このままでは何もかも終わりだ。ここは無理矢理にでも話題を変えるしかない……!
「あ、あの……! 明日は都市に行くって聞いたんですが、本当ですか?」
僕の必死の覚悟が込められた質問に、女兵士が頷いた。
「うん、『ベルメ』って都市だけど、行ったことない?」
「はい、都市には生まれてから一度も行ったことがありません」
「あんたって本当につまらない人生なんだね」
幸いなことに、みんな僕の話題に乗ってくれた。これで危機回避だ。
「まあ、都市に行っても、作戦上の問題で都市の中に泊まることはできないけどね」
「そうですね」
この部隊が姫様を護衛していることが外部に知られてはいけない。だから人の住む村の中に泊まることなんてできないし、当然都市の中に泊まることもできない。
「あの、そのベルメはどんなところですか? 名前だけは聞いたことあるような気がしますが」
「王都よりは小さいけど立派な都市だよ。広くて、人がたくさん住んで、建物がいっぱいで……警備隊のやつらが私たちのお尻を触ろうとして殴られる……そういうところなんだ」
「そ、そうですか」
王立軍の兵士たちにそんなことをする馬鹿がいるのか。命がいくつあっても足りないだろうに。
「あまり期待しないで。どうせ中まで入られるのは少数だけだから」
「そうですか」
「まあ、でもいろんな食料を補給できるはずだし、しばらくは美味しい食事ができるね」
都市ではお金さえあれば大体のものは手に入ると聞いた。当然アイナの好きなケーキなんかもたくさんあるはずだ。買ってあげることは……流石にできないだろうけど。
「私はそろそろ柔らかいパンが食べたいのよ。固いのは飽きた」
「お前、さっきまで固いもの欲しがっていたじゃないか」
「欲しいけど羊飼いが協力してくれないからね」
また凄まじい会話が始まった。僕は必死に逃げ道を探したが、狭い天幕の中にそんなものは存在しない。まさに命の危機だ。このままだと僕は……と思った瞬間、救世主が現れた。
「おい、お前たち」
天幕の入り口の方からいきなり声が聞こえてきた。振り向いたらヒルダさんがこっちを睨んでいた。
「もう遅いからさっさと寝ろ。明日は朝早くから進軍だぞ」
ヒルダさんの指示に、僕たちはランタンの火を消して各々の敷物の上で横になった。それで僕はまた一日を生き延びた。