第30話.アイナ
僕はベッドの上に革鞄を置いて、中身を確認した。着替え、2冊の本、石鹸など……生活に必要な最低限のものは揃っている。それにケイト卿からもらった短剣と姫様からもらった手ぬぐい……。
手ぬぐいは姫様に返すつもりだった。しかし戦争とか暗殺とか、そういう話をしているうちに手ぬぐいのことはすっかり忘れてしまったのだ。
いや、僕の血で汚れた手ぬぐいを姫様にそのまま返すのは失礼かもしれない。姫様も手ぬぐいについては一言も言ってなかったし、しばらくは僕が預かっておこう。
荷物の確認を終えた僕は、体を起こしてアイナを見つめた。
「アイナ」
「うん……」
「さっき言った通り、これからはメアリちゃんと共に暮らせばいい」
「うん」
「今まで貯めたお金は任せる。まあ、お前が浪費することはないだろうし、何か食べたいものがあったら使ってくれ」
「うん」
妹は完全に落ち込んでいた。いや、ただ落ち込んでいるのではない。精一杯涙を我慢している。その顔を見て、精一杯強がっている僕も泣きたくなった。
「もう行っちゃうの?」
アイナの声は震えていた。
「もうすぐ王立軍が進軍を始める。だから僕も一緒に……」
僕の答えにアイナは今すぐにでも泣きそうな顔になった。しかし泣かない。
「アイナ……」
「私、泣かない。泣いたらお兄ちゃんが心配するから」
「……ありがとう。必ず戻って来る」
「うん……」
重い沈黙が流れた。それ以上何か言ったら僕もアイナも崩れて、泣き出してしまいそうだった。僕は無言のままアイナに近づき、抱きしめた。
「お、お兄ちゃん……」
しばらく僕は妹と支え合った。しかし僕にはもう時間が残っていない。僕は妹から離れて革鞄と弓を持ち、家を出かけた。そんな僕を見送るためにアイナも家を出た。
「あ……」
村の東側まで行った時、僕は少し驚いた。そこには何十人の人々が、村のみんながいた。
「アルビン」
「村長」
「せっかくだから村のみんなで見送ることにしたんだ」
僕は村のみんなに向かって挨拶した。
「ありがとうございます!」
村のおじさんたちは笑っていた。流石にコルさんは無表情だけど。おばさんたちと修道女のコレットさん、そして子供たちは僕に手を振っていた。僕も彼らに手を振った。
アイナはジョイスさんとメアリちゃんと一緒に並んで、僕を見つめていた。涙が流れそうになったが、妹が我慢しているのに兄が泣くわけにはいかない。
王立軍は2列に並んで、もう進軍を開始する勢いだ。僕は急いで先頭のケイト卿に近づいた。ケイト卿は鋼の鎧を着て馬に乗っていた。
「アルビン君、君は私の隣で歩いてくれ」
「はい」
「よし、進軍する!」
軍隊が動き出した。僕は最後に後ろを振り向いて、村の姿をちゃんと心の中に残そうとした。しかしその時だった。村の方から誰かがこっちへ走ってきた。
「アイナ……!?」
それはアイナだった。小さな少女は必死に走って、僕とケイト卿のところまで来た。
「全員、止まれ!」
ケイト卿が急いで指示した。それで進軍が止まった。
「アイナ……」
僕は目の前の妹の名前を呼んだ。するとアイナは僕に抱きつき、泣き始めた。それでアイナの気持ちが不思議にも僕に伝わった。
アイナは『行かないで』と言いたいのだ。しかしそれはできない。それはわがままだと理解している。だから何も言えないけど……それでも僕を止めたい。だからこうして無言でただただ泣いているのだ。
当然だ。いくら素直で良い子でも、アイナはまだ11歳だ。そんな子供が、いきなりたった一人の家族との別れを簡単に受け止められるはずがない。アイナにとって、僕と別れることはこの世の全てを奪われることと同じだ。
僕の目から涙が溢れ出た。僕はいったい何をしているんだ? たった一人の妹と別れてまで何をしようとしているのだ?
もちろん頭ではその答えを分かっている。戦争が起きたらいずれにせよアイナと別れることになるから、それを防がなければならない。それにアイナのためにお金を稼ぐ必要もある。だから王都に行くんだ。しかし……それでも……。
「アルビンさん」
傍から女性の声が聞こえた。それは……姫様の声だ。いつの間にか姫様がフードを被った姿で僕の隣に立っていた。
「そちらがアルビンさんの妹さんですね」
「はい……」
今のアイナは、ただの平民の少女でありながら王族と騎士と軍隊の進軍を邪魔しているのだ。このままだと罰を受けるかもしれない。
「ご許しください、この子は……」
この子はただ家族と別れたくないだけです。どうか許して下さい……。
「リナ」
姫様が後ろに立っていたリナさんを呼んだ。
「はい」
「先日、仕事を手伝ってくれる人がほしいって仰いましたよね」
「それは……」
「仰いましたよね」
「……はい」
「では、アルビンさんの妹さんを雇いましょう」
「かしこまりました」
リナさんが一歩前に出て、アイナに手を伸ばした。
「さあ、あなたも一緒に行くのよ。こっちに来て」
アイナは涙を止めて、僕の顔を見上げた。僕が頷くと、妹は姫様とリナさんと一緒に歩いて、馬車に乗った。
「よかったな、アルビン君」
「は、はい」
ケイト卿の言葉に気が付いた僕は急いで涙を拭いた。
「進軍を再開する!」
王立軍がまた歩き出した。こうして僕とアイナは、小さくて平和な村『デイル』を出て、旅を始めた。