第103話.グレーポート
王都から旅立って二日目、冷たい空気が変わった。
暖かくなったわけではない。何か……匂いが変わった。これは一体……?
「海が近くなったのよ」
僕の心を読み取り、レオノラさんが口を開いた。
「アルビン君って、海は初めてなんでしょう?」
「はい」
僕は素直に頷いた。
「本で読んだことはありますが……」
小説の挿絵を思い出した。地平線まで広がる水波とその上を航海する船たち……それが私の海に対する印象だった。
「とにかく大きいんですよね? 海って」
「うん、本当の本当に大きい。この王国よりも……大陸よりも」
「大陸よりも?」
「そうだよ。私たちが住んでいるこの世は、地面より海の方が広いの」
そんなに……?
「それだけじゃないわ。実はね……」
「はい」
「私たちの世は、丸いのよ」
「はい?」
僕はその言葉の意味が理解できなかった。
「丸いって……テーブルみたいに丸いということですか?」
「ううん、球体ってこと。子供たちが遊ぶ時に使う革の球みたいにね」
「え……?」
揺れる馬車の中で、僕は混乱に陥った。
「まさか……」
「船乗りたちとか、学者たちには常識だよ」
それからしばらくの間、レオノラさんは僕に『科学的な説明』をしてくれた。
「……にわかには信じがたい話ですが……レオノラさんが僕を騙しているとも考えにくいし……」
「ふふふ、少しは人を疑えるようになった?」
その時、急に馬車が速度を落とした。
「そろそろ着いたようだね」
レオノラさんは荷台の天幕を退かして、外を指さした。
「見える? あれが海なの」
僕は外を見渡した。平坦な舗石道が続いている風景の後ろ……青白い水が地平線の向こうまで広がっていた。あれが……海だ。
「美しいでしょう?」
「はい」
生まれて初めて見る海……その美しくて恐ろしい姿に、僕は魅了された。
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やがて馬車は港湾都市『グレーポート』に進入した。
グレーポートは……僕の想像よりも複雑なところだった。小さい店や馬車、木箱などが無秩序に並んでいて、もうどこがどこなのか区別がつかないほどだった。ベルメとか王都よりも遥かに複雑だ。
道が狭くて馬車が走れない。僕とレオノラさんは下車し、馬車の隣で直接歩いた。僕としてはグレーポートの風景をゆっくり眺めることができて地味に嬉しい。
冷たい風が吹いているにもかかわらず、グレーポートの人々は何か取引をしていたり、木箱を運んだりと、みんな忙しく動いていた。その風景はベルメや王都の商業地区に似ているけど、ここは何かと強面の人が多い。船乗りたちなんだろうか。
酒場や宿屋も多い。これは人口の移動が多いからだろう。まだ昼なのにもう酔っ払っている人たちもよく見かける。そして……娼婦もよく見かける。
「ケイト卿」
3人の男たちが軍馬に乗っているケイト卿に挨拶した。たぶん彼らは王立軍の一員で、ヒルダさんが言っていた『先発隊』のはずだ。
「新しい発見は?」
ケイト卿が先発隊に質問すると、彼らは申し訳なさそうな顔で「まだ何もありません」と答えた。
「魔導士様」
今度はケイト卿が後ろを振り向いてレオノラさんを見つめた。しかしレオノラさんも首を横に振るだけだった。『仮面の魔導士の魔力を感じられない』という意味なんだろう。
「……それじゃ、まずここの領主に会いに行きましょう」
僕たちは入り込んでいる路地を進み、都市の北側に向かった。道中の人々がこちらに好奇の視線を投げてきたり、何かひそひそ話したりした。
「あそこです」
先発隊の一人が高い壁に囲まれている屋敷を指さした。僕たちが近づくと正門を守っていた2人の兵士がケイト卿に向かって挨拶し、門を開いてくれた。小さい馬車が通れるほど大きい門だったので、僕たちはそのままくぐった。
「大きいね」
レオノラさんがそう言った。その言葉通り、 威厳が感じられる壮大な3階建ての屋敷だった。敷地内には広い庭園もあって、豪邸という言葉がぴったりだ。
やがて馬車が屋敷の前に止まった。ケイト卿が先発隊に馬車を任せてから、ヒルダさんとレオノラさん、そして僕を連れて屋敷に入った。
「へえ……」
レオノラさんが声を漏らした。屋敷の地面には赤い絨毯が敷かれていて、壁にはいろんな芸術品や動物の剥製などが飾られていた。王城の宮殿にも負けないくらい華麗だ。
「お金持ちだね」
「そうですね」
僕は頷いた。貴族といっても、ここまで華麗なところに住んでいる人はほんの少しだけだろう。流石商業の盛んな港湾都市の領主といったところか。
「どうぞこちらへ」
礼儀正しい侍女が僕たちを奥の部屋まで案内してくれた。侍女が扉をノックすると、中から「入りたまえ」という男の声が聞こえてきた。僕たちは気を引き締めて部屋に入った。
「ああ、ケイト卿」
太った体型の中年の男がテーブルから身を起こした。ケイト卿は「お久しぶりです、伯爵様」と丁寧に挨拶を返した。
「よくぞ来てくださいました」
一見温厚な田舎のおじさんに見える男……しかしその目は僕たちを隙なく観察していた。
「私がグレーポートを治めているギボンという者です」
ギボン伯爵は声量のある声で自己紹介した。その後に続いてレオノラさんと僕も自己紹介をした。
「なるほど、王室魔導士様とその助手さんですね。さあ、お座りください」
僕たちはギボン伯爵と一緒にテーブルに座った。ギボン伯爵は一瞬だけ僕の方に視線を投げた。僕はこの親切そうな伯爵が只者ではないと直感した。