異世界転生
彼は目覚めた。
「っかは! はぁ、はぁ、はぁ……ここは!?」
目を覚ました彼は、目の前に広がる森の景色に混乱する。それもその筈だろう。なにせ、彼はつい先程死んだのだから。
しかし、彼は今確かに生きている。息をして、体の感覚もあり、心臓が鼓動している。
確かに死んだはずなのに、こんな深い森の中にいるのだ。取り乱したとしても仕方のない事である。
彼は目の前に広がる光景に圧倒され、引っ張られるように顔を上に向けた。
目の前には高さ五十は軽く超える青々と生い茂る木々。太陽は高くそびえる大木によって遮られ、常に薄暗い。まるで常夜の世界だ。
(どうなってんだ。オレはさっき死んだはずだ。なのになんで生きてる。というかなんで森の中なんだ……もしかしてこれは夢か?)
夢。確かにその可能性が一番高いのかもしれない。だが、彼はその可能性を即座に否定する事となる。
突如、莫大な情報が脳へと叩きつけられる。いや、この場合は思い出したと言う方が適切かもしれない。
割れるような、握り潰すような頭痛が凝縮して彼を襲うが、それも一瞬。次の瞬間には今の状況を理解し、納得し、冷静さを取り戻す。
そして、手足が動くことを確認し、自身の顔に触れる。
「なるほど、これが転生か……なかなかどうして、興味深い」
一応と思い、確認のため頬をつねればやはり痛い。解っていた事だが、ここは夢ではなく現実だ。
「……奇跡ってあるもんだな」
彼は大きく息を吸い込んだ。すると森の新鮮な空気が肺を満たし、僅かだが、彼に生きている手応えを与える。
「ふむ、悪くない」
彼は顎に手を添えると、自分が死ぬ直前、最期の光景を思い出す。
「まず、オレはあの時確かに病院のベットの上で死んだ。最後に見たのは、ベットの横で泣く親だった二人と病院の白い天井………そしてもう一つは――この景色……こっちの記憶もまだ曖昧だな。だが、そのうち徐々に戻るだろ。今はこのままで良い」
そして彼はおもむろに歩き出し、近くにあった水溜りを覗き込み、自らの名を呟く。
「……千石 夏憐……だよな? 髪は黒で眼は金色、瞳孔が縦に割れていて、耳は少し尖ってる、と。やはり人間じゃないか。顔付きも若干以前とは違う。少しこっち寄りな分、前より多少男前な感じがする。これに関しては幸運というべきか。それと、一番気になるのが……なんで体が縮んでんだ。どう見ても十歳ぐらいの子供だな………いや、どうでもいいか」
子供の姿に疑問を抱くも、問題は無い、とすぐに興味を失い、次に思考を巡らせる。
彼こと、千石 夏憐は唐突ながら別世界へと転生を果たした。
普通なら今の状況に混乱して思考は乱れ、行動など移せる余裕もない。しかし、夏憐は恐ろしいほどに冷静で、そんな自分の落ち着きように、夏憐自身驚いている。
何故十歳かは謎であるが、何度もいうように、今は気にするところではない。
次なる行動へと移す。状況整理は後回しだ。
「とりあえず雨風しのげる場所がいるな」
夏憐は周囲に視線を這わせ、そこにあるものを頭の中で整理した。と言っても、あるのは直径一メートル前後の岩や高く生い茂る木々だけなのだが。
夏憐は右足の踵を地につけたまま、足先を上げ。トン、と地面を叩く。
まるで初めから知っているような、こうする事で次に何が起こるのかを知っているような澱みのない動き。
すると、その行動に呼応するように正面にあった九本の木々が螺旋状に絡まり、岩は板状に形を変え、みるみるうちにそれが出来上がる。
「感覚が鈍ってるのか? そうだとするなら、初めはこんなものか……」
夏憐の目の前に出来上がったもの、それは家だ。
周囲にあった木々を繋ぎ合わせた歪な形のタマネギ型の家は、左右非対称な不恰好極まりないものだ。
屋根があり壁があり、雨風しのげるだけこの場では贅沢なのだが、少し納得いかないのはこの記憶のせいか、はたまた夏憐の性格からくるものか、モヤモヤと判断がしずらい。
夏憐は石板でできた道を歩き、扉を引いて開け、室内へと入る。
窓も扉も木の板だ。ガラスなどというものは無く、室内は真っ暗である。故に、窓を開けなければ光は入らない。
四方にある四つの窓を開け、光を入れる。すると真っ暗だった室内は薄暗い程度まで緩和された。
夏憐は窓を開けた後、開けっぱなしにしていた扉まで行き、閉める。
鍵は備え付けの閂になっており、一応こちらも閉めておく。
こんな深い森の中で入ってくるものなんていないだろうが、これは生きていた頃の癖だろう。つい閉めてしまう。
そんな事を思いながら夏憐はその辺にある木の凹凸に腰掛け、軽く息を吐いたのも束の間、臀部へと伝わる硬い感触に眉を顰めた。
一応椅子の代わりだが、座り心地が最悪だ。ゴツゴツしていて痛い。
同様に寝所も用意してあるのだが、この調子なら期待できそうもない。後ほどクッション材でも取りに行こう。
「さて、状況整理でもするか。紙とペンが欲しいところだが、無いものねだりは無駄か……」
ここまで冷静にしている夏憐だが、実は少し混乱していた。
それも当然だろう。十数年もの間ベットで寝たきり生活をしていた少年が、突然こんな森の中にほっぽり出されたのだから。混乱したところで誰も文句は言うまい。
この場に文句を言う人がいないのだが。
「これは……新しく人生をやり直せる事を喜べばいいのか、それともまた地獄のような人生を送らなければならない事を悲しめばいいのか……はぁ〜」
やっと死ねた。やっと解放されたと思った矢先の転生である。ため息もつきたくなる。
しかし、決して悲観的にいるわけではない。寧ろ、健康的な肉体と自由を手に出来たのだから内心大喜びである。
(まぁ、転生してしまったものは仕方ない。どちらにしろ、こんな森の中でじっとしているのは時間と労力の無駄か……)
兎にも角にも、夏憐は状況整理を始める。まず、千石夏憐は確かに死んだこと。これはまず間違いない。死ぬ感覚は反吐が出るほど覚えている。
何より、今この体が別物だという事を――以前とは違い健康的故に――嫌でも理解させられる。
しかし、それだけでは確信には至らない。では何故解るのか、それはこの体の持ち主であった者の記憶が教えてくれる。
(二人の記憶が混在しているというのは存外気色が悪いな……)
転生とはざっくり説明すると、別の体に宿っていた魂が死した別の肉体に宿るという事であり、生まれ変わりとは別物である。
「つまり、肉体の脳が残っている限り、そこにある情報、記憶は消えることはなく、その肉体に宿った魂に引き継がれる、か……都合のいい話だが、正直ありがたい。しっかし、オレの方の記憶まで引き継がれているのは何故だ? どう言う理屈なんだ?」
夏憐は記憶を探っていくうち、苦虫を噛み潰したように表情を歪める。
当然探っているのは夏憐ではない方の記憶だ。
「この女、悪趣味だな……!」
世間一般的には賛成派と反対派がわかれるような内容だった。
夏憐自信は決して気色が悪いとか、整理的に受け付けないとか、そういった感情は一切無い。むしろ寛容な方である。
しかし、先も述べたように世間一般的には賛否が分かれるため、悪趣味という言葉がついこぼれてしまったのだ。事実、記憶が正しければ、この体の前の持ち主は側近達からも少し引かれていた様子だ。
「それにしても不思議もんだな……記憶の大半はこの肉体のものだというのに、人格はこのオレとは。皮肉なもんだ」
更に記憶を辿って行くうちに夏憐はあることに気づく。
「どうにも断片的だ。所々思い出せない……」
記憶をあさっていくと、千石夏憐の記憶は数珠繋ぎのように綺麗にまとまっているにもかかわらず、もう一方の記憶は所々途切れており、前後で辻褄が合わない。
時折雑音のようにフラッシュバックするが、大半は黒く塗りつぶされたように何も見えない。というか、その時何があって何をしたのかすらわからない。
脳は一度憶えたものを忘れない。思い出せないのは、ただ単に引き出しが固く閉ざされているだけで、中身はしっかりと保存されている。だが、夏憐が今のぞいている記憶の場合はそもそも引き出しの中が空っぽで、忘れたとは言い難く、思い出せないとも違う。
「これは、完全に消失してる、か……」
つまりは記憶喪失。しかも、跡形もなく完全に消失している。もう戻ることも思い出すこともないだろう。
更に探ると、記憶の八割が消失いている事に気がついた。残り三割は前半がほとんどを占めており、後半の記憶は一つを除いて皆無だ。
死ぬ直前の記憶すらない。
(死因が気になるが、手がかりはほぼ無いに等しい。あるとすれば、深い森とこの体と言ったところか……)
夏憐は顎に手を添え、短くない思考にふけった。そして自身の中で大まかな整理を済ませ、小さく息を吐く。
「断片的なのが悔やまれるが、十分過ぎる収穫、という事にしておくか。無いよりはマシだ。何より基本知識があるのは有難い。使える」
カレンは腰を上げる。
長時間とは行かずとも長い間木に腰掛けていたためにお尻が痛い。木の凹凸が恨めしい。
外へと出る前に窓を全て閉める。外出の際の戸締りは基本中の基本だ。
戸締りを終え、ようやく外に出てみると、太陽は少し西に傾き始め、暗がりを引き連れる気配を感じさせる。
「暗くなったところで支障はないが、この身体だと少し不利か……今のうちに済ませるとするか」
周囲に点在する木と岩には苔がびっしりと生え、手付かずの森といった感じだ。太古の森、という印象がピッタリだろう。
夏憐は少なくない興奮を覚えつつも、慎重に足を動かす。
一応雨風をしのげる場所は作ったが、寝所が最悪と言っていいほどに固く劣悪だ。まずクッション材が欲しい。そしてそのついでに食べ物がいる。何かしらの果実か魚、欲を言うなら臭みのない淡白な肉があれば最高だ。ぶっちゃけかなり腹が減っている。
歩き始めて早三十分。歩けども歩けども同じ景色。緑一色だ。
「気配が感じ取りにくいな。まだこの体に慣れていない影響か? いや、鈍っているという方が正解か。どちらにしろ、このままじゃ時間の無駄か……」
こんなにも冷静でいられるのはこの肉体のおかげだ。記憶が、体が、こんな状況恐るるに足らんと夏憐の心を鎮める。
もしここにいるのが転生した夏憐ではなく、千石夏憐そのものであったなら、動揺と不安、恐怖によって今も目覚めた場所から動けないでいただろう。それもこれもこの肉体の記憶のおかげだ。それのおかげで泰然としていられる。
(森の中はこんな感じになっているのか。 こういうの、神秘的って言うんだったか? 景色自体はは同じなんだが、あそことは大違いだ)
しばらく歩き続けていると、何処からか小さな水の流れる音が耳に届く。
カレンは目を閉じると、僅かな音を拾うために耳に手をあてた。
「……こっちか」
方角もわからぬなか音だけを頼りに進むのは中々の危険行為なのだが、そんなものはどこへやら。夏憐は進んでいた方向の斜め左に迷わず歩を進めた。
少し進み、ソレが見えた瞬間、カレンは目を見開いた。
そこには、巨大な岩とこれまたてっぺんが見えないぐらい巨大な大樹があった。
その場所はかなり拓けており、大樹の根が巨岩に絡むように生えていた。岩はその巨岩だけでなく、大小様々な岩がその辺にゴロゴロと点在しており、同じく木の根が絡み付いている。言葉では言い表せない、なんとも不思議な場所だった。
「……あぁ、これが"世界樹"か。昔遠目で見たことがあったが……前より更にデカくなってるな」
自身の記憶は最早この場では役に立たない。夏憐は千石夏憐であった時の記憶を自身の奥深くに沈め、この肉体の記憶を主軸にしていくことにした。早い話、この肉体の記憶を他人の記憶ではなく、自身の記憶であると定義付けて生きていくことを決めたのだ。
気を取り直し、音の鳴るほうに歩を進めると、目の前に小さいながら川が流れていた。水質も良く、飲んでも問題なさそうである。
カレンは内心で「よっしゃ!」とガッツポーズをキメると、実際に飲めるかどうか確かめる。見た目が綺麗だからといって安心は出来ないのだ。中には水と同じ見た目でも動物を即死させる成分を含んだ川も存在する。
夏憐はその場に膝をつき、人差し指をクイッと動かす。すると川から一口程の水が浮かび上がり、夏憐の正面で静止する。
しばらくその水球を眺め、恐る恐る口へと運ぶ。
全盛期ならともかく、ほぼ全てを失った状態の今の夏憐には毒すら致命傷になりかねない。故に慎重にならざるを得ないのだ。
「……いける、かな?」
舌に痺れるような感覚もなく、体に異常も無い。この水は飲み水として合格だ。
(取り敢えず水は確保した。あとは食い物だな)
それからカレンは、周辺にある木の枝や何か分からない大きな植物の葉や蔓、枯葉などを搔き集めた。
「クッション材としては最悪だが、文句は言うまい」
その後、大きな川も見つけ、そこで魚を三匹手に入れる。大きさは成人男性の手より少し大きいぐらいだ。子供の体の夏憐にとっては十分な収穫である。
水と魚を自身の背後に付き添うように浮かせ、夏憐は来た道とは違う道を歩く。するといくつかの木の実を見つけ、その内、枝に複数なっている実を手に取り、口の中に放り込む。
親指の大地関節ぐらいの実は、噛むと薄皮が弾け、甘酸っぱい味が口に広がる。地球で例えるとブドウに近い味だ。
「毒はないな。こいつを頂いていくか」
木の実を二十個ほど取り、水や魚同様に浮かせて自身の背後に付き添わせる。
そうして森から光が失われ始めた頃に家に到着し、真っ直ぐ室内に入る。
水はあらかじめ作っておいた桶に入れ、魚は台に並べる。木の実はその隣にある窪みのような所へ置く。
室内は生暖かい。
この森自体に湿気が多く、気温は太陽が沈んだ今でもそこそこ高い。はっきり言って蒸し暑くてたまらない。
「ちッ、食いもんが腐っちまう!」
夏憐は水、魚、木の実に向かって軽く指を弾く。すると、一瞬にして冷気を纏う。
(これなら腐らないだろ)
食料が冷えたのを確認し終えると、一緒に拾ってきた木の枝や枯れ葉を先に寝床に敷き詰め、簡単なベットを作る。
ちゃんとしたベットに比べればはるかに劣るが、今の現状を考えれば贅沢な方だろう。
気に入らない部分も多いが、これはこれで良しとするしかない。
夏憐は最後に、帰る途中に見つけた藁と葉っぱで枕を作り、寝床を完成させる。布団のようなものも必要かとも思ったが、これだけ蒸し暑いと寧ろ邪魔になるだろうと判断し、今回は作らないことにした。
「さて、飯でも食うか」
今夜の夕食は魚と食後の木の実。調理法は至って簡単。焼くだけである。
塩は無い。味付けするような調味料は無い。ただ焼くだけだ。
だからといって、虚しく感じたり、文句を言ったりはしない。夏憐は食に興味がないのだから。
食べるとは、生きるために必要な事であって、それ以下でもそれ以上でもない。それが夏憐の食への認識である。
魚の頭に手頃な木の枝を刺す。残りの二匹も同様に刺し、ようやく火をつけようと思ったところで、夏憐はある重要な事に気がつく。
「しまった、暖炉が無い」
というか、台所すら作り忘れていた。
夏憐はため息と共に手に持っていた魚を元あった場所に置き、外に出て火種となる木の枝や枯れ葉を集め始める。
ちなみに外は既に真っ暗である。普通の人間であれば、夜慣れしたとて何も見えない程に暗い。
しかし、夏憐にはハッキリと周囲の状況が視えていた。
先ほどの室内とて本来なら真っ暗で自分の手すら認識出来ない程だったのだが、今と同じように昼間のように視界は良好で、何処に何があるのかちゃんと把握していた。
何故これだけ暗くても視えるのか。その答えはやはりと言うべきか、夏憐の今の肉体による恩恵だ。
早い話しが夜行性の目を持っているのだ。それも、ライオンやトラなどの生物とは比較にならない高性能な目を。
夜行性の目の仕組みは、輝板という網膜の下にある層が網膜の視神経に刺激を与え、入ってきた光を反射して再び網膜へと返すことで、僅かな光を二倍に拡大し、暗闇でも鮮明に物が見えるようになっている。
夏憐の目も構造自体はほぼ似たようなもなのだが、性能自体は桁違いだ。
普通ならモノクロに映る景色も昼間のように艶やかに映り、より鮮明に視える。
研究によれば脳が記憶の中から昼間の記憶と照らし合わせ、色彩を重ねているという説もあるが、未だこれといった発表はなく、結果として出ていない。と言っても、この仮説自体がかなり昔の話なので、今は研究結果も出ているかもしれない。夏憐にとってはどうでもいい事だが。
木の枝や枯れ葉をある程度集め終えると、夏憐は家の前まで戻り、昼間と同様に地面を足先で軽く叩く。すると、木々の擦れる音と地面の流れる音が混ざり合い、地響きのように唸りをあげる。
そうして一分もしないうちに暖炉の増築が終わり、夏憐は扉を開けて室内へと戻った。
暖炉は基本木で出来ているが、火の当たる枠や底、煙突などは周辺の岩を変形させた石板を嵌め込んである。
火をつけて火事になりました、などという間抜けな展開などたまったものではない。
夏憐は追加用の枝を多少横に残しつつ、枯れ葉と共に暖炉に押し込む。
火種の用意を終えると、その場から一歩下がり、指を鳴らす。すると、チリチリっという音を立てたかと思えば、途端、暖炉に火が灯る。
「……」
パチパチと音を立てながら爛々と光る火を眺め、夏憐はらしくもない安心感を覚えてしまう。
光が一切ない暗闇にいた弊害かもしれない。
そんなことを思うと、自分が急に女々しく思え、人知れず苦虫を噛み潰した顔を作る。
暗闇程度で情けない。内心そう吐き捨てた。
気を取り直し、夏憐は暖炉に残してある枝を少しずつくべ、ようやく魚を焼き始めた。
今はいったい何時ぐらいだろうか。そもそも、目覚めてからどれほどの時間が経ったのだろうか。
大した事はしていないはずなのに、やけに時間が長く感じる。
今は時間に関して考えるのはやめよう。
魚の表と裏をひっくり返しながら、そんなことを考え、ふと気配を感じ取る。
「あ?」
窓の外から遠く聞こえる足音と息づかい、そして唸り声。数は五から七はいるかもしれない。
歩幅は小さく軽い。人間でないのは確かだ。おそらく四足歩行型の生物だろう。
先ほどから近づいては離れを繰り返し、こちらの様子をうかがっているようだ。
「ったく、飯の前に忙しい奴らだ」
夏憐は焼き上がった魚に齧り付き、味わう暇もなく次々に胃袋へと落とし込んでいく。そして三匹をあっという間に平らげると、木の実を一粒口に入れ、やれやれと言わんばかりに立ち上がった。
「食後の肩慣らしには役不足だが、せいぜい気張ってもらうとするか」
窓を閉め切り、暖炉に向かって手を開いてかざし、虚空を握る。すると、暖炉の火はまるでこと切れたように消え、か細い煙が外を求めて煙突つに吸い込まれてゆく。
光源を失い、再び暗闇がやって来る。
夏憐は閂を外し、扉を躊躇無く開いた。
木の擦れる音が大きく聴こえるのは、この場が喧騒とは程遠い静寂だからだろう。
そよ風に揺られて葉が歌う。それと同時に、突き刺すような視線が夏憐へと集中するが、夏憐はどこ吹く風と気にも留めない。
「ガルルルッ!!」
暗闇であろうと昼間のように見通せる夏憐には、獣達のその姿がはっきりと見えた。
狼だ。ただし、ただの狼ではない。
体高おおよそ二メートル。全長は三メートルから四メートル。赤茶けた毛色と、頭には二本の捻じ曲がった黒い角。
暗闇でも鈍く朧げに光る赤い眼と鋭い爪と牙。そして肩まで裂けた口からはダラダラと涎が滴り、時折爛々と輝く赤い炎が火花を散らして顔をのぞかせる。
そんな化け物達に囲まれているこの状況は、異常も異常だろう。大の大人でさえ卒倒して震え上がるに違いない。
視界に映るだけでも化け物達が六頭もいるのだ、助けを求める声だってつっかえる。
「火狼か、興醒めだな」
が、夏憐には関係ない。
「六頭……いや、そっちの茂みにいる一頭を足せば七頭か。なるほど、奇襲要員と言ったところか。魔物の割には考えてある」
魔物。
"魔力を扱う生物"又は"摩訶不思議な力を持つ生物"の総称であり、通常生物とは一線を画す超生物である。
「さて、俺は今日引っ越してきたばっかでな。生憎火災保険にも入っていない。引越し祝いに来てくれるのはそっちの勝手だが、ありがた迷惑だ!」
途端、空気の弾ける音と共に夏憐の姿が掻き消えた、かと思えば、夏憐は火狼達の左手に現れ、黄金の双眸を凶悪に吊り上げた。
火狼は不規則にバラけており、互いの距離も近かったり遠かったりする。故に、夏憐は処理する順番を瞬時に選別し、最初の標的として、一番奥にいる群から少し離れた位置にいる一頭を選んだ。
「死ね!」
腰を落とし、地を力強く蹴る。途端、足元の地面は弾け飛び、空気が爆発したような音を立てる。
火狼は左手から愚直なまでにまっすぐ突っ込んで来る夏憐に気づくも、その時点で一手も二手も遅れ、頭をそちらに向けた頃には
「ウスノロ!」
頭と胴体が分かれていた。
手刀にした手には黄金色に輝く薄い膜のようなものが形成されており、火狼の首を切り落とすことが出来たのはこの薄い膜が大きな要因だ。
一頭切り捨てた夏憐はすかさず次の一頭に標的を定め、頭を失った火狼の胴体を壁がわりに蹴り、飛ぶように踵を返す。そして、対角線上にいる火狼の頭に手刀を深々と突き刺し、頭の中をかき混ぜる。
火狼は一瞬大きく痙攣したかと思えば、糸が切れた人形のようにその場に倒れ、以降動くことはなかった。
倒れた火狼人さから腕を引っこ抜く。
頭には夏憐の腕と同じ太さの穴がぽっかりと空き、白く濁った脳漿が蛇口を開いた水のように勢いよく飛び出す。
残り五頭。
その内三頭が夏憐へ飛びかかる。
大きく開いた顎門からは肉を切り裂く鋭利な牙と地獄を思わせる炎が燃え盛り、肉を前に涎が飛び散る。
夏憐は躾のなっていない犬だ、とこぼし、飛びかかって来た三頭のうち、手前の火狼へ向かって走り、腹の下へと滑り込む。そして、仰向けの状態で両手を地面につけ、両脚を使ってその巨体を蹴り上げる。
「ゴガッ……?!」
腹部に蹴りを受けた巨体は、小さな子供の体から放たれた蹴りとは思えないほど宙に浮く。
直後、夏憐は蹴り飛ばした火狼を尻目に、左右から来る二頭の動きを素早く読み、まずは手前の右から、続いてゼロコンマ三秒遅れて左側の火狼の頭蓋骨をそれぞれ粉砕する。
漏れた悲痛な声と共に頭はひしゃげ、耳や鼻、眼から内容物が飛び出し、周囲に飛び散る。
そして、宙に蹴り飛ばした火狼が落下を開始した瞬間に、夏憐は火狼に向けて手をかざし、力強く手を握る。途端、胴体を中心に圧縮され、次の瞬間には血の雨を降らし、拳大の肉塊がボトッという音と共に地面へと落ちる。
ここまでゼロコンマ五秒。
残り二頭。
五頭目が殺され、茂みに隠れていた火狼が姿を表す。他の火狼に比べてひと回り大きく、立て髪が立派だ。おそらくというか、群れを統率しているリーダーだろう。
低い唸り声をあげながら長く鋭い牙を剥き、こちらを威嚇している。
群れの仲間が凄惨な姿となっても戦意を失わないのは知性の無い獣故か、はたまた仲間を殺した相手への恨みか。どちらにしろ、まだ戦う意思があるという点においては褒めてやりたいところだ。
しかし、やはり獣。馬鹿だ。二頭揃って直線上に並んでいるのがいい証拠だ。
「まだ開始十秒ほどなんだが、やっぱり弱いな。これじゃ消化不良だ!」
夏憐は腰に手を当て、不満をこぼす。
言葉の意味を知ってか知らずか、二頭の火狼は激昂したように吠える。そして、口内の炎が勢いを増す。
十メートル以上離れた位置でもその熱が伝わってくる。
汗が滲み、肌を熱が焼く。
大技がくる。
ならばと、夏憐は火狼達へ向けて手をかざす。
熱風が夏憐へ押し寄せ、森がざわめく。
「ガルルルッ!!」
火狼の口内で燃えていた炎はいつしか沈黙し、煙だけが漏れる。代わりに、角と喉、眼が炎のように赤く発光していた。
しかし、その発光していた角と喉、眼から不意に光が失せる。
来る。
「ガァッ!!」
咆哮と共に、二頭の火狼から直径三メートルの火球が放たれた。
距離にして十メートルと少し、猛烈な速度で押し寄せる二つの火球は狙ってか知らずか、互いに引き寄せられるように混じり合い、一つの巨大な火球へと成長する。
その大きさ、直径にして七メートル。特大だ。
圧倒的熱量という莫大なエネルギーの塊は、まっすぐ夏憐へと迫る。
途中で掻き消えることも、何か別の生物が割って入って壁になることも、突如として空から大瀑布が降ってくることもない。奇跡は起きない。
そう、この世に奇跡などありはしない。それは夏憐が一番理解していた。
ずっと死ぬことを望んでいた夏憐だからこそ、何がなんでも自由を求めた夏憐だからこそ、この世を理解していた。
だから、夏憐は期待しない。この世の全てに期待しない。
信じられるのは己の"力"のみなのだ。
「死ね」
大火球が夏憐を飲み込もうとしたその瞬間、夏憐がかざしていた手から前触れなく、極太の黄金色の閃光が放たれた。
大火球は抵抗する様子も見せず一瞬にして掻き消され、黄金の閃光は後方にいた火狼二頭を呆気なく飲み込んだ。途端、周囲の音を悉く無にする轟音が衝撃波のように伝播した。
夏憐正面の景色は一瞬にして様変わりした。
地は抉れ、森は穿たれ、月光がさす。
数百メートル離れた着弾地点には直径三十メートルものクレーターができあがり、その威力を物語った。
空を見上げれば、優しい月の光に照らされた黒煙がもくもくとあがる様子が見てとれる。
火狼の姿はどこにも無い。
文字通り掻き消えたのだ。
夏憐正面、抉れた地面は焼け焦げ、黒煙が風に乗って夏憐の元まで運ばれてくる。
心地よいそよ風に紛れて焦げた匂いが夏憐の鼻を刺激する。しかし、不思議と悪い気分ではない。
寧ろ逆だ。決して表情こそ変わらないが、夏憐は今、最高に気分なのだ。
何故なら、これは夏憐が成した結果により生じた臭いだからであり"力"を手に入れた証拠でもあるからである。
高揚こそすれど不快には思わない。
「力は酷く落ちているが。なかなかどうして、ガキの身体でも問題なさそうだ」
夏憐は手を下ろし、満足がいったと言わんばかりに一人呟く。
夏憐がこの森で目覚めてから体感にして、約四時間。おそらく時刻としては夜七時前後であろう。
まだまだ眠るには早く、かといってやる事はない。
食事は済ませてしまったし、食後の運動は正直にいうと消化不良で不満だ。
なので、夏憐は予定を変更することにした。
「丁度いい、夜はまだ長いんだ。先に掃除でも済ませておくか」
ここから長い夜が始まる。