決戦
一部変更!
氷界竜が動く。翼を大きく広げ、無数の氷鱗を放つ。そうして、攻撃をしつつ、頭上に直径三百メートルもの巨大な氷塊を作り上げ、それを紅姫へと堕とす。
氷塊は大気を押し退け、代わりに心臓が握り潰されるような重圧を引き連れる。
「こ、こんなの……!」
「………!!」
ルミナスとロロンは言葉を失う。これより強力な竜砲撃を何度も見たが、威力云々は関係なく、やはりこれだけ巨大な大質量の物体を見ると圧倒された。
そんな二人をよそに、氷界竜の口腔内に白銀の光が灯る。これだけでは物足りないと思ったのだろう。更なる追撃を準備する。
「芸のない奴じゃ……!」
氷鱗を全て処理し、視線を頭上と氷界竜を行き来させながら、呆れたような目を向けてぼやく。
紅姫の姿がブレた、かと思えば、一瞬にして氷塊の前に現れ、不敵に笑う。
「やれやれ、児戯じゃの……」
手を真紅の魔力が覆う。その手を落下して来る氷塊に向け、「ほれ」と人差し指で軽く小突く。それだけで――
「…………すごい」
――氷塊は文字通り粉々に粉砕される。
しかし、粉砕されたからと言って動じる竜王ではない。
紅姫が氷塊を粉砕したのも束の間、氷界竜は大きく開いた顎門を遥か上空に止まる紅姫に向け、躊躇わずに放つ。
「ん?」
下から迫る白銀の光に眉を顰める。
「何度も言わせるでない。芸がなさ過ぎると言っておる!」
そうため息を吐き、真紅の魔力を纏った手で拳を握る。そしてそれを振り上げ、無造作に竜砲撃へと叩き付けた。すると、竜砲撃は紅姫の拳の一撃の威力と衝撃波に押し負け、あっという間に掻き消された。
「!!」
目を見開く。特に勢いをつけたようには見えなかった一撃に、氷界竜の竜砲撃が呆気なく負けた。何が起きたのか全く理解出来ない。
その驚愕に染まった目は太々しく見下ろす紅姫を映す。次の瞬間、視界がひっくり返る。
「?!」
氷界竜は呆けた。姿を見失わないように限界まで注意し、気配も見失わないように神経を研ぎ澄ましていた。だが、見失った。
こんな事は今までにない。
何が起こったのか分からず、ただ困惑と驚愕に戸惑う。
「何を驚いておる。貴様は誰を相手にしておるのか理解出来ておらんのか?」
上下逆さになった世界で紅姫が見下ろす。真紅の眼は鋭く射すくめられ、額に浮き上がった青筋がその心情を表す。
「儂は"紅姫"じゃぞ。世界最強になる男、カレン・アレイスターの女じゃ……頭が高い、下郎が!」
氷界竜の頭を蹴り上げる。分厚い壁を巨大な鉄球が叩いたような音が鳴り、氷界竜の頭が浮く。
その先には足裏を天に向けた紅姫が待ち構えており、高速回転しながら脳天に踵落としをお見舞いする。
「がっ……!!」
頭が沈み、その勢いで体が浮く。
獰猛な笑みをその顔に貼り付け、紅姫は浮き上がった体(背中)へ後ろ回し蹴りを放つ。
衝撃は背中から腹部を貫通し、遥か遠くの雲壁を突き破る。
「……ッ!!」
肺から空気が抜ける。耐え難い痛みが氷界竜を襲う。
「この程度で何を苦しんでおる。まだ始まったばかりじゃろうが」
再び紅姫の姿がブレる。
途端、またしても氷界竜の体が浮く。紅姫が胴体へアッパーを繰り出したのだ。
宙へ浮いた氷界竜が地面まで落ちるコンマ数秒。紅姫は縦横無尽に超高速で動き回り、真紅を纏ったその拳で、その脚で、無慈悲に滅多打ちにする。
鈍く轟く打撃音が連続してこだまし、その度に悲痛なうめき声が上がる。
「っ……ッあ……が!!」
白銀の欠片が宙を舞い、太陽の光に当てられてキラキラと輝く。幻想的な光景が広がる。
しかし、その光景を飛び散る血飛沫が見事にぶち壊す。
「さっきまでの勢いはどうした、それでも貴様竜かァ!!」
鈍い真紅の光を伴い、黒い影が眼前に現れる。かと思えば、真紅の魔力を纏った拳が深々と胸部を穿つ。
「ッ!!」
氷界竜が悶絶する。
体を突き抜けるそれは、次の瞬間には全身を襲い、体の隅々までその強烈な衝撃を与える。
最早強固な外殻も意味をなさない。目の前の悪魔には、薄皮程度の物でしかなかった。
「おのれッ!!」
目を血走らせ、冷気を纏った氷刃尾を薙ぎ払う。それは攻撃というにはあまりにも弱々しく、寧ろ追い払うような行動に見えた。
紅姫は嘲け笑う。
「阿呆が!」
氷刃尾が自身を真っ二つにしようとする寸前、紅姫は拳を振り下ろし、氷刃尾を地面に叩きつける。
氷山が揺れる。
氷界竜によって強化された氷は大きな亀裂を走らせた。
底が見えない。これだけ大きな亀裂が入ったとなると、あと数度大きな衝撃を与えるとこの氷山は崩れ去る。しかし、今の氷界竜に氷山を直す余裕は無い。魔力的な意味でも、精神的な意味でもだ。
氷刃尾が氷の大地に埋まり、身動きが取れない。
氷界竜は前脚を振り上げ、紅姫に叩き落とす。
「今代の竜王はたいした事ないのう。全くもって――不快じゃ」
見下すように紅姫がぼやく。
振り下ろされる前脚を片手であしらい、跳び上がって顔面を強打する。
殴られた氷界竜は横に倒れたその瞬間に竜砲撃を放つ。しかし、それは紅姫が軽く体を捻ると竜砲撃はただ横を通り過ぎるだけで無駄骨となってしまう。
だが、避けたはずの紅姫の左腕から、赤黒い血が次々に滴り落ちる。
「お、奥方様!」
紅姫が怪我をしている事に気づき、ロロンが声を飛ばす。
「む?」
ロロンの声を聞いて腕に痛みを感じた紅姫は、自身の左腕を見る。だが、見た目はなんともなく、寧ろ汚れ一つない綺麗なままだ。というのも、今紅姫は全身に幻術を被せている状態な為、本体は幻術の姿に隠れて表に出ていない。故に、どれだけ怪我を負ったところで、幻術を展開している間は見えている姿形に変化はないのだ。
「ふむ、少し強く殴り過ぎたか。今の旦那様の肉体では耐えられんようじゃ。どれ……」
紅姫は左腕にかけられた幻術を一時的に解く。その瞬間、ルミナスから引いたような声が漏れる。
「う、あ……!」
紅姫の左腕は膝から先がぐしゃぐしゃにひしゃげていた。
肉は弾け、骨は皮膚を突き破り、手はあらぬ方向を向いていた。
「昔の感覚でやるといかんな。少し加減をせんと体が持たん……」
腕は特殊能力によってすぐ元に戻り、紅姫は確かめるように手を握っては開きを繰り返す。
異常がないことを確かめると、また幻術を掛け直した。
「どうやら貴様とその肉体は見合っていないようだな」
揺れる視界を整えるように頭を振り、氷界竜は体を起こす。かなり手痛く殴打らていたが、その動きは意外にスムーズで、それ程ダメージを感じさせなかった。
「なんじゃ思ったより元気そうじゃのう」
腰に手を当て、薄く笑う。
「ふん、あの程度でどうにかなる私ではない」
「竜の矜持というものか。なるほど、今迄の暴言は詫びよう。じゃが氷界竜よ、貴様何故本気を出さん?」
「……どういう意味だ」
言われた事の意味がわからず、氷界竜の頭の中に疑問符が浮かぶ。それを読み取ってか、紅姫は顎に手を添え「ふむ、そういう事か……」と一人呟く。
「自分では気づいていないようじゃのう」
「なんの話をしている」
「氷界竜よ、貴様攻撃の度にブレーキが掛かっとるんじゃよ。気づいておらんのか?」
「……!」
そんな筈はない。内心そう吐き捨てた。
今迄の攻撃は全て本気だった。氷刃尾の薙ぎ払いにしろ、氷の攻撃にしろ、氷界の一撃にしろ、手を抜いたつもりは一切ない。
目標を仕留める為に全力を出した。
特に"破晄ノ星"に至ってはかなりの魔力を注ぎ込んでおり、誰が見ても殺す気満々の攻撃であった。
しかし、紅姫は言う。
「全力を出しておるつもりなのじゃろうが。それは表面的なものじゃ。深層心理では違う……恐れとるのじゃよ、貴様は」
確かにカレンの放った黒い閃光には肝を冷やした。それに関して、僅かな恐怖を抱いたのも認めるところだ。しかし、それが自分が本気を出していない事とどう直結すると言うのか。
氷界竜は馬鹿馬鹿しいと鼻を鳴らし、そこまでして転生者を持ち上げたいのかと憐憫な目で見下ろす。
「……まさかこの私が自分よりも劣る転生者を恐れているとでも。笑わせるな。あの程度の存在、私にしてみればその辺に転がる小石程度でしかない」
事実、氷界竜はカレンを小石程度の存在としか認識していない。カレンの力を認めたり、脅威であると感じたり、戦闘中警戒をしたりとしていたが、それだけだ。決して対等であると認めたわけではない。
事実、カレンと一対一の勝負において、氷界竜は一度たりとも攻撃を受けてはいない。ましてや後退すらしていない。
何故なら、する必要がなかったからだ。
それだけの力の差があったのだ。
だからこそ、紅姫の問いに対して強く反発する。
しかし、その反発に対して、紅姫は呆れたよう言う。
「違う違う違う………確かに貴様から見れば、今の旦那様はちっぽけな存在じゃろう。恐るにはまだ早い。
貴様が恐れておるのは、旦那様でも、ましてや儂でもない。――炎劫竜 マグダウェルじゃ!」
氷界竜は僅かに目を見開く。
「ここは炎劫竜の縄張りじゃ。その縄張りを貴様は襲来し、剰え大規模な環境破壊をおこなっておる。これは縄張りの主である炎劫竜へ対する宣戦布告じゃ。
普通ならば殺し合いになってもおかしくはないのじゃが、炎劫竜は何もしなかった。甘いと言えばそこまでじゃが、そこにはきちんと理由がある。それは、竜王同士が戦った後、どちらかが死んだ場合に起こりうる世界への影響を危惧しての判断じゃ。つまり、儂が最初に言った事を既に炎劫竜は考えていたのじゃ。じゃから炎劫竜は貴様に何もしてこなかった」
紅姫は腰に手を当て、その細く研ぎ澄まされたような真紅の眼を向け、言い聞かせるように言葉を紡いでゆく。
「ところで話は変わるが、炎劫竜が旦那様を気に入っておるのは貴様も知っておるかのう?
何故かは知らんが、炎劫竜 マグダウェルは旦那様を大層気に入っておってな、それはもう腹が立つ程ご執心じゃ。自身の縄張りなんぞよりよっぽど大切にしておる。理解るか氷界竜……旦那様を殺めれば、怒り狂った炎劫竜 マグダウェルが確実に貴様を殺しにくる。それを貴様は何処かで理解し、恐れた。じゃから攻撃にブレーキが掛かっていつまで経っても旦那様を仕留めることが出来なかったのじゃ」
カレン達が湖の滸に到着してすぐ炎劫竜 があの場に現れたのは、カレンと話をする為であった。しかし、ただ話をするためだけに訪問したわけではない。そこにはもう一つ理由が存在したのだ。それは、氷界竜への牽制である。
カレンへ退くように提言したのは紛れもない真意だっただろう。そして保護下に入れと言ったのもおそらく本気であった。そうすれば、カレンの安全は確保され、わざわざ死地へ赴く必要はなくなる。だが、仮にこの提案をカレンが了承したとして、確実に安全が確保されたのかと言えばそうではない。きっと氷界竜はいつまでもカレンの命を狙ってくる。炎劫竜はそう考えた。だから必要以上にカレンを心配する姿を見せつけ、自身の存在をあの場にてアピールしたのだ。これにより、氷界竜は心のどこかで炎劫竜の存在を気にせざるを得なくなるのを知って。
「炎劫竜は普段は温厚じゃが、怒ると怖いからのう。まぁ、女という生き物は皆そうじゃが……」
瞼を閉じ、ゆっくり開く。すると黒目が引き、白目に戻ると同時に、紅黒い血管模様が消える。こうして話をする事で興が削がれてしまったのだ。しかし、カレンを傷つけられた怒りは未だ消えず、紅姫の胸の内を黒い炎が燻る。だが、それと相反するように冷静な自分がいるのも確かであった。
これからどうするか思案するように腰に手を当て、目を細める。
「ふむ、どっちにするか……」
その言葉の意味は、生かすか、殺すかという二択。
燻る怒りはただその欲望と感情に任せて今すぐ殺せと狂い叫ぶ。一方で冷静な部分は、殺してしまうと後々カレンへ多大な悪影響を及ぼすと警報を鳴らす。
鬩ぎ合う両者の主張を少しずつ噛み砕き、思案する。噛み砕いて、噛み砕いて。結果、紅姫の出した答えは非常にシンプルであった。
「よし、決まった。間を取って半殺しコースじゃ。これならば多少の気も晴れようて!」
正直、冷静な部分が勝っていたが、激しく反発する感情に押し負けてしまった。
カレンを想う怒りが理性を上回ったのだ。しかし、逆もまた然り、カレンを想えばこそ、冷静に成らねばならなかった。情けないとは思いつつも、やはり自分も一人の女であると自嘲気味に自覚する。だが嫌ではない。寧ろ、光栄だ。
紅姫は獰猛な笑みをその顔に貼り付ける。
「さて、氷界竜殿。逃してやりたいのは山々じゃが、儂の感情的な部分がそれを許してくれんのでな。悪いが半殺しにされるまで付き合ってもらうぞ!」
全くもって納得できない自己中心的な考え。氷界竜は内心大きくため息をつく。しかし、強者という生き物はその殆どが自己中心的である事を思い出す。"七災の怪物"然り、竜王然りだ。そして自分もその自己中心的な生き物の一体であり、言い訳のしようもない事実であった。
「ふん、まったく嫌になる……!」
自嘲を含んだぼやきがもれる。
「これも勉強じゃ。素直に受け入れよ」
「高い講習代だな」
「寧ろ、この儂と相対して生きて帰れるのじゃ。安かろう?」
「好き放題抜かすな!」
その言葉を皮切りに、氷界竜が地を踏みしだく。途端、紅姫の足元から巨大な氷の剣が生える。紅姫は氷の剣の切先を手で掴むが、その勢いは止まらず、体を簡単に貫く。紅姫の体はそのまま切先と共に空高く上る。
「奥方様ッ!!」
戦いの余波からルミナスを護っていたロロンが腰を上げる。が、それを紅姫が止める。
「よい。そのままルミナスの側を離れるな」
「し、しかし……!!」
「儂のことは心配要らん」と言いながら自身の体を貫いた氷の剣を殴り砕くと、刺さった氷を引き抜き、それをそのまま氷界竜へと投げる。
投げた切先は氷界竜がひと睨みすると、冷気を撒き散らして砕けてしまう。当然、氷の塊を投げたぐらいのものが通用しないことは百も承知だ。
紅姫は白く視界を遮る冷気の壁を突き破り、口元を獰猛に歪めて紅拳を繰り出す。が、紅拳は分厚い氷の壁に阻まれてしまう。
氷壁は呆気なく砕け散るが、紅姫の一撃の威力を完全に殺し切る事に成功する。そしてそこへ、数十程の氷鱗が殺到する。紅姫は大きく後ろへ後退し、氷鱗を避ける。
何発か追ってくるが、それは全て打ち砕いた。その直後、氷界竜はその巨体からは想像も出来ない程の素早い動きで、氷刃尾による大回転斬りを繰り出す。
冴え渡るその一閃は紅姫を真っ二つにする。しかし、体を両断されたはずの紅姫から余裕の表情は抜けない。
紅姫は手を伸ばし、飛んでいく下半身を掴むと、上半身とくっ付ける。それだけで体は元通り戻り、何事もなかったかのように地面に降り立つ。そして体の調子を確かめるまでもなく、間髪入れずに駆け出す。
何度も経験しているのだろう。動きに迷いがない。
紅姫は稲妻の如き動きでフェイントをかけ、氷界竜の視線を惑わすと、一瞬にして数十メートル上まで上がり、〈魔力障壁〉を横向きに展開する。そしてそれを足場に跳び、紅い流星と化す。
繰り出された紅流脚は空気の壁を突き破り、更に加速しする。その瞬間、氷界竜の眼が紅姫を捉える。
「舐めるな……!」
氷界竜が咆哮を発する。途端、全身から極寒の冷気が爆風となって押し寄せ、紅姫は耐えきれず呆気なく吹き飛んでしまう。
吹き飛ばされた紅姫は氷塊に深々とめり込み「くふふ、ちと油断したわい!」と愉快そうに笑った。
紅姫を吹き飛ばした氷界竜はその後、目にまとまらぬ速さで空高く飛び上がる。
翼をはためかせ、空高く滞空する氷界竜は瞬時に魔力を溜める。そしてそれを竜砲撃として吐き出した。
「儂に竜砲撃は効かぬ!」
めり込んだ体を氷塊から引っ剥がし、先程と同じように一発殴って打ち消そうと身構える。だが、竜砲撃は氷界竜と紅姫の丁度中間辺りにまで迫ると、その形を変えて数十、数百からなるホーミング弾と化す。
「そう来たか!」
この絶望的な光景を前にして、紅姫に焦りはない。寧ろ愉しむように口元を吊り上げ、嬉々としてホーミング弾を迎え入れる。
「ハハハハハッ!!」
全方位から襲い来るホーミング弾を殴り、蹴る。
掻き消され、叩き落とされ、凄まじい速度で処理してゆく。しかし、やはりこれだけの数を処理するのは無理がある。頭では理解していても、体がついてこない。
全盛期であれば余裕であったかもしれないが、生憎この体は全盛期の頃に比べれば半分以下にまで弱体化している。ましてや、現在この体は紅姫のものではなく、カレンの体だ。今は紅姫が表に出て来て動かしているが、あくまで主導権はカレンである。その為、根源と肉体は上手く同調せず、一瞬のブレが生じる。
故に、処理しきれないものが出始め、何発か被弾し始める。
肩を貫き、腹を貫き、胸を貫く。被弾した箇所から凍てつき、突き刺すような痛みが襲う。だが、それでもなお紅姫は笑っていた。久々の肉体の感触、痛み、そして高揚感。純粋にそれら全てを楽しんでいた。
そこへ、水を差すように取り残した一発が顔面を直撃した。
肉片と中身を撒き散らし、衝撃で体が流れる。
「あっ……」
まずい、そんな意味を含んだ声がルミナスから漏れる。そのすぐ後には口元を抑え、小さく「カレン……!!」と絞り出すように声を発する。そしてその隣では、またしても「奥方様ッ!!」とロロンの切羽詰まった叫び声が上がる。
頭は全ての生き物にとって急所である。取り乱して当然だ。
だが、紅姫は倒れない。
「あはッ……アハハハハハッ!!」
逆に、頭の半分を失いながらも、狂ったように笑っていた。
その間に掛けた部分は特殊能力【高速再生】により元通りに戻る。
「愉しくなって来た。やはり戦いとはこうでなくてはならんわ!」
音を置き去りにして、紅姫の姿が消える。そしてその数瞬後、紅姫の立っていた足元が捲れ上がり、空気の弾ける音が鳴る。
氷界竜は必死に紅姫の姿を追い、気配を探るが、その独特な足捌きと速度により簡単に見失ってしまう。
やはりと言うべきか、カレンとは比べ物にならない動きだ。速さも、足捌きも、魔力の使い方も、どれを取っても今のカレンでは到底辿り着けない領域、いや極地である。特に緻密な魔力操作とその足捌きには瞠目せざるを得なかった。流石は"魔帝"、かつての竜王達を軽く一蹴し、神ですら恐れ慄いた存在。
しかし、感心している場合ではない。氷界竜は眼では追えないと悟と、神経を限界まで研ぎ澄まし、紅姫の気配を探る。
(どこだ……どこにいる!)
周囲で鳴る空気の弾ける音が収集力を掻き乱す。そこにはいないと理解っていても、意識はそこへ向いてしまう。だが、氷界竜とて歴戦の猛者である。その戦闘経験値は竜王の名に恥じぬものだ。
味覚は当然の如く外し、聴覚を意識から外す。次は嗅覚。その次は視覚。感覚だけでその気配を探る。
僅かな空気の揺れを全身で感じ取る。そして――
(見つけた、上か!!)
――紅姫の気配を捉え、その大きな顎門を開いて魔力を充填する。
しかし、その頃には既に空高く滞空する氷界竜の眼前へ接近しており、その紅く艶やかな拳を振り上げていた。
鈍く光る紅玉の双眸。世にも恐ろしい悪魔の笑みが、そこにはあった。
氷界竜は魔力を溜めることすら忘れ、ただ呆然と紅姫を見上げる。
力一杯握る拳からは骨の軋む音が聞こえ、拳に纏った真紅は更にその輝きを増し、より一層艶やかな色彩を放つ。
「《紅華撃滅拳》!!」
臨界極まった真紅の拳を打ち下ろす。フェイントなど一切皆無な正面突破の一撃。氷界竜からしてみれば米粒程しかない小さな拳は、今は山の如く巨大に見えた。
その圧巻とも言える光景に、ただ眼を見開くことしか出来ない。
かつてこれ程自分がちっぽけに感じたことがあっただろうか。竜王と言われる存在は、こんなにも小さいものなのか。
眼前に広がる光景を前にして、こう思わざるを得なかった。
(これが――魔帝か?!!)
氷界竜は塞ぐ事も、避ける事も出来ず、ただそれを受け入れる。
そして――
「堕ちろッ!!」
――大気が爆ぜる。
真紅の一撃は深々と顔面を撃ち抜き、氷界竜の巨大を吹き飛ばす。その際、氷山を囲っていた雲の渦が跡形もなく消し飛び、空間を揺らす。
吹き飛んだ氷界竜は氷山の山頂を砕きながら麓に広がる凍った湖へ流星の如く堕ちた。途端、堕ちたその場所を中心に巨大な蜘蛛の巣のような亀裂が走り、氷が捲れ上がる。そして衝撃は止まず、湖を超えて大地を割る。遥か遠くに聳える山すら割り、一帯を大規模な地震が襲う。
その光景を見下ろし、紅姫は眉を顰めながら零す。
「ふむ、やはり全盛期に比べると威力が落ちる、か。あの頃ならば今ので此処ら一帯を更地に出来たのじゃが……まぁ"第一覚醒者"の肉体ならこんなものか。腕も消し飛んでしもうたしの」
幻術で隠れてはいるが、紅姫の左腕はその衝撃に耐えきれず、文字通り消し飛んだ。今は【高速再生】により戻りつつある。
「ふむ、ロロンとルミナスも無事なようじゃし、儂は先に行かせてもらうかの」
今ので巻き込まれていまいかと心配したが、それも杞憂だったようで、視界の隅にロロンとルミナスを見つけ、小さく安堵の息をこぼす。
一応、大事がないか確認を取る為に〈念話〉を繋げる。
『ロロン、無事か?』
『ああ、問題ない。ルミナス殿も無事だ』
『ならば良い』
『氷界竜殿は?』
『あれしきで死にはせんじゃろ。おそらくはピンピンしとるはずじゃぞ。まぁ、それを確かめるという意味でも、儂は先に行っておる。お前はルミナスを連れて後から来ると良い。ついでに、氷山の中腹あたりで雪に埋れて死にかけておる連中も回収してくれると助かる』
『了解した』
『そろそろゼル達が戻って来る頃じゃ。遅れるでないぞ』
『ああ』
紅姫は〈天翔〉を使って氷界竜の堕ちていった方角へ飛んで行く。
♢♢♢♢♢
その頃、氷山より遠く離れた遥か遠方から紅姫達を険しい眼差しで見ている者がいた。
黒いチャイナ服風の武道着を身に纏った薄翠色の髪の女だ。
「まさかサタン本人が出て来るなんて、想定外だわ。シリウスも根源へのダメージで上手く動けないみたいだし。竜王と言えど、流石に分が悪いわね……!」
女は悔しそうに表情を歪める。サタンさえ出て来なければ男の抹殺は成ったというのに、これでは振り出しだ。シリウスへの"貸し"もこれでチャラになってしまった。
人間界でカレンに勝てる相手は限られている。しかしどれも一癖も二癖もある曲者揃いだ。依頼したところで首を縦に振る姿が想像出来ない。だからこそ"貸し"のあったシリウスに頼んだのだ。"貸し"があるが故に断れないと知っていたから。なにより確実性を重視していたから。
「私一人では手に余る……協力者が必要ね」
女は踵を返し、肩越しに振り返りながら宣言する。
「絶対に……もう絶対にあの時のような事は起こさせない!」
それは、願いだった。当時を知るからこその強い想いだった。
女は歩を進め、霧にまぎれるようにその姿を消す。
その眼に強い不退転の意思を残して。
♢♢♢♢♢
「やっと行ったか。無遠慮な視線を飛ばしよって。腹立たしい奴じゃ」
氷の大地に降り立ち、紅姫は腰に手を当て、遠くの地を見つめながらぼやく。この地に来てからというもの、紅姫はずっと視線を感じていた。おそらくカレンも感じてはいただろう。
正直、戦いの最中など気になって仕方がなかった。だが、その視線もようやく無くなった。
「スッキリじゃ。これで気にせんで済む!」
とにもかくにも、視線の主の事は後で考えればいい。紅姫は氷の大地を歩き、氷界竜の堕ちた場所へ行く。
そこはクレーターが出来上がり、蜘蛛の巣のような亀裂と捲れた氷の大地がその威力を物語っていた。しかし、その光景に紅姫は不服そうにため息をつく。
「やはりダメじゃな。いくら全盛期と比べて弱体化しているとは言え、これでは児戯じゃ。我ながら情けなくて涙が出そうじゃ」
かつては強大な力を誇っていた紅姫も、今や弱体化して全盛期の半分以下の力しかない。それは仕方のない事だと理解しているが、やはり力を失った損失感は果てしない。生きているだけ儲けものではあるが、文句も言いたくなってしまう。
「やれやれ、早く旦那様に儂の肉体を創って欲しいものじゃ……」
独り言を零しつつ、紅姫はクレーターの淵までやって来ると、その中心を見下ろし、愉快そうに笑う。
「くふふっ、思った通りピンピンしておるわ。流石は竜王じゃ!」
見下ろす先。そこには堂々と氷界竜が立っていた。
鱗や甲殻などに罅が入っていたが。おそらくその見た目程ダメージはないだろう。その証拠に「少し効いた」と素っ気なく答える程度だった。
「アレを食らって"少し"か。あ〜あ、結構本気じゃったのに、悲しくなってくるわい」
「地力の差だな。いくら緻密な魔力操作を駆使したからと言って、そこには限度というものがある。全盛期と比べて威力が落ちるのは当然だ」
「そんな事ぐらい理解っとるわい!」
「やれやれ……」と零し、氷界竜は翼をはためかせて宙に舞うと、紅姫から約十メートル程の距離を空けて氷の大地に降り立つ。
「さて、続きといこうか」
衰えぬ闘志と重圧が紅姫に叩きつけられる。だが、紅姫には最早戦う意志が微塵もなかった。
「いや、宴もたけなわじゃ。ここらで今回の落とし所の話をしようではないか」
「半殺しにするのではなかったのか?」
「どうやら今の儂では出来そうにないのでな。それに、時間切れじゃ」
「ギュラァァァァァァァァァァァァァァ!!」
天を震わす大咆哮がムエルト大森海に広がる。
紅姫は後ろを振り返り、眉を少し八の字に曲げて笑む。
「来たか……まったく、無理をしよって」
晴天を泳ぐように進む影。それは蛇のように長く、巨大で、一目で唯ならぬ存在である事を知らしめる。
背には空を飛ぶために必要な翼などなく、重力を無視して空を飛んでいた。
全長約四百メートル。天に輝く太陽に照らされ、その純白の鱗が散りばめられた宝石のように煌めく。頭には枯れ枝のような大きな二本の角と、鱗と同じく美しい純白のたて髪が靡く。
眼には艶やかな紫玉が縦に割れた瞳孔と相まって、凄まじい迫力を醸し出す。
長い二本の髭と、ずらりと並んだ大小様々な牙。その巨大な顎門から漏れる低い唸り声は、生物の心胆を震え上がらせる。
長くしなやかな体で蛇行するように進み、眼の色と同じ紫の雷を引き連れる。それは強烈な光を放ち、悍ましくも美しい光景を生み出す。
"紫電龍 イザヨイ"。カレン配下、六体の魔物の一体にして、"ギレン・バール・ゼブル"に次ぐ強さを誇る怪物。
その圧倒的な巨躯と荘厳な出立ちは、まさに圧巻の一言だ。
そして、そのイザヨイと並行するように、地上を猛烈な速度で駆ける影が一つ。
狐だ。ただし、ただの狐ではない。そもそもムエルト大森海にただの狐がいるわけがない。
体長八メートル。尻尾も合わせれば十一メートルにもなる。巨大な狐。
全身を白金の毛で包み、頭と顔の一部、脚と尾の先に淡い蒼色の毛が混じる。両の目には緑がかった金眼が鎮座し、口には鋭い牙が並ぶ。
そして、最も目を惹くのが、尾の数である。通常狐という生物には尾は一本しか存在しない。だが、強靭な四肢で雪上を走り抜ける巨大な狐には、尾が九本も存在していた。
"九尾 ココノエ"。カレン配下、六体の魔物一体。イザヨイには及ばぬものの、その強さは驚異的と言わざるを得ない。
凄まじい速度で近づいて来るその二体の魔物の後ろからは、ベルゼバブとゼルが追いかける。
そして、氷山の方からはルミナスとバーカンティー、凍え死にかけたアレン、マイン、ローリエ、クラリス、を抱えたロロンが丁度下山した。
「さて、氷界竜殿よ。少し話をしようではないか。互いに良い結果をもたらす話をな」
紅姫は不敵な笑みを向け、言外に氷界竜に最早勝機が微塵も残されていない事を突きつける。
氷界竜は目を細め、少し考える。魔力をかなり消費している。加えて根源に多大なダメージ。敵は多数。多勢に無勢だ。仮に全て倒したとしても、最後に控えているのは怒り狂った炎劫竜だ。"死"は必至だった。
氷界竜は状況を理解し、大きくため息をつく。その諦めたようなため息を境に、氷界竜から張り詰めた空気が霧散する。
それは言外に「これ以上戦う意志はない」という表れであり、同時に戦いの終わりを告げていた。
書いてる事なんか無茶苦茶な気がする……




