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29.ラッキーという女 1

 チハルがAに遭遇したのは、一時間ほど前のことだった。

 山崎から聞いていたとおり、Aは黒ずくめの格好にマスクをして、フードを目深に被っていた。姿こそ不気味だったが、不思議と怖くはなかった。ついに見つけたという喜びと感動が、恐怖心を遥かにしのいでいたからだ。

 何食わぬ顔で近づいたまではうまくいっていたと思う。声を掛けたが無視された、これも想定の範囲内。逃げられるのだって予想していたが、女と思い込んでいたAが男だったことには、腰を抜かすほどびっくりした。


「静かにしろ。大きな声を出すな」


 頭の後ろから、男はしゃがれ声で囁いた。後ろ手にねじ上げられ、口を塞がれて、あまりの恐怖に全身が冷えた金属のようになった。


 ――そうか、私の人生はこうやって幕を閉じるのか。


 男の手が首にかかるのをチハルは待った。あるいは背中からひと突きにされ、苦しむ間もなく事切れる瞬間を。

 人間死を覚悟すると、半端にやり残したことが次々と思いだされるものらしい。そういえば、駅前のテナントに問い合わせがあった件を社長に伝えなきゃいけないんだった、宅建の過去問集をデスクの上に置きっぱなしにしてきてしまった、久我に買ったあんぱんと牛乳もバッグに入ったまま。……そうだ。久我は今どうしているだろう。昼間あんなに「先走るな」と注意されたのに。

 なんてバカなことをしたんだろう――自分の軽率な行動を呪って、チハルは奥歯を噛んだ。涙が頬を伝った。家族にも謝った。なのに。

 チハルは困惑していた。てっきり短い人生が終わったとばかり思っていた。それなのに、自分は今、どこか知らない場所にある、至って普通の家庭のダイニングで茶を啜っている。

 食卓テーブルの上には、味付けのりの入れ物、醤油差し、電気ポットなどが置かれていた。それから、賞味期限が昨日で切れた、半額シールの貼られたバターロールが。

 この一時間のあいだに起きた出来事を、チハルは頭の中で思い返していた。

 あのあと男は、チハルを安心させるためか、フードを後ろに跳ねのけ、マスクを下にずらして顔を見せた。男は還暦を過ぎたかどうかという歳の頃だ。この顔を三十くらいの女と見間違えることは、まずありえない。

 チハルが黙ったままでいると、男が静かに言った。


「私じゃ判断がつきませんので、別のところで話をさせていただきたい」


 男は車を停めたところまでチハルを連れていった。チハルが後部座席に乗りこみ、男は運転席に座った。聞き慣れない始動音が鳴り、車は夜の街を走り始めた。

 男は終始無言だった。チハルは不安のあまり、言葉を発することができずにいた。車は小さな軽自動車だったが、車内はきれいだし、運転がうまいせいで不快さは感じられなかった。

 揺られること小一時間、まったく土地勘のない場所にたどりついた。直前に見た案内標識からして、中野の近辺だとは思う。

 男は住宅街の道路に車を停めて、チハルを誘導した。もしかしてヤクザのアジトにでも連れて行かれるのだろうか、とびくびくしていたが、どうやら杞憂に終わったようだった。男が足を止めたのは、古ぼけたモルタルの小さな一戸建ての前だ。チャイムの音と同時に出迎えたのは、ヤクザとは無縁そうな小ぎれいにした女だった。


 正面に座る男の手元を、チハルはじっと見詰めていた。正直、目のやり場に困っていた。男の頭はだいぶ禿げあがっていたし、床の上には溜まった古新聞や買い置きの生活用品などが、山と積み上げられていたからだ。

 ダイニングルームはお世辞にも広いとは言えなかった。床は古いデザインのクッションフロア、天井の石膏ボードは煤で汚れている。見た感じ、昭和五十年代の造りだ。キッチンと一緒になったここは食事をするだけのところで、食後の団らんは隣の居間でどうぞ、といったタイプの。

 かつてはこの家にも、そんな楽しい時間が流れていたのかもしれない。しかし現在は、隣の部屋には介護用ベッドや大人用おむつがひしめき合っているのが見える。


「ごめんなさいね、こんなものしかなくて」


 後ろから手が伸びてきて、あられやチョコレートが入った菓子入れが目の前に置かれた。チハルは「お構いなく」と頭を下げた。この家の主らしき女は、さっきから忙しそうにダイニングを行ったり来たりしている。


「もう、びっくりしちゃった。サカグチさんたら、いきなり若い女の子を連れてきて『この子をどうしたらいいか』なんて聞くんだもの」


 女は自分の茶を湯呑に注いだ。特に怒っている風でもなく、ビクついている風でもなく、明るい表情だ。自分の湯呑がいっぱいになると、男とチハルのところを覗き込んで少しずつ注ぎ足した。


「仕方ないじゃないか、俺だって、突然話し掛けられてパニックだったんだよ」

「そうだけど……。無駄に怖い思いをさせてしまったわ。ねえ?」


 とチハルに向かって、女は優しく微笑みかける。チハルはちょっとドキリとした。

 女は色白でなかなかの美人だった。あまり日に当たっていないらしく、海の深いところにいるような、どこか儚げな生き物を思わせる肌だ。眉も目も鼻も、すべてのパーツが細く頼りないので、生命力に乏しい印象を受ける。


 ――やっぱりこの女性がAだろうか。


 山崎はAのことを三十歳くらいだと言ったが、それよりは少し年かさがいっているようだ。チハルはうずうずして堪らなかったが、尋ねることは容易じゃなかった。丁重なもてなしを受けてはいるが、一応は拉致された身だ。「あなたが不法侵入していた犯人ですか?」なんて聞けば、何をされるか分からない。

 女がやっと席に着いた。会話も、スリッパの音も、衣擦れの音も、すべての音が一瞬途切れて空白ができた。切り出すなら今だろう。チハルは意を決して女の方を向いた。


「あの――」


 ところが、その瞬間けたたましい金属音が突然鳴り響き、チハルは飛び跳ねた。夜の静かな時間には、明らかにそぐわないくらいの音量だ。音は隣の部屋からしていた。ベッドのパイプをスプーンか何かで激しく叩くような音だ。


「はいはい。今行くから」


 ぱたぱたとスリッパの音を立てて女は消えた。チハルはゆっくりと首を巡らせて、隣の部屋の様子を伺った。

 襖の向こうはダイニングほど散らかってはいないようだった。ただし介護用ベッドとポータブルトイレが置かれているせいで、窮屈そうではある。部屋は和室だが、壁は珪藻土や漆喰などではなく、表面に防音シートのようなものが張り巡らされている。

 チハルはさっきのけたたましい金属音を思い出した。まさかとは思うが、ベッドの住人は女を呼ぶごとにああして大きな音を立てるのだろうか。いくら防音対策をしていても、完全に音を遮ることはできない。夜中じゅうこれでは、近所の住民も堪ったものではないだろう。


「彼女も……被害者なんです」


 ぼそっと言う声が聞こえてチハルは振り返った。正面に座るサカグチと呼ばれた男が、岩のような渋面を作っていた。


「それはどういう意味でしょうか」

「火事の件です。もう隠し立てはできないでしょうから、あなたもすべてご存知のものとしてお話しします」


 チハルは思わず目を見張った。全身の産毛が一斉に逆立つのを感じた。

 サカグチは静かに言った。


「あの東向島のアパートにいたのは、確かに彼女――ラッキーさんです」

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