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13.後始末はもっと大変 2

 現れた鹿野は、初めてここを訪れた時と同じような格好をしていた。しかし、今日は両手に紙袋を持っていない。その代りに、何が入っているのかと思うほど大きな黒いリュックサックを背負っていた。


「このたびは大変申し訳ございませんでした」


 黒磯が言って、三人で鹿野に頭を下げた。出火の原因はチハルたちが火をつけたわけでもなく、過失があったわけでもない。しかし、管理を預かっている以上、火事が起きた場合には大抵の不動産屋は家主に謝罪の言葉を述べる。仲介管理業とはそういうものだ。

 鹿野が履いている薄汚れたスニーカーの爪先を見詰めたまま、チハルは潤んでくる瞼を何度もしばたいていた。アパート経営のあの字も知らない人を、相続したばかりでこんな目に遭わせてしまうなんて本当に申し訳ないことだ。久我と黒磯には言わなかったが、昨夜は布団の中で枕を濡らした。

 ところが、謝罪の言葉を聞いて、鹿野はこちらこそすみません、と謝った。


「いやあ、昨夜はオフ会に出掛けていて」


 と、いつものようにもじもじして、俯いたまま言う。事情が飲み込めない三人は顔を上げてポカンとした。最初に聞く言葉がこれなのか。「却ってご迷惑をおかけしました」とか「お怪我はありませんか」とかじゃないのか。


「えーと、オフ会……でございますか?」


 久我が尋ねると、鹿野はこの場にそぐわないほど楽しそうな顔を見せた。その『オフ会』とやらのことを思い出しているのかもしれない。


「ええ、午後の取引が終わったあと投資関連の後援会に行って、その足で投資家が集まるオフ会に参加してきたんです」

「投資家のあいだにもオフ会というものがあるんですね。ずっと画面に張り付いていなければならないイメージでした」

「まあ、確かにその通りですが、後場も三時には終わってしまうのでその後は基本暇なんです。それに、投資家は孤独なんですよ。常に自分との戦いなのでメンタルが命でして……だから同じ境遇の人と知り合いになって、悩みを共有したいと思うんでしょうね」


 鹿野はしみじみと語った。いい顔をしているのは、昨日のオフ会とやらで有意義な出会いがあったからだろうか。

 少し間ができたところでチハルが切り出した。


「……あの、話が変わって申し訳ありません。鹿野荘の火災の件ですが――」

「あっすみません。今日はその話で来たんですよね」


 鹿野はうっすらと笑みを浮かべながら、目の前にあったお茶を音を立ててすすった。まだオフ会のことを話したかったのか、思い出し笑いなのか、機嫌がよさそうににこにこしている。

 とても所有しているアパートが焼けて打ちひしがれている家主の姿に見えない。朝一番に火事のことを電話で告げた時も思ったが、どこか他人事なのだ。やはり二代目オーナーとはこういうものなのか……。

 チハルはこっそりと黒磯の顔を横目で窺った。彼は特に喜でもなく、怒でもなく、仏像のようなアルカイックスマイルを崩さない。さすがだ。内心イラッとしているだろうに、表向きは真摯で落ち着いた態度そのもの。同じ二代目とはいえ、長年タヌキを演じてきた不動産屋の親父は格が違うらしい。

 チハルは昨日の夜から現在までの状況をざっと鹿野に説明した。

 久我に差し入れを持ってきたところ、匂いに気付いて外に出たらすでに二階が燃えていたこと。アパートを飛び出した途端に爆発が起きたこと。二階の住人Aは当時部屋にはいなかったこと。三号室の山崎はまだ入院中で、死傷者はいなかったこと。そして、鹿野荘は全焼してしまったこと――。

 いくら物件に愛着を持たない者でも、『全焼』と聞けばさすがにショックの色が浮かぶと思っていた。しかし、それでも鹿野は顔色を変えなかった。悠長にお茶を啜り、ふんふんと頷きながら静かに話を聞いている。

 ところが、その丸い顔が突然強張った。チハルが住宅地図をテーブルに置いた時だ。


「それで、近隣への延焼ですが――」

「え、あの……ご近所まで燃えてしまったんですか……?」


 鹿野は震える手で湯呑を茶托に戻した。頬が緊張のあまり震えている。彼を驚かさないよう、チハルは穏やかな顔付きを心掛け、静かに言った。


「火の回りが早かったので多少被害の出たお宅があります。ただ、この辺りは準防火地域ですし、周りは新しい建物ばかりだったのでそれほど大きな被害は出ませんでした」

「拡大図で具体的にご説明させていただきます」赤色のペンを手にして久我が続けた。「東側のお宅二軒が雨どいとエアコンの室外機が熱で溶けてしまいました。それから、こちらは外壁と軒下の煤汚れ、風下に当たった南側の三軒は割と被害が大きかったので実際にご覧になっていただければと思います」


 地図に赤丸が付くたび、鹿野の肩がびくっと震えた。顔色はますます青白く、手も足もがたがたと震えている。それはそうだろう。やる気のない新米大家だというのに、相続から一年と経たないうちにこんな大事件に遭ってしまったのだから。……ああもう、気の毒で見ちゃいられない。


「鹿野さん」チハルは鹿野の顔を見てにっこりと微笑んだ。「私たちが全力でサポートしますから、あまり気に病まないでください」


 胸の脇で小さくガッツポーズをしてみせると、鹿野は引きつった笑いを浮かべた。却って痛々しい感じが増すだけだ。


「……ありがとうございます。あの……何か……お詫びの品でも持っていった方がいいんでしょうか?」

「見舞金という形でいくらか包んでいった方がいいかもしれませんね」


 と、黒磯。


「近隣の方へは午前中にお詫びに伺いましたが、もう一度鹿野様も一緒にご挨拶に伺えればと思います。できましたら、その時に」


 久我がスマホで相場を調べて金額が提示された。鹿野は二つ返事で頷いて、「じゃ、あとで二〇〇万ほど下ろしてきます」と言ったが、まだ落ち着かない様子だ。


「あと……全部のお宅の修理費用の見積もりをお願いしてもいいですか? 業者はお任せしますので」


 んっ? と黒磯は素っ頓狂な声を上げた。


「鹿野様、現行法では失火元に重過失がなければ賠償の必要はないんですよ。すべてのお宅の修繕をご負担になったらかなりの金額になりますが――」


 黒磯は言ったが、鹿野は納得がいかない様子だ。


「そうなんですか……でもやっぱり、火事を起こしたのはうちの物件なので、そういうわけには」


 何度かキャッチボールが続いたが、鹿野に折れる気配がないので近隣への挨拶の時にその辺りも含めて話すことにした。延焼があったのは全部で六棟だ。見舞金だけでだいぶ高額だというのに、さすが、お金持ちは違う。

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