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RED

作者: 春日部 水鳥

真太郎からはいつも、高そうなコロンの香りがした。

だけど私は、真太郎がそれをつけている所を見た事がない。

就職の為に上京する時、家賃が浮くからと2人で部屋を借りた。

適当な生活。

冷蔵庫に貼られたカレンダーにお互いの予定を書き込み、出入りの時間を知らせる。

部屋には横にスライドさせるだけの、安っぽい鍵。

眠る時だけにかけるそれは、私が女で、真太郎が男だという、絶対的なものに思えた。

真太郎は、ビアンの同級生と住んでる、と言っては日替わりで女の子を連れ込む。

真太郎の部屋から音楽が聴こえたら、それが合図だ。

今から抱きます、という。

薄い壁一枚しかない私達の距離。

どんな音も、鮮明に聞こえた。

そんな時、真太郎の喉仏が頭の中に浮かぶ。

何の為だか知らないが、男、にしかないもの。

誰にでも男を示す、小さな突起。

私には、ない。

女の子が帰ったリビングに、シャワーを浴びたばかりの真太郎と私。

真太郎は腰にバスタオルを巻いて、2リットルのペットボトルに口をつけ、ごくごくとミネラルウォーターを飲む。

「今日は何点?」

真太郎と私の悪趣味な女の子批評。

「5点。可愛いけど、可愛げがない。」

「辛いねー。今まで満点いないじゃん。柚乃のストライクゾーンわかんねー。」

「真太郎は?何点?」

「8点。耳たぶつかまれたから。」

いつ?とは聞けまい。

「自分だって満点いないじゃん。真太郎も十分辛口だと思うな。高得点なんだから、付き合えばいいのに。」

真太郎は、座っている私の膝に濡れたままの頭を乗っけて笑った。

「バカヤロウ。高得点だから付き合うんじゃねぇよ。好きになったら付き合うんだよ。それが2点の女でもな。」

「理屈がわからないよ。じゃあ何でとっかえひっかえするの?」

「柚乃は、一日にどれくらいの人と出会ってると思う?すれ違う奴全員そうだろ?そんなの見過ごすなんて、もったいないね。」

「答えになってない。濡れるから、頭どけてよ。」

真太郎は私の短い髪の毛をこちょこちょと指でいじる。

「ときめかない?」

「何が?」

「男に触られても、胸きゅんしない?」

「男だって女だって、さっきヤッてた奴になんかときめかないでしょ。」

「そう?これでも?」

真太郎は勢いよく起き上がると、私の鼻先まで顔を近づけた。

「なに?キスでもするわけ?」

「うわー、冷めてるー、こわっ。」

真太郎は笑いながら私の頭にキスをして、自分の部屋に消えた。

私は誰からも男だと思われないし、女とも思われない。

自分が何なのかさえ、わからない。

でも、どうしても男は好きになれない。

好きなのは、女の子のフリルやリボンで飾った妬み嫉みや自己愛なのだ。

彼女達の、危うい二面性なのだ。

男になりたいとも思わない。私はただ、女の子を愛していたい。

それは、変なのか。間違いなのか。許されないのか。

恋愛なんて、もうしたくない。かと言って、真太郎みたいに一夜の関係を持つドライさもない。

でも、永遠にこのままでいるわけにはいかない。


朝、リビングで鏡をじっと見る。

自己採点は中の下。

真太郎が起きてきて、ぼーっとしている私の横でパンをかじる。

「私、何点かな。」

「は?」

「いつもみたいに採点してよ。私、何点かな。」

真太郎は馬鹿みたいだって顔で、私に頭突きをした。

「いったいなぁもぉ。」

「柚乃に点数なんか、いらねぇよ。対男の採点したって、女しか好きになんねぇんだからさ。」

「そう…かもしれないけど。」

「早く彼女できるといーね。」

「なんか、真太郎が言うと嫌味だな。」

「俺にも早く彼女できるといーな。」

「日替わり定食の男がよく言うよ。」

平凡な朝。

出社してからも、平凡な1日で。

唯一、私がやる気になれるのは、とても綺麗な、いや、可愛い先輩に恵まれたからだ。

ブランドコスメの販売員をしていても、メイクをとれば2点の女ばかりなのに、原先輩だけは、土台から美しかった。

「浅井、早番だよね?新作のサンプル、今日届いたから、持って帰っていいよ。」

「これですか?うわぁ、真っ赤なルージュ。」

「バレンタインレッド、って事。いいよね。恋する女は。」

「原先輩は試さないんですか?」

「もちろん使うよ。でも1人で試しても、誰にも感想聞けないし。」

「早番でしたよね。帰りに一緒に試しましょうよ。」

「浅井、最近頑張ってるからね。晩御飯でも行く?」

やったー!って心ん中でガッツポーズ。

原先輩と、晩御飯!いや、ディナー!

「はい、喜んで!」

「浅井、それじゃ居酒屋みたいだよ。」

原先輩はふわりと笑うと、サンプルのルージュを私に渡してくれた。

「何食べたい?あ、でもサンプル試さなきゃいけないしなぁ。」

原先輩と並んで歩くのは、ドキドキする。

ゆらゆら揺れる細い指を、捕まえたくなる。

「私は、何でも。帰る方向同じなんで、その沿線で、とか?」

「ああ、それでいいか。うん。浅井の方が先降りるよね。その駅前でどっか入ろうか。」

「ええ、駅前に色々あるんで、適当なところでよければ。」

ゆらゆら電車に揺られて、私の家の近く。もとい、最寄り駅に。

「浅井オススメは?」

「あー、あんまりオシャレなとこ知らないんですが、生ハムのおいしいお店なら。」

「ほんとー?ワイン飲もうかな?酔っちゃうかな?ね?」

原先輩は無防備に顔を覗き込んでくる。

私がぐいと引き寄せたら、腕の中に抱けそうなくらいに。

半個室のイタリアンは、まわりの会話も視線も気にならなかった。

原先輩はオススメした生ハムをおかわりして、ワインを1杯半飲んだだけで、頬を赤くしていた。

食事が終わりに近づいたので、サンプルを出すと、原先輩は隣に移動して、

「塗って。」

とリップブラシを差し出した。

壊れ物に触れるように、柔らかな唇に赤を乗せていく。

「鏡、見ます?」

原先輩の唇にバレンタインレッド。ドキドキ、する。

「これってキスしたらとれちゃうかな。」

「さぁ、結構マットな仕上がりなんで、とれにくいとは思いますけど。」

「キスしていい?」

脳細胞が活動を放棄した瞬間だった。

何も言えずにいると、ゆっくり原先輩が近づいてくる。

伏し目がちなのは、私の唇を見ているせいだろう。

ちゅっという音はせず、柔らかくしっとり濡れた唇が、私の口を塞いだ。

「浅井、唇赤いよ。」

すぐに原先輩は離れて鏡を渡された。

本当だ。原先輩のキスマークが、私の唇に残っている。

「酔っ払ってます?」

「そういう事にしといて。」

女同士だから、友情みたいな気持ちで手を繋いだりキスしたり、特別掘り下げるべきじゃない事もある。

家に帰ると、真太郎がリビングで小説を読んでいた。

「おかえり。シャワー空いてるから。」

「ああ、今日、職場の先輩と飲み行ってて。」

「行ってて?何?」

「キス、された。ほら。」

かがんで真太郎に唇を見せると、指でキスマークをなぞられた。

変な沈黙に耐えられずに、バスルームに入る。

ドアにもたれて、ゆっくりとしゃがみ込む。

ぽろぽろ涙が出るのはどうして?

これが、恋の、始まりだから。

「もしもし?生きてます?」

真太郎が心配してノックをしてくるまで、動けなかった。

恋に落ちるというのは、真っ暗闇に落ちる事と私には同じだったから。

「生きてんじゃん。」

ドアを乱暴に開けられ、真太郎の足に崩れ落ちた。

「どうしよう。真太郎。どうしよう。好きになっちゃった。」

「は?急になぁにを」

「原先輩に好きって知られたら、私、嫌われるよね?」

「あー、キスマーク先輩?さぁ。嫌ったりはしないんじゃない?むこうからキスしてきたわけだし。」

絶対嫌われると繰り返す私に、真太郎は笑い混じりに嫌われないよ、と繰り返した。

薄い壁越しにベッドに入ってからも、リフレインするくらいに。


とてつもない気合いを入れて出勤した私に、原先輩は笑顔だった。

「おはよう浅井。昨日ありがとね。また誘うよ。」

たった、これだけ。

たった。

なんでもないから、なんにもない。

当たり前の事。


「どうして恋って、よーいどん!で始まらないかなぁ。」

夜、リビングでぼやいていると、真太郎が出かける用意の合間に答えてくれる。

「それは、運命の相手が、はーい!って手をあげてくれない事と同じなんじゃない?」

「だから真太郎は今夜も狩りですか?」

「狩猟本能が疼くんです。というか、会ったら好きになるかも、手を繋いだら、キスしたら、抱き合ったら、そんな可能性にすがらずにはいられないんです。」

真太郎は自虐的に笑うと、玄関に座りブーツを履いていた。

「嘘つき。女好きなだけでしょ。」

「女を好きでい続けるってのも、結構、辛いよ?柚乃ならわかるだろうけどね。」

また嫌味だ。

しっしと手をやると、真太郎は玄関の向こうに消えた。

原先輩は、私を嫌いじゃないから、晩御飯に誘った。キスをした。嫌いじゃないから。

でも、嫌いじゃない、と、好き、の間にはとてつもない距離や壁がある。

私がそこを飛び越えようとしたって、奈落の底に直滑降するだけだ。

「どーして私は男じゃないの。」

さっきの真太郎の姿が浮かぶ。

首の太さだって、喉仏だって、肩幅だって、声だって、何もかもああいう風になれたなら、原先輩に好きと言えるだけの勇気が持てただろうか。


ぼうっと原先輩を目で追うだけの、惨めな私。

「あの、バレンタインのやつ、試せますか?」

声をかけられて、はっとする。

「もちろんです。ありがとうございます。」

可愛いお客様は、バレンタインレッドで小悪魔に変身した。

「お似合いです。いかがですか?」

小悪魔は、鏡を見ながら首を傾げた。気に入らなかったのだろうか。

鏡越しに目が合ったので、笑顔で応える。

「あの、あそこにいる人。」

小悪魔の視線の先には原先輩。

「私の姉なんです。いつもいつも、一番可愛くて、一番愛されて、私はいつも二番手。でも、赤い口紅つけたら、姉の彼氏を奪えるような気がした。赤って、女の色だから。」

小悪魔はイスをくるりと回して、私に微笑む。

「でも、もう気が済んだ。これ、買います。」

小悪魔は、何度、原先輩を羨み憎み愛したのだろうか。

細い肩が、強がっているのがわかる。

ラッピングと会計が済むと、原先輩が走ってきた。

「千栄ちゃん、これ、サンプルあったのに。」

「いいの。これ、欲しかったから。」

「先に言ってよ。社割で買ってあげたのに。」

「ほんとにいいの。この口紅で、私にもお姉ちゃんみたいないい彼氏できるかな?」

「今度、男紹介するよ。」

「それはもっといいよ。お姉ちゃんのまわり、彼氏以外は変な人ばっかりだし。」

「あ、じゃあ浅井。」

私?

「浅井に紹介してもらいなよ。彼女、販売の腕もいいし、いい男知ってそう。」

「浅井さん、綺麗ですよね。よかったら遊んでください。」

私、ではなく、私のまわりの男を紹介する為に。

「同居してる男ならいつでも紹介するよ。彼氏じゃないから。でも、いい人じゃないかもしれないけど。」

原先輩に腕をつつかれる。

「何それ初耳なんだけど。今度ほんとに紹介してよ。私は見学で、千栄ちゃんの彼氏候補に。」

「じゃ、今度4人で飲みって事で、お姉ちゃんセッティングよろしく。」

千栄ちゃんは、姉妹の悲しい会話を断ち切るように、背を向けた。

「浅井、同居くんと日程決めてきてね、よろしく。」

原先輩は、軽い。

とっさに真太郎しか思い浮かばなかった私も最低だけど、今夜、真太郎に事情を話すしかなさそうだ。

玄関にブーツが脱ぎ捨てられているから、真太郎は帰宅しているのだろう。

部屋をノックすると、どうぞ、と言われたので開ける。

「真太郎、お願いがあるんだけど。」

頼みにくいのは、なぜだろう。女好きなんだから、女の子を紹介されて、喜ぶだろうと思うのに。

真太郎が嫌がるかもしれないと思うのは、なぜだろう。

「可愛い子ならいつでも。」

少し困った顔で言われて、私も同じ顔になる。

「それより、キスマーク先輩、彼氏いるんじゃん。望み薄だね。」

「それは今、関係ないでしょ。」

「どうして?俺が千栄ちゃんとくっついて、柚乃がキスマーク先輩とくっつけば、完璧でしょ。」

「そんな簡単な話じゃないよ。それに、千栄ちゃん紹介するのは私の為じゃない。」

じゃあ何の為に?って真太郎の顔が言ってる。

急に腹が立って、

「とにかく、千栄ちゃんには軽々しく手は出さないでね。」

と、理不尽に怒ってドアを閉めた。

しかし、真太郎の女好きを甘く見ていた。こんな事あってはいけない、と思ったのは、和やかに4人で食事をした数日後だった。


シャワーを浴びてドライヤーをかけていると、玄関の開く音。

「ただいま。」

真太郎。

「お邪魔します。」

?!?!?!?!?!

こんな事あってはいけない。原先輩の妹をいきなり部屋に連れ込むなんて、絶対だめ!

「ちょっと真太郎、話が違うじゃない。」

ドライヤーを放り出して、詰め寄ると、へらへらした笑いにもっとむかつく。

「私、今日ほんとに疲れてるから帰ってもらってよ。」

「仮病。いつもは何も言わないくせに。」

「それとこれとは絶対絶対違うから。お願いだからわかってよ。」

千栄ちゃんは、私達をじっと見つめていた。バレンタインレッドの唇を開かずに、見ていた。

真太郎は私を振り払うように、千栄ちゃんの手を引いてリビングに行ってしまう。

原先輩はこの事を知っているのだろうか。明日、私から話す事になる事は避けたい。

悪夢だ。こんなの悪夢だ。

原先輩にはいい彼氏がいて、千栄ちゃんは真太郎の魔の手にかかる?

リビングに行くと、ソファに2人仲良く座って小さな小さな100円で売っていそうなオセロをしていた。

謎だ。

男女でいたら、オセロなんかよりする事があるはずだ。真太郎の場合、特に。

「浅井さん、真ちゃんの事、怒らないで。私、真ちゃんとは寝ないから。」

千栄ちゃんはにっと笑うと、またオセロに手を伸ばす。

「じゃーなんで」

「俺は千栄の兄貴的な?兄貴は妹抱かないでしょ。」

意味不明。歩く生殖器が言っても説得力がない。信用できない。

「お兄ちゃんぶって女の子に甘えさせて食うってパターンくらい読めてるんだからね。」

「浅井さん、真ちゃんの事何でも知ってるみたい。でも私は、真ちゃんの話より、浅井さんの話が聞きたくてここにいるんだよ。」

謎だ。

原先輩の弱みを私から聞き出そうとしているの?何の話が聞きたいの?

「浅井さん、私はずっとお姉ちゃんの陰に隠れて、ずっと二番手だったって言ったでしょ?」

「あぁ、うん。」

「浅井さんだって、いつも陰に隠れてた。」

「どういう意味?」

真太郎を見ると、知らんぷりでオセロをひっくり返している。

「女だから。男にはなれないから。」

視界が一瞬白くなって、意識が遠のく。

「真ちゃんと会った時、もうお姉ちゃんには勝てないし、どうにでもなれって思ってた。でも恋人でもないのに同居してる2人の事、理解できなくて、真ちゃんがだんまり決め込んだのに、私が無理やり聞き出したの。」

「俺のせいじゃないからな。」

真太郎の頭を叩いて、千栄ちゃんの隣に座る。

「でも、あれは間違いなの。原先輩酔っ払ってたし、キスされるなんて私だって思ってなかったし、彼氏いる事も知らなかったし。」

真太郎がどこまで話したのかわからないまま、弁解をする私は滑稽だ。

「お姉ちゃんと、キスしたんだ?」

千栄ちゃんの顔が曇る。

「なんでかな。みんなお姉ちゃんの事、好きになるの。浅井さんも。」

千栄ちゃんに見つめられて、今すぐ自分の言葉を消しゴムで消したくなった。

千栄ちゃんの目に涙が溜まっていく。

「キスしていい?」

二回目の言葉。

バレンタインレッドが私の唇を奪う。

千栄ちゃんは、そのまま私の胸に顔を埋めると、泣き出した。

「浅井さん、私、お姉ちゃんじゃないよ?」

「わかってるよ。」

真太郎がこっちを見ているのに、何も言わないのはなぜだろう。

「千栄ちゃん、私、男じゃないよ?」

「わかってる。」

「あーあ、俺だけキスの相手がいねー。」

真太郎がソファに置いてあるぬいぐるみと何度もキスをするから、私も千栄ちゃんも笑った。


翌日、原先輩に、真太郎と千栄ちゃんが兄妹のようだったと話すと、とても嬉しそうだった。

「千栄ちゃん、なんだか浅井と真太郎くんの事、すごく好きみたい。ずっと2人の話ばっかりだよ。あんまりくっついてると迷惑だよって言ったら、気をつけるだってさ。暇な大学生の気をつけるは信用できないよ。」

「いいですよ。うちはいつでも遊びに来てくれて。千栄ちゃんがいると、私も真太郎も楽しいし。」

「千栄ちゃんだけずるいなぁ。私は浅井の家に上がった事ないのに。」

「そうでしたね。原先輩も、いつでもどうぞ。彼氏さんも同伴オッケーですよ。って、なんだか私達まで大学生ノリになっちゃいますね。」

「あー、でも、今度お邪魔するよ。彼氏に沢山お酒買ってきてもらお。」

そうですね。私とのキスなんかより、彼氏、ですね。

原先輩の彼氏なんて、想像がつかない。

すっごくイケメンでいい会社に勤めてそう、なんて、馬鹿な大学生が考える範疇の事しか思い浮かばない。

千栄ちゃんが言うように、いい彼氏、なのは確かなのだろう。


「浅井さんは男になりたいの?」

真太郎が自分の部屋に女の子を連れ込んだ夜も、千栄ちゃんは訪ねてきた。

リビングで、チューハイを飲みながらズバズバ切り込んでくるこの小悪魔は、何なんだろう。

「よくわかんない。でも、女の子が好きなの。外見的な事もそうなんだけど、可愛いとか綺麗を一皮めくると、どうしようもない憎悪みたいな、敵対心自己愛自虐、どろどろしてるのが、女、なわけで、そういう危うさにたまらなく惹かれるんだよね。」

「お姉ちゃんもそうだと思う?」

今日もバレンタインレッドの唇で、小悪魔は囁く。

「そうだと思う。千栄ちゃんも私も。みんなそうだと思う。だけど、原先輩は特別だよ。なんだか他の人と違うの。」

馬鹿にされるのを承知で言うと、千栄ちゃんは真面目な顔で、チューハイの缶を置いた。

「お姉ちゃんは特別。浅井さん、お姫様は王子様と結婚するでしょ?お姉ちゃんはそういう人なの。悪い狼にそそのかされる事があっても、絶対最後は王子様と結ばれるの。絶対ただの村人なんかとは結婚しないの。」

恋した瞬間に、失恋が確定していた私は、今更、動揺しなかったが。

「原先輩の彼氏は、王子様?」

確かめたかった。

「王子様。お姉ちゃんが大学生の時から、ずっと続いてる。見た目普通だし、中身も普通なんだけどね。」

「何それ。全然王子様じゃないよ。」

千栄ちゃんは私の肩に寄りかかって、手を握った。あたたかい。

「王子様だよ。永遠に愛してる、って、多分あんな人の事だと思う。」

目を閉じた千栄ちゃんは、少し悲しそうで、お姫様になれない自分をまぶたの裏に閉じ込めたようだった。

「千栄ちゃんもいつかお姫様になれるよ。」

寝息を立て始めた千栄ちゃんと手を握ったまま、私は何者にもなれない自分の居場所を見つけられないでいた。

しばらくすると、女の子を帰したらしい真太郎がリビングにやって来た。

「千栄、寝たの?」

千栄ちゃんの飲みかけのチューハイを飲む真太郎も、もしかしたら何者にもなれていないのかもしれない。

「真太郎。」

「ん?」

「ありがとう。」

「何が。」

「わからないけど。」

「ん。」

真太郎が手を差し出した。

「なに。」

「俺も手、繋ぎたい。」

いつになく甘えた声の真太郎に、冗談を言ったり、強く拒否する事ができずに、そっと手を握った。

真太郎は下を向いて、しばらく目を閉じていたけど、こちらを向いた時には手は解かれていた。

「千栄、明日帰す?今だったら送ってくけど?」

「私のベッドまで運んでよ。起きそうもないし。朝、一緒に出るよ。」

すると、真太郎は軽々と千栄ちゃんを抱き上げて、むにゃむにゃと夢見心地な千栄ちゃんは真太郎の首に腕を回した。

ベッドまではすぐだったのに、なんだかとても長い時間、それを見ているようだった。

私の部屋から出て行く真太郎は、

「襲うなよ。」

千栄ちゃんを指差して笑った。

「襲わない。」

でも静かになった部屋で、千栄ちゃんの無防備な寝息や唇や細い指を感じると、小悪魔な彼女も罪だと思った。


そして、原先輩が王子様を連れて来る日、なぜだか私と真太郎と千栄ちゃんは、リビングで緊張していた。

インターホンが鳴っても動かない私を真太郎がつつくが、すぐに諦めて玄関に行ってくれた。

「ごめーん。お邪魔しまーす。こんな人数で宅飲みってまじで大学以来で、めっちゃテンション上がって、笑えるくらいデパ地下で色々買ってきたー。」

原先輩の、明るい声。

「原ちゃんすでに酔っぱなテンションだねー。」

「お酒、冷蔵庫の近くでいいですか。」

これ、王子様の声。なんだか幼い。

「いーよいーよ、適当にしといて。はい、原ちゃんと彼氏さん到着されましたー。」

多分、私は笑顔で、意味もなく手を振っていたと思う。

「初めまして。草野尊です。いきなりお邪魔してしまって、すみません。」

「るー君、緊張しすぎー。お待たせお待たせ。乾杯しよ。」

草野尊。るー君。王子様は、人見知りだった。

原先輩のテンションのおかげで、賑やかになったけれど、王子様はほとんど料理にもお酒にも口をつけずに、ひっそりミネラルウォーターを飲んでいた。

「そうだ、みんなバレンタインの予定は?って言っても私と浅井はガッツリ仕事だよねー。」

「ですね。義理チョコ配りの予定も私はないし。」

「え、真太郎くんにあげないの?私は毎年るー君に手作りあげるにゃん。」

語尾がおかしくなる原先輩は、可愛い。王子様が照れて挙動不審になる気持ちもわかる。

「俺は柚乃から義理もらわなくても、本命くれる子いるんで。」

「真ちゃん、その話聞いてないんだけど。」

「うるっせぇなぁ。なんで千栄に報告しなきゃいけないんだよ。俺にも女はそこそこいるって事。」

「そこそこ、ってのが怪しいよね。不特定多数みたいな?」

原先輩が責めると、真太郎が変顔で応戦する。

「私は、私は。」

千栄ちゃんが声を張り上げたので、しんとなる。

「本命、いるよ。」

「まさか真太郎じゃないよね?」

かなり引き気味に聞くと、真太郎に頭を叩かれる。

「千栄はお兄ちゃんに本命くれるんだろ?」

全く、真太郎の甘い声に呆れる。

「真ちゃんじゃないもん。」

真剣な千栄ちゃんに、みんな首を傾げる。

「大学の誰かなんじゃないのー?私もそういう時代があったよ。ねぇ、るー君。」

「紗季は、マドンナだったから。あの頃は誰だって、チロルチョコでもいいから、紗季からもらいたかったよ。」

ひゅーぅって真太郎が茶々を入れると、また王子様は、黙ってしまった。

「今年、私は本命ひとつだけ。拒否られてもいいから、ううん、嘘でもいいから、その日だけ、デート、したい。」

もしかしたら千栄ちゃんは、王子様に告白するのかもしれないと思った。

でも、嘘でも原先輩以外とデートするようには見えない。

原先輩は、笑い話に変えてしまいそうだけれど。

王子様は、酔っ払った原先輩と千栄ちゃんを両脇に抱えて、帰って行った。

紗季は、マドンナだったから。

その一言で、確かに王子様だった。

必ずそばにいてくれる王子様だった。

「真太郎、原先輩は、千栄ちゃんが言ったみたいにお姫様で、彼氏は王子様だったね。」

空き缶やゴミを片付けながら、真太郎は頷いた。

「千栄がひねくれるのわかるなぁ。あんな姉ちゃん持ったら、自分なんかいらないんじゃないかって思う。」

「千栄ちゃんが言ったの?」

「そう。お姉ちゃんは選ばれる人で、私は選ばれない人だからって。浅井さんも同じ。世界中の男が選ばれる人だったとしても、自分は選ばれないと思ってるんじゃないかって。」

暇な大学生は、とんでもなく痛いとこを突いてくる。

例えば真太郎が寝た100人の女の子のうちのひとりでも、私を選ぶかと考えても、ノーだ。

千栄ちゃんが原先輩じゃないように、私も男じゃないからだ。

「でも、千栄ちゃんは王子様を見つけられるよ。私が王子様になれる日はこないけど。」

「羨ましい?」

「え?」

「俺が女抱いたりすんの。」

即答できなかった。

「柚乃は、抱きたいの?抱かれたいの?」

ゴミ袋を投げた真太郎が迫ってくる。

簡単にソファに押し倒される私は悔しいくらい女だった。

「やめてよ。真太郎以外の人類がいなくなったとしても、ないから。」

強い力。押し付けられた足や胸板が熱い。

もがいても、もがいても、びくともしない真太郎の指は、私の手のひらを優しく撫でていた。

「二度と、ない。だろ?」

真太郎は顔を伏せて、そのまま自室にこもってしまった。

そう。真太郎と、私は、ない。

二度と、ない。

小刻みに震え始めた手を握りしめて、選ばれない自分を認めるしかなかった。


バレンタインデーは、朝から憂鬱だった。

あれ以来、真太郎とマトモな会話をしていないし、真太郎の女癖は悪くなる一方で、たまに隣から言い争う声が聞こえた。

出勤すると、原先輩は上機嫌で、すでに退社時間までのカウントダウンを始めていた。

「早くるー君に会いたい。」

語尾に、はぁとを付け加えたくなるセリフだ。

「バレンタインディナーですか?」

「メインディッシュは私だにゃん。」

バレンタインレッドの唇を尖らせた原先輩は、完璧だった。

完璧に愛される女の子だった。

「千栄ちゃんも本命うまくいくといいなー。意外とモテるはずなのに、あの子続かないんだよね。」

「千栄ちゃん美人ですから。彼氏、できるといいですね。」

「浅井はどうなの?というか、真太郎くんは?大体、未だに2人は私の中では謎だよ。」

「最近、ケンカしちゃって、口聞いてないです。」

そういえば、今夜、真太郎は家にいるんだろうか。

バレンタインだから、出かけてるか。

何か買って帰る?浮気がバレた旦那みたいじゃない?私は悪くないのに?

「ふぅん。ケンカ、するくらいお互いに関心があるなら、いい事だね。」

沈みかけていた心が、ふっと軽くなる。

原先輩はにこりとして、もう何も言わなかった。

早く帰って、真太郎に謝ろう。そう、思った。

何を謝ればいいのかはわからないが、とにかく、真太郎の顔が見たかった。

原先輩の浮かれたカウントダウンを聞きながら、何度も時計を見た。

「浅井、お疲れ様。るー君とデートだにゃん。どきどき!」

原先輩は、無邪気だ。その無邪気さで、人を殺せそうなくらいに。

「お疲れ様です。素敵な夜を。」

とか言いながら、私、小走りになってる。

もう何かを買う時間さえ惜しくて、電車に飛び乗った。

息を切らして帰ると、玄関の前に。

「千栄ちゃん。」

「ごめんね浅井さん。」

千栄ちゃんは、涙でバレンタインレッドを濡らした。

よしよしと頭を撫でながら、失恋したのかとうろたえた。

「寒いでしょ?入ろう?真太郎は?いないの?」

手を引くと、いやいやをするように首を振られた。

「やだ。真ちゃん絶対笑うもん。」

うーって泣いてる千栄ちゃんは、可愛いけど、子供だった。

「笑わないよ。私も笑わない。約束。本命、ダメだった?」

千栄ちゃんの顔を覗き込むと、やっぱり泣いていた。

千栄ちゃんは、バッグから小さい箱を取り出すと、私の胸に差し出した。

「浅井さん。今日だけ彼氏になって下さい。好き…きっと最初から…好きだったの。」

私?!

笑う笑わないじゃなくて、笑えない展開。

「嘘…じゃ…」

顔を上げた千栄ちゃんの視線は真っ直ぐで、言葉が出なくなった。

「ダメ、ですか?今日だけ。」

大粒の涙は綺麗な宝石みたいだった。

「わかった。いいよ。どうしよう。仕事帰りでボロボロなの。どうしたらいい?」

「彼氏、だから、男になって。」

無茶ブリですね。泣いてるわりに、かなり冷静ですね。私はパニック最高潮なのに。

「わかった。5分、いや、10分、待ってて。千栄ちゃんの彼氏に変身してくるから。」

コクンと頷く千栄ちゃんのチョコを受け取った私は、一目散に真太郎の部屋に入った。

クローゼットから、良さげな服と皮ジャンを見繕い、着替えて、メイクを落とし、髪の毛も真太郎のワックスでメンズっぽいラフなスタイリングに変えた。

「ちょっと、勝手に何してんだよ。」

リビングから、真太郎の声。

いないと思ったのに!

一応、真太郎の前で手を合わせて謝る。

「あぁ〜ほんとごめん。今日、男にならなきゃいけなくなって〜。だから、ごめん。バレンタインだから許して。」

訳のわからない謝罪だ。

真太郎は声の割に、あまり怒っていないようで、

「靴、どーすんの。」

「ブーツ借りていい?中に何か詰める。」

「早く行けよ。」

玄関まで追い出されるようにして歩く。

必死でブーツを履いていると、上から何か降ってきた。

いい香りだ。

真太郎の、香水。

「女臭いまま行ったら興ざめでしょ。健闘を祈る。」

「あの、ほんとは私、あの日の事」

まだ話しているのに、叩き出された。

真太郎に千栄ちゃんの姿は見えただろうか。

「お待たせ。」

男になった私を見た千栄ちゃんは、とても嬉しそうで、手を繋いで歩き出した。

「浅井さん、」

「柚乃、下の名前。」

「じゃあ、ユズ、かっこいい。」

「ありがとう。」

真太郎のおかげだけどね。大きい洋服、男の香り、そんなものだけで、男になれるとは思わないし、まわりから見たら、ボーイッシュな女なんだと思う。

でも、千栄ちゃんの手を握るには十分な勇気が湧いた。

「どこ行く?」

「ユズがいるなら、どこでも。」

嬉しそうな千栄ちゃんと、まだバレンタインで賑やかな街を歩いた。

もんじゃ焼きを食べて、バーで飲んで、終電。

仕事後にできる即席のデートなんて、たかが知れてるけど、今の私達には満足だった。

帰りのコンビニで眠る前の飲み物だとかを買って。

真太郎は、まだ家にいるのだろうか。千栄ちゃんは泊まって帰るんだろうか。一緒に寝る?寝る?抱く?

男って、やっぱりデートの帰りはこんな事考えてんだろうか。

「あ、0時。」

まだ家に着いていないのに、千栄ちゃんが立ち止まる。

「うん?早く帰ろう。寒いよ。」

握ってもぬくもりは、するりと手から離れた。

「魔法、とけちゃった。」

馬鹿みたいな千栄ちゃんに、困った顔をすると、目に涙を浮かべていた。

さっきまで私と繋いでいた手をじっと見て、悲しそうに、なくなった魔法とやらを探しているみたいだった。

「大体、魔法は0時になったらとけるでしょ?」

「シンデレラとかね。」

「そう。だから、私もユズもここで終わり。」

「何の魔法だったの?」

「選ばれる人になれる魔法。もう二番目じゃなくて、陰に隠れないでいい魔法。」

確かに、私は千栄ちゃんに選ばれたし、千栄ちゃんは私に選ばれた。

「継続はできないの?」

つまり、彼氏彼女では、いられないの?

千栄ちゃんは、少しだけ泣くと、私にキスをした。

濡れた唇に夜風が冷たい。

「できないと思うな。ユズは誰の事も好きじゃないし、私もそうだから。」

「千栄ちゃんの事、す」

「私は!お姉ちゃんの持ってる物が欲しかった。ユズだって、女の自分じゃ手に入らない物が欲しかった。」

そうだとしても、千栄ちゃんを好きな気持ちとは違うよ。

「今日さ、ユズの顔見たら、一番に好きって言おうと思ってたの。でも、ごめんねって言っちゃった。だってユズが私見た時、嬉しそうじゃなかったから。全然他の事、考えてた顔だったから。」

あーめんどくせぇなぁ。つべこべ言わずに抱かれろよ。

とか、真太郎なら思うんだろうか。

「真太郎の事、考えてたよ。」

ほらやっぱり!っていう顔に責められる私は、浮気した彼氏の心境に陥る。

「ケンカしたまんま、口聞いてなくて、今日こそ謝ろうって急いで帰ってきたの。そうだね。間違ってはないよ。私は原先輩のそばにいる、デキた後輩だし。私はいつも男が選ばれる何かになりたがってたし。」

悲しいのは、なぜだろう。

「ユズ、私の事、本当に好き?もし本当なら、連れて帰って。」

差し出された手を握っても、足を踏み出せない。

私が望んでいた、女の子、がいるのに。

「魔法、とけちゃったでしょ?」

千栄ちゃんが嗚咽を漏らしながら座り込む。

つられて私もアスファルトに尻もちをついた。

「魔法、とけたね。」

なんだかおかしくなって、2人で泣きながら笑った。

千栄ちゃんを抱き起こすと、財布から一万円札を取り出す。

「カボチャの馬車で送ってあげられなくてごめん。タクシー拾おう。」

「こんな、かかんないし、いいよ。」

「いいの。私が千栄ちゃんの彼氏なら、こうしてあげたいから。」

ぎゅっと抱きしめて、少し震える千栄ちゃんは、今日どんなに大きな勇気を出して私の所に来てくれたんだろう。

胸があたたかなもので、満たされていく。

千栄ちゃんの髪の毛や頬や唇に、何度もキスをした。

「ユズ、ありがとう。また、ね。」

千栄ちゃんは、大通りに向かって歩き出した。

もうここでいいよって言うみたいに、頷きながら。

「千栄ちゃん。絶対またね。」

不安になって言うと、千栄ちゃんは笑っていた。

「またね。」

薄暗い夜の中、私はひとりになった。

コンビニの袋を下げて帰ると、真太郎にどう話そうかと玄関の前で迷ったが、とにかく洋服のお礼と、ケンカを謝りたかった。

「ただいま。真太郎。今日ほんとごめん。あり」

リビングに、見知らぬ男。と、その胸の中で眠っている真太郎。

2人して上半身裸。何してたの?

男はしーって指を唇に持っていく。

「寝ちゃったんだ。ごめん。部屋に連れてくよ。俺は帰るから。」

男は真太郎を軽々抱き上げて、

「やっさん〜もう少しだけ〜。」

と、寝言のように言う真太郎を部屋に連れてった。

もしかして、私、見てはいけない物を見た?

リビングには、無造作に置かれた紙袋の中に、いくつかのチョコレート。

全部、本命なのだろうか。そう思うほど、はた目には豪華に見えた。

ひとつだけ、テーブルの上にある。

あの男が持ってきたの?

「手作り。」

透明のラッピングと、赤いリボン。いびつなチョコレート。

あの男が作るわけない、か。

「やっさん〜ひとりにすんな〜。」

ドアが開いているのか、2人の会話が聞こえる。

「はいはい、さみしい時だけ呼び出される俺は、お前の何なのかね。」

「やっさん、意地悪。」

「事実だろ?相手してらんねぇよ。」

「だぁって、やっさんしかいねぇもんよ。悪りぃか。」

「どの口が言ってんだ?」

「この口〜やっさんやっさんやっさん」

あ、キス、してる?

リビングから動けなくて、気配を消して、男が帰るのを待つ。

「お前、」

「お前じゃなくて、名前あるんだけど〜。」

「いつもそれだな。」

帰り支度をしているのか、音がする。

下世話な好奇心で、そっと玄関を覗いていた。

「一度も俺ん事、名前で呼んでくんねぇじゃん。」

「例えば、ぬいぐるみに名前つけたら、愛着わくだろ。嫌いなんだ、そういうべたついた事。」

「嘘つけ。女の名前なら呼ぶくせに。」

「お前とは違うからな。」

「俺は、ぬいぐるみ?俺には感情があるのに?」

「だぁから、来たじゃんよ。お前馬鹿なの?」

「待って。待って。やっさん。」

「待てと言われて待つ男なら、お前は呼ばないだろ。」

「やっさん〜ほんとに〜あと少しだけ…そばにいて。」

男が玄関に現れた。予想外にきっちりしたスーツとビジネスバッグという格好。

革靴に足を入れると、こちらを振り返った。

優しい眼差しに、目をそらせなくて、かたまった。

「ごめんね。お邪魔しました。鍵、お願いします。」

コクコク頷くと、男は会釈ひとつ、何のためらいもなく、帰って行った。

ひっそりと足音を消して玄関に行き、鍵をかける。

「あの、匂いだ。」

真太郎と男は、同じ香りが、した。

玄関に残された男の痕跡は、私が思うより、重く深いものに思えた。

真太郎の部屋はもう閉まっていて、眠っているのか、布団の擦れる音しかしなかった。

私は千栄ちゃんと、お互いが望む時間を過ごしていたけど、真太郎はあの男と、不特定多数の女の子と、今日を過ごしたのだろうか。

女好きと公言する真太郎に、まさか、あんな相手がいたなんて。

年上、長身、筋肉質、ビジネスマン、やっさん。

こんな事、誰にも言えるわけがない。

次の休みにでも、久しぶりにゆっくり真太郎と話をしようと思った。

私は、千栄ちゃんのおかげで、自分がなりたかった自分の居場所を少しの時間でも見つけられた。

これから、どんな道を選ぶのかは、自分次第だ。

あの時、千栄ちゃんを連れて帰らないという選択をしたように、私はこれからも沢山の事を選択していかなければいけない。


冷蔵庫のカレンダーに2人して休みと書き込んでいる日に、1日空けといて、と付け加える。

真太郎は何を思っているのか、やっぱり私と距離を取り、休みだって空けてくれるかわからずにいた。

ただ、千栄ちゃんの事は、原先輩から聞いて安心した。

「バレンタイン、本命とラブラブデートしたらしいよ。結局、フラれたみたいだけど。」

ええ、私、千栄ちゃんを抱く覚悟がなかったんです。

「でもね!次の日、大学行ったら!なんと!衝撃的!」

原先輩は胸の前で手を組んで、乙女なポーズ。

「まさかの逆バレンタイン!しかも雑誌で人気ナンバーワンのバレンタイン限定リングと高級ブランドチョコレート!やばいよねー。全然ノーマークでも揺らぐよねー。」

「どうなったんですか?」

「とりあえず付き合うらしいよ。」

とりあえず?とりあえず。そうか、大学生には、とりあえず、というグレーゾーンがあった。

「千栄ちゃんいわく、まぁまぁチャラい男だけど、真ちゃんよりマシだし、私を見つけてくれた人を信じてみる。だってさ。褒めてんのか、けなしてんのか、わかんないよねー。」

私を見つけてくれた人、その言葉が全てなような気がした。

千栄ちゃんは、一番に選ばれて、一番に愛される居場所を、見つけたのだ。

「私、どうしよっかな。」

「浅井は、真太郎くんと向き合ってみなよ。昨日、真太郎くんから死にそうな声で電話あって、笑っちゃった。よくわかんないけど、柚乃にどんな顔していいかわかんねーとか言って。まぁ、馬鹿だけど憎めない男だね。」

原先輩に電話するより、私に言ってよ、って思ってしまった。

私達が見ないふりをしていた過去は、もしかしたら現在とイコールで、もう逃れられないのかもしれない。


休日なのに、朝から起きてリビングでテレビを見ていた。

真太郎を、待っていた。

チョコレートは、紙袋とテーブルにそのまま置かれていて、私にはどうにもできなかった。

昼過ぎに真太郎が起きてきて、コーヒーを入れて隣に座った。

「何?」

機嫌悪そうな声。沈黙。

ケンカ、チョコレート、やっさん、何から切り出していいのかわからない。

「ごめん。うまく言えない。」

「うまくなくていいから、話してくれませんか。大体わかるけど。」

「ケンカした夜、抱きたいのか、抱かれたいのかって言われて、私、わからなかった。女の子目の前にして抱かなかったから、もしかしたら抱かれたい方なのかも。チョコレート、こんないっぱいどうしたの?これ、テーブルのやつ、本命なの?やっさんって誰?どんな関係なの?」

やばい。真太郎のため息が、重い。

「柚乃は、初めての相手に俺を選んだじゃん。俺も初めてだったけど。あん時、俺がもっとうまくやってりゃ怖いなんて思わせずにすんだのかな。」

大学に入りたての話だ。

真太郎がテーブルの上のチョコレートを手に取り、差し込んであるメッセージカードを読んだ。

「紙袋のチョコレートは、遊びに出た先で適当にもらったやつ。これは、やっさんの忘れ物。多分、ド本命。でも、やっさんは忘れたんじゃなくて、置いてったんだと思う。やっさんはここに住み始めてから知り合った、バイ?ゲイ?ではないか。俺以外とはしないらしいから。よくわかんないね。」

やっぱり、そういう関係だったんだ。

自分は恋愛対象女の子ですって言ってたのに、同居人にそんな気配があると、動揺する。

真太郎は、コーヒーを飲みながら、少し笑った。

「全人類に負けた気がした。柚乃が俺と寝てすぐビアン宣言したじゃん?あー、俺は永久に、ない、けど。そこらへんの奴等はみんな柚乃とどうにかなる可能性があんのかー。俺は他の男と戦うんじゃなく、地球上の人間全員から柚乃を勝ち取らなきゃなんねぇのかー。ま、終わった後に、真太郎とは、もうない、って言われてたし、一生勝てないのかーなんて。」

あれ?これ、告白されてるの?

「私、真太郎の事、嫌いじゃないよ?」

「嫌いじゃない。そうだろうね。でも好きじゃない。いつも俺はその狭間にいるわけ。柚乃も、他の女も、やっさんも。俺の事、嫌いじゃない。だから、一緒にいるし、寝たりする。それって、千栄が言ってた、選ばれない人、ってわけ。」

乾笑いをする真太郎を見ていると、涙が出た。もうひとりの自分がいたから。こんなに近くに、私がいたから。

「泣くなよ。やっさん家に入れたのは、あの日が初めてだよ。隠したくて、ずっと外で会ってたから。どうしようもなく、さみしい時、コドク?な時、それ以外は何にもなくなった時、やっさんに連絡してた。理由はないけど。理由は、ない、けど。やっさんにだけ、ボッロボロの惨めで情けない姿を見せれた。」

あれ?私が好きじゃなくて、やっさんが好きなの?

「つまり、」

真太郎がマグカップを置いた。じっとこっちを見てる。

寝起きでボサボサの髪の毛、ヨレたスウェット、弱々しい姿。

「お前、俺の事、好きでしょ?」

なんでそうなるの?ここは、自分の気持ちを吐露してくれる場面じゃないの?

「嫌いじゃない。」

少しトゲのある言い方になってしまった。

「素直じゃない。」

そう言うと、怒ったのか、真太郎は自分の部屋に帰ってしまった。

これって、何にも解決してない?

やっさんとの関係を事情聴取しただけ?

真太郎の部屋をノックする。

「いませーん。」

構わず開けると、ベッドに寝転がっている真太郎。

「いるじゃん。」

「いるよ?いつも柚乃のそばにいるよ?今まで、柚乃にとって最高の日も最悪な日も普通の日も、そばにいたよ。っていう自己満足に浸ると、もう心ん中コドクでコドクでコドクで」

たまらず、真太郎の上に抱きついた。

ゴツゴツしてる。

ずっと見てた、真太郎の喉仏、そっと撫でてみる。

胸がぎゅっと痛くなる。

「私、ずっと、真太郎に触りたかったんだね。」

「俺は、そばにいる。地球が滅亡する日まで、お前のそばにいる。お前が俺に目もくれずに出てく日も、他の誰かと笑ってる日も、俺を必要としない日も。」

どうしてそんな大事な事を、今まで黙ってたの?どうしてそんな苦しい思いを押し殺してたの?

「つまり?」

もう、涙が止まらない。笑ってる真太郎の顔が滲む。

「嫌いじゃない。」

自分が言った事なのに、言われてみると、かなりグサッとくる。

真太郎の上で、私はぐったりしているのに、抱きしめられる。

真太郎って、こんな腕長いんだな。私が、すっぽりおさまる。

くるりと体を回され、真太郎の下じきになった。

「バレンタインの夜〜男んなって、誰といちゃいちゃしたんだ〜吐け〜吐け!」

ケラケラ笑う真太郎は、全然怒ってないし、深刻でもなかった。

全ての流れ、真に受ける事じゃなかったの?

「千栄ちゃん。キスはしたけど、最終的に私が怖気付いた。」

「そ、か。千栄ならいいや。あいつ彼氏できたらしいし?」

いいの?私は真太郎とやっさんの事、よくないのに。

真太郎がスウェットを脱ぎ捨て、上半身裸になった。

これってこのまま流されてしまうんだろうか。結局、真太郎は誰が好きなの?

「真太郎はここでやっさんに抱かれたの?」

きっと、真太郎の心を折るには十分な言葉だと思った。

私にまたがったままの真太郎は、少し笑って、私の頬をつねった。

「痛いよ。」

「ここで、やっさんに、抱かれた。で?それが何?」

真太郎の手を振り払うと、ベッドサイドに灰皿がわりにされた小皿があった。

真太郎は吸わない。吸わない。

「その吸殻、やっさんの…」

なんだろう、悲しい。勝手に裏切られた気分になっている。

初めて真太郎に抱かれた時、真太郎が悪いんじゃなかった。男って生き物は、右手の中指からぐるうっと左手の中指まで、世界、を持っていて、自分がその中で、自分じゃなくなってく感覚が、怖かった。

だけど、真太郎はやっさんの、世界、にいた。自分から、望んで。

「ごめん。」

もう、言葉が出なかった。

「今、そのセリフ反則。」

真太郎は、バーンって私を打つ真似をして、崩れ落ちてきた。

「ごめん。」

泣き出した私に背を向けた真太郎が、吸殻を指でつつく。

「俺がお前を想った月日は、こんな小さな吸殻で吹っ飛ぶんだから、やってらんねぇな。ま、身から出たサビには間違いないけど。」

素肌の真太郎の背中は、やっぱりゴツゴツした男の人で、私は触れられなかった。

ごめんね、真太郎。私、あなたが好きだった。好きで好きで、全部許せないし、全部取り戻せはしない。


「だるいなぁ。」

私の話を聞いた千栄ちゃんの第一声。

かなり真剣に、話したのに。

「大体、ユズの思考回路がだるいよ。とりあえず、真ちゃんと寝てから考えたら?やっさん?とはもう会わないかもだし。大体、やっさんには本命チョコの女がいるし。」

なんで私、怒られてるんだろう。

千栄ちゃんはバッグからバレンタインレッドのルージュを取り出した。

「魔法かけてあげる。」

千栄ちゃんは、慣れない手つきで私の唇を染めた。

「何の魔法?」

「真ちゃんの顔見たらわかるよ。じゃ、明日デートだから、また。」

千栄ちゃんは、よくわからない魔法をかけて、帰ってしまった。

真太郎の顔を見たら、どうなるんだろう。

リビングでコーヒーを飲みながら、真太郎と過ごした日々を思い出す。

大学は、色んな人がいて、ちょっと怖いけど、なんだか期待に満ちた場所で、真太郎は目立たないけど、いつも誰かといる人だった。

私を、みんなの輪に入れてくれたのは真太郎で、言葉は少なかったけど、お互いきっと好きだった。

初めて同士、緊張したし、不安だったし、うまくできなかった。

私は真太郎の腕の中にある、真太郎の世界が怖くて、もうない、って言ったきり、その事には触れず、なかった事にしたかった。

真太郎のまわりにいる男友達みたいに、私もそうなりたかった。

真太郎を、羨んでいた。絶対的に男な真太郎を。

多分、だから私は真太郎の目になりたかったし、腕になりたかったし、言葉にもなりたかった。

そうやって、真太郎と同じように女の子を好きになりたかった。

真太郎は付かず離れず大学を卒業するまで友達だったし、就職してからは、いい同居人だった。

余計な干渉はしないけど、楽で甘えられる。

薄い壁一枚を隔てて、自分の世界と真太郎の世界が隣り合わせな事が、とても心地よかった。

でも、昔も今も、真太郎の本音は知らない。

もうない、って私が拒絶した時、友達に戻った時、一緒に住んでいる時、真太郎が私に何を思って、どうしたかったのか。

玄関の鍵が開く音がした。

マグカップを置いて立ち上がる。

真太郎はいつも通り座ってブーツを脱ぎ、こちらを振り返った。

「ただいま。」

立ち上がった真太郎は、ちょっと疲れた顔で笑った。

真太郎は自分の唇を指でとんとんと指すと、私を指差した。

ゆっくりと真太郎が近づいてくる。

私は真太郎の右手の中指から、左手の中指までを、視線でなぞった。


世界を、赤く塗り潰した。


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