第10章 海水浴だ
海である。心地の良い波音に聞き入りながら、僕たちは浜辺で海と戯れている。次郎丸や中万華はもちろん、マモル、ユリちゃん、アユも一緒だ。木田は旅行に行ったんだとか。まぁ、どうでもいいけど。
さて、冒頭からいきなり海であるといわれたところで、読者の方々を置いてけぼりにするだけだろう。まずはそのいきさつを聞いてほしい。
――
暑い。『オーサ・ダハル』から帰ってから、僕や次郎丸は存外平凡な日常を過ごしていた。神様や精霊と共に生活をしていても、非凡な毎日が送れるかといえばそうではない。僕が今まで体験した出来事なんて、普通の生活に少しスパイスを利かせた程度のものなのだ。とかく、今回に至ってはそのスパイスもない、無味乾燥な感じなのだが。
宿題は終わらせた。あとは遊ぶだけ。そのはずなのに、どうも良い計画が浮かばない。いつもテレビの前でうなだれるだけだ。それは次郎丸にも言えること。彼は朝から夏休みアニメ劇場内で再放送される人気幼稚園児アニメを見て、そのまま昼までグータラする。中万華はそんな次郎丸の横でにこにこ笑いながら体育座りである。彼女は彼の隣にいるだけで満足なようだ。
ある日の昼。僕は家族で昼食を食べていた。地味に納豆が好きな次郎丸はいつものようにそれを百回かきまぜている。一日三パックは常人からしては多い。だがキャラクターの個性としては激しく微妙な量である。
「何かよう、最近俺ら何もしてねーよな」
次郎丸がため息まじりにそう言った。納豆をかきまぜる手は止まっている。
「確かにそうですよねぇ。何だか家にこもりっきりって感じで」
僕も昼食の箸を止める。次郎丸も僕と同じように退屈を感じていたようだ。中万華はホカホカと湯気の上がるカレーまんを一口ほおばった。
「私は次郎丸さんの隣にいるだけで幸せ」
膨らんだ頬が赤みをおびる。次郎丸が言う。
「ていうかマンカ。それは肉まんの精霊としてどうなんだ? 共食いみたいな感じか?」
「何言ってるの次郎丸さんっ。これはカレーまんよ? 何の問題もないわ」
当たり前でしょ、という空気をかもす中万華。そういえば精霊の話をまだあまり聞いたことが無い。また今度聞いてみることにしよう。
「まぁ、それはそれとしてですよ。どこか行きません? このまま家に引きこもるのもどうかと思いますし」
僕は特にアウトドア派というわけではないが、やはり何日も外に出なければ外の空気が吸いたい、くらいは感じる。次郎丸は唸りながら納豆にたれを入れた。
「やっぱあれだよな。肝試しは早々とやっちまったし。他に夏らしいのって言ったら……」
中万華が言う。
「夏と言えば……セミ! セミ園なんて夏らしい気がする!」
「いやいやマンカさん。そこでハッスル出来る自信はありますか?」
僕が言うとこちらに分かるように大きく舌打ち。本当もう何か泣きそう。次郎丸も続く。
「お前、セミなんてうるさいだけだろうが。裏側キモイし。ハッスルするならソープランドしかねぇだろ」
「どんなハッスルをする気ですか! しかも夏関係ないし!」
次郎丸は腕を組み、上からをものを言う。
「俺のハートが夏の暑さのように燃え上がる」
「知らねーよ、あんたの胸の高ぶりなんて!」
僕が言うと次郎丸はテレビに目をやった。その右手では納豆を無意識にかき混ぜているようだ。段々と早くなる箸の回転速度。彼は何かをひらめいたのか、その箸に急ブレーキをかけた。
「そうだ、海行こう! ていうかなんか臭っ! 今まで気にも止めなかったのに納豆が不意に臭っ!」
いきなり騒ぎだした次郎丸に対して、親父は味噌汁をすすりながらなだめるように左手を差し出した。何故だか声の震える親父。
「ま、まぁ落ち着いて下さい神田林さん。海ですか、それもいいけれど、やっぱりソ、ソープランドでいいんじゃないだろうか」
「いや、行きたかったのかよ親父! ていうか声震えるほど恥ずかしいなら意見するなよ! 息子の前でそんなみだらな部分見せるなよ!」
次郎丸は僕と親父のやりとりを冷然と眺め、納豆を一口食べた。
「まぁ、それはそれとしてだな。良いじゃねぇか海。最近体もなまってんだ。泳いで、水着の女見て、その辺鍛え直さねえとな」
「いや、水着の女の子を見ることで鍛えられるものって何なんですか。それただの心の黒い部分でしょうが」
「まぁまぁ、いいじゃねえか。何と言おうとも俺は海に行くぞ」
次郎丸の行くところ僕在り、といった感じ。彼には結局のところベーコンの歌というものがあるわけで、僕の意見なんて参考ていどにしかしないわけで。
僕はみんなに連絡をした。海に行くのに誰も誘わないなんて、遊び盛りの中学生には不可能な話なのだ。
――
さぁ、海である。ここは去年の夏、アユが見つけた人のいない、いわばプライベートビーチだ。波に反射した太陽の光がゆらゆらと何度も姿を変えている。海岸の周りを腰の高さ程度の崖に囲まれていて、そこには草木が生い茂る。大人に見つからない最高の遊び場だ。
さて、ここからは僕の独断と偏見の入り混じった水着審査と行こう。
女子チームの水着姿で一際大きな輝きを放つユリちゃん。白いフリルのついたセパレート。その姿はまさに天使。背中に大きな翼でもあれば絵になる。いつもより呼吸が深くなる僕。とりあえず心の中でガッツポーズだ。アユは何だか子供っぽい柄もの一体型。可憐とかいうよりは、元気いっぱいってな感じである。中万華は何故だか、スクール水着だ。正直僕自身こっちの趣味はないのであまり触れないでおく。あえて一つ言うなら、若干引いた。男子チームはというと……。僕とマモルは普通のひざ丈海パン。次郎丸はそこにTシャツを着ている。そのTシャツには大きく『海の男』と書かれていて、今日ぐらいしか着るときが無いんだろうなと思わされる。水着審査、優勝は有無も言わさずユリちゃん。はじめから分かりきったことなんだろうが、一応だ。
「心地良い、潮風。涼やかなメロディを奏でる波の音。ほらな、やっぱ海に来て正解じゃねえか」
と次郎丸は女子グループを凝視する。
「そんなポエミーな言い訳いいですから。やっぱり次郎丸さんはロリコンだったんですね」
「何を言ってんだアツシ。男は皆その生涯をかけて運命の女に愛を語るポエマーなんだよ」
「いや、もう本当そういうのいいから。次郎丸さんは自分を一体どうしたいんですか。どういうキャラを目指してるんですか」
僕たちはビーチボールをしたり、水を掛け合ったりとなんだかんだ楽しく過ごしていた。久しぶりにみんなとはしゃぐのはやはり良いものだ。そして何より、僕はユリちゃんを眺めてるだけで結構嬉しいのだけど。あ〜やばい、何かテンション上がってきた。
一時間程経って、少し疲れたのでしばらく浜辺でぴちゃぴちゃとじゃれていると、次郎丸が不意に言った。
「よし、男子チームで泳ぎ勝負すっか。あのブイにタッチして先に戻ってきた奴が勝ちだ」
「あ、それおもしろそうっすね、先生」
次郎丸の提案にマモルは賛成した。僕も同様だ。女子チームの黄色い応援を背に、僕たちは海に足を入れる。中万華のよーいどんというかけ声で僕たちは一斉にスタートした。
結果 一位 マモル。二位 アツシ。三位 次郎丸。
少しの時間、誰も言葉を発さなかった。次郎丸は一人沖の方を向いて体育座り。その背中にあるのは哀愁なんて格好良いものじゃない。僕は次郎丸の背中越しに言った。
「あ、あの……次郎丸さん」
「え? 何? 別に俺泣いてないけど。言いだしっぺがビリとか最悪、みたいなこと一切思ってないし」
「いや、すさみ方がすごいよ。大丈夫ですから、そんな高かが遊びで」
次郎丸がえらく小さく見える。
「うっせーな、ほっとけよ。マモルはともかくお前にまで負けたんだぞ。もう絶対笑われてるわ。もう気とか使わないでいいから、高笑いしろよ。甲高い声でみじめな俺を笑えよ。ハーハッハッハ!」
「ちょ、己で高笑いはやめましょ。自分を否定しちゃ駄目」
気を使ったのか、次郎丸の周りにみんながやってきた。
「で、でも先生も速かったですよ!」
「すごいなぁ! 私はあんなに速く泳げないよ!」
「先生ってマジで格好良いから泳ぎとか不要だよね!」
「そんなギャップが更にそそるわ!」
「……でも、空気を乱した」
次郎丸が勢いよく立ちあがりこちらに向き直った。目と鼻にかけて何となく赤みが。
「今なんか本音言った奴がいたぁああ! やっぱもう俺ダメじゃん! 誰だよ! 今俺をカオスへと導いたのはどこのどいつだよ!」
私、と声が聞こえた。次郎丸がきょろきょろと辺りを見回す。僕たちもつられてそうしたが、どこにも姿が見当たらない。
「ここ」
僕はその声を追って、次郎丸の足元を見た。そこには、身長が彼の腰ほどにしかない幼い少女が立っていた。
「はじめまして。私、ヒナタ」
淡々と述べられた彼女の名を聞いて、僕たちは一斉につぶやいた。
「……どこのお子さん?」
――
ヒナタと名乗った少女は何かに不服そうな面構えだった。というか、金銭面に不服がありそうだ。彼女はどこかの小学校の指定ジャージを身にまとっている。カーキ色のそれに、同色のひざ丈すらない半ズボン。胸には大きく『3−2』と書かれた白いワッペンが。ジャージのサイズが少し大きいらしく、袖からは指がほんの少しのぞく程度しか出ていない。腰まである長い髪は、無造作にはねまくってる。ひどく痛んでいるようで、光が当たると赤く反射した。前髪はもう目にかかりそうだ。で、その目は何だか眠たげな感じ。実際には大きい目なんだろうけど、それを半分しか開いていないのだ。やる気がないのか、何なのか。靴も履いていない裸足スタイル。とにかく、一回落ちぶれてしまった感が抜群の少女だったのだ。
「えっと……ヒナタちゃん。お父さんやお母さんはどうしたのかな?」
ユリちゃんはしゃがんで、少女と目線を合わせると優しい笑顔で言った。少女は表情を一切くずすことなく答える。
「……両親は、いない。でもお兄ちゃんがいる」
とにかく不思議な子だ。その真実だけを伝える淡々とした口調。子供ならもう少し感情的になってもおかしくはないと思うのだが。僕はユリちゃんと同じようにヒナタちゃんと目線を合わせた。
「じゃあそのお兄さんはどこにいるの?」
「私が怖いから、どこかに行っちゃった」
怖い? こんな小さい女の子を放っておいてなんてざまだ。次郎丸が頭をぽりぽりとかく。
「迷子か。しゃあねぇ。おい、ヒナタ。お前の兄貴探してやるよ。んで、俺達んとこに二度と来んな。これ以上俺の傷口を広げるな」
「分かった、北島康介さん」
「……おい、何かこの子気ぃ使ってくれてるんだけど。何か自分がすごく大人げないんだけど」
次郎丸の提案により、僕たちはこの子のお兄さんを探すこととなった。まぁ、ただ遊ぶよりはおもしろいかな。
僕たちはヒナタちゃんの歩く速さに合わせて、ゆっくりと砂浜に足跡をつけていった。履いていたビーチサンダルの中に嫌な感触の砂が入りこむ。そういえば、ヒナタちゃんは裸足だったっけ。
「ヒナタちゃん、足、何も履かなくていいの?」
僕は彼女の少し前から首だけ振り返って言った。彼女はしばらく僕の目をじっと見つめ、口を開く。その時も彼女が表情を変えることはない。
「私は裸足が好き」
何だかあっさりとした回答だと思った。彼女はそう言ってから一度地面を見て、こう続ける。
「……だって、大地からのオーラを直接受け取れるから」
何だか電波を放っている回答だと思った。
「オ、オーラ? ヒナタちゃんはオーラを受け取ってるの?」
ヒナタちゃんの顔に暗い影が浮かび、ひそりと口元をゆらす。
「私だけじゃない。あなたも、他の人も。みんな色んなものからオーラを受け取ってる」
どうしよう。何だかこの子が怖くなってきた。僕は何も聞かなかったことにして前だけ向くことにした。ヒナタちゃんのお兄さんが早く見つかりますように。
「おい、ヒナタ」
僕が前を向くことだけ決めた時、次郎丸がヒナタちゃんを見下げながら言った。
「何? マイケル・フェルペスさん」
「うん、何かそんな純粋な優しさに触れたら俺泣きそうになるから。いや、そうじゃなくてな。何でまた兄貴がお前のことを怖いなんて言ってんだ?」
次郎丸が率直に聞く。何となく怖い理由というのが分かってしまう自分がいるのだが、というか現在進行形で僕自身彼女に恐怖を抱いているのだが。
「私が……変な力を持ってるから」
彼女は小さな歩幅で歩きながらそう答えた。『変な力』と呼ばれる力には今までに触れたことがある。次郎丸のベーコンの歌なんかがそうだ。だから、もう変な力なんて聞いても驚かない。次郎丸のように全知全能な能力以上のそれがあるとは思えないからだ。
「で、どんな力なんだ?」
と次郎丸。あくび混じりに放たれたその問いかけに、ヒナタちゃんはまたも一切表情を変えることはない。
「……人間の心が読める」
僕と次郎丸以外のみんなは絶句していた。アユに関しては次郎丸が特殊な能力を持っていることを知っているはずなのだが、馴染みの薄さということなんだろうか。とはいえ、次郎丸のように神ではないこのヒナタちゃんに、本当にそんな力があるのか疑問である。マモルが困った表情でヒナタちゃんに目を向ける。
「そ、それってどういうこと? どうやって心なんか読むの?」
ヒナタちゃんはその歩みを一向に止める気配が無い。
「……日本にいる人の考えてることが分かるの」
ヒナタちゃんの述べるその口調は子供にしてはあまりに単調で、嘘をついているようには見えなかった。いや、そんなことより……。
「日本にいる人!? 範囲広っ! ヒナタちゃん、それは嘘だよね!? いくらなんでもそんな広域プライベート流出事件はありえないよね!?」
僕は全開でシャウトした。ヒナタちゃんはそれにまったく動じない。
「間違えた。全部は分からない。私が噛んだ人の心が分かる」
次郎丸がサンダルにたまった砂を落としながら言う。
「噛んだ人? つーことは、もしヒナタがアツシを噛んだら、アツシの考えてることが分かるのか」
「分かる」
そこまで聞くと、次郎丸は僕の方を見てほくそ笑んだ。嫌な笑顔だ。
「い、いやちょっと。僕は嫌ですよ。そんな、心を読まれるなんて……」
「何だ? お前はつねにいかがわしいこと考えてるってことか? まぁ、そうなら仕方ねえけどよぉ〜」
なんてムカつく笑顔なんだ。今すぐぶん殴りたい。あんな万年いかがわしいことで頭がいっぱいの男にこんなことを言われるなんて。
「……分かりましたよ。噛まれりゃいいんでしょ、噛まれりゃ」
次郎丸はヒナタちゃんに僕の心を読むように説明する。他のみんなはそんな様子をサーカスでも見るように意気揚揚と眺めるだけだ。マモルくらいは止めてくれるかと思ったんだが。みんな心が読めるということ自体を信用していないみたいだ。子供の遊びに付き合う僕を、暖かく見守っているということか。
「よし、いいよヒナタちゃん」
僕はしゃがんで、右腕を彼女の眼前に突き出した。彼女は僕の右腕をまじまじと見つめる。そして、人差し指だけを選び、それをくわえるように噛みついた。傍から見ると最低のロリコン野郎に見えたりするかもしれない。断言しておくが、僕はどちらかと言えば年上好きだ。
「わひゃっひゃ」
僕の人差し指をくわえたまま、ヒナタちゃんは言った。そのセリフが『分かった』と言っていたということに、少ししてから気がつく。
「で、アツシは何を考えてたんだ?」
次郎丸は今にも吹き出しそうな笑いをこらえている。ヒナタちゃんは口を僕の指から離した。
「この人は……年上好きで、髪フェチ。あと、芸能人では伊東美咲が好きで、少しマゾ」
何てことだ、当たっている。当たっているけど。
「何で性癖限定ぃいいい!? 心を読むって言うかそれ僕の性癖を言い当ててるだけじゃん! 何これ! ものっすごい恥ずかしいんだけど!」
僕を中心に爆笑が巻き起こった(主に次郎丸と中万華)。中万華がヒナタちゃんの肩に両手を乗せて言う。
「ねぇ、ヒナタちゃんっ。今度は私を噛んで。出来るだけ強く」
「いや、あんたは己のマゾ欲を満たしたいだけでしょうが! ていうかマンカさんの性癖なんて誰でも知ってるよ! 今さらだよ!」
中万華が僕を勢いよく指さした。
「何よ! あんたも同じマゾヒストとして共感しなさいよ!」
「何ヒナタちゃんから得たデータをもとにディベートしてるの!? 僕とあんたじゃ格が違うからね! 悪い意味で!」
中万華の攻撃に小さな勇気で対抗する僕。何とも器の小さい戦いだこと。もうこの件については触れないでおこう、そう考えてた時であった。僕の性癖診断を見て、ユリちゃんやアユ、マモルがヒナタちゃんの正面に列をなして並んでいるのだ。順番待ちとは、えらい人気の性癖診断である。いや、それはどうでもいい。まずはアユがヒナタちゃんに右手を差し出した。
「さ、噛んで噛んで。もうばっちり言っちゃってよ」
ヒナタちゃんは聞くと、無言でアユの人差し指に噛みついた。ゆっくりと口を指から離し、彼女は言う。
「あなたは筋肉が好き。自分にも欲しいと思ってるくらい」
「わ、当たってるよ。すごいねヒナタちゃん。その白い歯は清潔感たっぷりだよ」
「……そこを褒められたのは初めて」
続いてヒナタちゃんはマモルの指を噛んだ。だが、彼にはまだ性癖というものが存在していなようで、見えない、の一言で片づいてしまった。正真正銘のピュアボーイである。で、次は気になるユリちゃんの番。僕は目線だけをそこにやり、腕を組んで、え? 別に興味ありませんけど? 的な態度で立っていた。僕の神経という神経は全て彼女に向いている。
「ヒナタちゃん、お願い」
ユリちゃんはそう言って右手を出す。こくりとうなづいて、彼女の指に噛みつくヒナタちゃん。僕は心に何が来ても破れない、強固な壁を作っていた。どんな砲撃にも耐えてみせる、むしろ受け止めよう。さぁ、来い!
「何でだろう……ドラム式洗濯機しか分からない」
音をたて崩れ落ちる壁。ユリちゃんは目をまん丸くしてつぶやく。
「……やっぱり」
「待ってユリちゃん! 何でちょっと納得してるの、ドラム式洗濯機だよ!? それが性癖なんだよ!?」
壁の残骸はツッコミにその姿を変えて僕の口から射出された。
「うん……でもねアツシ君。私は家電製品好きだし。あり得るよ」
僕は口ごもってしまった。そんな真顔であり得るよなんて言われてしまったら何も言えないじゃないか。黙り込んだ僕の周りでは、そんな僕とは正反対にわいわいと楽しそうな声をあげている。何だか居心地が良くない。
「あ、あの、僕ちょっとトイレ行ってきます。みんなはヒナタちゃんのお兄さんを探してあげて下さい」
僕は次郎丸にそう言うと、彼の返事も聞かないまま海岸を囲む森へと駆けた。
僕はもともと下の話が好きではない。教室の隅で固まって国語辞典を開いている男子なんかを見るとため息さえ出るのだ。そんな僕の周りで始まってしまった性癖談義。荷が重いったらしょうがない。ただ、楽しんでいるみんなの空気を乱すのも嫌だ。だからトイレなどという嘘をついた。方便として捉えて頂けると有難い。
僕はしばらく木陰に身を隠すことにした。潮風で葉の育ちが悪い、小さな木だ。僕がこうしている間に話の流れが変わっていることを祈る。僕は安堵だか、何だかでため息をついた。すると、何故だかそのため息が二重になって聞こえてきた。僕はとっさに近くに人がいることを悟ったのだ。そして、その気配は僕のもたれかかるこの小さい木の反対側にあることが感じ取れた。僕はほんの少しの好奇心に身を任せ、木の裏を覗きこむ。
「はぁはぁ、ヒナタぁ。なんて愛らしいんだヒナタぁ」
ほんの少しの好奇心は、大きな恐怖へと姿を変えた。
「変態だぁああ!」
僕はいつものクセでついつい大きな声を出してしまった。僕の指さす先には、ヒナタちゃんの写った写真を見て息を荒げる男がいた。その姿は、ブリーフ一丁に、上は学ランという場合によっては、否。場合によらなくても即逮捕されるような格好であったのである。
「え? ちょ、誰が変態なの! 吾輩!?」
「うわぁあ。一人称が吾輩なんて変態以外の何者でもないよ絶対!」
「き、君! 落ち着きたまえ! 吾輩という一人称が変態ならば、デーモン小暮さんはどうなるんだ! あの人は見た目はあんなだけど、相撲協会の重役だぞ!」
僕は彼の言葉で正気を取り戻した。何より、デーモン小暮さんを否定してしまった自分を反省である。
「す、すいません。普段は滅多なことでは驚かないんですけど、その格好に第一声があんなのだったんで」
今思ったが、僕が変態だと叫んだことは間違いではなかったんじゃないだろうか。彼の服装は変態と呼ぶにふさわしいものだと感じるし、息を荒げながらなんて愛らしいんだヒナタ、なんて言っていれば、僕でなくても驚くはずである。ん? ヒナタ?
「あ、あのすいません。もしかしてあなた、ヒナタちゃんのお知り合いですか?」
ブリーフ学ラン男は満面の笑みで答えた。
「えぇ! 吾輩、ヒナタの兄、三車院太陽と申します!」
名前も容姿も、僕に喧嘩を売っているんだと思った。
僕は目の前に現れたヒナタちゃんの兄を名乗る男に困惑していた。何が彼をこうさせたのだろう。僕は額に浮き出る汗に不快感を覚える中、彼に話を聞くことにした。
「あ、あの。あなたがヒナタちゃんのお兄さんだとして、どうして彼女のところへ行ってあげないんですか? ていうか何があったらそんな格好になってしまうんでしょうか」
三車院太陽は先ほどまでの笑みを消し、うつむいた。何やら暗いオーラを身にまとい、全身から反省の念をかもしだしている。
「吾輩たち兄妹は、ほんの少し前まで日本三大財閥が一つ、三車院家の跡取りとして幸せな生活を送っていた」
僕は驚愕した。そう言えば、テレビなんかで何度か聞いたことがあったのだ。日本三大財閥、現代日本において国内の総資産の約十分の一を保持するとされる三家。その力は絶大であり、裏社会のまとめ役とも言われている。その一つ、三車院家。
「ちょっと待って下さい! 信用できないですよ、そんなこと急に言われたって」
彼は学ランのポケットから紙切れを取り出した。新聞の切り抜きのようである。そこには、『日本三大財閥 三車院家没する』という見出しに、一枚の家族写真が載っていた。そこに写っているのは、今よりも随分と着飾られたヒナタちゃんと、目の前の男、そしてその両親と思しき人物である。僕は信用せざるを得なかった。
「吾輩たちの家は、日本三大財閥である王志楊家と、真雲天家にハメられた。彼らは吾輩たちが邪魔だったんだ。詳しい事情は聞かされていないけどね」
僕はただ聞いているだけだった。彼の言葉から憎しみは感じない。
「両親は失踪、残された吾輩とヒナタは家をなくしてしまった。いわゆるホームレスというやつだ」
頭の中で合点がいった。ヒナタちゃんや、この男の服装なんかのことだ。
「一か月前、そんな吾輩たちの前に不思議な奴が現れた。何でも、プレーンヨーグルトの精霊とかいう奴で、そいつはヒナタに一つの能力を与えた。それが、あの他人の性癖を読み取る能力だ」
精霊という言葉に僕は驚いたが、顔には出さず、そのまま話を聞いた。
「あの、能力が吾輩たちの生活を狂わせたのだ。それまではまがいなりにも、この海岸で楽しく過ごしていた。だがいつか、私が実はヒナタのことが大好きで、ていうかもう好きすぎてヒナタの下着をなんやかんやしているのがバレてしまうんじゃないか、そんな恐怖に囚われて……」
「おい待てぇええ!」
僕は今まで黙っていた分を一気に爆発させた。
「今まで素直に聞いてやってたのに何だそれ! 精霊とか聞き流してやったのに何だそれ!」
「い、いやだって! 吾輩嫌われたくないし! 妹のこと超好きだし!」
自分のシスコンがたたって、妹に近づけなくなるとは。何とも馬鹿馬鹿しい状況である。滑稽という言葉がよく似合う。
「そりゃあ、吾輩だってヒナタのギュってしたいよ。でも前々からヒナタには噛み癖があったから、いつ噛まれるか分かったものじゃないんだ。もし噛まれでもしたら、吾輩は兄としてどう接すれば……」
僕は彼の言葉を聞くうちに、静かな怒りが込み上げていくのが分かった。妹が怖いから近づけない。噛まれたらどうする。ふざけるな。
「三車院さん。あんたは兄貴失格だ」
「え?」
「あんたは自分がかわいいだけだ。本当にヒナタちゃんのことを思ってるなら、自分が嫌われたって彼女を救おうとします。家族が崩壊した今、ヒナタちゃんにはあんたしか頼れる人がいないんだ。唯一の光が、太陽が顔を出さないで、どこに日向が生まれるんですか。あんな小さい子を一人放っておいて、兄貴面なんてしないで下さい!」
僕が言うと、彼は眼を泳がせながら僕の両肩を掴んだ。
「そ、そんなことはない! 吾輩はヒナタを愛してるんだ。これからの人生で、兄である吾輩がヒナタを護る。吾輩はヒナタのことを本当に大事に思っている!」
「……だったら、もうあなたには答えが見えてるはずだ。これから、兄としてどうするべきなのか」
三車院太陽は僕の言葉をしばらく理解できない様子で立ちつくし、やがてその目に涙を浮かべた。その場にくずれ落ち、頭を抱える。僕は三車院太陽に肩を貸した。
僕のいない間も、次郎丸達はひたすらにヒナタちゃんの兄を探しているようだった。僕が彼らの後ろ姿を見つけたのは、もといた場所から十分ほど歩いたところだ。僕は手を振りながら大声で彼らを振り向かせた。僕の隣にいるブリーフ学ラン男に驚きながらも、ゆっくりと僕らの方へ近づいてきた。
「おい、アツシ。誰だそいつ? 電話するか、警察?」
「こちらは、ヒナタちゃんのお兄さんで、三車院太陽さんです」
マモルがこれでもかというくらいに驚き、言う。
「えぇ!? 三車院って確か……」
「うん、説明する」
僕は三車院太陽とヒナタちゃんに起こった出来事を簡潔に伝えた。ただ、三車院太陽がヒナタちゃんのことを怖がっているとか、そういうのは抜きにして。
「ヒナタ、ごめんな。お兄ちゃんはぐれちゃって」
「別に怒ってない……」
そういうヒナタちゃんの頬はかすかに赤づいていた。静かな表情の裏で、喜びをあふれさせているのが良く分かる。三車院太陽は、しゃがみこみヒナタちゃんを優しく抱いた。
「ヒナタ……お兄ちゃんが何考えてるか分かるか?」
ヒナタちゃんが小さくうなづいた。今の三車院太陽の思いは、ヒナタちゃんが噛みつくなんてことをしなくても、誰もが理解できたのだ。『ヒナタを愛してる』僕たちが思いを伝えるのに、心を読む力なんてものは必要ない。ただ、強くそう思えば、それは確かに相手に伝わるのだ。僕たちはそんな二人をはにかみながら眺めていた。