第9章 神の世界だ
七月二十日、終わりの日であり、始まりの日でもあるこの日。僕達二年四組はイライラの中、文句も言わず列をなしていた。イライラの原因は様々だ。体にスライムの様にまとわりつく熱気。校長の永遠とも思える程長い話。中にはそれに耐えられない奴もいたりする。さっきも普段は目立たない奴が、学校中の注目を集めながら保健室へ抱えられて行った。こんな極限状態の中、思春期の少年少女が校歌なんてまともに歌うわけないだろう。学校側も勉強するべきだ。
ようやく終わった形式だけの終業式。いつもと対して変わらない通知簿ももらったし、後は担任の言葉を待つだけである。最中先生はコホンと一瞬の間を置き、汗のにじむ額を腕で拭いながら口を開いた。
「じゃ、みんな夏休み明けにな」
その瞬間訪れる歓喜。絶頂。ただ教室の中は静かだ。みんな心の中だけでその嬉しさを噛みしめる。委員長のやる気のない号令と共に、いつもより五時間も早く学校が終わった。
僕は暑さにやられた居候と帰路についていた。本当はみんなと帰りたかったのだが、部活やら塾やらが重なってたまたま僕たち二人だけになったのだ。セミの鳴き声がより体感温度を増長させる中、次郎丸が言った。
「そういや言ってなかったんだけどな。俺この夏休みに一回帰らなきゃいけねえんだわ」
「帰るって、どこにです?」
答えに何となく目星はついている。いくら暑くてしんどくても、相槌を忘れてはいけないものだ。
「そりゃお前、あれだろ」
次郎丸は空に向かって指をさす。
「あ〜、あれですか。天界とか、そんな感じですか」
次郎丸は眉間にしわを寄せ、意味が分からないといった表情で首を傾ける。
「あ、天界? あぁ、そーいやこっちではそんな呼び方もあったなぁ」
僕は察した。僕たちの想像する神の世界には、キチンとした呼び名が存在しているという事を。前に利理岡権田勇が『天界』という言葉を使っていたように思うが、恐らく僕に分かりやすく説明しようとしていたのだろう。
「呼び方違うんですね。なんて言うんですか?」
僕が言うと次郎丸は腕を組み、少し考えるような態度でこう返した。
「普通はオーサ・ダハルだけどな」
「王貞治……ですか? あの野球選手の」
「は? 違ぇよ。偶然だろ、どうせ」
世界は不思議がいっぱいである。僕たちが今まで天界とか、神の社、なんて認識していた神様の世界の名前が偉大な野球選手の名前と同じだったなんて。これは将来合コンなんかで使うことにしよう。次郎丸は続ける。
「まぁ別名がいくつかあってなぁ。例えばカズシゲ・ノ・チチとか」
「いやいや、それは違うでしょ。それは長嶋茂雄じゃないですか」
「知らねーよ、そんなもん。偶然だろうが。他にはラーメン・ツケメン・ボク・イケメンとか」
「えぇ!? 今までの野球偉人シリーズはどこに行ってしまったんですか!」
という僕のツッコミも無下に扱われ、その後僕と次郎丸はただオーサ・ダハルへと向かう予定を立てたのである。
夏休みという夢の一ヶ月と十日間が始まって、早くも太陽が東から西へと三回移動した。僕と次郎丸は空っぽの旅行カバンを居間に置き、向かい合って話をする。
「え〜と、向こうには何をしに戻るんですか?」
僕はもっと早いうちに聞いておくべきだった質問をほんの少し後悔しながら問うた。
「こっちに来てからの報告だな。他にも色々ちょいと顔出しに」
言いながら旅行カバンに手錠と鞭とロウソクを詰める次郎丸。
「いやいや、どこにちょいと顔を出しに行くつもりだよ。次郎丸さん、いかがわしい感丸出しじゃないですか」
「はぁ? 違ぇよ、丸出しにすんのは俺じゃなくて相手のほ……」
「さぁ! さっさと準備をしましょうか!」
僕はダイソーとジャスコで揃えた旅行セットを片っ端からカバンに詰め込んだ。そこそこと親父がやってきて言う。
「そうか〜、旅行か〜。お父さん楽しみだよ、本当。それもカズシゲ・ノ・チチに行けるなんてもう、神主としては夢だよ〜。天使とかってかわいらしいのかなぁ」
「何かかわいいじゃなくて、かわいらしいっていうところが何となくロリコンを思わせるぞ、親父」
元々は僕と次郎丸だけで行く予定だった次郎丸の里帰り。中万華は次郎丸と離れたくないというし、親父は神主として一度はカズシゲ・ノ・チチに行きたいということで、結局は家族旅行ということになった。家族で神様の世界に行くなんてウチだけだろうな。
で、次の日である。展開の早さについていけない読者はいったん紅茶を飲んで気を静めて頂きたい。コーヒーでも可。
僕たち大平家プラスよく分かんない二人は少なめの荷物を持って市内で一番大きい橋の下にやってきていた。腰まである高い草が生い茂っている。橋のちょうど真下は草が無く、開けた空地になっていた。隣で流れる川の音を尻目に、次郎丸が言った。
「橋の下ってのはな、異世界につながってんだ。霊なんかもこっから成仏する。今から俺があっちへの道を開けっから、ちょっと待ってろよ」
次郎丸は荷物をその場に置くと大きく深呼吸をした。呪文を唱えて道を出すようだ。案外ベタである。
「開け、オチン○チン!」
「えぇ!? 呪文、かっこ悪! ていうか伏せ字の意味ねーよ!」
思わずつっこんでしまった僕。ていうかこのネタはさすがに読者引くんじゃないだろうか。次郎丸のためらいの無さに拍手である。次郎丸の唱えた卑猥な呪文で橋の下に二メーター四方ほどの異空間への入口が開いた。覗くと、中は目が痛くなるような鮮やかな世界であった。赤ともいえる、黄色ともいえる、緑ともいえる。そんな色彩の美しい通り道。それは永遠に続いているように見える。
「ほんじゃ、行くか。ここを進めばすぐだからよ」
その後、光の道を通った記憶はほとんどない。
オーサ・ダハル。神の住む世界。天国、地獄に通じる唯一のターミナル。次郎丸の説明ではそういうことらしかった。僕は正直不安であった。異世界ということは、常識も、生活も、すべてがオリジナル。僕たちの世界とは全くの別物。僕は外国へ行くことに足踏みするタイプなんだ。
ところがどっこい。オーサ・ダハルの入口に立った僕は思わずこう言った。
「何か……浅草?」
そうなのだ。オーサ・ダハルは何かこう、どこか浅草っぽかったのだ。僕たち家族は次郎丸を先頭に大きな道を歩いた。人通りが多い道だ。道の両端には活気あふれる店が立ち並ぶ。地面はきっちり舗装されているし、ここはメインストリートか何かかもしれない。気温に関してはここも僕たちの世界と同じように暑かった。ただ、日本の蒸し暑さとは違う、からっとした暑さだ。
「あれ? 次郎丸さん帰ってきてたのかい?」
突然声をかけてきたのはどこぞの店の主人であった。次郎丸と知り合いのようだ。
「おう、久しぶりだな。ちょっと聞きたいんだけどよ、最近こっちであれは起きたか?」
店の主人は何故か僕の方をちらりと見た。すると両手を広げ顔の横に。
「全然だねぇ。逆に不気味なくらいだよ」
「そうか、分かった。サンキューな」
次郎丸はそう言って簡単に別れをすませると、また大通りを歩き始めた。一体何の話をしていたのだろうか。少々気になったが、何となく聞かないでいた。
しばらく歩いて、先ほどの大通りの突き当りに、僕たちは見た。それは巨大な城。周りを掘りに囲まれ、高い壁が並ぶ。城自体の大きさはまず僕たちの世界ではお目にかかることのないサイズ。雲を突き刺す天守閣なんて見たことが無い。初めて六本木ヒルズに訪れた時の感動に似た気分だ。
「ここはオーサ・ダハルの最高機関、『神政会』だ。上級の神がここでオーサ・ダハル、天国、地獄、あと現世のバランスを保ってる」
「バランスを保つ?」
僕は首を傾げながら言った。次郎丸はあぁ、と一呼吸入れる。
「四つの世界のどれが力を持ち過ぎてもいけねぇんだ。俺たち神の仕事ってのは政治じゃねえ。バランス取りなんだよ」
次郎丸の言葉で長年考えていた僕の疑問が解けた。何故次郎丸のような神が事実存在していながら、僕たちの世界では戦争や貧困、エネルギー不足なんかの問題がなくならないのか、という疑問だ。バランスを取るための存在である神はそこまで干渉しないのであろう。
「何か初めて次郎丸さんを神様なんだなぁって思いました」
「あ? そうか?」
頬を赤らめた中万華が恥じらいながら続く。
「私は前々から、次郎丸さんのことを運命の人なんだなぁって思ってました」
「そうか、俺は前々からお前のこと怖いなぁって思ってたよ」
何かに耐えきれなくなったのか、勢いよく次郎丸の左手にからみつく中万華。人になついた猫みたい。そしてそれに無反応な次郎丸。なんだかんだで仲は良いのだ、この二人。次郎丸がどう想っているのかは、誰も知らない。
次郎丸が門兵に小声で何かを告げると、神政会の持つ巨大な門が重苦しい音をたてながらゆっくり開いた。
「悪ぃが、ここからは俺とアツシだけだ。マンカとお父さんはこの門兵について行ってくれ」
何故か僕だけはこの大きなお城に入れるようだ。嫌がる中万華の耳もとに次郎丸が優しく息を吹きかけると、彼女はよだれをたらしながら気を失った。その中万華を支えながら親父を誘導する門兵に軽く手を振り、僕と次郎丸は神政会に足を踏み入れた。
中は空調設備が整っているのか、ひんやりと涼しい適度な温度。急激な温度変化に、大気の壁というかなんというか、そういうものを実感する。僕は次郎丸と長い廊下を歩いていた。
「あの、何で僕だけは入れるんですか?」
このオーサ・ダハルへ来る前に次郎丸から聞いていたのだ。ここでは一時的に僕と次郎丸の契約は解消されるということを。それに関わらず僕は次郎丸といる。変な話だ。僕が質問をすると、次郎丸は実に不機嫌そうに頭をかいた。何となくだが、僕はそれを見てもう聞かないでおくことを決めた。
しばらく歩くと、目の前に大きな門が現れた。室内にこれほど大きな門がある理由は気になるが、何故かオーサ・ダハルにやって来てから不機嫌そうな次郎丸には何も聞くことが出来ない。僕は結構な小心者なのだ。次郎丸は門を片手で力強く押した。開かなかったので今度は引いた。僕はそこに神を見ることになる。
広い畳部屋。その奥には段違いで、十センチほど高くなった、お偉いさんの座る場所があった。大河ドラマなんかのシーンを思い出していただければ容易に想像できると思う。そこにはあぐらをかき、頬づえをついた豪華な衣装に身を包む大きな男。耳の下からあごまでUの字を描くように生えた髭。口周りに生えたそれときれいに繋がり、まったく汚さは感じない。顔の堀が深く、ダンディーな良い男といったイメージだ。男は次郎丸を突き上げるように睨むと、その場に立ちあがり両手を大きく広げた。
「お帰り、次郎丸ちゃん!」
無理に喉から絞り出した甲高い声で髭の男が言い、次郎丸に向かって駆け出した。それを冷静に右の蹴りで制圧する次郎丸。髭の男は空中で顔面に次郎丸の足をめり込ませる。
「気持ち悪ぃんだよ、じじぃ。ていうか抱きつく圧力が半端ねーだろうが。そんな殺傷力抜群のハグ見たことねーよ」
次郎丸の蹴りによって顔面を腫れあがらせた髭の男。
「じじぃなんて呼ばないで。私には恵比寿という美しい名前が……」
「そんな汚ねぇ顔面でそういうこと言わないでくれる?」
僕は唖然とした。目の前でいきなり繰り広げられた野獣VS野獣。恵比寿と名乗る謎のおっさん。僕の頭の中で疑問がぐるぐると駆け巡る。
「あの、次郎丸さん。こちらの方は……?」
次郎丸は顔だけこちらを向き、ひょうひょうとした態度で答えた。
「このじじぃは恵比寿。俺の担当する神で、性同一性障害のおっさんだ」
僕はまたも唖然とした。
僕と次郎丸はその場に並んで座った。僕は正座、次郎丸はあぐらである。その前にはどっしりと構える恵比寿。恵比寿は僕をまじまじと見つめる。
「へぇ、この子が大平アツシね。なかなかかわいい顔をしているわ」
鳥肌、立つ。
「まぁ、これが今回の報告だ」
次郎丸は座ったまま言った。何の資料や会話もしていないのに報告? 僕は不思議に思ったが、神様のことなど何も分からないので、きっとお互いにだけ通じる何かをしたのだろうと勝手に納得した。
「うん、まだ大丈夫みたいね。本当、今回のことがなければ食べちゃいたいわ」
僕に向かってウインクをする恵比寿。冷や汗、たれる。次郎丸はそんな恵比寿の髭に右手を伸ばし、鷲掴みにする。
「だまれ、じじぃ。そんな感想いらねーんだよ」
「ちょ、じろ、次郎丸! 怖いっ! 胸倉を掴まれるとかより数倍怖いっ!」
次郎丸は怯えきった恵比寿の言葉をゴミ箱にポイするように、掴んだ髭を引きちぎった。アイターッと叫びその場に倒れこむ恵比寿。彼の口元がわなわな震えている。
「ちょ、ちょ、ちょっとぉおお! 私のチャームポイントを何でそんな惜しげもなく引きちぎることができるの!?」
「痛っ。髭が指に刺さった。どうしてくれんだよ」
「いやいや、こっちのセリフよ! どうしてくれんの、私のチャームポイント! キャラ付けが今のところ髭と性同一性障害であること以外なにもないのよ! 早くもキャラが薄くなるようなことしてんじゃないわよ!」
次郎丸はこっちでも何も変わらないんだな。僕は一部髭の欠けてしまった恵比寿と次郎丸のやりとりに自分と似たものを感じた。そして、何だかすごい居心地の悪さも感じていた。たまらなくやるせないんだが。
「あ、あの次郎丸さん。僕がここにいる必要ってあったんですかね……?」
今聞くべきではないんだろうが、ついつい空気に耐えられなかったのだ。ご勘弁。次郎丸は顔はこちらに向けるものの、目は僕と合わせようとしない。
「あ? いや、別になかったかもな……」
僕は腹が立った。今日の次郎丸はいつもと違う。こんな伏し目がちなおっさんは、次郎丸じゃない。
「何なんですか、それは! ていうか今日次郎丸さん、何かおかしいですよ! 僕なんか怒らせるようなことしましたか!?」
「何言ってんだよ。別に変じゃねーよ、俺は」
そう言っている間も次郎丸は僕と目を合わせることはなかった。
良い天気だった。ここに来てすぐには気がつかなかったが、ここは空がきれいだ。見つめているとなんだか吸い込まれそうになる。僕らの住む世界の濁った空なんかとは比べモノにならない。
僕は神政会という大きな城の周りを一人で散歩している。
いつもなら隣にプーマのジャージを着た男がいるのだけれど、不思議と違和感はない。元々一人が好きだった男だ。今さら、といった感じである。で、そのジャージ男はというと。僕に、もう用は済んだから好きにしていい、と言って城の中で昼寝を始めてしまった。それを見て、僕はただ一人になりたいと思ったのだ。そして現在に至る。
ほとんど同じようなことを考えながら歩き、気がつけば僕は城を離れ、薄暗い森の前にやってきていた。振り返ると、先ほど通ったメインストリートが百メートルほど先に見える。ここは日本でいう郊外のような所なのだろうか。僕は気分と興味の二つの力で、森の中へと足を踏み入れた。
森の中は先ほどまでのからっとした暑さとは無縁の、冷たく、じめじめとした世界だった。すべての生気はその鼓動を止め、ただ大気の流れにその身を任せている。僕は神の世界にもこういうところがあるのだと知り、思わず感嘆の声を漏らした。そんな仮死状態の世界をしばらく進むと、僕は大きな洞窟を発見した。
洞窟を見て、僕はなんだか気分が高揚した。小さい頃にこんな秘密の場所みたいなのを見つけると嬉しいと思う。今でもこんなに楽しい気分なんだ。間違いない。すぐに落ち着く僕の感情に気付いた。僕は上っ面だけは楽しそうに、自分に嘘をついているのかもしれない。もう、帰ろう。そう思い立ち、僕はその場で踵を返した。
すると、どこからか僕の耳に届く不思議な口笛の音。聞いたことのないメロディだが、何故だかとても懐かしく、僕は思わず歩を止めた。
「お前、この歌を知ってるのか?」
知らない声だった。僕は声の主を探し、その場をきょろきょろと見渡す。
「ここだ」
声は洞窟の中からだった。光が少なく、陰に埋もれて姿が確認できない。声のトーンから男であることだけが推測される。
「お前、もしかして大平アツシか?」
「え……そうですけど」
僕は頭をフル回転させた。その男は僕を知っている。ならば僕も彼を知っているのか? 確かに懐かしさは感じるのだ。あの口笛に。だが、何故僕の知り合いがここにいる。分からない。彼は誰だ。
「悩んでるみたいだが、お前は俺のことを知らない。それは確実だ」
僕はただ黙って聞いた。じめじめとした空気が僕と服の密着度を高め、とても不愉快な気分だ。
「神田林次郎丸が、お前と契約を結んだよな?」
「どうしてそれを」
「神になるためとか、そんな感じの理由か?」
僕はまた黙ることにした。この男は何を知っている。僕の何を。
「一つだけ教えといてやるよ。それぁ、嘘だ。奴は神にはなれねぇ、絶対にな。真の理由は別にある」
次郎丸が、神になれない? 真の理由? 何を言ってるんだ、この男は。僕に何を伝えようとしているんだ。僕は思わず声を出した。
「何ですか、それ。真の理由って……」
ほんの少し間が空いた。僕は何となく、彼が笑っていることを悟った。
「簡単に言えばそうだなぁ。お前が危険な存在だから。お前という存在が災厄であるからって感じか」
「災厄……?」
「血ってのは、案外正直なもんなんだよ」
言葉の節々に感じる力。誰かに似ていると思った。それが誰ともわからず、僕の胸の中で彼の言った言葉が反響を続ける。男がもう一言、何かを言おうとした、そのとき。
「アツシ! 誰と話してんだ!」
僕が振り向くと、そこには走ってこちらへやってくる次郎丸がいた。息を切らしながら、僕の肩に手を置く。
「あ、いや何か、そこの洞窟の中にいる人と」
僕は言いながら気がついた。洞窟の中に、先ほどまであった気配が消えていることに。
「何を、何を話したんだ?」
次郎丸はいつになく真剣な眼差しだった。この時、初めて手のひらに大量の汗をかいていたことを知る。
「あ、あの。別に、何も……」
僕は彼の目を見ることが出来なかった。
僕は次郎丸に連れられて、というよりは、後ろをついて行き最初にやってきたメインストリートへとやってきた。そこに一つ、古い造りのカフェが。長い月日で薄汚れた木造建築。その正面には大きなガラス窓があり、中の様子がうかがえる。親父と不機嫌そうな中万華が二人で気まずそうにコーヒーを飲んでいる姿が見えた。二人の会話が窓越しに聞こえる。
「あ、あのマンカちゃん。そんなに気を落とさないで。神田林さんだって好きでこうしてるわけじゃないんだから」
親父が、次郎丸に放っておかれた中万華をなだめている。
「前なら、放置プレイだと思って楽しめたわ。でもね、お父さん。最近気がついたんだけど、私はいじめられるのが好きで、放置されることはあまり好きじゃないみたいなの」
「こらこら、マンカちゃん。年頃の女の子が公共の場でいじめられるのが好きとか言わないの。お父さんはそういうの厳しくいくから」
何だか本物の親子みたいだ。僕と次郎丸がカフェに入ると、それに気付いた中万華が勢いよく立ち上がる。
「次郎丸さんっ! あ……ひ、ひどいじゃない! あたしを気絶させてまで遠ざけたかったの!? あたしは邪魔な存在なの!?」
次郎丸は中万華の言葉を聞くと、彼女の頭にポンと手を置き、言った。
「あぁ、いや悪かったよ。今度は目が覚めないくらいに気絶させるから」
「ちょ、そんな言い方って……。どれだけ私のツボを心得ているのよ! 興奮するじゃない!」
相変わらずだった。僕の家族はいつも通りで、安心した。あの男の言っていたことはどういう意味だったのか。僕はこれから、どうすればいいのか。そんな悩みが、家族を見ていると、ほんの少しだけどすっきりする。僕の家族には他人が二人まじっているが、僕らは確かに何かでつながっていて、僕らは確かに家族なんだ。次郎丸がこちらを向き、中万華と同じように僕の頭に手を置いた。
「今日機嫌が悪かったのは謝るよ。後、お前が何を言われたのか、もう聞かねぇ。でもよ、これだけは信じてくれ」
今日初めて次郎丸と目が合った。
「俺は、お前の味方だから」
自分の目頭が熱くなるのを感じた。不安や疑問が全て吹き飛んだ。不純なものが消え去った僕の頭の中には、その代わりに温かいものが生まれていた。それはひどく大きく、重いが、不思議と嫌な気はしない。そうだ、僕はもうあんな言葉に振り回されない。次郎丸は次郎丸で、僕は僕だ。
「あれ、どうしたアツシ。目が赤いぞ」
親父が僕を見て言う。僕はほんの少し微笑んで、目にゴミが入ったと返した。
オーサ・ダハル滞在二日目である。今日は家族で観光。案内役は次郎丸だ。僕たちは昨日通ったメインストリートを次郎丸を先頭に練り歩いている。
「昨日は言ってなかったけどな。この大通りはオーサ・ダハル最大の繁華街になってる。名前は『フィリップ・トルシエ』だ」
「今度はサッカーですか。何かもう神様の世界ふざけてるとしか思えないんですけど」
次郎丸はいきなりその歩みを止め、僕たちの方を向いた。
「そうだ、こっちでは日曜日の朝に必ずやる儀式があるんだけどよ。今日はちょうど日曜日だし、やっとくか」
神様の世界の儀式。とても興味深い。好奇心が跳ね回る。親父が次郎丸に質問する。
「その儀式っていうのはどういうことをするんですか、神田林さん」
「おう、ちょっとついてきてくれ」
次郎丸に連れられてやってきたのは怪しい、怪しい洋館。黒を基調としたカラーリングで不気味な雰囲気をかもし出している。入口の両側には明かりの点いた灯篭。洋館なのに、灯篭。そこから何か嗅いだことのない匂いがする。決して悪い匂いではないものの、不気味でしょうがない。
「次郎丸さん。ここでやるんですか?」
「そうだ」
僕たち大平家はゆっくりとそのドアを開けた。中は暗く、いくつか部屋がある。それぞれの部屋のドアに、『使用中』又は、『空き部屋』と書かれたプレートが。次郎丸は空き部屋の中から適当に一部屋選んでドアを開けた。僕たちが全員入ったことを確認すると、次郎丸はドアを閉めた。
「暗いですね……。こんなとこでどんな儀式をするんですか」
僕は少し不安げに聞いた。
「おう。儀式の名は『モウ・ヤメテクダサイ』。ここでな、家族の長なる者がパンツ一丁になって手錠をつけた状態で、家族が鞭とロウソクでいたぶるんだ」
「おぃいいい! 何だそれ、深夜の歌舞伎町!? あの荷物はこのためだったのかよ! ていうかその名前単なる感想じゃねーか! 何なんだよオーサ・ダハル! ただの変態ワールド!?」
親父が内ももすり合わせながら、体をビクつかせる。
「ちょちょちょ、ちょっとぉおお。家族の長って私だよね? 本当に、本当に?」
中万華が挙手する。
「待って! 私立候補します! いたぶって下さい!」
僕は大声でこの空気を断ち切りにかかった。
「ちょっと待って大平家! おかしいから! 冷静に考えよう! これは所詮オーサ・ダハルのしきたりなわけだから! 僕たちが絶対にやらなければいけないかって言ったら違うよ!?」
親父が僕の肩に手を置いた。親父の震えが僕の肩を通して伝わる。
「ま、待てアツシ。これやっぱ私たちはオーサ・ダハルに来ているわけだし。郷に入っては郷に従えという言葉もあるわけだし」
「それこそ待って親父! 真面目なのは分かるけど、誇りを捨てることはやめて! 一番悲しむのは実の息子である僕だから!」
中万華が次郎丸の右手を両手で握りこみ、懇願する。
「次郎丸さんお願い! 私にチャンスを!」
「いや、でもこれがしきたりだからなぁ。なぁ、お父さん」
僕の肩に乗っていた手に力が入る。
「アツシ、きっと死んだ母さんも応援してると思うんだ」
「いやいやいや! ほぼ確実に母さんはアンチだよ! アンチモウ・ヤメテクダサイだよ、きっと! 次郎丸さんも親父を誘導するのはやめて!」
親父が真剣な目つきで僕を見つめる。
「アツシ……部屋の外に出ていなさい」
「ちょっとぉおお! 覚悟決めちゃったよ、この人!」
親父は僕を力づくで部屋の外に押し出そうとする。必死で抵抗するものの、親父の体重は僕の倍以上ある。僕の体は徐々に引きずられ、ついに部屋の外へ。
「お、親父ぃいいい!」
「アツシ、お父さんは負けん」
そう小声で僕に伝えると、僕を突き飛ばし部屋のドアを勢いよく閉めた。カチャリという鍵のかかる音。僕は少しの間放心状態に陥った。一分程間をあけ、ドア越しに聞こえた。
「あ、ちょっと熱っ! もう、きゃっ! いっ、これ! 変なものに目覚めそう!」
僕は耳をふさいで大声で『翼をください』を歌った。
僕たちのオーサ・ダハルの旅はこうして幕を閉じた。今回はゆっくり出来なかったので、また時間を作ってオーサ・ダハルへ来ることを次郎丸と約束し、僕たちは光の道を通る。次郎丸はもう恵比寿に別れは言ってあるとのこと。
僕はここで、次郎丸の話を聞いた。ただ、今の僕にはそれの意味が分からない。いつかその時が来た時に、僕はもう一度彼の言葉を思い出すのだ。そして次郎丸に確かめる。親父の醜態は忘れる。僕はこの二つを胸に、現世へと帰還した。