祈りが丘小学校・百夜物語~副題:日本ではランドセルが人を喰べる~
好奇心は猫を殺す。
でも好奇心こそ、知らない世界へ飛び込むためのフリーパスだと思います。
色んなことを見て、聞いて、知って、それが理解として血肉になるとき人間としての豊かさにもつながるものではないでしょうか?
だから主人公の百夜には自由気ままに動きまわってほしいと思っています。
まぁ、安全は保証されないですけどね☆
せいぜい好奇心の見せる光に気を取られて足元の穴に落ちないように頑張れ。百夜。
この国の国民ほぼ全員はなにかしら”学校”と名の付いた場所へ通った経験があるだろう。
学校にはたくさんの人間が集まる。しかも彼・彼女らの大半は地区という地面の線引きだけで振り分けられるのだから、性格も趣味も貧富も頭の良し悪しも様々だ。腕白に遊び回る奴。静かな時間を楽しむ奴。おしゃべりが好きな奴。黙々と何かを作り続ける奴。なにかと異性ウケを気にする奴。妄想に耽る奴。
(そして)
祈りが丘小学校の教師、東堂正義は思う。
(一見そう見える奴らだって、中身は本当はどんな奴かなんて分からないものだ)
緑の豊かなベッドタウンである咲花市。その中に祈ヶ丘と呼ばれる小山がある。
この山には伝説が在る。
むかしむかし、この一帯が天より降りし災厄に見舞われた。地より湧きし死の水と、天より降りし滅びの火によりあらゆる命が壊されんとした時、当時のある尼がこの山で祈りを捧げ二つの災厄を消し去った後、自らも遙か高みへ昇っていったという。
時代は過ぎ、今やその伝説は山のてっぺんには膝を折って祈りを捧げる女性を象った石像と、その台座に刻まれた”あるべき場所に、あるべき者を”という言葉に名残を残す程度である。
それはさておき、そんな山の麓にドンと校舎を構えているのが東堂の職場である祈りが丘小学校である。ちなみに名前の書き方が地名と微妙に違うのは生徒が覚えやすくする配慮らしい。
この小学校には、毎朝校門の前に先生が立って次々に集まってくる子供たちに挨拶をするという習慣がある。
今日の当番は東堂だった。東堂は目のあった生徒に「おはよう」とあいさつするのを繰り返しながら、学区内のいたるところからわらわらと集まってくる子供達を眺めていた。
東堂は思う。一つとして同じもののない顔を一つひとつ眺めるのはなかなか面白い、と。
子供達は皆、それぞれが多様な表情を見せる。こちらからの挨拶に対する反応一つとってもそうだ。まず挨拶を返す子供とそうでない子供がいる。そして挨拶にも言葉遣いや声の調子、そのときの表情や目線の違いがある。
それぞれがどんな生活をしているのか。どんなものに影響されたのか。そういうものが挨拶の一瞬にも現れてくるのが実に興味深かった。
興味があるものは飽きるまで追求するのが東堂の性だった。故にこの当番にもずいぶんと真剣に取り組んでいた。他の教師が「東堂先生は真面目ですね」というがそれは違う。自分が気に入っただけなのだ。
しかし、対象が何にせよ真剣に取り組むという行為はそこから得るものが必ずある。
それは東堂の場合、鋭い観察眼だった。当番を繰り返す内に生徒の体調や気持ちを汲み取る技術を会得してしまったのだ。
挨拶の反応から、(この坊主頭のは昨日夜更かししたな)とか、(この鼻水たれは花粉症じゃなくて風邪だな。あとで保健室を勧めてやろう)とか(この女子はまさか”女の子の日”か…。保健室に痛み止めあったかな…)といったことまで推察し対応できてしまうのだ。
東堂はこの能力を密かな自慢にしていた。客観的に見ても、この観察眼はかなり高レベルの部類に入ると思っていた。
しかし、その東堂の目を持ってしても見抜けない生徒が何人かいるのだから世の中は侮れない。
「おはよう。東堂先生」
まるで友人にするような挨拶。だが馴れ慣れしさのないさっぱりとした声の響き。そして相手をしっかりと見据えた堂々たる態度。
「おはよう。百夜さん」
彼女は天原 百夜。祈りが丘小学校三年生。東堂が見抜けない生徒の一人であった。
百夜の人と為りを一言で言い表すなら「ボス」といったところであろうか。肩まで伸びるウェーブのかかった黒髪が可愛らしい女の子なのだが、不遜ともいえる自信満々の態度は誰に対しても変わらず(それこそオケラから校長先生まで)、教師相手にも対等に渡り合える度胸と頭脳で周囲を驚かせる。
百夜は自分のやりたいことを胸を張ってやってのける。自分が「これだ!」と信じたことは校則だろうが法律だろうが彼女を縛ることができないというのが東堂が三年間百夜の担任をして学んだことのひとつである。
そのひとつの表れが百夜が学校に和服で登校してくることだ。しかも男物の。
最初は周りの大人たちがそれとなく周りに合わせて洋服を来てはどうだと勧めた。どうしても周囲から浮くし、父兄参観会などのときには悪目立ちしてしまう。
しかしその時の百夜の返事は「この学校の校則にある「清潔かつ健全な服装を心がけよ」に違反しているとは思いません。制服も決まってないですから。それに定期的にクリーニングに出しているし、汚れた時の替えもあります。男物なのは女物よりも動きやすくケガしにくいと判断したからです。なによりもこの服装が一番自分らしいと思うんですよね」だった。
この時百夜は入学後二日目である(一日目は驚きの余り注意すべきか迷いあぐねて終わってしまった)。
東堂は自分の見たものが本当に小学生か信じられなかった。その後こいつとうまくやれるのだろうかと前途不安になったのも無理のない話である。
しかし百夜はただ自由奔冒というわけではなかった。他のクラスメイトのケンカや悪戯、校則違反など揉め事があるとよく仲裁に入って説得してくれた。
人の話をきくときは普段の態度が一変、非常に誠実な態度で傾聴する。そうすると相手は百夜の態度に応えるように彼女の言葉を良くきくのだ。
自然、彼女の周りに人が集まった。そしてクラス内外の生徒に与える影響力も大きくなった。
自分の信念に忠実で大きな度量を持った彼女は、さながらクラスの影の支配者といったところだった。
他の教師のウケはあまり良いとはいえないが、東堂は百夜のことを気に入っていた。まるで副担任が一人増えたような頼もしさがあるし、彼女の筋の通った態度は人として尊敬してさえいた。その心根が立派なら年齢は関係ないというのが東堂の信念の一つである。
…そう。その人間が何者なのかを決定づけるのは、肌の色でも、生殖器の種類でも、顔形の美醜でもない。”信念”だ。何を心の中に持っているのか。それがその人間の本質を示すのだ。
歴史上の偉人と呼ばれる人たちが尊いのは、その”信念”が産んだ行為が尊かったからだ。”信念”こそ歴史に名を刻む彫刻刀。この信念の部分が他人の心にその人間を印象づけるのだ。
…それが百夜の場合は分かりやすいように見える。周囲の人間もその言葉と行いが一致しているから疑う理由がないのだ。
ただ東堂のみ、まだなにか隠していると勘ぐっている。その腹の底に沈んでいる”信念”が何なのか、というのが未だ判りかねているのだった。
東堂が百夜の表情に微笑が浮かんでいるのを見つけて言った。
「今日はなんだかうれしそうだけれど、なにかいいことでもあった?」
すると百夜はにっこりと笑って言った。
「あら。よく分かりますね。そうなんですよ!今日は星座占いで『大冒険がはじまるかも』って出て。それが楽しみで楽しみで!」
「へぇ。占いの結果で”大冒険”ってなかなか出ない単語だね」
「でしょう?だから今日はなにか起こるかもしれないわね」
「その”何か起こったとき”はどうするの?」
「”精一杯楽しむ”ことにするわ」
よどみの無い返事。きっと彼女は本当に何かが起こっても楽しむのだろう。そう思わせるものが彼女にはある。
「ちなみに何位だった?」
「12位」
最下位じゃないか!
東堂は昇降口へ吸い込まれていく百夜の背中を見送って「やっぱりよくわからん」と思うのであった。
教室は登校した小学生たちの元気な甲高い声で溢れていた。
そんな中で三人の女の子が話をしていた。
「ねぇねぇ!さきちゃんととも子ちゃんは”人食いランドセル”の噂って知ってる?」
「知ってるよ~」
「わたしも~」
「なんだぁ。みんな知ってたんだね」
「ゆーめいだよ~」
「ちょっと古くない?」
「え?そうなの?」
「う~ん。でもわたしこの前もきいたよ。そのはなし」
「さきちゃんも?どこで?」
「くみちゃんだよ」
「ふみちゃんっていつも隣のクラスのふみちゃんとるみちゃんといる子?」
「あの三人も仲いいよね~」
「ちとせちゃんもくみちゃんからきいたの?」
「うんうん。今日学校に来る途中で、男の人に話しかけられたんだけど、その人が教えてくれたんだよ」
「え!?だいじょうぶなの?」
「え?」
「そういう人に会ったらすぐに逃げなくちゃ!ユーカイされちゃうよ」
「こわーい!」
その三人の話を少し離れた席の三人が耳をそばだててきいていた。
席を傾けてふんぞり返るように座っていた百夜が言った。
「きゃー!こわーい!人食いランドセルだって~」
コツッ!
わざとらしく怖がってみせる百夜を女の子が後ろから軽くこずいた。
「あたっ。なんで叩くのよ!」
「気色悪い」
百夜の演技をばっさりと切り捨てたのは長谷川 花子。凛々しい目元とボブカットがクールな雰囲気を醸し出している。
教室に男の子が一人、軽快に飛び込んできた。彼はセーフ!とかあっぶねー!とか大声で叫びながらまっすぐ花子へ向かって駆け出し、そのまま花子を”通り抜けて”他の男の子たちと合流した。
たしかに男の子は花子の中を走り抜けた。が、男の子たちはそのことに何の反応もない。まるで始めからそこにはなにも無かったとでもいうように。花子自身もまったく気にも留めず百夜と話している。
「わたしたべられちゃうかも~。花子泣いちゃうかも~」
「私は泣かないし、お前は絶対そんなタマじゃねぇ。もし喰われたとしてもランドセル引き裂いて出てくるよ、百夜なら。それとも私みたいに幽霊の仲間になりたい?」
そう。花子は幽霊なのだ。彼女の友人となった天原百夜と法月なむ(ほうづき なむ)が持つ人一倍高い――というよりも”異質”な――感受性が彼女を認識し、触れることを可能にしていた。
百夜は「チッ」と冷たい反応の花子に聞こえるように舌打ちすると、突っかかる花子を無視して正面に座っていた別の女の子に話しかけた。
「ねぇ。なむちゃんはどう思う?」
その前の席で膝をそろえて座っていた女の子にが怯えたように手をもじもじさせてそれに応えた。
「こわい話だね。男の人に話しかけられたらどうしたらいいのかな百夜ちゃん」
彼女は法月なむ(のりづき なむ)。彼女は怖いことが苦手なとてもおとなしい女の子だ。人より運動ができるわけでも勉強ができるわけでもないが、その可憐な容貌と礼儀正しさは多くの男子を魅了している。
百夜はうんうんと大仰に頷いた。
「こんなにか弱いなむちゃんにとっては心配だよね。どうすればいいか花子は知ってる?」
「え?」
突然向けられた問いに戸惑う花子。
「そりゃ一目散に逃げだ」
「ああ、ごめんごめん。花子が知るわけないよね~。男の人だって花子に睨みつけられたら逃げ出しちゃうよね~」
花子は言葉の途中に割って入った百夜を凍るような視線で睨みつける。
「ケンカ売ってるのか?」
「そんなこともわからない?」
「あ?」
「ん?」
鋭い眼光で見下ろす花子を百夜は不敵な笑みで見つめ返す。剣呑な空気にたまらずなむが仲裁に入る。
「も~!やめてよふたりとも~」
「わかったわかった。せっかく対戦成績に一勝追加できると思ったんだけど、勝負はお預けだな」
「ふふふ。残念だけど仕方ないわね。次の罰ゲームが楽しみだったのに」
「ふたりとも!」
「あはは…。もうやめるって」
「冗談よ、冗談。私は至ってクールよ」
でも割りと多くの場合、ここから本格的なケンカに発展するのをなむは目撃している。
で…。と百夜は前置きして言った。
「花子はさっきの噂、何か知ってる?」
百夜に漂う雰囲気が変わった。さっきまでのおちゃらけた雰囲気が一気に消え去って、声音に真剣さが表れていた。
見ている物のその先を見通すような鋭い視線が花子に向けられた。
百夜がガンを飛ばすと怯えて逃げ出す生徒もいる程だが、花子は至って平然としている。
「それは不審者のほう?ランドセルのほう?」
「ランドセルのほう。不審者には興味ないけど、それも知ってたら教えて」
「一応、噂はきいてるよ」
「どんな?」
「知らない男の人にランドセルをもらうと、そのランドセルに食べられちゃうんだって」
「その場で?」
「え。いや確か家に帰ってからだったと思うけど」
「『これあげるからこっちにおいで』ってフラフラついていくといろいろされちゃうってやつっぽい、教訓めいた話ね。その知らない男にあたるのがさっきの不審者じゃない?」
「さぁ。それは知らないわ。でも、人食いランドセルの怪談なんて、わたしがこの学校に来たときにはもうあったような古い話よ」
「それほんとにあったの?」
百夜の問いに、花子は迷ったが眉間に指を当てて考えていた。少しして、花子はぽつりぽつりと慎重に話し始めた。
「あー…。いつぐらいだったかな…。十何年も前だったと思うけど…、この周辺で行方不明事件が多発した年があったわ。そのときに人食いランドセルの噂が流行してたような記憶があるわ」
「ほんと!?事件のことは詳しく思い出せる?」
「被害者は大人も子供もいたと思ったよ。その中にはこの学校の生徒もいたはずよ。まぁ実際に見たわけじゃないからほんとに人食いランドセルが絡んでるかは知らないけど」
「ふん…。それが最近になってまた噂になってるってことよね…。隣のクラスのるみちゃんとふみちゃんっていう子は?」
「仲の良い友達同士ね。トイレにふたりで来ることもある」
「ふむふむ。それで、その二人と仲が良いのがうちのクラスメイトがくみちゃんね。くみちゃんって志野村 久美さんのことよね。ちょっと行って来る」
百夜はすばやく席を立って歩いていった。
「こういう話だとすばやいなぁ。百夜は」
と花子が呆れた調子で言うと
「うん。百夜ちゃん楽しそうだね」
と笑った。
久美の席まで来た百夜は明るい声で挨拶した。
「おはよう。くみさん」
久美は素朴な雰囲気を持った女の子だ。クラスでは目立つことは無いが、特に嫌われることも無く周りに溶け込んでいる。穏やかな淡いグリーンでまとめられた服装に少し長い髪を後ろで縛っていた。
久美はにっこりと笑う百夜に気づいて、笑顔で挨拶した。
「おはよう。百夜さん」
「ねぇちょっときいても良いかな?人食いランドセルの噂って知ってる?」
「うん。知ってるよ」
「わたしそういう話好きだからさ、みんなの聞いた話も知りたいんだ。くみさんはどんな風に聞いてる?」
「わたしはふみちゃんからきいたんだけど…。学校を下校しているときに、『きれいなランドセルほしくない?』って背の高い笑顔の男の人に話しかけられるの。それでそのランドセルをもらうと、その夜にランドセルが動き出して食べられちゃうんだって。あ、赤いランドセルって言ってたかな」
「へぇー。なるほど。ところでそのふみさんってどこの組の子?」
「となりの3年5組だよ」
「もしかして…、くみさんといつも登校してくる子?」
「そうだよ」
「仲いいんだね。いつも二人で来てるんだ」
「幼稚園からいっしょだもん。でもいつもはるみちゃんと三人でくるんだけど、今日はるみちゃんはいなかったよ。風邪だって」
「え、そうなの?」
「うん。でも昨日は体育もすごく張り切ってたし、元気だったのにな」
「病気になるときはなっちゃうからねぇ。くみさんとふみさんは大丈夫?」
「わたしは大丈夫だけど、ふみちゃんが顔色悪かったかな。なんか寒そうっていうか、震えてた?ときどき後ろを見てみたりして落ち着かない感じだったよ」
「それは本当に風邪だったりするかもね。わたしも気をつけなきゃいけないわね~」
百夜がうんうんと頷いていると「おはようございます」と担任の東堂先生が入ってきた。
東堂先生は体が大きくて物静かな人だが、提出物の期限や生徒の態度に厳しいところがある。視線の鋭さや大きな手の全部の指にはめた指輪(左手の薬指が金色な以外はシンプルな銀色の指輪である)も相まって入学当初はかなり怖がられていた。
が、毎朝の日課が花へ水をやることだったり、いつもは難しそうな本を読んでるのにときどきそれがマンガ(少年マンガしかり少女マンガしかり)になってたり、たまに忘れ物をして、それをふわふわした奥さんが届けにきたりするのを目撃するにつれ、「見た目は怖いけど悪い人じゃない」と分かり生徒とも打ち解けていった。
実際、生徒のことをよく見ている先生だと百夜は思っていた。
この学校は生徒の学年が上がってもそれに合わせて先生たちの担当の学年も上がるシステムになっている。勿論例外の先生はいるが、顔ぶれはあまり変わらない。東堂先生は百夜たちとは一年生からの担任であるから、もう三年の付き合いだった。
今日の東堂先生は花壇で摘んできた花を花瓶に入れて抱えていた。
みんなも先生に挨拶した。
「ああ、みんないるようだね。出席をとるから、チャイムが鳴るまでに席につきなさい」
みんな「はーい」と返事をして席に戻り始めた。
「あ、いけない。お話聞かせてくれてありがとう。くみさんも気をつけてね」
「うん。ありがとう」
自分の席に戻った百夜は花子に告げた。
「昼休みふみちゃんとやらに会いに行くわよ」
なむが心配そうに百夜を見、花子はやれやれと肩をすくめた。
昼休みになり、3年5組を訪ねた百夜たちであったが、件のふみちゃんというのは早退してしまったとクラスの子たちが教えてくれた。収穫なしでトボトボと教室に戻った三人はくみちゃんからふみちゃんの家の場所を教えてもらうことにした。
百夜がお願いするとくみちゃんは言葉で説明するのはむずかしいからといって、地図を書いてくれた。
が、その地図に3人は息を飲んだ。というのが非常に大胆かつ抽象的で謎めいた代物で、後の百夜が語るには「蜃気楼の向こう側を足にはさんだ鉛筆で描いたような絵画」だったからだ。住所も覚えておらず、説明そのものが苦手なのだろう、彼女の言葉ではまったく検討がつかなかった。
くみちゃんを傷つけないよう笑顔で引き上げた三人は頭を抱えていた。
「これは前途多難ね」
「まだ時間はあるし、図書室で地図を探して照らし合わせるのはどうだ?」
「このA4コピー用紙に書かれているのは私の見る限り地図ではないわ。道なのかも分からないものを照らし合わせられないわ」
「こういうとき大人の人っていいよね~。ケータイならすぐ分かりそう」
「あ。その手があったわ」
「え。でもわたしたち携帯電話なんて持ってないじゃない」
百夜が花子に向けてチッチッチと指を振った。
「要するに検索かけて地図が出ればいいのよ。パソコン室にいきましょう」
おお、となむがはしゃいだが、花子は険しい顔をしていた。
「パソコン室っていつも鍵かかってなかったっけ?」
花子の言うとおり、生徒に悪戯されないようにパソコン室には常に鍵がかかっており、先生の許可が無くては部屋にも入れない。
しかもこの学校、放課後の利用は原則禁止となっている。
「でも花子。あなたドアぐらい透けて通れるでしょ。キーボードもポルターガイスト的な感じで操作できない?」
「それはできるけど、パソコンの使い方が分からないのよ」
百夜はう~んと唸って俯いてしまった。が、すぐに顔を上げた。
「閃いた。っていうか何も悩む必要が無かったことに気がついたわ」
「は?」
「いいから。放課後はパソコン室よ。それと花子には放課後までに一仕事してもらうわ」
「え?」
パソコン室は三学年と四学年の教室が並んだ廊下の突き当たりにある。
帰りのホームルームを終えた百夜となむはパソコン室の扉に寄りかかって立っていた。
二人の視線の先では一日の授業を終えて開放感に浮かれた生徒たちが廊下をわいわい賑わしている。
「ねぇ百夜ちゃん。先生が言ってた不審者って、朝にクラスの子たちが話してた人かな」
なむが話しかけると、ぼーっと遠くの喧騒を眺めていた百夜は、この話題には興味ないのか「たぶんね」と言ったきり顔も動かさない。
帰りのホームルームのとき、全校生徒へ帰宅時の注意事項が連絡された。
それは「登校及び帰宅途中の生徒に声をかける男が出没しているため、可能な限り一人で歩かないように」というものだった。
なむは今朝クラスの女の子たちが声をかけられたと言っていたため心配しているのだった。
「私は百夜ちゃんも花子ちゃんもいるから大丈夫だけど、だれか襲われたりしないよね?」
なむはいったい私達を何だと思っているんだろう?と疑問に思った百夜であった。
「…その不審者っていうのがもし今朝の話の男だとしたら、まぁ大丈夫でしょ。襲うつもりなら「人食いランドセルに気をつけろ」って注意しないわ」
「ああ!それもそうだね」
なむは納得がいったようですっかり安心した顔になった。
百夜はそれを見て思わず笑顔になってしまう。なむのこの素直というか、純朴なところが百夜は大好きだった。
しかし、なむの安寧を喜ぶ一方、心の中で「まぁ、必ずしも不審者が一人とは限らないけどね」とつぶやいていた。この世界には「秘密」が溢れかえっているのだから。
それから十分も経っただろうか。先ほどまで廊下に充満していた甲高い声と活気はすっかり消えて、代わりに外で部活動に励む生徒たちの掛け声が聞こえるほど静かになった。
百夜が「花子遅いわね」とぼやくと、なむが「そうだね」と相槌を打った。そして「百夜ちゃんがむずかしいこと言うからだよ」とたしなめた。
百夜はなむに「にやり」と笑ってみせる。
「花子ならできると思うからお願いしたのよ。きっと花子なら何とかしてくれると信じてるわ」
百夜が自信満々にそう言うと「そりゃうれしいね」と背後から声が聞こえた。なむがびっくりして転びそうになる。
「もう!びっくりさせないでよ」
「あはは。ごめんごめん」
「おかえり花子。どうだった?」
「ばっちり覚えてきたよ。デスクカバーの下だったから机の上のものをどかすのに苦労したけどね」
百夜が花子に頼んだのはふみちゃんの住所を調べることだった。パソコンで検索するにもまずちゃんとした住所の情報が無ければ始まらない。
だから百夜は花子に緊急時連絡網表を探させた。見つかれば生徒の名簿でも書類でもよかったのだが、連絡網表は常に見える位置に置いておく可能性が高かった。
「よくやったわ。後で饅頭でも供えてあげる」
「嫌味か」
「冗談よ。さて後はパソコン室ね。花子お願い」
「はいよ」
花子はドアをすり抜けて部屋に入るとすぐに「ガチャッ」と音がした。百夜が取っ手を引くと難なくドアは開いた。
「花子ちゃんすごい!」
「おやすい御用よ」
「花子便利」
「金とるわよ」
花子のコロコロ変わる態度に突っ込もうともせず、百夜はドアを閉めて鍵をかけるとすぐにパソコンを起動させた。
「さあ、放課後に利用者がいないとも限らないわ。寄りたいところもあるし、さっさと済ませましょう。花子は見張りね」
「え」
しかし百夜の心配をよそに誰もパソコン室に来ることは無く、実にスムーズに”ふみ”と”るみ”の家までの地図を手に入れることができた。
百夜たちはまず、噂をきいたという”ふみ”の家に行くことにした。
ふみの家は学校から一キロメートルほど離れた住宅街にあった。彼女達は途中なむの家に寄り道をして荷物を置いていくことにした。
途中、なむが百夜に尋ねた。
「百夜ちゃんは今日うちに泊まる?」
「う~ん。戻ってると時間遅くなりそうだし、そうさせてもらそうかな」
「ほんと!?やった!じゃあおゆはんいっぱい作ってってお願いしないと!」
「こいつ一人で三人分くらい食うもんな。昨日の晩ごはんはちゃんぽん鍋だっけ?」
「ちょっと。人を関取みたいに言わないで頂戴。せいぜい二人分よ」
「十分大飯喰らいだよ!」
二人のやり取りを聞いてなむがクスクス笑っている。
「お母さんも喜ぶと思うよ。わたしがあんまり食べれないからご飯のこっちゃうの」
「じゃあその残った分は頂戴ね」
そんな会話をしている彼女達にわき道から自転車が飛び出してきた。自転車を運転している青年は片手で携帯電話をいじっていた。この時は百夜たちも会話を楽しんでいて自転車の接近にきづかなかった。お互いが気付いたときに残された間はわずか一メートル。
「!?あぶない!」
百夜が叫んだとき、まさに自転車の大きな車輪がなむを撥ねんとするところだった。
「きゃっ!」なむの短い悲鳴。そして。
「んがああああ!!?」
自転車を運転していた青年の絶叫が辺りに木霊した。
青年は最近流行の携帯ゲームをプレイしていた。最初は携帯でできるゲームなんてたかが知れてる、と馬鹿にしていたのだが、これがやってみると案外面白いのだ。起動が速いからすぐ遊べるし、指をすばやく動かすのと連動して鳴るサウンドの軽快さが生む爽快感にすっかりはまっていた。そしてライバルである友人達よりも少しでもスコアを稼ぐため家からバイト先までの道で自転車を運転しながら操作する技術を編み出したのだ。
彼はこの技術を自分の発想と練習で生み出したことに誇りすら持っていた。「どうだ!これが俺の考え出した時間活用術だ!」と。
しかしそれも小学生の二人組みに突っ込むまでの話だった。
彼が彼女達に気付いたとき、彼の頭には「やばい」とも「こんなことならスマホなんてしながら自転車乗るんじゃなかった」とも浮かんでこなかった。車輪が可憐な女の子にぶつかる瞬間、ただ彼の心臓はカチンと凍りついたようだった。
その直後、彼は空を見上げていた。別にぶつかる瞬間を見たくなくて上を向いたわけではない。彼は突然、全身に殴られたかのような衝撃を受けて宙を舞っていたのだ。
「んがああああ!!?」
え?なに?なにこの浮遊感。っていうか体中痛いのはなんで?
そして彼は背中から地面に叩き付けられた。
青年が自転車ごと吹っ飛んだ後、百夜が怒鳴った。
「ちょっとやりすぎよあなた!」
その視線の先はなむの右肩に向けられていた。そこには小さなくすんだ赤色のトカゲが乗っかっていた。
「なむ殿。ご無事ですか」
トカゲは百夜の言葉を無視してなむの心配をしている。
「はい。いつもすみません。地龍さま」
「これぐらいどうと言うこともありません。しかし、いくら我が付いていると言ってもいささか不注意でしたな」
「ちょっと聞いてる!?」
「ごめんなさい地龍さま。でもありがとう」
「いえいえ。とんでもございません」
なむには龍が付いている。その名も地龍。
なむの家は神社だ。神道系の神々を祭っている。だが、具体的にいえばその神々の使いとも言うべき三体の霊龍を祭っているのだ。
それは天龍、海龍、地龍の三体。三体はそれぞれ大気と海と大地の霊力の循環(風水などでは”地脈””龍脈””気脈”などと表現される地球自身の持つ気の流れ)を司っている。常に地球の体調を健康に保つのが彼らの使命だ。彼らの存在あってこそ天候は移り変わり、潮の流れが定まり、大地は沈まない。
しかしいくら天候や災害をコントロールする龍たちといえど、否定的で暗い、ネガティブな気を持って集まられるとそこの支配権が弱まってしまうらしい。すると、そこでネガティブな気が増殖する。それが周囲に散らばる。そしてまたそこでネガティブな気を強くし始める…と、まさに悪循環が起こってしまう。
龍たちの力は強大だ。いわゆる”大自然の猛威”そのものだ。時としては自然災害、また別のときには天の恵みと呼ばれるものと同じなのである。
しかしその規模、エネルギーの強大さ故に細かい仕事に向いていない。ネガティブな気の塊を顔にできるニキビとするなら、ニキビひとつ潰すのにたわしを持ってくるようなものである。勢いよくこすってしまったが最後、顔面が傷だらけになってしまうように地上がめちゃくちゃになってしまう。
そういった悩みの種を人間レベルで解決するのが、なむの一族なのである。
なむの一族は龍たちから力を与えられ霊力の循環を護るため奔走し、その対価として一族の繁栄や富を手に入れた。
なむはその一族の娘なのだ。
なむ個人の話に戻る。
彼女はまだ幼い。だが素質がある。やがて強力な使い手になるだろうとなむの両親は確信していた。だが、ICBM(大陸間弾道ミサイル)しかり原子力しかり、強大な力ほど慎重に扱われなければならない。なむは今、その力のコントロールを学ぶために龍から力の一部を借りて練習している。
それがこのトカゲである。
しかしこのトカゲ、非常に力の使い方が大雑把で、彼女の身を護るためにあたり構わず吹き飛ばしてしまう。コントロールをトカゲ任せにせずに扱えるようになるのが当面の彼女の課題らしい。
百夜はぐいと、なむの腕を引っ張った。
「はやく逃げるわよ」
「え、でも、お兄さんが」
「いいから!まだ意識はあるみたいだし大丈夫よ。むしろいろいろしゃべられたら面倒だわ」
百夜に花子も同調する。
「私もそう思う。はやく行こう。なむちゃん」
「う、うん」
なむはまだ大向けで呆然としている青年が気がかりだったようだが、百夜の強引な先導のおかげで騒ぎになる前に逃げ切ることができた。
なむの自宅兼神社に荷物を置いて三人は地図を頼りに歩いた。
「着いたわ!」
そして”ふみ”の家を確認した百夜はためらいもせず呼び鈴を押したのだった。
それを見たなむが、「あ」と言ってそわそわしだした。花子が尋ねた。
「ん?どうしたの?」
「わたしたちふみちゃんとお話したことも無いけど、いきなり来てだいじょうぶかな」
なむの心配はもっともな話である。ここにいる三人の内一人として”ふみちゃん”とやらと顔を合わせたことのある人間は居ないのである。
だが、花子は落ち着いていた。
「ああ、それなら百夜がなんとかするよ」
「な、なんとかって…」
するとインターホンからおそるおそるといった調子で女性の声がした。
「…どなたですか」
「私たち、ふみちゃんの友達(予定)です!お見舞いにきました」
なむがおろおろしているとふみちゃんの母親らしき女性が出てきた。
なぜか百夜たちをみてほっとしたようだった。
「…ふみのお友達?」
百夜が前に出て言った。
「はい!わたし天原百夜ともうします。今日はふみさんが早退されたのでお見舞いにきました。あ!これお見舞いの品です」
そう言って家に来る前に寄ったコンビニで買ったゼリーやスポーツドリンクやらが入った袋を差し出した。
「まぁ。気を使わせてごめんなさい」
「いえいえ、とんでもないです。同じ学校の生徒ととしてやるべきことをやったまでですわ!」
「ま~、よくできた友達ねぇ」
女性は心底感心した様子だったが、後ろの花子となむは別の意味で感心していた。本当に”演技が”よくできてるなぁ、と。
女性が部屋の前まで案内してくれた。ドアの前に赤いランドセルが置いてある。
「あの子ったらこんなところにおきっぱなしにして…。ふみ~!友達がお見舞いに来てくれたわよ」
するとドアを少しだけ開かれた。
「だれ…?」
百夜は間髪入れず足をドアの隙間に差し込むと「お母様。ありがとうございます!すこしふみさんとお話したいので!」と言って部屋に押し入りドアを閉めた。
百夜はすかさずふみに近寄り頭を下げた。それを見て叫びそうになっていたふみは言葉を飲み込んだ。
「私はあなたのお話しがききたいだけ。人食いランドセルの噂、知ってるのよね」
ふみは泣き出した。百夜がばつが悪そうな顔をしている。花子がなむを一瞥すると、なむは頷いて持っていたハンカチでふみの涙を拭いてあげた。
「ったく百夜はいつも強引過ぎるんだ」
「だって気になるじゃない」
「相手は小学生なんだからさ」
「私も小学生だし、このぐらいなんともないかなって…」
「あなたが図太すぎるのよ。あたしは百夜が小学生なのを忘れそうだよ」
「しっ!二人ともしずかにして」
なむが二人を黙らせてふみに優しく声をかけた。
「ふみさん?もう一度言ってくれる?さっきなにか言ったよね」
嗚咽のなか、ふみはしぼりだすように言った。
「怖かったの…」
「なにが怖かったの?この二人?そしてらすぐに追い出すから安心して」
「「ちょっと待って」」
しかしふみはふるふると顔を横に振った。
「ちがうの?なにが怖かったの?わたしができることならなんでもするわ」
「…ランドセル」
「ランドセル?」
ふみは手が震えている。
その手をなむは自分の手でやさしく包んであげた。
するとふみは助けを求めるようなまなざしをなむに向けた。
「人食いランドセルはほんとうにいるの。るみちゃんが…、るみちゃんが食べられちゃったの!」
百夜となむはひとまずふみを落ち着かせるためにスポーツドリンクを飲ませて、背中をさすってあげていた。花子も家を回って異常がないか確認した。
落ち着きを取り戻したふみは小さな声でことの始まりを話し始めた。
「昨日、学校から帰ってたときに、るみちゃんと一緒に帰ってたんだけど、男の人に声をかけられたの。それで『きれいなランドセル、欲しくないかい?』って言われて、るみちゃんが一つもらったの。見たこと無い刺繍だったけど、すごくきれいだった」
「怪しいやつね。なんで逃げなかったの?」
百夜が質問すると、ふみはうつむいた顔をさらに背けるようにして言った。
「その人の顔…すごくかっこよかった…」
イケメンというのはやはり対人間の強力な武器らしい。
「なるほど。気持ちは分かるわよ。女の子ならだれだって、ね。だから大丈夫よ」
でもきっと百夜なら逃げるどころか殴りかかって撃退するんだろうな、と花子は思った。
ふみは続けた。
「それで、明日それに教科書を入れてくるって約束をして…。次の日に、いつもの待ち合わせの場所に行ったんだけどその途中で今度は変な格好の人に話しかけられたの。『お嬢さん、人食いランドセルの噂って知ってるか?知らない人からランドセルをもらうとランドセルに食べられちゃうんだ。ランドセル欲しいかって言われてもすぐ逃げるんだぞ』って」
「それで集合場所で待ってたんだけど、るみちゃんがこなかったの。その男の人に言われたのが心配で、るみちゃんの家まで行ったんだけど…。…そしたら家の前にパトカーが止まってて、るみちゃんのお母さんが真っ青な顔で立ってた。あいさつしたら、『るみちゃんがどこに行ったか知らない?』って」
「理由は教えてくれなかったけど、今日は学校に行けないから先に行ってて、って言われた。でもわたしだってそんなに子供じゃないの。るみちゃんが居なくなっちゃったんだって分かった。ランドセルに食べられちゃったっていうのも…分かっちゃったの」
百夜が質問した。
「ランドセルはるみちゃんの家に?」
「分かんないけど、るみちゃんのお母さんは知らないって」
百夜は怒られないようにランドセルを隠す女の子の姿を想像した。たとえもらったのがばれてたとしても、一晩くらいなら家におきっぱなしも有り得るだろうとも思った。
「途中で会った男ってどんなやつだったの?」
「フードで顔の上半分は隠れてたからよくわかんないけど…。あと、すごいたくさんのポケットがついたコートをきてた」
「すごいたくさんって、どのくらいよ」
「いやもうすごかったよ。背中もコートの端っこのほうもみんなポケットになってたの」
「それは…すごいな。色は?」
「コートもだけど、靴もズボンも真っ黒だったと思う」
「なるほど、ありがとう」
それから百夜は、この部屋に結界を張るといってお札を貼っていった。天井と床の四隅の八箇所に張り終わると、部屋の中心で手を合わせて祈った。
「境界を司りし神々よ。悪霊に狙われた少女を護れ!迫りくる悪意を撃退せよ!」
そう叫んだ後、両手を思いっきり叩いた。その音は大きくて、ぱぁんという振動が家の外まで広がったように思えた。
なむは今まで重苦しく淀んだ空気が、澄んだものに変わったような気がした。
「…さぁ。これで大丈夫よ。部屋のお札ははがさないようにすること。もし何かが来てると思ったら、この札を使いなさい」
そう言ってふみにお札を何枚か差し出した。
「できれば直接ぶつけたいけど、壁に貼ったり相手に向けるだけで効く場合もあるわ」
「あ、ありがとう」
ふみはお札をぎゅっと握り締めた。
「今日は急にお邪魔して悪かったわ。でもお話が聞けて良かったわ」
「ううん。こちらこそありがとう。…あしたもまた会えるよね?」
不安そうな瞳を向けるふみに、百夜はにっこりと頷いた。
「もちろんよ。あなたが会いたいと思えば必ず会える。私もまたあなたに会いたいわ」
ふみの家を出ると百夜がなむと花子に向かって言った。
「今時間は十七時前。今からるみちゃんの家に行きます!」
二人に異論は無かった。
るみちゃんの家はふみの家から50メートルと離れていない場所にあった。
百夜はふみの家でやった手口で入ろうとしたが、るみは風邪がひどいから会うことはできないとインターホン越しい言われてそれっきり呼び鈴を押しても返事が無かった。
「まぁ居ない人に出て来いっていっても仕方ないわね」
「るみちゃんは食べられちゃったんでしょ?どうして会いにきたの?」
「ひとつはもしかしたらるみちゃんは食べられてなんかいなくて戻ってきてるかもっていう可能性があったから」
「でも居なかったね」
「みたいね」
そこに花子が戻ってきた。
「ただいま~」
「どうだった?」
「いないね、やっぱり。部屋から物置から天井裏も見たけど居なかったよ。もちろんランドセルもね。ただ、部屋には嫌~な感じの気が残ってたわ」
「邪気からして人食いランドセルも実在したと見るべきね。じゃあ、ランドセルはどこに行ったのかしら」
「さぁ。持ち主の男のところに戻ったか、野良犬みたいにさ迷ってるのか」
「花子。あんた追跡できないの?邪気分かるんでしょ、邪気」
「犬扱いすんな!あたしが分かる程度なんてあなたたちと同じようなレベルよ」
百夜がう~んと頭を抱えて悩んでいたが、一分ほどすると「わからん!」と叫んでギブアップした。今晩はなむの家にみんなで泊まることとなり、今日の調査はここまでとなった。
事が起きたのはその日の深夜だった。
「やばいわ!!!」
百夜が叫んで飛び起きた。なむのふとんをバンバン叩く。
「な~に?どうしたの」
なむが眠たそうにまぶたをこすっている。
「ふみさんの部屋の結界が壊れかけてる」
「え!?」
「すぐ行くわよ!」
二人は寝巻きも着替えず外に飛び出した。
丸い月に照らされた町は足元の石も見えるほど明るい。走る分には困らなかった。
駆け出した二人に花子も並んだ。
「先に行ってるぞ!」
そういうと花子は幽霊の特権を生かして、まっすぐ最短距離を飛んでいった。
ふみは部屋の中で震えていた。ドアがバン!バン!と大きな音を立てて揺れていた。まるで何かがドアに向かって体当たりを繰り返しているようだった。
なによりも恐ろしかったのは、ドアが揺れるたびに部屋の隅に貼ってあったお札に亀裂が入っていくことだった。気づいたら半分以上も破けているものもある。
一回音が鳴る度に、ほんの少しずつではあるが、確実に破れが大きくなっていくのが分かった。ふみはお札を握り締めてうずくまっていた。
人食いランドセルが来た!本当に来た!るみちゃんの次は私なんだ!どうしたらいい?どうしたらいい!?
この時、ふみは間違いなく岐路に立たされていた。その十年の生涯を終えるか人生を掴み取るか、のである。
人間は窮地に陥ったとき、その人間が自ら育んできた本質を行動と言う形で顕わにする。
この行動は大別すると二種類に分けることができる。
自らの頭で考えた上の行動で窮地を脱するか、思考を停止させ窮地に飲み込まれて沈んでいくかである。
ふみの持つ十年あまりの生活の蓄積は、彼女を前者へと導いた。
ふみは命の際に立ったこの瞬間にも考えることを止めなかったのだ。
(なにか。なにか。この音を止めるにはどうしたらいいの!?)
ふみはドアを見た。大きな音を立てて揺れるドア。ドン、ドンと繰り返される揺れ。
そうだ!このお札をドアにそのまま貼っちゃえば、もう入ってこれないんじゃ!
ふみは生涯で一番の勇気を振り絞り、怖いのを胸の底へ押し込んでドアに近づいた。
できる限り離れたところから腕をめいっぱい伸ばし、札の端っこを持って恐る恐るドアに近づけていく。後もう少しでドアに触れる。あと十㎝。あと一㎝…。
しかしドアが揺れた瞬間、バチッという音とともに腕が跳ね返された。取り落とした札を見ると青い炎が上がっており、瞬く間に燃えて灰になってしまった。
ふみの背中をゾクッと悪寒が走った。
(もうだめかもしれない)
絶望の黒い感情が足元から這い上がってくる。震えが骨の芯から染み出てくる。
恐怖が、彼女の心の全てを包み込まんとした。
しかし、彼女に残った一握りの思考が最後のあがきを見せたのである。
ふと、ふみは思ったのだ。
(今のはタイミングが悪かったんじゃないかな)
その可能性を考えた直後、ふみは頭の中に一筋の光が差しこんだ気がした。光は、ひとつの道を示した。
(そうだ。さっきは近づいて「ドアが揺れたとき」にはじかれたんだ。でも揺れには間がある。揺れが止まっている間は大丈夫かもしれない)
(もしかしたらこれもダメかもしれない…。うまくいくなんて分からない。正しい方法なんて教えてくれる人は誰もいない。でも…)
ふみは歯を食いしばった。
(わたしは生きたい!まだ諦めない!!)
ふみは再びドアの前に来た。そして揺れと揺れの間を見計らって腕を伸ばした。
しかしタイミングが合わず、丁度揺れた瞬間にドアに触れてしまった。
その瞬間、稲光のような閃光とともに爆風のような衝撃が広がった。その衝撃は凄まじく、ふみが背中からドアの真向かいにあったベッドに叩き付けられるほどだった。
ふみは悶絶した。今まで味わったことのない全身の痛みと意識のゆがみ。おぼろげな視界の中、青白い炎に包まれたお札が飛び散っているのが見えた。
(もうこのまま寝てしまいたい)とふみは思った。それでまた何事も無かったかのように起きるのだ。ああ。なんだ。あれは悪い夢だったんだ…。
だが、ふみの歪んだ世界にドン、ドン、という音が響いてきた時、ふみは現実に引き戻された。
そうだ。まだ私を食べるためにやってきた奴がいる。私はまだ何もできてない。早くお札を貼らなくちゃならない!
ふみの意思は生き残るために闘うことをいまだ諦めてはいなかった。
ふみは軋む体に鞭打って起き上がるとドアに向かって歩き出した。
そしてドアの前でふみは座り込んだのである。
ふみは手に札を持って揺れるドアにぎりぎりまで近づけた。
さっきはタイミングが悪かっただけ。注意すれば大丈夫なはず。じれったい…。じれったいけど、よく音をきいて。リズムに注意して。慎重に慎重に…。
心臓が止まったかのような重苦しい時間が過ぎる。
(いま!)
ふみは勢いよく札をドアに叩き付けた。ドアに触れた札はまるで自ら吸い付くようにぴっちりとドアの表面に張り付いた。
するとどうだろうか。次に揺れると思われたタイミングで、ドアの向こう側からギャンという小さな叫び声のような音がした。かと思うと音が止んだではないか。
ふみはその場にへたり込んでしまった。そして「は~っ」と大きく息をついた。これで明日の朝まで大丈夫かもしれない。
だが、そう安心したのも束の間。
ドアの向こうから母親の声が聞こえた。
「ふみ!何をドンドン鳴らしてるの!ご近所迷惑でしょ!」
ふみはドキッと心臓が締め上げられたようだった。
部屋の外には人食いランドセルと思われる何かが居るはずである。
だが、母親はそのことは一切知らない。もし、そのままこの部屋の前まで来たら…。
「お母さん!大丈夫だから!来ないで!」
だが、足音が止まる様子は無い。
どうしよう、どうしようと迷っている間にも足音はどんどん近づいてくる。
「来ないで!来ちゃダメだってば!」
その直後、きゃあ!という叫び声が上がった。
このままじゃお母さんが食べられちゃう!
その時、ふみは握り締め手にまだお札が残っていたことを思い出した。
これならお母さんを助けることができるかもしれない。そう思ったふみが部屋を飛び出すのを誰が止められようか。
だが、ドアを開けたらそこには明かりも灯っておらず、暗闇と静寂があるだけだった。
突然ふみの腹部に強い衝撃があって、ふみは部屋の中へ叩き戻された。もんどりうったふみはすっかり混乱していた。
さっきの足音は?お母さんの悲鳴は?なにがどうなってるの。
床に転がったふみの前に何かが近づいていく。部屋の明かりに照らされた、もぞもぞと動くそれをふみははっきりと見た。それは繊細な白い刺繍の入った鮮やかな赤いランドセルだった。
ランドセルの蓋が開く。そこに現れたのは大きな口だった。教科書を入れるスペースの縁の部分にぐるりと一周、人間のような歯が並んでいた。そしてその奥、数十センチの四角い空間は無限の奥行きが続いているように見える暗黒で満ちていた。暗黒を間近に見てしまったふみは、その闇は光さえも飲み込んだら二度と抜け出せなくしてしまうように感じられ、怖気が走るような恐怖を覚えた。
ランドセルは蓋を舌べろのように波打たせて、ふみに迫っていった。
花子は5分足らずでふみの家まで着くと、壁をすり抜けて一直線にふみの部屋に降り立った。部屋に飛び込んだ花子目の前には、ベッドの足にしがみついて両足をランドセルに飲み込まれているふみの姿があった。
(なにこれ!?)
肩紐や蓋をうねうねと波打たせ、ふみの体に絡みつくランドセル。そして泣を流しながら必死にもがいて抵抗するふみ。
異常かつ荒唐無稽な光景が広がっていた。
しかし花子は冷静だった。率先して奇怪な存在に絡んでいく百夜と行動を共にして三年。とっくに肝は据わっていた。
(もしかしてこいつが噂のランドセルか?ええい!どちらにせよやることはひとつ!)
「このやろう!」
花子はランドセルを霊力を込めて横合いから思いっきり蹴りつけた。
ぐえっ!と気色悪い声がランドセルから漏れた。
実体を持たない花子だが、彼女の得意なことの一つは霊的なエネルギーを凝縮させる―つまりは”強く思う”―ことで物体に影響を与えることだ。
要するに、花子は飛んで殴れる。
「もいっぱつ喰らえ!」
さらに強く蹴り込むとランドセルが絞るような声を上げた。そしてふみの足を掴んでいた紐が緩んだのが分かった。
「ふみを放しなさい!」
花子がランドセルを掴んで引き抜く。足が完全に出たところでランドセルを壁に叩きつけた。
「ふみ!だいじょうぶ?足はなんとも無い?」
「え?え?な、なにがあったの?」
「私が誰かなんてどうでもいい!足は大丈夫か?」
「ランドセルが壁に飛んでって動かなくなってる…?」
「しまった!?私が見えてないんだった!」
「あ!また動いた!」
「なにぃ!」
振り返ればランドセルが窓ガラスに向かって近づいているところだった。
「まて!」
花子が捕まえようと飛び掛るもランドセルの方が一瞬早く窓ガラスを割って外に飛び出していた。
ランドセルもまた必死だった。
(なんなんだあの女!?わけが分からないが、とにかくあの蹴りは強かった。早くこの場から逃げなくては、こっちがやられてしまう!)
外へ飛び出したランドセルは屋根を滑り、塀の上を転がるようにして暗い道路へと下りた。
その道路には二人の少女が立っていた。
「こいつね。外見がもう悪意の塊って感じ」
ランドセルはとっさにしゃべった方とは別のおとなしそうな方の少女に飛び掛った。
くせっ毛の方が厄介だろうというのはランドセルの直感がはっきりと告げていた。
この二人もさっきの奴の仲間かもしれない。だったらただ逃げても掴まってしまうかもしれない。でも、弱そうなもう一人の方に体当たりして骨でも折れれば、くせっ毛がそいつにかまっている間に逃げれる!
たしかに、ランドセルの判断は筋が通っていた。
だが、この二人には道理が通っていなかった。
少女にぶつかる瞬間、ランドセルは爆弾が炸裂するようなとてつもない衝撃で吹き飛ばされた。
衝撃のあまりの強さにランドセルの表面が裂け、蓋を止めるホックが砕け、肩紐が千切れた。
光も音も無い。まるで見えない巨人に思いっきり殴られたかのようだった。
道路を何十メートルも転がったランドセルは、息も絶え絶えに逃走を試みたが足代わりだった肩紐がちぎれうまく動けない。
這いずるランドセルの傍にゆらりと影が立った。
「逃がさないわ」
百夜はランドセルに掴みかかる。そしてランドセルの口をこじ開け、強引に腕を突っ込んだ。
ぐげぇとランドセルが呻く。
「るみちゃん出しなさい!」
百夜があっちこっち腕をかき回す度、ランドセルの口から苦しそうな声が漏れる。そのうちに何かが百夜の手に触れた。
「これね!」
嬉々として百夜が引っ張り出したのは、真っ白な骸骨だった。
この骸骨、女の子が着るような服を身に着けていた。
なにこれ?と百夜が骸骨を詳しく見ていると、服の胸辺りに名札が着いていた。名札には「しろぐみ 四ばん くわばた きぬ」と書かれていた。
「ちがうじゃないの!」
百夜は骸骨を放り投げ、さらに激しくランドセルの中を漁った。
「ちゃんと出しなさい!」
ランドセルはもはや抵抗する力も残っていないのか、百夜になされるがままだ。
肩まで突っ込んで強引にかき回し、手に触れたもの全て引っ張り出していく。着物、人骨、筆、右読みの教科書など、年季の入ったものが次々出てきた。だが、肝心のるみちゃんが見つからない。
「まだまだまだまだぁ!」
引きずり出されたものが積み上げられ、百夜の背後に小山が出来ていく。
ふと、百夜の指に温かいものが触れた。
「人肌!これだわ!」
引き出された百夜の手にはパジャマをきた女の子がしっかりと掴まれていた。
「おっしゃー!救出せいこおうっ!?」
百夜が勝鬨を上げんとした瞬間、ランドセルがちぎれた肩紐が百夜の首を締め付けた。思わず空いていた方の手で紐を掴む百夜。
しかしそれは悪手だった。ランドセルは自身が破れんばかりに大口を開け百夜をその肩紐ごと飲み込んだのである。
百夜は飲み込まれるほんの一瞬、水飛沫を立てずに水の中に飛び込んだかのような奇妙な感覚を味わった。そして、四角い窓から光の差す闇の中に浮かんでいた。
百夜はもがいた。だが、いくら手を動かそうが足をバタつかせようが体がぐるぐると回るだけだった。
百夜は傍にるみが浮いているのに気がついた。
(ふー…。あいつ飲み込みやがったのね!絶対這い出ててやる!)
だが、百夜にやってきたのは更なる追い討ちだった。
空間がだんだん暗くなっていく。窓が、光が閉ざされていく。
(あ、こら!閉めるな!)
だが百夜の叫び声は届かない。
光の筋は瞬く間に細くなり、やがて消えた。空間は完全な闇に満たされた。
踏みしめる地面もない。目を閉じても開けても変わらない暗黒。百夜に残されたのは右手に握り締めたるみの服の感触と、自らの思考だけ。
まともに移動もできない。出入り口も閉められた。まさに絶望だった。ここに飲み込まれた多くの人間が、この状況に恐怖し考えることを止め、無気力の内に死んでいったに違いない。
不可能という恐怖は百夜にも容赦なく襲い掛かった。どうしたら移動できる?いや、さっき泳ごうとして無理だったじゃないか。真っ暗で自分がどこにいるのかもわからない。そもそも出入り口はどこだ?このままここにいてどうなるのだ?ゆっくりと餓死していくのを待つだけなのか?
恐怖の感情が這い登るように心を染めていく。自分の死の姿が目の前に浮かび上がる。その苦しみを想像し、更なる恐怖が湧き上がる。恐怖が恐怖を生む悪循環は人間をいとも簡単に発狂させてしまうに違いなかった。
そして百夜は心の中で叫んだのだ。
(ふざけるんじゃないわよ!!!)
と。
(自分の頭で考えることを止めるのは、自分の人生を捨てたのと同じ。ある詩人は「我こそ我が運命の支配者にして、我が魂の船長なり」と言ってたけど、逆を言えば船長が舵を握らなくなったら船は海に漂う棺桶でしかない。諦めは人を殺すのだ。絶対に諦めてなんかやるものか!必ず脱出してやる!!)
百夜の魂を奪おうと伸ばされた悪魔の手を払いのけ、新たに百夜の心を占めていたのはどうすれば脱出できるだろうかという思索だった。
(まず、冷静になりなさい。自分に今できることはなにかを考えるのよ、百夜。とりあえず…何持ってたっけ?)
百夜は空いた手でポケットや懐をまさぐった。懐に邪気払いの札が二枚と忘備録のためのメモと鉛筆が三本。ポケットティッシュが十枚分。ハンカチが一枚。財布と小銭が何枚か。
(まぁ、こんなものね。他に見につけてるのは…服くらいか)
それから百夜は少し思案してるみの体を引き寄せた。
(嫁入り前の娘に対して申し訳ないけど…ちょっとごめんなさい)
心の中で詫びた後、るみの持ち物を物色し始めた。
るみはこれから寝るところだったのだろうか。あたたかそうな服の感触のほかには持ち物らしい物はない。百夜が手をるみの頭に触れたとき、るみの髪が縛られているのに気がついた。
そのとき、百夜の頭脳に熱いものが駆け巡った。
百夜は暗闇の中、手の感触だけを頼りにるみの髪を辿っていく。そして髪を止めていた髪ゴムを慎重に取り外した。
百夜が飲み込まれた瞬間、花子となむの二人は何が起こったのかをすぐに理解できず硬直していた。
ランドセルがもぞもぞと離れていこうとして、ようやく我に返った花子が叫んだ。
「百夜!!ちょっとふざけないでよ!!止まんなさいこのランドセルが!!!」
慌ててランドセルを取り押さえた花子に、すぐになむも駆け寄った。
「百夜ちゃん!!嘘でしょ!?ほんとにこの中に食べられちゃったの!?」
なむが愕然とした表情で花子を見た。花子はランドセルの肩紐を握り締め、暴れるランドセルを必死で抱きしめていた。
「なむ!私が抑えてるから!こいつの口をこじ開けて!!」
「う、うん」
しかし、なむが歯の間に指を入れようにもランドセルの口はまるで一枚の板のようにがっちり噛み締めていてうまくいかない。
手間取っているとランドセルの舌のような長い蓋がなむを突き飛ばした。なむが地面に転がった。
「なむ!大丈夫か!?」
花子の言葉に、なむは何も答えず無言で起き上がった。
「な…む…?」
そのときのなむの目を見た花子はもう無いはずの背筋にゾッと鳥肌が立ったと感じた。後に「凍てつく青い炎が燃えているような目」と述懐する程の目つきでランドセルへ歩み寄った。
なむは歩きながら心の中で言った。
(われを護りし大地の龍よ。命令です。力を貸しなさい)
するとなむの頭に別の声が響いた。低く太い逞しい声。肩に乗った地龍の声だった。
(しかしながら私めの力では花子どのも吹き飛ばしてしまいかねません)
(…それならわたしの体に直接力を宿せばいい。そうすれば吹き飛ばすなんてことはない。あなたにはとにかく、私の身体が耐えられる限界まで力を注いでほしい)
なむの思いは強くはっきりとしていた。今までにはない決意を含んだ思いだ、なむは地龍が満足そうに頷くのを感じた。
(御意)
近づくなむを突き飛ばそうとランドセルはまた蓋を伸ばしたが、なむはそれを避けようともしなかった。しなる蓋が激しくなむの顔を打つが、なむは倒れない。それどころか抱くようにして蓋を受け止めると腕と脇を使って締め上げてしまった。
華奢ななむの腕に血管が浮き上がる。手が真っ白に変色するほど強くこぶしを握り締めている。花子にはなむが怒っているだと分かった。しかも、かなりだ。
なむはランドセルをグイと引き寄せるとそのまま頭突きを喰らわせた。
「なむ!?なにを…」
「はやく私の大事な友達を返しなさい!!!」
二回、三回と頭を振り下ろすなむ。花子は血の滲み始めたなむの額を見てぎょっとした。
花子は過去数回ではあるが、なむが怒った姿を見たことがある。だが、これ程までに怒りを顕わにしたのは初めてだった。
怒った人間にただ止めろと言っても素直に従うことはまずない。たとえそれがなむだとしても。だが、これ以上続けさせたらなむの頭の方が砕けてしまいかねない。
それなら。
「なむ!私にもやらせなさい!!」
そう叫んで花子は片腕で必死にランドセルを抑えながら、もう一方の腕の肘鉄を打ち下ろした。急に割って入られたなむはむっとして花子を睨んだ。だが花子が肘鉄を喰らわせている間は頭突きを止めてランドセルを押さえ込む方に入ってくれた。
花子の狙い通りだった。だが、想像以上にこれは疲れる!
たとえ肉体のない花子といえど疲れる。それは極度の集中の後に来る疲労感のような精神的なものが原因だ。
その中でも花子の物体を持ち上げたり蹴ったりするのは特に精神疲労度が高い。
花子にはこの肘鉄攻撃もそう長くは続けられないことは分かっていた。
しかしこれを止めると今度はなむが暴れてしまう。だからどんなに辛くても続けなくてはならない。百夜が戻るまで。
「ああもう!早く出てきてよ!!百夜!!」
百夜は暗闇の中に響き始めたゴン!ゴン!という音を聞き逃さなかった。
百夜は注意深く耳を澄まし、音のする方を探る。
(ここ!!)
百夜は自分の足元へ向かって左手突き出した。
その手には鉛筆が二本、中指と人差し指の間と中指と薬指の間にそれぞれ挟みこまれており、その二本の先端に髪ゴムが結び付けられて簡易パチンコになっていた。
百夜は札を巻き付けた消しゴムをパチンコにセットし、慎重に狙いを定めて打ち込んだ。
花子が12回目の肘鉄を振り下ろそうとした瞬間、稲光のような閃光と共にランドセルの固く閉ざされた歯が内側から吹き飛んだ。
「ぎゃっ!!?」
そう悲鳴を上げたのは花子である。
なむも驚いていたが、ランドセルの口が開いているのを見て、慌ててランドセルの中に腕をつっこんだ。
驚いたのは百夜も同じだった。思ったよりもずっと近い場所で札が反応し、予想していなかった衝撃が百夜とるみを吹っ飛ばしていた。
しかもその後に差し込んだ光の中から腕が伸びてきてめちゃくちゃに動いたと思ったら、空間がまるで洗濯機の中のように激しくかき混ぜられたのであった。
外から手をいれると空間全体をかき回すことが出来るのね、なるほど。だからこのだだっ広い中で私もるみちゃんを掴まえれたのね!と、始めは余裕のあった百夜だったが、しばらくするうちに目が回ってきた。だが、まだ攪拌は続いている。そのうち頭が揺さぶられ意識が朦朧としてきた。
(早く出して~!!!)
ある意味で先程よりもピンチに陥っていた。
花子がなむを心配そうに見て言った。
「ど、どう?百夜は…」
「ま、まだちょっと待って。どこにいるのかよく分かんなくって…」
焦るなむ。手に触れたものは片端から取り出していたが、なかなか百夜が掴めないでいた。
「う~。百夜ちゃんどこ~」
花子もそわそわと落ち着きがない。正体不明で奇々怪々なランドセルに飲み込まれたのだから、心配も大きかった。
でも、と花子は思い出す。百夜は一回でもるみを掴み出したではないか。それならまだ生きている可能性は高いはずだ。それに、なによりも先程の閃光は百夜の札の仕業に違いない。だったらまだ大丈夫。
花子はなむにもそう言い聞かせた。
「うん。そうだよね。百夜ちゃんだもん。ぜったいだいじょうぶ」
なむは気持ちを落ち着かせてもう一度手を入れた。
(百夜ちゃん…。お願いだからこの手に掴まって…!)
つと、なむの指先に触り慣れた髪の毛の感触があった。
「きた!!!」
なむは髪をまさぐり、百夜の着物の襟を掴むと力任せに引っ張った。
なむの手によってランドセルの口から真っ青を通り越して白くなりつつある百夜と百夜に服を掴まれたるみが飛び出した。
「百夜ちゃん!!!」
なむは心配そうに道路に横たわる百夜を覗き込む。
「まだ生きてるみたい…私…」
「百夜ちゃん!!もう…ほんとによかったぁ~」
なむはぐったりとした百夜を抱きしめて泣き出した。
「ふふ…。なむちゃん…花子…。ふふ…。二人とも悪かったわね…。なむちゃんおでこ大丈夫…?」
「お、おい。ほんとに大丈夫か…?」
百夜のか細い声に花子は不安になった。
「大丈夫…。ちょっと酔っただけ…」
百夜は目を閉じて数回深呼吸すると、ゆっくりと立ち上がった。
「で…。あのランドセルはどこいったの?」
「それならここにいるが…」
そう言って花子は動かなくなっているランドセルを差し出す。
百夜がそれを受け取ると、そのランドセルの壮絶な様子をしげしげと眺めた。
「なんか、私が飲み込まれる前よりもすごいことになってない?札のせい?」
花子は思い出すのもめんどくさかった。
「あ~…。こっちも必死でね…。いろいろあったんだよ」
百夜はなむと花子の乱れた服や身体の傷をみて、頷いた。
「そう…。心配かけたわね」
百夜は短く息を吐いて気を引き締めた。
「さぁ。仕上げよ」
百夜は懐から札を一枚取り出した。札をおでこにあて、念を込めると札が赤く染まっていく。それを道路に置いたランドセルに貼り付け、手を叩くのと同時に「滅!」と叫ぶ。
カッ、と白い光が放たれ、ランドセルを包み込んだ。光の球の中から”キョ”と短い断末魔が聞こえたと思うや否や、ランドセルは風船が割れるようにばらばらに弾け飛んだ。
そして次の瞬間、ランドセルが飲み込んできたものが一気にあふれ出したのである。
「ちょっとおおおお!?」
大量の人骨やガラクタが爆風と共に百夜を巻き込み、道路を塞ぐような山をつくった。
「こんなにたくさんの飲み込んでたのか…」
花子が呆れた顔で骨の山を見上げていた。
その麓から骨を掻き分け掻き分け、百夜が這いずり出てきた。なむと花子が心配そうに駆け寄る。
「大丈夫?百夜ちゃん」
「生きていて何よりだ」
百夜は疲れ切った声で言った。
「はじめっからこうすればよかった…」
百夜はそう呟くと、ここまでの疲労が一気に押し寄せてきたのを抑えることが出来ず、そのままぐったりと倒れてしまった。
その夜の内に道路に突如現れた人骨の山は発見された。全国を仰天させる大事件となったが、骨が何十年も前の行方不明者のものである上に何十人分とあるのに加えて住宅街に堂々と遺棄されるという前代未聞の意味不明な事件なものだから、捜査が迷宮入りを果たすのは時間の問題だった。
るみちゃんは近所の空き地で倒れていたということにし、病院に運ばれた。ひどい衰弱状態だったものの、今は意識も戻り、体力の回復を待つばかりだった。ただ、すこしばかり暗所恐怖症の兆候が見られるという。
翌日、百夜となむ、花子の三人は席を囲んで話していた。
なむが大きなあくびを何度もしている。
「なむはずいぶん眠そうね」
と花子が言った。
「昨日はあんまり寝てないから…」
と、言いつつまたあくびをしている。
「授業中に居眠りするなよ」
でも寝てたら教科書立てといてやろうと花子は思った。
「百夜も寝てないだろ。大丈夫か」
しかし花子の言葉に百夜は遠くを見つめてピクリともしない。
「百夜?」
「ねぇ、二人とも。ポケットだらけのコートの男と、ランドセルを渡してた男って結局誰なのかしら」
「そんなこと知るわけ無いだろう」
「でもまた同じような事件が起こらないとも限らなくない!?犯人は捕まってないしさ」
「しかたないだろ。人食いランドセルは爆散してかけらも残ってないし、ランドセルから出てきたものには手がかりは無かったし」
「もう!すっきりしないわね!今日から見回りするわよ!」
「「え~!!?」」
花子となむの悲鳴が教室に響いた。
「もういいじゃないか。あのランドセルは相手の重要な道具だったんだ。それがなくなったら大丈夫だって!」
百夜は立ち上がって反論する。
「代わりを持ってないとは限らないでしょ!それに私は知りたいの!」
「私の知らない世界を!!」
それから数ヶ月たったある晩。
若い男が一人ふらふらと歩いていた。男は顔をフードで深く隠していた。
彼の息は荒く、時折覗く目は赤く充血していた。
男はくそっ、くそっと悪態をつきながら人気の無い道を歩いていく。
男の目には夜の道よりも数ヶ月前の出来事が映し出されていた。
行方不明者発見と突如大量に現れた人骨の事件。それは彼の作戦が失敗したことを意味していた。
彼は百年近く前に悪魔と契約して、条件付の不死と美貌を手に入れた。その条件とは15歳未満の子供の魂を捧げることだった。しかも一年に一度、六人の子供を生贄の儀式とともに捧げなくてはならないのだ。
彼は契約時、悪魔にさらに何人かの生贄をささげることで「人を喰う鞄」を手に入れた。それは彼の意思で自在に操り、鞄に限られているが形を変えることのできる代物だった。彼はこの鞄に人間の魂を溜め込んでおくことで毎年の儀式を行っていた。
この鞄が人間を喰らうにも条件があって、鞄を直接手渡した相手でないといけなかった。
あるときは直接「少し持って待っていてくれないか」といって持たせたり、渡す相手の知り合いの名前を使って「彼に渡しておいてくれ」といって持たせたりしていた。
男は思った。くそっ。なんでこんなことになるんだ。一体だれがどうやってあのランドセルを殺しちまったって言うんだ。
ランドセルを渡す方法は人を簡単に信用してしまう、あるいは疑うことをしない馬鹿な子供たちをだますには良い方法だった。
最近は自分の頭で考えて良し悪しを決める子供はより少なくなっている。今こそ狙い目だと思ったのだが、なにがあったのか鞄ごと計画が潰されちまった!せっかくの魂のストックもまるごと失った!
そしてつい二日前、儀式の日が過ぎた。それから男の顔は歪み始め、耐え難い激痛を起こしていた。
だれか、だれか殺さなくては。魂を少しでもささげなければ。せめてまた新しい鞄を手に入れられたならどうにかなる。早く殺さなくては!
ふと、前方にこつこつという靴の音がした。見ればまだ中学生くらいの制服をきた女子だった。
しめた!これでまた新しい鞄が手に入る。男は痛みで荒くなる息を必死で押し殺しながらゆっくりと近づいていく。
もう少し、もう少しだ。もう少しで薬を嗅がせられる。そしたらここですぐ物陰に隠れて悪魔を呼び出せばいい。幸いここは人気もないし木陰だらけだ。
我慢しろ。もう少しの辛抱だ。
しかし男は目の前のことで意識がいっぱいだったのだろう。自分の後ろに迫る影に気がつかなかった。あと一歩で女生徒の首に手が届くというところで男は口を塞がれ首を締められた。
木陰に引きずり込まれた男は叫ぼうとするが喉を締め上げられて声が出せない。
「貴様が子供たちを誘拐した犯人だな」
低い声が男の耳元で囁く。
「この首筋に浮かんだ痣は悪魔と契約した証拠だ。お前は殺す」
大きな手で塞がれた男の口周りから青色の炎が上がった。炎は瞬く間に男の全身を包んでいく。
「お前の口元に当たっているのは、聖水で焼き入れし神の言葉を刻み込んだ銀の指輪だ。悪魔に関わるものなら触れただけで消し炭になる。自らの弱さに負け、悪魔に使役された哀れな男よ。地獄で罪を償え」
しばらくして街路樹の暗がりから漏れていた青い光は消えた。その後、その木陰から姿を現した男はポケットにまみれたコートをはたいて埃を落とした。それから月明かりの下で気持ちよさそうに大きく伸びをした後、十個の指輪をはめた両手を適当なポケットに突っ込んで、心無しか軽やかな足取りで去っていった。
翌朝。川沿いの道に植えられた木々の根本に白い灰の山が積もっていた。それは何人かの通行人の目に止まったが、彼らは皆そのまま脇を通り過ぎていった。そして、それは風によって日が沈む頃には塵のひとつも残らなかった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
皆様の貴重な時間を使っていただけたこと、真に恐縮の至りです。
猫が瓶に落ちました。とある名の無い猫は死んでしまいましたが、百夜は仲間のお陰で助かりましたね。
一人ではどうにもならないときの、親しい友人の価値は金銭で測れないものがあります。
百夜は頼れる仲間がいるからこそ、思い切った行動が取れるのでしょう。
でも、心配かけすぎては築いてきた友情も元の木阿弥。
私も百夜も反省しなくては…。
書いていくうちに何故か自虐する方向に進んでしまうのは、あるある?