第二章―02
*わたし
引き籠もりの朝は遅い。というか、引き籠もりには朝という概念がない。寝たいときに寝て、起きたいときに起きるのだ。だからパジャマが標準装備なのさーと考えたら、もしかして引き籠もりって効率のいい人種なんじゃねー? って思った。世の中の働いてる皆さんごめんなさい、ただの戯れ言です。
一方、モトくんは学生かつ主夫なので朝が早い。登校前に朝ご飯を作り、洗濯物を干し、ざっと掃除をして本を読むくらいには早起きなのだ。そして、わたしが起きる頃には大抵モトくんは家を出ているのだった。
でもたまーに、わたしが早起きして朝のモトくんと顔を合わせることもある。
今日がそんな日で、せっかくなので読書中のモトくんに絡んでみた。
「もーとーきゅーん! おーはーよー!」
リビングのソファでコーヒーを飲みながらハードカバーを開いていたモトくんに、後ろから抱きつく。モトくんは余程不意打ちだったのか、ぶっとコーヒーを噴いた。
「ちょぉい! 何してくれてるんですかリュウコさん!」
「ん? わたし、何かした?」
「ハードカバーがコーヒーまみれですよ! ハードカバーが!」
モトくんが怒ったようにハードカバーをわたしの眼前に突きつける。白い紙が所々コーヒーの色で汚れていた。本のタイトルは……『無能探偵の事件手帳』? 作者の草野ゆいって名前は知っている気がしたけど、読書なんて中学生以来なわたしには興味なかった。
「せっかく新品だったのに。どうしてくれるんですか!」
「うーむ……。ではお詫びに、お姉さんのちゅーを差し上げましょう」
「いらないですよ! しかもそれ、リュウコさんがしたいだけでしょ!」
「何だとコラ! ちゅーに文句があるのか!」
「大ありですよ! だいたいまだ朝じゃないですか!」
「うむん? じゃあ夜ならいいのかね、夜なら。え?」
「…………まぁ、夜なら」
「……ていうか、いつもしてるじゃないですか」とモトくんが微妙に頬を染めてそっぽを向く。その、不機嫌の中に恥じらいを隠し切れないところが、かわいいなぁといつも思う。いわゆる「食べてしまいたい」的なアレだ。
だから、食べてみた。
「もーとーきゅーん!」
「うわわわわわ! 耳を囓るな、耳を!」
「おぉ? 動揺のあまり敬語が迷子になってるぞ、モトくん」
「やめて下さいって! 僕これから学校あるんですよ! リュウコさんに構ってる暇はないんです!」
「何だとこのやろー! リュウコさんより勉強のが大事なのかー!」
「当たり前ですよ! 僕は引き籠もりじゃないんですから!」
その一言が、何だか分からないけど結構来た。
胸に、ぐさっと。
「…………むぅ」
「……と、とにかく! 僕はもう行きますから。朝ご飯はきちんと食べて、食器は洗わなくてもいいから水に浸けて、あと歯磨きはちゃんとして下さいね!」
「なんだお前! 幼児扱いかコラ!」
「大差ないでしょうが!」
モトくんがわたしの腕からするりと抜け出し、鞄を持って玄関へ向かう。「じゃあ、行ってきます」と言うモトくんに「へっ! どこへでも行っちまいな!」と答えるわたしは……うぅむ、幼児と言われても言い返せないぜ。
モトくんがいなくなった後のリビングは、さっきまでの喧噪が嘘のように静まり返る。モトくんが一緒のときが賑やかすぎる分、落差が酷くて気分に水を差されたようになる。
まぁさっきのこともあったし。
フローリングに直に横たわって、「僕は引き籠もりじゃないんですから!」っていうモトくんの一言を、しばらく頭の中で転がした。
そうとも、わたしは引き籠もりだ。
お金を稼げなければ家事も出来ない、モトくんがいなかったらすることもない、社会の底辺な存在。今日もこれからモトくんが帰ってくるまでは暇なだけで、その時間は砂漠のように広がっている。今さら確認するまでもない事実にいちいち喉に小骨が刺さったような気分にさせられるわたしは、引き籠もりの中でも底辺に位置しているような気がした。
「あうあうあー」
ふてくされて床をごろごろしてみる。でも構ってくれる相手がいなければ、ふてくされても虚しいだけだ。
遠い天井に目を細め、立ち上がる。
お好み焼きを作ろう、と思った。
今のところ、人生で一番充実している時間はモトくんといちゃいちゃする時間。で、二番目がお好み焼きを作っている時間だ。その二つの時間を過ごしている間だけ、わたしは自分の人生を見失わないでいられる気がした。
らぶとお好み焼きだけで生きてるんだから、安上がりな人生ねー。
もっともその安上がりさは、わたしに人間の資格が不足しているからこそ成し得るものなのかも知れないけど。
モトくんの用意した朝ご飯を食べて、お好み焼きを作って、それをラップに包んで風呂敷に包んで、後片付けはしないまま家を出た。
引き籠もりだって、たまには散歩したい気分になるのだ。
でも引き籠もりだからと意地を張って、服は着替えずパジャマのままだった。お好み焼きの風呂敷とともにアパートを出てから、意地の張り方が間違ってるんじゃねー? とか思った。まぁまぁ、気にすんねぃ。
人通りもまばらな田舎町をのんびり歩きながら、昔のことを思い出していた。
たとえば、引き籠もりという現在地点を設置して、そこに至る過去の道程を描くとする。同じように、働いている自分というパラレルな現在地点も(想像できないけど)想定して、同じく道程を描く。
二つの道が分岐したのはいつだろうって考えると、思い出されるのはやっぱり十年前の出来事だった。
十年前、小学五年生のわたし。お母さんの再婚話と善意のお好み焼き、お葬式と線香の匂い。
十年前、お母さんが再婚をするって言い出したとき、わたしは暴れた。暴れて再婚話をぐちゃぐちゃにした末、お母さんに怒られ、そして許された。細部まではもう思い出せないけれど、そのときお母さんが作ってくれたお好み焼きの味と、お母さんの言葉だけは今でもはっきりと覚えている。
「お母さんじゃなくていいから、誰か他の人に、ひとついいことをしてあげなさい。お母さんは今あなたに、お好み焼きという名のひとつの善意を与えた。だからあなたも、いつかお母さん以外の誰かに、ひとつの善意を与えてあげるの」
「どうしてお母さん以外なの?」
「地球はそうやって回っているからよ。今は難しくても、あなたにもいつか分かる日が来るから。いい?」
分かった、とあのときのわたしは頷いたはずだ。でも結局、全てがうやむやになったままでわたしは現在に至っている。あの後は、それどころじゃなかったから。
あの日、再婚相手さんのやっているラーメン屋にもう一度話をつけに行くと言って出て行ったお母さんは、それきり戻らなかった。警察とカーチェイスをやっていた車に轢かれて、そのまま死んでしまった。
後で聞いた話だけど、お母さんは小さな女の子を庇って車に轢かれたそうだ。その女の子がどこの誰なのかまでは、わたしは知らない。ただその話を聞いたとき、お母さんは最後まで地球を回す人だったんだなぁって感慨深く思ったのは、何となく覚えている。
お葬式を済ませてから、わたしは親戚の家に引き取られた。過保護だったお母さんと違って、親戚の人たちはわたしに対して冷淡だった。同じ家の住人って以上の関心を払われなかったように思う。怒られたことが一度もなかった代わりに、期待されたことも一度もなかった。
高校を卒業してから成人するまでの二年間はその家で引き籠もりをやっていて、成人と同時に今のアパートの部屋を借りた。家賃とかその他もろもろは、お母さんの遺産から出した。
そのうち一人じゃつまらないと気付いたから、付き合っていたモトくんを半ば無理やり連れ込んで、同棲を始めた。
で、現在わたしは、愛があれば何とかなるさーという素晴らしい生活を送っているのでした。 めでたしめでたし。
「……………………」
言い訳とか現実逃避とか、そういうのをするつもりはない。
そのくらいだったら開き直って、正々堂々と引き籠もってやるという最低限の美徳は備えているつもりだ。
でも単純な事実として過去を振り返ったとき、わたしの岐路はあの十年前にあったんだなぁって気がしてならない。
もしあのとき、わたしが再婚に反対していなかったら。車が突っ込んでこなかったら。女の子があの交差点にいなかったら。
お母さんはきっと今も生きていて、わたしはお母さんのそばで暮らしていたはずだった。
怒られてばかりで、でもそれなりに期待されて、その期待に応えようと少しだけ頑張ってみたりして。
引き籠もりじゃなくて、大学に通っていたり、働いていたりするわたしというのが、存在し得たのかも知れない。
そう思って、でもわたしはその想像から翼を毟り取って、地面に落っことして踏みつける。
過去の事情に責任の所在を求めるくらいなら、言い訳なんてせずに堂々としていた方がまだマシだ。だからわたしは、その道が行き止まりに突き当たるまでは進んでみようと思って、前を向く。風呂敷に包んだお好み焼きを振り回して、やけくそ気味に腕を振って歩く。
歩きながら、そういえば結局、お母さんにもらった善意をまだ誰にも与え返してないや、なんてことを思った。