第一章―03
*僕
小説を書いていて、たまに落胆する瞬間っていうのがある。
他の人はどうか知らないが僕の場合は、夜のテンションで書いた文章を朝に読み直したときがそれに当たる。自分では凄く気持ちを入れて書いていたつもりが、後で読み直してみたら「なんじゃこりゃ」ってことで、ボツ。クリック、スクロール、デリートキー。
昨日の夜十時から今日の朝三時まで、眠気を堪えながら書いていた文章が一瞬で消えた。
それは、自分の人生の時間を切り取ってごみ箱に捨てる行為と大差なかった。
「はあぁ……」
わざとらしく盛大についた溜息が、部屋の隅でとぐろを巻く。書きかけの文章を表示しているノートパソコンを閉じて、椅子から転げ落ちた。部屋の窓から覗く青空には綿雲がのんびりと、しかし確実に流れていて、それが無性に気に障った。
最近、こんなことばっかり繰り返している気がする。
昼夜を問わず小説を書いて、読み直して、気に入らなくて消して、この間からちっとも前進していない。高校に通っていない僕には心の逃げ場がなく、それが一層負担になっているのだが、自分で決めたことなので不満を漏らすわけにもいかなかった。
小説家になると決めて中学卒業と同時にニートとなり、小説を書き続けてはや一年。
書きかけの青春ミステリはちっとも先へ進まず、この道の先に小説家って職業があるのだと信じられなくなってきた頃合いでもある。
それでも選択したものには責任を負わなければと椅子に這い上がろうとしていたとき、例によって携帯電話が鳴った。ニートの僕に電話をかけてくる相手なんて一人しかいなかったから、確認さえしなかった。
「結衣か? どうしたの」
『あ、シュンちゃん。おはよう、起きてた?』
「起きてたから電話に出たんだよ」
『あ、ええっと、そだねぇ』
このちょっと頭の足りない感じのする女の子こそが、僕の幼馴染みであり、家族以外で唯一まともに接する他人だった。名前を雨宮結衣と言う。
僕は電話の向こうの甘ったるい笑顔を想像して、用事を先回りした。
「もしかして、また代筆の依頼?」
『うん、そなの。原稿用紙が溜まっちゃったから』
「分かった。すぐ行くよ」
どうせ暇だし、という自虐的な一言は、胸の中で呟くだけに止めた。
『ほんと? ありがと、シュンちゃん。今日のお昼はお好み焼きにしようね』
「買いに行くのは僕だけどな」
『だけどねー』
砂糖菓子のような笑いを語尾に塗りたくる結衣に「じゃあね」と言って電話を切る。ノートパソコンをスリープ状態にする口実が出来たことが、僕にほんの僅かな高揚を与えた。
まぁ、そんなのすぐに握り潰されるかも知れないけど。
雨宮結衣は、ペンネーム『草野ゆい』というプロの小説家だった。
結衣が一人暮らししている部屋は、僕が住んでいるのと同じマンションにあった。外に出る際、リビングで家事をしていた母親と擦れ違ったが、一瞥されただけで何も言われなかった。
認められているのか、諦められているのか、無視されているのか。
下手に世話を焼かれるよりはマシだ、と考える僕は、人間としてかなり底辺に位置しているような気がする。ニートだからなぁ、何と言われようと言い返せないのがつらいところだ。
結衣の部屋に到着すると、「いらっしゃい、シュンちゃん」とパジャマスタイルの結衣が僕を出迎えてくれた。別に寝起きなわけではない。結衣は引き籠もりなので、パジャマが標準装備なのだ。
「小説家はパジャマでも務まる職業なんだなぁ……」
「ん。何か言った?」「いいや、なんにも」
結衣に連れられて奥の仕事部屋に移動する。仕事部屋といっても特別なものがあるわけではなくて、デスクトップ型のパソコンと、散乱した原稿用紙の山があるくらいだった。
「何だか滅茶苦茶に散らかってるな……何枚くらいあるのさ」
「とりあえず二百枚くらいかな。それ以上になるとシュンちゃんが写すの大変だろうと思って」
「そういう気遣いをするなら、自分で最初からパソコンに打ち込めるよう、タイピングの練習でもしたらどうなんだよ」
「それはやーなの。紙と鉛筆じゃないと、やる気起きないんだもん」
「そうかい」
仕事部屋のパソコンは、実を言うと結衣が使う機会はほとんどない。結衣は原稿用紙に直接じゃないと小説が書けないというアナログな小説家であり、それ故タイピング能力は皆無なのであった。
今時は小学生でもタイピングくらい出来るのに。
まぁ、結衣は義務教育九年のほとんどを不登校で過ごした人間なので、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
そこで僕の役割は、完全無欠の情報弱者である結衣の、簡単に言えば秘書のような仕事をすることだった。手書き原稿を電子情報化するのもその仕事の一つだ。
「シュンちゃん。それ全部打ち終わるのに、だいたいどのくらいかかりそう?」
「そうだな……三時間もあればいけると思う」
「分かった。じゃその間、わたしは続き書いてるねー」
朗らかに宣言したなり、結衣はフローリングに俯せに寝転がり、その姿勢で執筆活動を始めてしまった。相当ふざけた態度だが、集中力が凄くて書いているときは話しかけても滅多に返事をしない。多分頭の中で、物語のコマが猛スピードでぐるぐる回転しているんだと思う。小説家・草野ゆいが手書きながら速筆と言われる所以は、そこらへんにある。
結衣は俯せになった状態で膝を曲げ、時折生っちょろい素足をびたんびたんとくっつけ合わせながら執筆を進めている。背中を流れる髪が川のようになっているのを眺めて、そろそろ美容院に連れて行かなくては、などと思った。風呂を嫌がる飼い犬の世話をしているのと大差ないよな。
とりあえず床に散らばっている原稿用紙を番号順に揃えて、手書き文章をそのままパソコンに打ち込んでいく。この原稿は結衣が手がけている『無能探偵の事件手帳3』という、いわゆる無能シリーズの第三巻の原稿だった。ジャンルはライトミステリだが、それ以上に独特な価値観を持ったキャラクター同士の会話が面白いと評判のシリーズだ。もちろん、僕もファンの一人だった。
だからまぁ、誰よりも先に続きが読めるっていうのは嬉しくもあるんだけど。
自分で書いている小説の量より、結衣の代筆をしている量の方が多いっていうのは、どうなのよって思っちゃったりもする。
一応、小説家志望としては。
昼の十二時前には原稿を全て写し終えることが出来た。これを担当編集の八嶋さんに送る作業も残っているが、それは後回し。酷使した指と凝った肩に自分でマッサージを施し、フローリングに横になる。それを見計らったように、
「シュンちゃん、お疲れさまー」
ごろごろと結衣が転がってきて、ぴと、と背後から抱きつかれた。甘いわけではないけれど、独特の落ち着きをもたらす結衣の匂いが鼻腔をくすぐる。いつものことなので拒絶はせず、そのままの姿勢で問う。
「昼ご飯は? 何か食べたいものとかある?」
「んーとねぇ、お好み焼き」すりすり。
「この間から、そればっかだなぁ……」
「いいじゃん。好きなんだもん」むずむず。
「僕はいい加減に飽きたけどね」
「シュンちゃんの分もお金払うからー」べたべた。
「……………………」お金ですか。
その概念を持ち出されてしまうと、ニートはもはや語る言葉を持たない。お金を稼げる奴と稼げない奴の違いは、致命的なほど僕たちの人生に影響をもたらすのだ。
結衣は小説家だもんなぁ、小説を書いてお金を稼いでるんだもんなぁ、と。
自分の部屋にあるごみ溜めみたいな文章の塊が、ふと脳裏を過ぎった。
「分かった。じゃあ、お好み焼きにしよう。結衣も一緒に来る?」
「ううん、行かない。ここで待ってる」
「じゃあ僕が一人で買い出しに行ってくるよ。で、とりあえず離れてくれると嬉しいんだけどね」
「やーだ。このままお昼寝しちゃうもんねー」「おいこら」
寝転がって背後から抱きついたままの姿勢で、結衣が背中に頬をすりすりする。しばらくすると本当に寝息を立て始めやがった。
結衣の手を解いて抜け出し、立ち上がる。
運動せず外出すらしないせいで結衣の手足には筋肉がほとんどなく、棒きれのように細い。小学生の頃からろくに変わっていない幼児みたいな容姿を眺めて、溜息が出た。こんなのが売れっ子の小説家をやってるんだから世も末だ。
財布という概念を持たない結衣は、お金をそのまま居間の戸棚にしまってある。そこからお好み焼き二枚分の値段である千二百円を抜き取って自分の財布に入れ、外に出た。
長いこと暗い室内にいたせいで、目の奥が太陽光に刺されたようにじんわりと痛む。
目を細めて歩きながら、先日たまたま出会ったお好み焼き子さんの店に、また行ってみようかと考えていた。