第一章―01
第一章 彼と彼女の事情
*俺
昔から、あまり目立つようなことをする人間じゃなかった。クラスで決め事をするときは大半の連中と同じように俯いていたし、体育のサッカーやバスケではディフェンスの隅っこの方にいてボールが飛んでこないのを祈っていた。それでも昼休みを一緒に過ごす友人はいたから、まぁそれでいいやと思っていた。いわゆる「普通」の生き方ってやつだ。
俺のその生き方は、父親に影響された部分が大きかったと思う。あるとき父親がこんなことを言っていた。
「いいかい亮太、才能や個性なんてものはね、幸せに生きるには邪魔物なんだよ。何であれ、異端や突出した部分は他人の妬みや憎しみを買って調和を乱す。調和が乱れたら健全な人間関係を維持できなくなって、幸せを見失う。だからこの世で手っ取り早く幸せになるには、没個性であるのが一番なんだ」
「そうなの? でも学校では、個性を尊重しようって言ってるよ」
「ありゃ嘘だよ」父親は大真面目に断言した。「そんなくだらないものを尊重してたら、収拾が付かなくなるに決まってるでしょう。授業中に騒ぐのも個性、人を殴るのも個性、果ては自殺や殺人も個性だよ。だから個性なんていらないのさ」
「そうかな。でも、個性がなくてみんなと同じだったら、何だか自分が寂しい気がするけど」
「それがそもそもの間違いなんだよ。他に縋るものがないから、個性なんてものに縋って自分の地位を見出そうとする。寂しかったらね、友達を作りゃいいんだよ」
寂しかったら友達を作るんだよ、と父親は繰り返した。それが何だか単純ながら真理を突いている言葉のような気がして、俺はなるほど一理あるかも知れないと妙に納得したのだった。あれは何年前のことだったのかなぁ。
最近では、そんな会話を父親と交わすこともない。
そんな父親を見習って「普通」に生きてきた俺の価値観はいつしか歪み、先日ついに髪を金色に染め上げるという暴挙に出たのだった。
俺の通う高校は進学校だからなのか、髪染めの類は全面禁止されている。事実、茶髪の女子だって一人もいない。俺の金髪は当然ながら校則違反で、当然ながら浮きまくりだった。
朝に登校して教室へ向かう今も、俺の周りだけ見えない巨大浮き輪がでーんとあるみたいに、人間の不毛地帯が発生している。髪染めなんて一度も経験したことのない在校生諸君は、遠巻きの見物に従事しているようだった。
校舎の玄関で生徒指導の教師と擦れ違うも、何も言われない。認められている、ってことはあり得ないから、諦められているか無視されているかのどちらかだと思う。
これでも金髪で最初に登校した日は、血相を変えた担任に生徒指導室へ連れ込まれたものだ。
校則がどうとか成績がどうとか、しどろもどろになって俺に説教する生徒指導の教師は怒っているというより狼狽していた。多分、前例がないからだろう。校則について事細かに説明してくる教師に、
「だから何なんスか?」
と切り返したときの爽快感は最高だった。その代償に「このままだと停学にするぞ」という警告は頂戴したが。だからとりあえず停学になるまで通ってみようと思って、今日は五日目だ。
所属している二年二組の敷居を跨ぎ、教室内に入る。俺がやって来た途端、教室に咲いていた談笑の花が一気に萎れて、空気がぴりっと張り詰めるのが分かった。
元々俺はこういう不良なことをするタイプの人間じゃなかったから、髪を金色に染めてからのクラスメイトたちの反応は鮮やかだった。俺は路上のホームレスのような、いわゆる「見ちゃいけないもの」の扱いを受けることになった。
クラスメイトの注目を集めながら自分の席へと向かう。周辺で談笑していた男子生徒二人組は、俺が近寄ると、
「うぁ……ごめん」
と露骨に気まずそうに目を逸らして、そそくさと逃げていった。ついこの間までは、朝の挨拶くらいは交わす仲だったのに。
どーよ、これ。どーなのよ?
この学校の生徒どもは、たかが同級生の髪が金色になっただけでこの始末だ。
キミら、狭い世界で生きてるねぇ、と。
そういう哀れみにも似た優越感が身体を満たすのを感じる。寄せ集まる視線さえも、宴会で全裸になって騒いでいるときのような、やけっぱちの痛快さを生む。
十七歳にもなって、キミらはこんなチャチな教室に四十人も押し込まれて、毎日わけ分からん授業を黙って聞いてるんだぜ?
アホか、と。
俺が髪を染めた理由は、その一言に尽きる。
十七年間「普通」な子供として生きてきた。父親の背中を見習って、素直なよい子であり続けてきた。
でも最近、それがどうしようもなく嫌になって。
だから、やっつけることにした。
俺は髪を染めて、「普通」ってやつをやっつけるのだ。
せっかくなので、不良らしくサボってみることにした。一時間目の数学は、どうせ聞いていても理解できない。始業のチャイムが鳴ってから廊下をぶらついていると数人の教師と出会したが、何も言われなかった。落ちこぼれの面倒を見てる暇はない、ってことだろう。
中学の頃は、どんなやんちゃ坊主でも先生がいちいち追いかけ回していたように思う。そこらへんに義務教育との境界が、ひいては子供と大人の境界があるんだろうなぁ。
さて、サボりの代名詞と言えば屋上だ。しかし実際のところ、ウチの高校の屋上へと続く扉には常時鍵が掛かっていて、出入りは不可能なのだ。だから屋上は諦めて、第二の候補である体育館裏へと向かうことにした。
この学校の体育館は改装されたばかりで新しい。体育館裏にはウッドデッキのような通路が取り付けられていて、縁側みたいになっていた。
お日和もいいし、ウッドデッキでごろごろして時間を潰そうと思ったのだが、予想外に先客がいた。
「あらら……?」
ウッドデッキに制服姿の女子生徒がぐてーっと寝転がっている。ていうか、髪の色がおかしい。あれは白髪……いや、銀髪か? 明らかに自然の色合いじゃない。
女子生徒は俺の存在に気付いたのか、むくっと身体を起こした。
「ん……あ、八嶋くん?」
感情の抜け落ちた淡白な表情で、俺の苗字を呼んでくる。そして、その声で気付いた。髪の色がおかしいせいで分かりづらいけど、
「もしかしてお前、河西か?」
「かつてのクラスメイトの顔見て『もしかして』はないでしょ、失礼な」
湿気を含んだ目で睨まれた。しかし彼女の口調は淡々としていて、必要以上の感情が削ぎ落とされている。その着飾らない感じは、やっぱり一年生の時のクラスメイト、河西であるらしかった。
で、その河西がどうして白髪で、しかも体育館裏なんかにいるんだろう。
「えーと、河西はその……何やってるのさ」
「何もしてない」河西は座ったまま体育館の外壁にもたれ掛かり、ショートカットの髪を指で弄りながら、「強いて言えばきみと同じってとこ。いわゆるサボりね」
「あぁ、なるほど……」納得していいのか、俺。
突っ込みの手札を持て余していると、河西が自分の隣をぱんぱんと手で叩き、「ここ、来れば?」と素っ気なく促した。「お、おう」と言って従う俺は、何だか完全に後手に回ってしまっている。
二人して壁にもたれ掛かって座り、前を向いたまま河西が口を開く。
「ここ、ぽかぽかしてて暖かいし、風通しもいいから気に入ってるの。サボるには持って来いの場所」
「ッスか……」
「きみさ、何かあったの? 急に髪染めたりして。そういうキャラじゃないっしょ」
「いや、それは俺のセリフなんだけど……」横目ちらーり。
「悪いお兄さんに拐かされたりした? それとも、黒以外の髪色にカッコ良さを感じちゃうお年頃?」
「そのどっちでもない。強いて言えば、やっつけるためかな」
「ふぅん。あ、そー」
河西は分かっているのか分かっていないのか、欠伸混じりに適当な反応を返してくる。というか多分、興味がないんだと思う。およそ活力に欠ける河西の目は、いつも世界を等質に眺めているような気がする。
河西からの質問が終わったようなので、今度はこちらから尋ねてみた。
「で、そっちはどうなのさ。その、白髪は」
「シラガじゃねーよバカ」ぐさっ、と肘を横腹に入れられた。「銀髪だよ銀髪。見れば分かるでしょうが」
「ご、ごめん」俺はむしろ、河西が何かに怒るほど拘りを持って生きていたことに驚いた。「じゃあ、その銀髪は何なのさ。俺の知る限りじゃ、河西も不良キャラじゃなかったと思うけど」
「近所のお姉さんに勧められたのよ。銀色、似合うかもねーって。だから昨日染めてきた」
「あぁ、そうなの……」でもそれ、理由になってない気がするぜ!
「そしたら、朝イチで担任に生徒指導室に連れ込まれてお説教。うだうだと三十分も。おかげでお尻が痛くなった」
「だろうなぁ」
「しかも、このままだったら停学にするぞ、って脅された。それでムカついたから、今ここでほとぼりを冷ましてるってわけなのよ」
「冷ましていたのですか」河西は常に醒めている奴だと思っていた。
「で、きみの方は?」
河西が横目を俺に振ってきた。金髪になっても、女子と目が合うと思わず顔を俯かせてしまう癖はやっぱり治っていない。
「きみは、どうしてサボってるの?」
「どうしてって言われると……まぁ、一時間目の数学が退屈そうだったから、とか。そんな深い理由はないけど」
「確かに、きみって信念とかなさそうだもんね」
河西が俺を値踏みするように、上から下まで眼球を転がして、軽く鼻を鳴らす。授業をサボるのにそんな哲学的理由が必要だとは知らなかった。
俺が憮然として黙っていると、河西が「教室に戻る」と独り言のように宣言して立ち上がる。
「え、戻っちゃうの?」
「うん。ほとぼりが冷めたから。それともなに、わたしに一緒にいて欲しかった?」
「いや、そんなんじゃないけどさ」
単純に、度胸あるなぁと思った。サボるのはともかく、授業中の教室に堂々と戻っていくのはちょっと気が引ける。きっとクラスメイト全員分の視線が矢となって、河西に突き刺さってくることだろう。
そんな俺をどう思ったか、河西が前触れもなく腰をかがめて、ずいっと俺に顔を寄せてきた。淡白な表情が視界に大写しになり、戸惑う。
「な、なんだよ」
「きみ、友達いないでしょ」
「……………………」動揺のあまり咄嗟に口を利けなかった。「どうしてそう思う」
「決まってるのよ。大昔から、不良は孤独な生き物だって」
「そうなのか?」
「そうなのよ。だって、不良は『良にあらず』って書くんだから」
河西はよく分からないことを言って、元の姿勢に戻った。直立して腰に手を当て、やはり思考の読めない表情で俺のことを見下ろしている。何となく、今はほとんど話さない父親の言葉を思い出した。『才能や個性なんてものはな、幸せに生きるには邪魔物なんだよ』というアレだ。ついでに、俺の髪が金色になった途端、露骨に距離を置き始めたかつての友人たちのことも思い出した。
「だから、八嶋くん。握手をしよう」
「河西は脈絡という言葉を学んだ方がいい」
「そんなことないでしょ。きみは不良で、わたしも不良。どちらも不良でどちらも孤独なら、同じ穴のむじろ同士、助け合って生きていきましょうってことよ。握手はお近づきの印」
「あー……つまり、友達になろうってこと?」
「友達じゃなくて、協定よ。そっちの方が格好いいじゃん」
だからはい、と河西が右手を差し出してくる。催促するように俺を見つめる河西には、やっぱり表情が希薄だった。
差し出された手と、河西とを三回ほど見比べる。
そして変化がないのを悟ってから、仕方ないので手を取った。仔猫に触れるような、非常にぎこちない手つきになってしまった。
「えー、と。これでいいのか?」
手を離し、河西に問う。触れた手の柔らかい感覚が、離れてからも俺の手のひらに残っている気がした。
河西はこくんと頷き、「暇だったら、ここにおいでよ」と言った。
「え、俺が? なんで」
「きっと、わたしもいるから」
「……………………」
何とも反応しかねる俺に、河西は「じゃね」と軽く手を挙げて去って行く。彼女がその際、はにかむように小さな笑みを浮かべていたのが、妙に印象に残った。
その場に立ち尽くして、揺れる銀色を眺める。
……うぅむ、変な奴と知り合ってしまったぜ。