第三章―08
*僕
流されるように、雨宮結衣とひたすらべたべたする夢を見ていた。
夢の中の結衣はクリームと砂糖を塗りたくったような甘ったるい匂いがして、「シュンちゃん好きー」とこれまた甘ったるい笑顔と声で喋って、僕の腹の上をごろごろしていた。
それだけでも脳髄を硫酸で溶かされそうな夢だったが、オチは腹の上の結衣が急に鉛の塊のように重たくなって、笑顔のまま僕を押し潰すというものだった。骨が折れたり血を吐いたりして、死ぬというところで目が覚めた。悪夢だった。
その日、某小説賞に応募していた僕の小説の落選が決まった。
「まぁ、期待してなかったけどねー」
嘯いて、ベッドの上を転がる。書きかけの青春ミステリは、この間から一文字も前に進んでいない。
以前、僕の書いた小説を八嶋さんに読んでもらったことがある。
返ってきた感想は、一言だった。
「つまらなくはないけど、これ、結衣ちゃんの作風そのまんまだなぁ」
そのときの八嶋さんの、僕を哀れむような視線が忘れられない。僕という人間の底を見透かしたような、曖昧な苦笑だった。
分かっている。
僕の小説は結局、そんなものだ。
雨宮結衣の書く小説の模倣でしかなく、それ以上でも以下でもない。
そもそも僕が小説家になろうと思った直接のきっかけが、雨宮結衣のプロデビューだったのだから。
僕が中学卒業を間近に控えていた頃、結衣が小説を書いたから読んで欲しいと言ってきた。内容は、歪んだ価値観を持つ男の子と女の子の恋愛小説だった。
最初はあまり乗り気じゃなかったけど、読み進めるうちに時間を忘れるほどに没頭してしまった。それほど不思議な魅力を持つ小説にはいまだ出会ったことがなかった、と言っても過言ではない。
読み終えてから結衣に、手書きだった原稿をデータ化して、賞に応募してみることを勧めた。
結衣はどうでもよさげだったので、僕が半ば進んでパソコンに文章を打ち、適当な小説賞に出した。そのときの草野ゆいというペンネームは、当然だが結衣と僕の名前から来ている。
そして呆気ないほど簡単に、結衣の小説は賞を獲得し、プロデビューを保証された。
のちに人気小説家となる草野ゆいの、最初のファンがこの僕だったというわけだ。
そのとき同時に、僕も将来は小説家になると密かに決意したのだった。
「そもそも、始まりがそれだったんだからなぁ……」
結衣の小説に憧れて、小説家になろうと思った。
だから結局、彼女の模倣でしかないという大きな壁にぶち当たっている。この上なく単純明快な論理で、単純であるが故に解決法が見つからない。
結衣は僕にとって、小説の世界を教えてくれた大切な人で、でも同時に目の前に立ちはだかる巨大な壁だった。
ちなみにファンであるとは言ったが、僕は草野ゆいの小説を一冊も所持していない。
結衣の部屋に行けばデータがあるから、という理由もあるが、それだけじゃなくて。
書店でお金を払って結衣の小説を買うという行為が、自分に対して許せなかったのだ。
何だか、負けを認めているみたいで。
逆にその程度の負けすら認められない自分が情けなくもあって、だから書店で草野ゆいの本を見るのは嫌いだ。どちらにせよ負の感情が渦巻いて、自分が嫌になる。
僕が結衣に対して抱いている憎しみのような感情は、本当は自分自身に対して抱いているものの裏返しなのかもな、とふと思った。
家族が僕に何も言わなくなってからしばらくが経つが、それでも見放されているわけではないことは、時々分かる。ただの穀潰しに過ぎないのに食卓にきちんと僕の分の朝食が用意されていたり、僕の目に付くところにアルバイト募集や資格試験のチラシが貼り付けられていたりするから。
いっそのこと絶縁でもされた方がまだマシだったかも知れない、とたまに思う。
返せる見込みのないものを与え続けられるってのは、結構つらいのだ。
必要以上に、死ぬほど水を飲まされ続けるのは拷問に等しい。人は渇きで死ぬが、満たされすぎても死ぬ。
部屋とトイレの往復でバイト募集のチラシを二、三枚見て、部屋に戻ると落選を告げているパソコン画面と一円にもならない文章の塊がある。そのいっそ清々しいほどの救いようのなさに奇妙な笑いが込み上げてきそうになっていると、電話が鳴った。
結衣からだ、とすぐに分かった。
『シュンたんおはよー』
開口一番、屈辱的なあだ名で呼ばれた。
「おはよう。てか、もう昼の十一時なんだけどね」
『いま起きたんだよ。今朝は六時に寝たから』
六時は起きる時間だろうが。引き籠もりに昼夜の概念は存在しない。
『シュンちゃん、どったの? なんか声に元気がないよ』
「……別に何もないけど」
パソコンをちらりと見やる。落選のことを陽気に語るほどの余裕はなかった。
「結衣は何の用なの?」
『うん。また原稿が溜まったから、来てちょうだいってやつ。で、お昼はお好み焼きにしましょう』
「あー……うん」
曖昧に頷いてから、まずいなと思った。このところ色々あって、自分の中に余裕が失われているのを感じる。いま結衣の顔を見たら何をしてしまうか、自分でも分からず、怖い。
「ごめん。やっぱり、今日は駄目だ。また後日ってことにしてくれないか?」
『え、なんで? 用事とかあるの?』
「ないけどさ。とにかく駄目なの」声に苛立ちが混ざった。
『暇ならいいじゃん、来てよ。一緒にお好み焼き、食べようよー』
「だーかーらぁ」
『シュンちゃんの分もお金出すから。何ならバイト代もあげるよ』
「…………うぁ」
げろっ、と黒色の塊が吐き出されたような気がした。
お金出すから。バイト代もあげるから、だってよ。
僕が喉から手が出るほど欲しいものを結衣はたくさん持っていて、しかもぞんざいに扱う。そんな結衣が望むものが、およそ誰からも価値を認められない僕という人間であるってのが、皮肉のスパイスが利いていていいじゃねぇか。
どうしてこう、世の中ってのは上手く回らないものなんだろう。
『シュンちゃん?』
「いい加減にしてくれ」口が勝手に動いていた。「悪いけど、しばらく結衣の顔は見たくない。だから、放っといてくれよ」
離した携帯電話の向こうで、結衣が混乱して何か言っている。それを聞き留めることなく、僕は通話を一方的に切断した。
自分の勝手な事情で落ち込んで、他人に迷惑を掛けて。
最悪だな、と思ったけど、それでも鳴っている携帯電話は無視し続けた。




