第三章―07
部屋に戻ってから、モトくんは何も言わずソファに腰を下ろした。向かいにあるテレビの画面が、むっつりと不機嫌そうな顔を映している。
「あれで良かったのかい?」
モトくんからは絶対に話しかけてこなさそうなので、わたしから口を開く。ソファに座っているモトくんの背後に立って、肩に手を置いてみた。
「お父さん、困ってたぞ」ぐじぐじ、と肩の骨を手のひらで弄り回す。
「……正直、あそこまで言うつもりはなかったんですけど」モトくんはわたしを拒絶しない。
「気付いたら言葉が飛び出てた、ってか?」
「まぁ、そんなとこです」
「まったくもう、モトくんはしょうがないなー。リュウコさん大好きなんだからー」
「リュウコさんに言われたくないですよ、それ」
「じゃあ、お互いに大好きバカップルってことで。収まりがいい感じじゃないか」
ふはは、と冗談めかして笑う。収まりが良すぎて外部からの補給ルートも断ってしまったせいで、勝手に兵糧攻めに遭っているような気もするけど。
大丈夫、モトくんとなら餓死できるって!
いや残念、わたしはそこまで病んではいないのであった。
人間、喰うものがなければあっさり死ぬ。故に、お好み焼きは大切なのであーる。
「でもまぁ、モトくんのお父さんが言ってたことって真実だけどね。多分」
「自分たちで自分たちを養えず、どうこうってやつですか?」
「そうそれ。何だかんだ言ってね、お金を稼げる奴は稼げない奴より偉いのよ。どうしようもなく」
「その台詞、リュウコさんが言うと妙に説得力がありますね」
「はっはっは。ダテに引き籠もりやってないぜー。舐めんな、ぺろぺろ!」
「おい! そのネタは前回やったでしょうが!」
「でもどうしようね、ホントに」
モトくんの首に腕を回したまま、ずるずると腰を落とす。冗談で取り繕っても、すぐに真面目な雰囲気が流入してきて誤魔化せない。向き合うべきタイミングってやつなんだろうと思う。
どうせ普段は何をしても冗談にしかならないから、訊けないけど。
こういうときだからと思って、気になっていたことを尋ねてみた。
「モトくん。わたし、働くべきかな」
ぽろんと沈黙に落っこちた一言は、自分でもびっくりするくらい頼りなく、物憂げに響いた。瞬間冷凍材でも投下したみたいに、空気が冷えて固くなる。首に絡めた腕越しに、モトくんが唾を飲み込むのが分かった。
「……そういうこと言うの、リュウコさんらしくないですよ」
モトくんは話題を嫌って、話を逸らそうとする。でもそれに構わず、わたしは続けた。
「一応、健康な社会人だしさぁ。何度クビにされてもバイトくらいなら出来るよ、わたし」
「そんなこと言って、クビにされた回数は両手に余るほどじゃないですか」
「だってお仕事は苦手なんだもん。きちんと話すの苦手だし、覚えるの苦手だし、テキパキ動くのも苦手だし。でも苦手なりに出来ることはある。と思う」
「断言できてないじゃないですか……。いいですよ別に、苦手なこと無理してやらなくても」
「そう考えて、わたしは今まで引き籠もりをやってきたわけだがね」
「僕はそれでも構わないですよ。リュウコさんが、ずっと引き籠もりでも」
「…………んー」
駄目人間であり続けることを肯定されてしまった。ずっと楽していられるぜぃ! って頭の中で思ってるのに、心がそれを認めたがらない。何だかんだ言って、わたしは自分の欠落をそのまま放っておくのが許せないのだった。
お好み焼きでどうにか出来るって思想も、いい加減に腐りかけているし。
「コンビニのバイトとか始めようかなぁ」
「無理ですよ。リュウコさん、前に商品引っ繰り返してクビになったでしょ」
「むー。じゃあ、ファミレス」
「調子に乗って大量に皿を運んで、ガッシャンガッシャンの未来しか見えません」
「じゃあ、専業主婦」
「お好み焼きしか作れない人が何言ってるんですか。主夫は僕でしょ」
「…………むぅ」
カチーン。小石をぶつけられたみたいに、どこかで金属音が弾ける。
よりにもよってコイツ、お好み焼きしか作れないと申すか。「しか」と。
それじゃまるで、わたしに存在価値がほとんどないみたいじゃないかー。
否定できないので、ますます苛つく。黒色の液体がじわじわと脳髄に浸透していくみたいだ。
「まぁ、安心していいですよ。そのうち僕が働けるようになったら、僕がお金を稼ぎますから」
「どういう意味だ、それ」
声が知らずに尖る。モトくんの言葉は言外に、リュウコさんと長いお付き合いをするつもりなんですよーって意味が含まれていて、それが嬉しいはずなのに、嬉しくない。
多分、タイミングってやつが悪かったのだ。
わたしは自分のあり方についてゴチャゴチャしてる時期で、モトくんもこれからのことを彼なりに考えている時期で。
だからモトくんが薄く笑いながら口に出した言葉は、わたしの深いところを容赦なく抉った。
「だってリュウコさん、何も出来ないじゃないですか。いいですよ、僕が養ってあげますから」
どばっ、と何かが溢れるような気がした。限界まで水を吸って膨らんだ脳味噌が、パチンと弾ける感覚にも似ていた。
わたしを振り返って言ったモトくんは困ったような笑顔で、多分それには何の悪意も含まれていなくて、でもわたしにとっては悪意の塊にしか映らなかった。
空を飛べる悪魔が、地上を這い摺っているわたしを見て、哀れむような笑いを投げかけているようにしか見えなかった。
だから気付くと、手元にあったクッションで滅茶苦茶にモトくんを殴っていた。
自分自身に対する怒りとか、恥ずかしさとか、そういうやり場のないものを篭めて。クッションを振るうほどに、自分の中に嫌なものが溜まっていく気がした。
幼児の癇癪みたいに好き放題に暴れてから、靴も履かずにアパートを飛び出した。
脳内に漫画のワンシーンが流れていて、イメージは「ずだだだだー」って感じで。そのくせ靴も履いていない引き籠もりの全力疾走は、どったどったと足取りも重たい。数分も走っていないうちに足の裏が痺れて、痛みの感覚を喪失する。
それでも、はしらなきゃ! はしらなきゃ! と、それだけを壊れたテープのように繰り返して、意味も理由もなく、向かう場所さえ知らずにとにかく走っていた。
祈るように走ることで、何かが救われると信じたかったのかも知れない。
でもやっぱり、普段から運動していない引き籠もりには五分の持久走が限界だった。
頭から地面に突っ込むように倒れ込んで、草の匂いを嗅ぐ。倒れてから、自分がふーちゃんと出会った公園にいるのだと気付いた。
どくどくどく、と心臓が大袈裟な拍動を繰り返している。こめかみの下を走る血管が波打って、その度にじんじんと頭が痛む。目の焦点がぼやけて視界がチカチカと明滅を繰り返し、自分が貧血に陥っているのだと気付く。
自暴自棄の暴走でさえも、自分の知っている場所に来るのが精一杯だったことが情けなくて、そんな自分に呆れた。
リュウコさん、何も出来ないじゃないですか。
何も出来ないじゃないですか。
ガンガン痛む頭に、モトくんの声が渦を巻く。あの凶悪な笑顔も、同時に回想される。
僕が養ってあげますから? うるせーよ。
分かっとるんじゃい、んなこたぁ。
でもそこで、「お好み焼きが作れるんじゃい!」と言い返すだけの元気は、今のわたしにはないのであった。




