第三章―06
*わたし
久しぶりに見るモトくんのお父さんは、随分とやつれて見えた。柔和そうな顔つきは変わらないけど、小皺が増えて、目に光るものが失われているような気がする。モトくんが以前言っていた、「親父がすっかり弱気になっちゃってるんですよ」という言葉を思い出した。
元村家の客間で、わたしとモトくんは元村父と向かい合っていた。
「えーと、リュウコさんだったよね。あなた」
元村父がわたしに目を向ける。わたしは「はい」と小声で呟きながら、首肯で反応を示した。
モトくんと同棲を始める際にご挨拶に行ったときは、元村父はわたしのことを「きみ」って呼んでいた。人称の変化は親密度の減退を表しているのか、あるいはわたしを一人前の大人として扱っているからなのか。
「回り道してもしょうがないから率直に言うけど、俺ね、見ちゃったんだよね。あなたが日中にパジャマ姿で街中を彷徨いているところを。あれは一体、何だったのかな」
「えー。いや、見たまんまですけど」
「どうしてそんなことを……いや、いい。分かった」
元村父が頭痛を堪えるように眉間を揉む。わたしの隣で正座しているモトくんは、さっきから不安げにお父さんとわたしを交互に眺めていた。
「で、リュウコさん。あなた、今どこかで働いてるとかは?」
「ないですが」
「じゃあ、普段は何をやっているのかな」
「寝てるか、モトくんと遊んでるか、お好み焼きを作ってます」
「前にここに来たときは、フリーターって言ってたよね。どこかでバイトしてるって」
「クビになったのです」
「…………はぁ」
元村父、大仰に溜息。モトくんも、もちっと歯に衣を着せた言い方は出来ないんですか、というテレパシーをわたしに送ってくる。
でもまぁ仕方ない。これがわたしの縋れる唯一の美徳なのだから。
自分の人生を、恥じまいと思う。たとえ間違っていようと他人にどんなに呆れられようと、せめて自分だけは堂々と胸を張っていようと思う。
そうでなきゃ、生きている意味なんてないですよ。うむうむ。
「家賃や生活費は、ウチからの仕送りの他は、あなたのお母さんの遺産から出てるって聞いたけど」
「わたしのお母さん、お金持ちだったんです。当分、お金には困りません」
「あのね、それ自慢げに言うことじゃないからね。言い方は悪いけど、あなた死んだ人の臑を囓ってるんだよ」
「……………………」
「同棲にどうこう言うつもりはないけど、自分でした選択なら、せめて自分で結果に責任を負えるようにならないと。一言で言うなら、社会人なら働きなさい」
「……………………」
いくら取り繕っても、やっぱりこの指摘にだけは何も言い返せないのであった。
言い訳の余地もなく、わたしが完全に悪いんだから。
隣のモトくんもじっと俯いて、堪え忍ぶように動かない。
「俺はね、人間のあり方ってのに関してわりと寛大だと自負してるんだよ。だから今どき個人商店の本屋なんかをやっているし、息子が誰と恋しようと構わないし、同棲もしたけりゃすればいいと思う」
「……………………」
「でもね、やっぱり許せないことだって、そりゃあるわけだ。たとえば自分が幸せでいるために、他人を平気で食い潰すような奴とか」
ぎりぎり、と歯ぎしりの音がする。わたしかと思ったら、モトくんだった。
「何かの名言で、四つ葉のクローバーを探すために三つ葉のクローバーを踏みにじってはいけないってのを聞いたことがあるんだけどね。ああいうの、俺は嫌いじゃないよ。甘っちょろい考えだけど、甘っちょろいなりの正しさがある」
そういうわけで、と元村父は前置きして、咳払いを一つした。空気の固まる感覚が意識に芯を通す。
「きみらがいくら一緒に生活したいって言っても、自分たちで自分たちを養えず、養おうと努力さえしないんだったら俺は認めないよ。悪いけど、息子はウチで引き取らせてもらう。こんなでも、一応親なんでね」
「……………………」
わたしは何も言い返せない。その資格がないことは自分でも分かっているつもりだから、当たり前だ。
元村父がさらに続けようとしたところで、しかし思わぬことが起きた。
「……なら、努力するよ」
ぽつり、と水滴を落とすように呟いたのは、隣に座っているモトくんだった。
今まで黙っていたのに何を言い出すのかと、わたしも元村父も呆気にとられ、モトくんに注目する。
彼は膝の上で拳を強く握りしめて、じっとお父さんを睨んでいた。
いつも柔和で穏やかで、優しくて、ちょっと頼りないモトくんは、どうやら怒っているみたいだった。
「僕がバイトでも何でもしてお金を稼ぐから。それならいいんだろ?」
「……いや、そういう問題じゃなく」
モトくんの声は感情を押し殺したように低く、元村父はその様子に困惑しきっている。本当に怒ったときのモトくんは、熱くなっていくんじゃなくて、ぞっとするほど冷たくなっていくようだった。触れたら壊れてしまいそうな、そんな危うささえ秘めている。
「将来働いて、お金を稼いで、借りはきちんと返す。だからそれまで、認めてくれよ。リュウコさんと、一緒にいることを」
「……俺が言いたいのは、お前のことじゃなくてだな」
「僕で何が悪いんだよ!」
モトくんが怒鳴った。いつものボケと突っ込みの応酬で聞き慣れているモトくんの大声とは全く質の違う、尖った声だ。ガラス戸が衝撃を吸収してびりびりと震動するように、その一言で空気が揺れて、思わずわたしと元村父の肩もびくっと震える。
モトくんはそれから付け加えるように、「一緒に、棲んでるんだから」と静かに言った。
元村父は何かを言いたげに目を泳がせていたが、何も思いつかなかったのか、長い溜息をつく。それを合図にするように、モトくんが、
「リュウコさん。行きましょう」
と言って、わたしの腕を引っ張る。その力が思いのほか強いことに驚いて、戸惑っている間に半ば強引に立ち上がらされてしまう。
「お邪魔しました」
客間から出る際、モトくんは自分のお父さんに向かってそう言った。返事はなかった。
家の外に出てからしばらく、モトくんはわたしの腕を掴んだままだった。半分引き摺られながら見るモトくんの横顔は、唇を噛んで、瞳がどこか遠くを睨みつけている。
アパートに帰るまで、わたしとモトくんの間に会話はなかった。
久しぶりにモトくんの背中を見て歩いたな、と思って、それから自分の心臓の鼓動が少し乱れていることに、気付いた。




