プロローグ―01
プロローグ 十年前、運命ドミノ
*一人目
ぴんぽーん、ってチャイムが鳴ったから、お父さんが玄関に出て行く。部屋で『エルマーのぼうけん』を読んでいたわたしも、気になってその背中を追いかける。お父さんの背中は山のように大きい。おんぶしてもらうと目の位置が高くなりすぎて、いつも頭がくらくらぁってなる。
玄関にいたお客さんは、コワい顔をしたおじさんだった。目つきが悪くて、何かを睨んでいるように見える。こういうの、なんて言うんだっけ。……えーと、そうそう、「いかつい」だ。
イカツイおじさんが上着から手帳を取り出して、お父さんに示した。「警察の者です」と言っている。ケーサツの人ならわたしも小学校の交通安全教室で会ったことがある。でもこのイカツイおじさんは、あのときのお姉さんよりずっとコワそうだった。
イカツイおじさんが、お父さんの身体の後ろに隠れているわたしをジロッと睨む。その目が怒っている先生の目に似ていたから、思わず身体がびくっと震えた。
「結衣は部屋で遊んでなさい」
お父さんが足下のわたしを見下ろして言う。お父さんに上からものを言われるときは何だか怖い。逆らったらいけないような気がして、つい黙ってこくんと頷いてしまう。今日のお父さんは何故か、いつもより目つきが冷たかった。ひょっとして、お父さんもイカツイおじさんに怯えてるのかな。
その場にいちゃいけないような感じがしたから、てててと小走りで部屋に戻った。部屋の扉を閉めるとき、玄関の方から、
「実は、このお宅の娘さんが虐待されているらしいと通報がありまして……」
という声が聞こえた。言葉の意味は分からなかったけど、何となく、嫌な感じがした。
部屋には読みかけの『エルマーのぼうけん』が伏せられていた。それを開いて読み始めたけど、内容がぜんぜん頭に入ってこない。同じ文を三回読んだところで、わたしは本を投げやって床に寝転がった。
わたしとお父さんは、二人暮らしだ。
お母さんはいない。顔を見たこともない。ずっと昔に死んじゃったらしくて、そのことを話すと大人は捨てられた猫を見るような目でわたしの頭をそっと撫でる。そのときの手のひらの感触が、あまり好きじゃなかった。
わたしはお父さんは好きだ。お父さんがいれば、お母さんなんていらない。
わたしのお父さんは何でもしてくれるスーパーお父さんだ。ご飯を作ってくれるし、暇なときには一緒に遊んでくれる。一緒に寝てくれるし、本を読んでくれるし、二人でお出かけすることだって、ある。
時々、ぞっとするような冷たい目でわたしを見つめてくることもあるけど。
たまに、一緒に遊んでいるときでも、ろうそくの火がふっと消えるようにお父さんの顔から笑いが消えることがある。そんなときお父さんは、何も映していないがらんどうの目でわたしを殴る。殴られると痛くて、痛いから嫌だ。
嫌だけど、その後になってご飯を作ってくれたり、本を読んでくれたりすると、嫌な気持ちを忘れてしまう。そうやってご飯をくれるお父さんが、わたしはやっぱり好きだから。
料理も出来るスーパーお父さんの得意料理は、お好み焼き。
お友達のシュンちゃんのお母さんが作るお好み焼きもおいしいけど、わたしはお父さんのお好み焼きの方がいい。シュンちゃんはシュンちゃんのお母さんのお好み焼きの方がおいしいって言ってるけど。それはお互いに、えぇっと……「えこひーき」してるんだと思う。
突然、玄関から悲鳴が聞こえてきた。
「うわぁっ!」
誰かが叫ぶ声、がらがらと物が崩れる音。お父さんの声じゃなかったから、悲鳴はイカツイおじさんのものだと分かった。
思わず、部屋を飛び出していた。
「お父さん?」
玄関では、イカツイおじさんが靴箱に寄りかかって倒れていた。殴られたのか、頬を押さえている。その頬から赤いものが顎に伝っているのが見えた。
「に、逃げられました! 殴られて……。はい! いま、車で……」
イカツイおじさんが携帯電話で誰かに連絡を取っている。わたしはおじさんを無視して裸足で家の外に飛び出した。何が起こったかも分かっていないのに、心臓がどくどくと大きな音を立て始めていた。
家の横のガレージから黒い車が飛び出して、猛スピードで発進していく。一瞬だけ見えたハンドルを握るお父さんは、焦るように強く唇を噛んでいた。
後日、わたしはお父さんが「麻薬」ってやつを家に隠していたと知ることになる。
その意味を理解できるようになるのには、もう数年が必要だったけど。
*二人目
テーブルにはお好み焼きが置かれていた。
お母さんとケンカした次の日のことだった。わたしはお母さんと顔を合わせたくなくて昼まで不貞寝していたけれど、食欲に負けてリビングにのそのそ出て行ったのだ。そうしたらテーブルに一人前のお好み焼きが用意されていて、お母さんが複雑な表情でわたしを見ていた。
ケンカの原因はお母さんの再婚についてだった。
数年前にお父さんと離婚してから、お母さんは密かに男の人とお付き合いしていたらしい。そして、再婚まで考えていたらしい。わたしは先日、そのことを急に打ち明けられ、「とりあえず一度会って欲しいの」と頼まれた。渋ったけど、昨日半ば引き摺られるように再婚相手さんのところへ連れて行かれた。
再婚相手さんはこの田舎町の商店街の一角で、小さなラーメン屋を経営していた。壁の塗装が剥げていて、見るからに客足の少なそうなヤツ。そこで再婚相手さんの作ったラーメンを食べながら三人でまったりお話でも、という算段らしかった。
わたしは元々不機嫌だったけど、店の前で待っていた再婚相手さんがお母さんを苗字じゃなくて名前で呼んだとき、自分の内側で何かが弾けるのを感じた。
だから、暴れてやった。
そのボロラーメン屋の隣にお好み焼き屋さんがあったから、わたしは咄嗟に、
「まずいラーメンなんかより、美味しいお好み焼きが食べたい!」
と騒いだのだ。もちろんお好み焼きじゃなくても、とにかくお母さんを名前で呼ぶ再婚相手さんを否定できれば何でも良かった。
やっぱり、お母さんは怒った。
「あんた、もう小学六年生でしょ! 馬鹿なこと言わないで!」
幼児退行気味に騒ぐわたしを押さえつけるお母さんは信号機みたいに顔を赤くしたり青くしたりしていて、再婚相手さんは困惑していた。お母さんに押さえられながら、ざまぁみろとか思った。
結局まずいラーメンを食べさせられたけど、わたしはずっと黙りっきりで口を利かなかった。お母さんは最初は怒っていたけれど、お店を出てから夜道を家に帰るときには物憂げに眉を寄せて溜息をついていた。その溜息の意味は、わたしには分からなかった。
そして翌日の昼。
テーブルにはお好み焼きが置かれていた、というわけなのだ。
「お母さん、えと……これ」
「おはよう。随分ゆっくりお休みだったわね」
「あ、うん……。おはよ」
視線が迷子になり、語尾が薄弱になる。お好み焼きを前にどう振る舞えばいいのか分からず立ち尽くしていると、お母さんが「座れば?」と促してきた。
リビングのテーブルには椅子が二つだけ。お母さんと向かい合って座って、でもやっぱり視線は俯かせてしまう。空気にぴんと緊張の糸が張り詰めていて、息苦しい。
「あのね、リュウコ。お母さん、やっぱり再婚はしないことにした」
身を乗り出すようにしてお母さんが言う。顔を持ち上げると、困ったような表情のお母さんが目の前にいた。
「昨日あれから、お母さんと相手の人の二人で話したんだけどね、やっぱり結婚はしない方がいいって。そういう結論になったから」
「あ……うん」
お母さんの口調は淡々としていて、感情に欠ける。欠けるというより、隠しているだけなんだろうな。お母さんが再婚をやめたという話は嬉しいはずなのに、わたしは何故か素直に喜べない。
「えっと、わたしのせい……?」
花瓶を落として割ってしまったときのような罪悪感を胸に尋ねてみると、お母さんは緩く首を振った。
「あなたがどうこうって気に病むことじゃないの。結婚をやめるっていうのは、あくまでお母さんたちが出した結論なんだから」
「うん……」
お母さんの口調は優しさに包まれていて、わたしにはその優しさがつらい。善意がまるごと棘になったように、わたしの胸をちくちく刺してくる。そうよあんたのせいよ、って罵ってくれた方が、まだ楽だったかも知れない。
「ごめんね。お母さん、あなたの気持ちをちゃんと考えてなかったの。急に知らない人がお父さんになるって言われたって、受け入れられっこないよね」
「そんなことない……けど」
「だから、仲直りしようと思ってこれ、お好み焼き。お店のやつじゃなくて手作りので悪いけど、リュウコの分。あんた全然起きてこないから、すっかり冷めちゃった」
どうぞ、と皿をわたしの方に押しやってくる。確かにお好み焼きは湯気すら立っていなくて、あまり美味しそうには見えなかった。
「お母さんは?」
「お母さんはこれからもう一度、相手の人のところに行ってちゃんとお話してくる。お昼はそこで食べるから、大丈夫」
「ん。……分かった」
お母さんが用意してくれたお好み焼きにカツオ節と青ノリを振りかける。カツオ節は踊らずにへにゃっと生地の上に潰れた。
お母さんの見ている前で、お好み焼きを食べる。
冷めたお好み焼きはソースの味ばかりが目立って、ぐちゃぐちゃして、やっぱり美味しくない。それでもわたしは、優しげな表情で見守るお母さんに「美味しいよ」と嘘をつく。
罪の味だ、と思った。
このお好み焼きは、お母さんから大切なものを奪ってしまった、罪の味なのだ。
「お母さん、ごめん……」
不意に、視界が滲んだ。お母さんの顔が輪郭を失い、世界があやふやになる。
身体の底から何かが込み上げてきて、じんと目の奥が痛んだ。
「わたし昨日、あんなことしちゃって……。せっかくお母さん、再婚しようと思ってたのに、全部台無しにして……。わたし、」
「いいのよ」
柔らかな温もりが身体を覆った。お母さんに背後から抱きしめられているのだ、と気付いた。
ゆっくりと、温かい手のひらがわたしの頭を撫でる。
「お母さん、気にしてないから。そんなことより、ずっと大切なものがあるから」
「でもわたし、お母さんに謝らないと……」
わたしの気が済まない。罪を抱えたままじゃ、心が重すぎて歩けない。
「だったらね、リュウコ」
お母さんは言った。
「お母さんじゃなくていいから、誰か他の人に、ひとついいことをしてあげなさい。お母さんは今あなたに、お好み焼きという名のひとつの善意を与えた。だからあなたも、いつかお母さん以外の誰かに、ひとつの善意を与えてあげるの」
「どうしてお母さん以外なの?」
「地球はそうやって回っているからよ。今は難しくても、あなたにもいつか分かる日が来るから。いい?」
「……分かった」
お母さんの言うことは分からなかったけど、わたしは頷いた。頷いて、ソース味しかしないお好み焼きを食べた。罪の味だったお好み焼きも、善意の味だと思えば何となく心が軽くなったような気がした。
お母さんが一度自分の部屋に戻って着替えを済ませ、リビングに戻ってくる。緑のワンピース、再婚相手さんと会うための服らしい。
「あのさ、お母さん。いつも言ってるけどそれ、似合ってないよ」
「あんたはね、大人のファッションを理解するには百万年早いのよ」
わたしの意見をばっさり切り捨てて、「じゃあ行ってくるから」とお母さんが玄関に向かっていく。はいはい、と似合ってない緑のワンピースを見送ってから、再びお好み焼きを口に運ぶ。
ガリッ、と嫌な食感がした。
思わず手のひらに出してみると、とっくに寿命を過ぎているフライパンの欠片だった。
「んむむ……」
何だか分からないけど、ちょっと嫌な予感がした。