If I was strong a little more.
If I was strong a little more
壮大だが簡素な建物から女が出てきた。巨石を積み上げて造られたもので、真新しいプレートには中央図書館と彫られている。外はすでに日は落ちて久しく、深々と冷え込んでいた。女は小さくくしゃみをし、すらりとした高い背をさらに伸ばした。抱えた本を落とさないようにしながら、片手で器用に扉に頑丈な鍵をかけた。
書架の整理といくつかの事務処理を含め、館の戸締りは彼女の日課になってしまっていた。全てを済ませると点々と佇む街灯が、迫りくる闇に弱弱しく抵抗するばかりで、人はおろか犬の遠吠えも聞こえない時間になっている。
女は小さく体を震わせ左右をきょろきょろと見回した。手に持ったランプを顔の高さまで掲げ、眉根を寄せて小さくつぶやく。とたんに、ランプに煌々と炎が揺らめいた。女は一つ頷いて冷え切った石畳の道を足早に歩き始めた。
少しもいかないうちに、少し先を一匹のネズミがひょこひょこ歩いているのに気がついた。白い毛並みがつやつやと光っている。どこかで見たことがあるが、思い出せない。そのまま首を捻りながら歩いていると、女のほうが歩くのが速いので、次第に追いついていった。自宅へ続く十字路が近づく頃にはすぐ後ろまで来ていた。十字路でネズミは南へ曲がった。角から五軒目の家まで来ると、後ろ足で立ち上がり、鼻をひくつかせて、家の扉をかりかりと引っかいた。
やや間があって扉が開き、いそいそと女が出てきた。ネズミは隙間からするりと中へ入っていった。
「あら、レイナさん?」
扉から出てきた女は、くりくりとした大きな目をさらに大きくして、黒髪の女に声をかけた。
「お久しぶりです、コリー」
「しばらく見ないと思ったら、また図書館ですか」
レイナが抱えている本の束を見ながらコリーはしょうがないなあ、という顔をした。
「それは、まあ、念願がかなったわけですから」
レイナの顔に笑みがこぼれる。コリーも嬉しそうに微笑んだ。
「その様子だと、夕食まだでしょ。食べていかれませんか?」
「いえ、遠慮しておきます。その、邪魔しちゃ悪いですし……」
言い終わる前にレイナのお腹が、くう、と鳴った。二人は顔を見合わせ、同時に噴出した。ひとしきり笑いあった後、やはり同時に深いため息をついた。
「それでは、私はもういきます」
「あ、はい。では、また」
扉を閉めようとしたコリーは探るような視線を向けた。レイナは訝しげに眉をしかめた。少しためらった後、コリーはおずおずと口を開いた。
「レイナさん、少し、痩せました?」
「あ、いいえ、そんなことありませんよ」
レイナは首を横に振った。困ったように笑うその目の下は黒ずんで、肌のつやもない。
「ちょっと待っててくださいね。すぐ戻りますから」
コリーが慌しく家の中に消え、奥のほうから盛大に皿を割る音が聞こえてきた。悲鳴にも似た叫び声と、気遣う男の声が聞こえる。
レイナは寒さに震えながら待つ間、澄んだ空気に広がる満天の星空を眺めていた。北極星を見つけ、七星を辿り、おおいぬ、こいぬ、それにオリオン。しし座を探し始めたところで、コリーが手に包みを提げて戻ってきた。甘い香りが漂ってきて、空っぽのお腹がまた鳴った。
「これ、どうぞ召し上がってください。容器は直接火にかけても平気ですから、冷めたら火にかけて暖めてください。弱火じゃないと焦げますから気をつけてくださいね。本を読みながらだと炭になっちゃいますよ」
軽く笑いながら、コリーは片手で押し付けるように差し出した。レイナは、コリーのにこやかな笑顔に圧倒されつつ受け取った。包みを通しても熱が伝わって暖かい。
「ありがとう、おいしくいただきます」
「容器は、ちゃんと洗って返しにきてくださいね」
はっとして見返すレイナに、コリーはにやりと笑った。だが、丸っこい輪郭のせいでにっこりと笑ったようにしか見えない。レイナは寄せていた眉を更に険しくする。鼻で大きく息をすると、肩をすくめた。
「わかりました。来週、返しに伺います」
「必ずですよ。用意して待ってますからね」
コリーは笑顔で手を振った。レイナもランプを提げた手を上げて億劫そうに振った。
「それじゃあ、今度こそ、行きます」
「あ、引き止めてごめんなさい。……それじゃあ、来週」
またね、と言って、コリーは笑顔で手を振った。レイナが立ち去るまで待つつもりなのか、一向に家に入る気配がない。レイナはきびすを返した。十字路に差し掛かったとき、遠くで小さく戸が閉まる音が聞こえた。
十字路で立ち止まり白い息を吐く。ふと空を見上げる。紺色の地に撒かれた銀の粒は、街灯の明りで幾分減ってはいたが、それでも数え切れないほど瞬いていた。
レイナは、遠くに行ってしまった人を思いながら、指がしびれるまで空を見上げていた。
Another day, another dreams
夜明け前、薄明るい空に向かってにわとりが鳴いている。その声でレイナ=クレイトンは目を覚ました。わずかなまどろみの後、ゆっくりと目を開く。眠い目をこすりながら身を起こし軽く伸びをすると、かたわらで鳴き声がした。
黒い猫が眠そうにあくびをする。全身真っ黒だが、胸のところに白い十字模様がある。名をシュレディンガーという。いつもふらふらとしてどこにいるかわからない。家中を探しても見つからず、あきらめて寝ようとしたら枕で丸くなっていたこともある。
今日はそんなことはなく、枕元の定位置で丸くなっていた。
シュレディンガーはもう一度大きなあくびをすると、不平をもらしながら顔を洗い始めた。
レイナはシュレディンガーの頭を軽くなでるとベッドを降りて窓を開けた。早朝の冷たい空気を大きく吸い込むと、濁った意識が澄み渡っていく。
くすぶっている暖炉に薪をくべる。火が大きくなると、いくつかの炭を取り出し、台所へ向かう。コンロに炭ほりこみ、ヤカンをかける。
大きく伸びをして息を吐くと、白く濁った。
掛け声を一つして体操を始める。はじめは小さく軽く動かす程度から、次第に大きく激しくしていく。十分に体がほぐれたところで、机の引き出しから小ぶりのナイフを取り出した。刃渡りは二十センチほど。装飾の一切ない真直ぐな刃。柄にはきつく革がまかれている。
レイナはしばらくそのナイフをじっと見つめ、ため息をついた。
歯がかけてしまいそうなほど強くかみ締め、虚像の敵に向かって全身でナイフを突いた。捻りとバネを使って真直ぐに。
しなやかに、そしてしたたかに。
レイナにナイフを含む白兵戦の基礎を教えた二人の師は、同じようなことを違う言葉で言っていた。その二人の師は、今はもういない。
二人の顔を思い浮かべると、全身の力が抜けていく。心に開いた大穴が、気力を根こそぎ奪ってていくようだ。全身にかいた汗が冷えて体が震える。刃の鈍い光が語りかけてくるように迫ってくる。
足元で鳴き声がした。みればシュレディンガーが気遣わしげな表情を向けている。足元にまとわり着いてごろごろと喉を鳴らす黒猫を安心させるようにレイナは小さく笑った。
「大丈夫よ、死んだりはしないから。お腹すいたわね。朝ごはんにしましょう」
レイナはナイフを丁寧にしまった。沸いたお湯でタオルを絞り、汗に濡れた体を拭くと暗い考えも一緒に拭えたようだった。
朝食は軽く焼いたトーストにミルク、スクランブルエッグとカリカリになるまで焼いたベーコン、そしてサラダだ。シュレディンガーには焼いてないベーコンにミルクだけだ。手早く済ませると、塔の制服に着替えた。
「それじゃ、行ってきます」
レイナが声をかけると、シュレディンガーは一声応えて、ベッドに丸くなると、早くも寝息を立て始めた。
レイナが戸を開けると、冷たい空気の壁にぶつかった。白い息を吐きながら学園へと向かう。街の中ならどこからでも見える高くそびえる塔は王城に次ぐ巨大建築で、威容であるが、見ようによっては異様である。円筒が基本の塔建築において正三角形を底面にしているというだけでおかしい。さらに、外部からはわからないが、実は三つの塔から成り、中央は空洞になっている。空洞はちょっとした広場になっている。憩いの場となるように水場が設けられ、周囲には木が植えられている。昼時や夕刻などは多くの人でにぎわうここも、早朝となると誰もいない。水場には薄っすらと氷が張り、植木の根元には霜が下りている。
レイナは少し足を止めて、これから始まる憂鬱な会議が少しでも有意義なものになるようにと願いながら、早朝の清涼な空気を楽しんだ。
資料には三種ある。無いと困る資料、あったほうがよい資料、そして、無くても困らない資料。
学園には資料として大量の本と書類がある。しかし、その置き場所に困って久しく、この度外部に図書館が設立されたことを受けて蔵書の一部を移管することになった。会議の議題は簡単なもので、どの本を残すか、と言うものであったが、進行は難航していた。各各自分が必要とする本を残したいために相手のあら捜しや揚げ足取りに終始し、ほとんど進展しないまま終了するという事態がここ三日ほど続いている。
レイナに言わせれば万人が必要とするもののみを残せばよい、ということになる。どうしても残したいのなら自分の部屋に置くべきで、そのスペースも与えられている。見栄や権力の誇示、いくつものしがらみなどがあるのだろうが、レイナは興味すらわかない。
だから異端と言われるのかな。
そんなことも思うが、異端を地で行くような人は、早々に見限って出て行ってしまったり、ののしりあいもどこ吹く風と、斜向かいであくびをしている。ふと、あくびをしていた人物と目が合った。彼女は少しばつの悪そうな顔をして、手を振った。退屈な会議ね、と身振りと目線で言ってくる。レイナは少し迷った後、同感です、と身振りで返した。
その後、前日とほとんど同じ状態で会議は終了した。
朝の会議を終えると挨拶もそこそこに自室へと戻った。レイナの使う部屋は比較的広く、四方を本棚に囲まれている。肩身の狭そうな扉と、申し訳なさそうな小さな窓が印象深い部屋だ。
本棚を背にして三つの机がある。そのうち一つをレイナが使い、もう一つは書類や本や様々なガラクタが山のように積み上げられている。それでもこの半年で少しずつ片付けた成果で、当初の三割くらいにはなった。そのままにしておいてもよかったが、気になって整理を始めたら止まらなくなってしまったのだ。机の主が何を持ってガラクタとそうでないものの区別をつけていたのかはいまだにわからず、レイナには全部がガラクタに見えてしまう。
最後の机、今では誰も使っていない机を見て、レイナはため息をついた。
事実上、今のレイナに上司はいない。名目上の上司は出張と称して西方へ旅立ってしまった。トラブルを好んで買ってくる性格には手を焼いたが、いなくなればそれはそれで寂しい。一足先に上に行った同期を二人でサポートする形で始まったチームも、気がつけばレイナ一人になっていた。一人になったときに辞めるつもりだったが、是非に請われて留まった。それからおよそ一年が過ぎ、教え子も独り立ちできるほどにはなった。
そろそろ潮時かもしれないな。
レイナは口の中で呟くと片付けもそこそこに部屋を出て行った。
昼食を行きつけのカフェで済ませて向かった先はできたばかりの図書館だ。館長は肩書きが両手の指くらいある貴族だが、取り仕切っているのレイナである。若輩の身ながら大役を任されているのは、いくつかの功績と数人の応援、そして何よりその情熱に、長老たちがほだされたとに言われ、塔の中では図書館建設に至る経緯はちょっとした伝説になっている。
ある会議で図書館不要論を述べた高導師に対し、レイナはその見識の低さを罵倒した挙句、延々半日にわたり図書館の必要性と有意性を切々と語った。後に、この話を耳に入れたある老貴族が、そんなに言うならやらせてみればよかろう、と言って図書館建設に必要な資金を出し、座礁しかけた計画を完成させることができた、と言われている。
この伝説について本人が全力で否定するのは高導師を非難する下りである。問い詰めたのはせいぜい一刻で、半日もやってないという。一方、そのほかの部分についてはほぼ事実であった。
レイナにとって新しくできたこの図書館はほぼ満足の出来栄えだった。あえて不満点を上げるとやはり閲覧可能な本の少なさであろう。蔵書の数は少なくない。塔をはじめ各方面の施設、貴族の個人所有等、貴重な書物が相当数集まった。だが、分類整理も済ませずに貸すわけにもいかず、職員は日々入荷した本の目録作りを行っている。無論、レイナも例外ではない。本が増えることを純粋に喜びながら目録を作るその一方で、本を読む時間が無くなってしまい、常にその心中で微妙な葛藤を繰り広げていた。
「クレイトンさん、クレイトンさん」
呼ばれて、レイナは読んでいた本から目を上げた。内容の概略を書くつもりで読みはじめたら熱中してしまったらしい。窓の外は真っ暗で、館内の各所でランプが灯っている。「何か?」
「そろそろ閉めましょうよ。きりがいいところで終わりにしませんか」
「ええ、そうね。それが終わったら先に帰ってください。私が閉めておきますから」
声をかけたレイナの同僚は、少し不審な顔をした。
「クレイトンさん、今日は友達と食事をするから早く終わろうって、言ってませんでしたか?」
今度はレイナが不審な顔をする番だった。眉根をよせて記憶を脳裏によぎらせていく。冷たい星空を思い浮かべ、息を吐いた。
「そうだったわ。教えてくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。それじゃあ、ランプ消してきますから、片付けて置いてください」
レイナは、笑顔を振りまいて去っていく同僚の背中に引っかかるものを感じ、とっさに声をかけた。
「あの」
「はい、何か?」
「ええっと、その…、この時間でも空いている花屋とお菓子屋を知らないかしら?」
同僚は小さく噴出して、案内しますよ、と笑った。
レイナはひんやりとした石畳を足早に歩いていた。この速さだと約束の時間を少々過ぎるかもしれない。全力で走りたいが、右手に花束、左手に小包とかばんを提げているためうまく走れない。さらにいえば、日々の鍛錬は欠かしていないが、実戦から遠のいて久しく、すぐに息が切れてしまう。
大きく深呼吸したとき、はた、とレイナの足が止まった。よくよく考えてみれば少々遅れたところで文句を言う彼女らではない。それに、彼女の気質を考えると遅くいったほうがいいような気がした。
もう一度大きく深呼吸してから、レイナはいつものペースで歩きだした。冬の夜特有の深く静かな空気が、呼吸をするたびに体の芯を冷やしていく。じっとりと汗ばんだ肌が急激に熱を失い、その度にレイナは体を震わせた。
遠くで鐘の音が聞こえてくる頃、レイナは先日の十字路に立っていた。角から五番目の家の前で深呼吸して息を整える。
鐘を鳴らすと中から軽やかな声が答えた。
「ごめんなさい、遅くなりました」
「いえいえ、こちらこそ。忙しいのに呼びつけちゃって」
コリーは笑顔でレイナを迎え入れた。家の中はレイナの少々意地悪な予想に反し、きちんと整えられていた。意外そうな気持ちが顔に出たのか、コリーが笑った。
「私だって、やるときはやるんですよ」
「そうね、あなたはいつもそうだったわね」
二人は視線を絡ませ、同時に噴出した。
「楽しそうじゃないか。俺も混ぜてくれよ」
二人の笑い声に誘われて、短く刈り込んだ頭をかきながら、男が食堂に現れた。厚手の服を着ていても中にある筋肉を感じさせられる。
「はい、ランザ。久しぶり」
「やあ、レイナ。久しぶり」
にやりと笑って手を上げると、ランザはどっかりと椅子に座った。目線でレイナにも座るように促す。レイナは両手の荷物を軽く上げてみせた。
「コリー、お土産、というほどのものじゃないけれど」
「あら、ステキなお花。こっちは、砂糖菓子ですか」
「ええそうよ。口にあうといいのだけど」
レイナは頷きながら椅子に座った。
「ワインとエールとどちらがいいですか?」
花を生ける花瓶を探しながらコリーが言った。
「そうね、ワインをお願いできるかしら」
「俺はエールがいいな」
「地下に開封してないワインがあったから、取ってきて」
コリーは手を止めずに言った。ランザはちょっと眉根を寄せて抗議の声を上げた。
「とってきて」
先ほどよりトーンの下がった声に肩をすくめると、ランザは席を立った。
「いつもこんな感じなの?」
「そうよ、なーんにもしないんだから。まったく一人暮らし長いのにだらしがないったら」
生けられた花は少々華やかに過ぎた。テーブルの上に陣取ると、他を排して自分が主役であると主張してやまない。
コリーは気にしていないのか、すてきじゃない、と嬉しそうに言うと、次々に料理を並べ始めた。ローストチキン、きのこのスープ、ポテトと玉ねぎのサラダに芋のタルト、軽く火で炙ったパンにはチーズがのせてある。
「なんていうか、その、すごいわね」
「ちょっと張り切っちゃいました」
「いつも食いきれないくらい作るんだよ。おかげで三食ポテトサラダという日が続いたりね。まあ、美味いからいいけど」
戻ってきたランザは、ぼやきながらレイナとコリーのカップにワインをなみなみと注いだ。自分の分のエールを注ぐと、ジョッキを高々と持ち上げた。残る二人も習ってカップを掲げる。ランザはいつになく生真面目な顔をしていた。
「未来の図書館館長であり、我らの友との再会に、乾杯」
『乾杯』
レイナとコリーは軽く口をつけただけでカップを置いたが、ランザはジョッキのエールを一気に飲み干して大きく息を吐いた。
「あらためて、久しぶり、レイナ。元気そうだね」
「ランザもコリーも、変わりないみたいね」
「変わらないのはお互い様ですよ」
コリーは少しほっとした様子でくすくすと笑った。元気になってよかった、たとえそれが空元気だとしても、と目線で語りかけてくる。
今こうしてゆっくりと食事をしながら死線をさ迷い歩いた日々を振り返ると、悪い夢だったように思えてくる。しかし、夢ではない証拠がレイナの胸には深々と突き刺さっていた。
その刃が再びレイナの胸をえぐり、その白い顔に陰鬱な影を落とした。
「それにしても、あの時のレイナは、ほんとにどうなるかと思ったよ」
ランザは肩をすくめた。同時に白い沈黙が華やかな食卓を覆いつくした。
「ああ、もう、なんでそうデリカシーがないんですか」
コリーは机を叩いて立ち上がり、すさまじい勢いでまくしたてはじめた。気遣いのなさをなじり、空気を読めないことを非難した。ランザはほうほうの態で平謝りをしているがなぜこんな目にあうのかわかっていないようだった。
レイナはそんなやりとりを黙って見つめていたが、指摘が普段の私生活から過去に遡り始めたとき、へその辺りから沸き起こる衝動に手を当てた。とたん、腹の虫が盛大に自己の存在を主張した。
二人は顔を見合わせ、ばつが悪そうにあやまった。レイナは笑って手を振った。
「いいえ、面白いものを見れてよかったわ」
「それじゃ、冷めないうちに食べましょうか。おかわりもありますから、遠慮しないでくださいね」
レイナは少し覚悟して口に運んだが、食べるうちにその覚悟が不要のものだったことを思い知らされた。
「すごい。美味しいわ」
「そういっていただけるとうれしいですよ。どんどん食べてくださいね」
コリーは心底嬉しそうに笑った。隣のランザは黙々としてガツガツと食べている。彼に倣う気はレイナにはないが、料理に伸びる手はなかなか止まらなかった。単に空腹だけでなく、それ以外のものも満たされていくようだった。
空腹が満たされた後、暖かな部屋でソファに座ったのがまずかったのか、レイナは水に沈むように眠りに落ちていた。わずかなまどろみを経て覚醒すると、時間の消失を感じた。目を開くと暖炉の炎が目に入った。一瞬たりとも同じ姿をとらぬ炎に見入られ言葉を失う。
「あ、お目覚めですか」
「……ごめんなさい、寝てました。どれくらい経ったかしら」
「半刻ほどですね、たぶん」
コリーは繕い物を片付けながら立ち上がった。寄りかかっていたランザが目を覚ましぶつぶつと何か言った。
「ほら、しゃきっとして、レイナさんを送ってきて」
「大丈夫ですよ、一人で帰れますから」
「夜道を一人で歩かせられませんよ、ほら、起きて」
ランザは大きく欠伸をした。眠そうに目をこすりながら、もう一方の手であたりを探った。
「……俺の剣」
ぼそりとした呟きを聞いたコリーは走るように部屋を出て行った。ランザは両手で顔をこすり、立ち上がって伸びをした。
「どれくらい寝てた」
「半刻ほどよ」
「そうか……。わるいな。せっかくきてもらったのに寝てしまって」
「いいのよ、気にしないで」
やがてコリーが大きな剣とマントを持って戻ってきた。街中で帯びるには少々大げさな剣だが、そこいらのごろつきなら襲う気をそがれほどの威圧感がある。
「じゃあ、行こうか」
戸口に向かうランザを追って、大きなネズミがちょろちょろと駆け寄って言った。慣れた様子でランザの体を這い登り、肩に納まると小さく鳴いた。レイナは首を傾げて見つめる大きなネズミにつられて首をかしげ、あっ、と声を上げた。
「しまった。シュレディンガーの事を忘れてた。拗ねてるだろうなぁ、あの子」
レイナは苦笑を浮かべた。気ままなようで気難しいシュレディンガーは、一度拗ねると容易に機嫌を直さない。今回のように断りもなく遅くなると、そばにいる気配だけを残して、三日位顔を見せない。
「どうかしたんですか」
驚いたコリーに、レイナは簡単に事情を話した。コリーは少し考えた後、大きくうなずいた。
「じゃあ、シュレ君にお土産を持っていけばいいんですよ」
レイナが止めるまもなく、コリーは台所に消えた。先ほどのディナーは五割ほどをランザが平らげ、残りをレイナとコリーで分け合う形になったが、それでも全体の三割ほどが残されていた。
「相変わらず、ね」
苦笑交じりのレイナの呟きに、ランザは無言で頷き返した。台所からはばたばたと動き回る音が聞こえてくる。レイナは騒々しいと思いつつも、あまり不快ではないことに気がついた。
戻ってきたコリーは両手で一抱えもありそうな荷物を持っていた。明らかに夕食の残りではないものも混じっていそうだった。レイナは呆れて、穏便に断ろうと口を開きかけた。
「ええっと、これが今日のチキンとサラダです。サラダは二、三日持つと思いますけど早めに食べてくださいね。こっちはスープの元で、適当な大きさに切ってお湯で戻してください。それからこっちはニシンのレモン漬けで……」
早口でまくし立てるコリーに圧倒され、レイナは声がでない。視線をずらすとランザが諦めろ、という顔で頷いた。
「……ありがとう、コリー、頂くわ」
「あの、ええっと、その、食器は洗って返しに来て下さいね」
コリーは遠慮がちににっこりと笑った。レイナは息を吸い、大きく吐いた。
「わかりました。必ず返しにきます。それから、料理も楽しみにしています」
「はい、腕によりをかけてお待ちしています」
コリーは満面の笑みを浮かべ、ランザは肩をすくめて笑った。
家の外に一歩でると、冷たい風が肌を撫でていき、レイナはコートをかき抱いた。指先が痛くなるほど寒いが、それでも以前に比べると幾分ましになったように感じられる。
二人は冷え切った石畳を並んで歩いた。規則的な足音と、遠くの繁華街からかすかに聞こえる賑やかな物音くらいで、街は水中に沈んだように静かだった。空を見上げれば星の瞬きすらひっそりとしている。
ランザは眠そうに目を擦りながら黙って歩いている。一見ぼうっとしているが、時折ぴくりと目尻が動き、鋭い視線を路地の奥へと投げていた。一方レイナもまた、一言も口をきかずに歩いていた。時折荷物を持ち直し、気の利かない男へ苦笑をもらしながら。
教会の鐘が厳かに鳴り響き、レイナは足を止めた。遠くにそびえる塔を見つめた。
「ここまででいいですよ。もう、すぐそこですから」
「そうか。でも、すぐそこならたいした違いじゃない。送るよ」
「いいのよ、立派なナイト様がお出迎えしてくれているから」
声に応えるように家の影からするりと湧き出るように黒い物体が現れた。それは胸についた白い十字を誇らしげに見せ付けて座り、詰問するように鳴いた。
「ごめんなさい、お土産はたっぷりあるから、許して、ね」
黒猫は不満げに鼻を鳴らすと音を立てずに歩き出した。
「そういうわけだから、大丈夫よ」
レイナは軽く手を振り、シュレディンガーを追った。
「そうか、じゃあ、……元気でな」
ランザがそういうと、レイナは眉根を寄せて笑い出した。
「やめてよ、今生の別れじゃないんだから」
「じゃあ、どういえばいいんだ」
ランザは侮辱されたような顔をした。レイナは機嫌を損ねた黒猫を追いながら、言った。
「またね、ランザ」
手を振るレイナにランザは笑顔を返した。
「またな、レイナ」
ランザは軽く手を上げると、きびすを返して歩き去った。レイナは先を行くシュレディンガーに追いつくため足を速めた。レイナが追いつく頃には、黒猫はもう玄関の前に着いていて、好きには入れるくせに扉が開くのを待っている。
「ああ、もう、悪かったって」
扉を開けるとシュレディンガーはするりと中に入って家主を省みない。
レイナは荷物をテーブルに置くと暖炉に火を入れた。冷え切った室内は震えるほど寒い。歯を鳴らしながらヤカンをコンロにかけ、お湯が沸く間にシュレディンガーの食事を用意する。土産のローストチキンを細かくし、皿に盛り付けて暖炉の前に置く。やってきたシュレディンガーは確認するように匂いをかぎ、満足したようにレイナを見て鳴いた。そして、猛烈な勢いで食べ始めた。
レイナは暖炉のそばに腰を下ろすと、炎を物憂げに見つめた。赤く輝く炎が揺らめいて秀麗な顔に陰影をつけていた。黒猫が肉を食む音だけが室内を満たし、時が止まったようにレイナは微動だにしなかった。
突然、レイナは叫びとも唸りとも着かぬ声をあげ、かたわらの黒猫に視線を投げた。
「ねえ、一度、実家に帰ろうか」
黒猫は食べるのを中断して顔を上げた。いぶかしむように一声鳴き、レイナをその黄金色の瞳で見つめた。
「そうね、今の仕事が一段落する十日後くらいに出発……。いや、その後引き継ぎと、ああ、塔の部屋の整理をして、それから図書館に休暇を出して、その間の代役を探して……」
シュレディンガーはしばし、ぶつぶつと自分の世界へ走り去ったレイナを見つめていたが、やがて諦めたように鼻を鳴らすと食事を再開した。皿がきれいになるまで舐めつくす頃にはお湯が沸き、レイナは慣れた手つきでお茶を淹れた。
彼女はお茶を友に机に向かうと持ち帰った書類を出し、月とランプの明りの下で仕事を始めた。
シュレディンガーは暖炉の前で毛繕いを済ませると大きくあくびをした。足音高くレイナに近づき、その足にじゃれ付いてからベッドへ向かった。枕元に飛び乗ると、伸びをして、くるりと丸くなった。そして、顔を上げてレイナを見つめた。彼女は真剣な顔つきで書類を読み通していく。
シュレディンガーは再び大きなあくびをすると目を閉じた。その様子は、西に行くのは何時になることやら、と言っているようだった。
了