サーブレシーブとハンバーガー①
「古口くんちょっと」
おじいちゃんがATMで振込をするのをうしろでじっと待っているような、長く気だるい月曜日の授業が終わり、「本日終了」と思ったショートホームルームのあと、私は担任の永山るみ先生に呼ばれた。
彼女は24歳、今年で三年目の国語教師だ。体つきも性格も桃缶のようにふにゃふにゃした癒し系で、クラスのみなから『るみちゃん』と呼ばれている。
「ん? 何か?」
「校長先生が呼んでましたよ。放課後校長室に来るようにって。古口くんなんか悪いことしちゃった?」
「いや全然」と私は白々しく手を振った。「あ、あれだ。きっと紫綬褒章授与の知らせだ」
「ああもう、そんなんだから、校長先生に呼び出されるんですよーっ」
「はい、サーセン。古口、校長室にいってきます」
そんなわけで私は帰り支度を整え、校長室に向かった。
マルセル・プルーストの小説ほどではないが、そこそこ長い廊下を歩き、職員室の奥にある校長室の茶色い木製のドアを、中指の第二関節でノックすると「どうぞー」という女性の声が聞こえた。
「失礼しまーす」
校長室はそれなりの広さの正方形に近い部屋で、床には安物のカリフォルニアワインのようなボルドー色のカーペットが敷いてある。部屋の中央に大きな応接スペースがあり、奥の机には白いスーツ姿の女性が座っていた。私の通う新雪学園高等学校の校長・岩崎美衣先生だ。
「真路くん、きたわね」
「ども。こんちは」
「はい、こんにちは。とりあえずそこ座って。なんか飲む?」
「じゃあバーボンをロックで」
「バカボンがノック? 何いってるの? パパなの? そんなわけないじゃない。ダージリンティーでいいわね。おいしいのもらったのよ、この前」
この人は一筋縄ではいかない。納豆ご飯を食べたあとの茶碗くらい手ごわい。 私は家の手伝いでよく食器を洗うが、あれはスポンジまでぬるぬるするから大変だ。あとバラ肉を焼いたあとのフライパンとか。
私はいわれた通りに中央の応接スペースに座る。
「お菓子ももらったの。アドリアーノっていうやつ」
「それ、どこのサッカー選手?」
美衣さんがニッと笑った。
うわー罠かよ。思わずツッコんじまった。
「あ、そうそうマドリードだった」
こうなったら付き合うしかない。
「ああ、世界最高峰のクラブチームがある街ね――ってお菓子じゃないじゃん」
「真路くん、そのノリツッコミつまんなーい。ベタすぎ、安易すぎ、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙の採点なら四点ね」
「……」
美衣さんは紅茶とマドレーヌをテーブルに置き、私の向かいの席に座った。
「ま、食べて」
紅茶にスティックシュガーを少しだけ入れ、三周かき混ぜてからマドレーヌをひと口かじった。
「あ、うまい」
「でしょ? これ有名なお店のものなの。で、どう? 学校にはもう慣れた?」
「ボチボチ」
「部活入らないの?」
「うーん、とりあえずスポーツはもういいかなって」
「もったいない、あんなにサッカーうまいのに」
「いや全然。メッシどころかメッキにもならないレベル」
「いいじゃないメッキでも。メッキメッキうまくなるわよ、そのうち」
「すげえテキトー」
「で、真路くんはいつ娘さんとお付き合いさせていただいております、とウチにあいさつしにくるのかしら?」
「ん? ちょっと何いっているのかわからないのだが」
「親の公認はいつでも出すわよ。古口真路当選確実よ」
「……まあ、奈緒ならきっとそのうちいい男つれてくるんじゃないかな?」
「すっとぼけるつもりね」
「どっちがだ」
「真路くんはなかなかいい男だけど、いかんせん口が悪い。そこは欠点というか欠陥ね。古口っていうくらいだから口が錆ついているのかも。今度水道工事の人来たら真路くんの口も交換してもらおうかしら」
「へいへい」
「まあでも奈緒もたしかにわが娘ながらいい女よね。私そっくり。才色兼備でおしとやかなところなんて特にね」
「才色兼備はまあ同意してもいいけれど、美衣さんも奈緒もおしとやかとは程遠いでしょ。イースター島とスピッツベルゲン島くらい離れている。いや地球とハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドくらい離れてる」
「失礼な」
「まあでも美衣さんは面白い。奈緒もユーモアのセンスがないってわけではないんだけど、どこかヘンな方向へいっているんだよな。牽制球を投げたらボールボーイの頭にあたっている、みたいな」
「うんそうね、奈緒のセンスはなんか独特なのよ。天然が入っている。あと、わたしマンガとかアニメの話とかちょいちょいするじゃない? あの子そういうのにはさほど興味ないのよね。それなりに読んだり観たりしていると思うのに。その点真路くんのほうがそういう話についてくる」
「そりゃ美衣さんに仕込まれたからな。しょうもないギャグとマンガとアニメ」
「まあ、わたしにいわせるとまだまだだけどね。ほとんどがダジャレだし。真路くんはそうね、モビルスーツでいえばアッガイクラスね」
「アッガイ(案外)いい評価だ」
「……」
「スルーかよ」
「でも奈緒、ジョークに果敢に挑戦しようとするじゃない? あの姿勢は好きよ。Gディフェンサーの先っちょで戦おうとするカツみたいで。容姿に似合わないことを言い出すのがキュンとくるの」
「あ、それはわかる。なんだ、それ? って思うことも多いけど、不思議と嫌いじゃないな。ときどきクリーンヒットも飛ばすし」
美衣さんと私の母・古口真帆は大学時代からの親友で、家も近くむかしからよくおたがいの家を行き来していた。美衣さんには私と同い年の奈緒という娘がいて、幼いころよく一緒に遊んでいた。小学校は別だったが、中学校は同じで、彼女もこの春母親のいるこの新雪学園高校に入学した。
「じゃあそろそろ本題ね。真路くんバイトしたいそうね」
「あ、うん、まあ」
要件ってそのことか。ようやくわかった。
この前登校中奈緒に会ったので、部活とか先生のこととかを話しながら歩いた、そのなかでバイトしたいという話もしたが、それを美衣さんにもいったのだろう。
「なんでバイトしたいの?」
「お金がない。月のこづかいが二千円じゃ何も買えないし何もできないって」
「そうなの? うーん、二千円じゃたしかにつらいわね」
「まあ、仕方ないんだけどさ」
ウチは親父が早世したため、母と私の二人暮らしで、こじんまりしたマンションに住んでいる。マンションのローンは親父の保険金でなんとかなったみたいなのだが、生活費は母の稼ぎが頼りだ。家計を助けるためにも、私は公立高校へ進学するつもりだったのだが、美衣さんからの強烈なお誘いと「美衣の学校へ行かせたい」という母の希望、それに成績優秀者として特待生になれたこともあって、結局この春、新雪学園高校に入学した。
とはいえ、新雪学園がバイト禁止なのはまったく知らなかった。この前奈緒から聞いてはじめて知った。
「奈緒の下僕でもやれば? きっと月三千円くらいならもらえるわよ」
「下僕って……。なんか面倒くさそう。それにきっと奈緒も嫌がるって」
「そっかな? よろこぶと思うけれど。まあそれは冗談として、ねっ真路くん、わたしのもとで働かない? アルバイト」
「ん? どういうこと? バイトってダメなんじゃ?」
「そんなことないわ。生徒手帳見てみなさい。アルバイトは原則禁止だけど、校長の許可があればOKなのよ。校長は誰? わ・た・しよ」
言い方うぜえええと思ったが、耳より情報なので黙っていた。
「悪くないでしょ?」
「何するん?」
「わたしの秘書。事務仕事がメインになるとは思うけれど、ほかにもわたしの代わりにやってもらいたいことやわたしじゃできないこと、生徒だからこそできることなんかをやってもらいたいの。たぶんいろんなことを頼むと思うわ。結構前からわたし一人では手が回らなくなってきているの」
「ふむ」と私は椅子に肘をかけ、あごに手を当てて考えた。パイプがないのが残念だ。
「真路くん相変わらずハードボイルド好きなんでしょ?」
「好き」
私の『真路』という名前は、親父が好きだったレイモンド・チャンドラーの小説に出てくる探偵フィリップ・マーロウからつけられた。
ハードボイルドの祖は『マルタの鷹』のダシール・ハメットといわれるが、ハードボイルドというジャンルが成熟したのはチャンドラーによるところが大きい。日本でもチャンドラーファンは多く、マーロウの孤高で誇り高い生き方と、独特で味わいのある比喩はいまでも多くの作家、クリエイターに影響を与えている。
そのせいもあり、私もハードボイルドが好きで、日ごろからハードボイルドな生活を実践している、つもりだ。
二十歳になるその日には開店直後の、何もかもがピカピカに光っているバーのカウンターで、ギムレットをゆっくり味わおうと思っている。
ただこの真路という名前、字面は悪くないのだが、音だけだと「麻呂」と間違われやすく、うさぎのウンコみたいなまゆげがついてそうで恥ずかしい。それゆえ自分の名前に対しては愛憎がいまだ混ざりあっている。
ちなみに、私が自分のことを「私」というのもマーロウの影響だ。いい始めた当初は照れがあったし、自分でも違和感があったのだが、中学時代からずっと使い続けているうちにだいぶしっくりくるようになった。知り合ったばかりの人には「なんで私?」とよく聞かれるが、中学時代からの知人はもう何もいわなくなっている。
「銃や殺人、暴力やウィスキーやタバコはないけれど、ちょっとした事件や騒動は必ずあるわ。秘書になればハードボイルドはなくても、困っている人を助けるという心たぎるハートボイルドな毎日が待っているわよ。真路くんにうってつけのバイトだと思わない?」
むう。乗せられているなと思いつつも、やべえっ、ちょっと心たぎってきちゃったよ。
「で、報酬は?」
「もちろん払うわ。週に一万円でどう? 基本的には放課後だけれど、状況によっては休日や自宅でも働いてもらうわ」
「金すげえ!」
週一万円ということは月で四、五万円。高校生にとってはかなりの大金だ。前のめりになりそうなくらい興奮した。
「でも、大変なことも多いと思うの。それでもいい? 大丈夫? わたしはね、この学校をよりよくしたい。学んでいるみんなにこの高校に入ってよかったと思ってもらいたい。そのために真路くんの力を借りたいの。わたしが信用できる生徒って奈緒と真路くんだけなの。でもこの仕事は奈緒には難しい。真路くんにしかできないの。お願い。頼めないかな?」
そういうと美衣さんは頭を下げた。彼女の顔は真剣そのものだった。
正直「えっ?」と思った。
校長である美衣さんがわざわざ私に頭を下げるようなことなのか? そんなに大変なのか? など、いろいろな疑問もあるにはあったが、自分を頼ってもらえて素直にうれしかった。お金ももらえるわけだし。
私も立ち上がって頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします」
美衣さんと握手した。手のひらサイズの名銃コルト・ベスト・ポケットのように小さいが、しっかりとした手だった。
美衣さんの期待に応えられるよう真摯に取り組もう、そう誓った。
美衣さんは微笑むと、机の資料を手にした。
「じゃ、とりあえずこの資料五十部コピーしてきて。あとで使うのよ」
いきなりパシリかよ。
自宅に帰ると洗濯機を回して掃除機をかけた。母は帰りが遅い日も多いので、家事は中学のころから分担している。
ひと通り家事を片づけたあと、母がつくり置きしていった丸墓山古墳型のこんもりチャーハンを取り崩していると、母が帰ってきた。
「ただいま。美衣の秘書やるんだってね。さっきメールきてたよ。『息子はいただいた』って」
「いただかれてはいないけど。ま、秘書っていうか手伝い? やってもいい?」
「もちろん」
「そっ」
「頑張ってね」
「あ、まあそれなりに」
「ねっ、真実を知りたい?」
「えっ?」
なんだ?
「知りたい? 怒らない?」
「怒らない」
「怒らないなら教えてあげる」
「うん、怒らないって」
「美衣ね、真路に仕事を手伝ってもらいたがってたの。だからバイトしたくなるようにこづかいを少なくして兵糧攻めにしてみようかと、美衣と話したの」
「……えっ? ぬあんだ、とおっ」
ぐぬぬ。母もグルだったか。ハメられた。
「さすがにウチも二千円しかおこづかい出せないほど逼迫はしてないよ。まあ、それだけ美衣に頼りにされているってことだから頑張ってあげて。お金ももらえるんだし。わあ、アルバイト代で真路に何買ってもらえるんだろうな? いまから楽しみー」
「プレゼント前提なんだ」
「あ、ちょっと待ってて」
そういうと、母は奥の部屋から革の小物を持ってきた。使い込んであるから親父のものだろう。
「これあげるから使って」
「何これ?」
「名刺入れ。明日学校に持っていくといいよ」
「なんで?」
「すぐにわかるよ」