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幼馴染を優先する婚約者を助けに行きます。どうか手遅れではありませんように!

作者: よみなぎ
掲載日:2026/10/20

 婚約者のヴィクトルは、今日も幼馴染を優先した。


「すまない、エレノア。イザベラが僕を必要としているんだ」


「本日は両家の昼食会ですが」


「父上には適当に説明しておいてくれ。イザベラは一人で事業を切り盛りしているんだ。僕が支えてやらないと」


 そう言って、ヴィクトルは出かけてしまった。


 これで三度目だ。


 結婚式まであと三か月だというのに、彼は何かにつけて幼馴染のイザベラを優先する。


 どのような事業なのか尋ねても、詳しくは教えてくれない。


 最初は、幼馴染との距離が近すぎるのではないかと思っていた。


 けれども、ここまで続くと、別の心配が生まれてくる。


 イザベラ様は、本当に困っていらっしゃるのではないだろうか。


◇


「……それは、確かに妙だな」


 私の話を聞いた父は、険しい表情で腕を組んだ。


 向かいに座っているのは、ヴィクトル様の父である伯爵だ。


 本来なら、今日は両家の昼食会だった。


 しかし、肝心のヴィクトル様が現れなかったため、私たちは急遽、別の話し合いを始めることになった。


「息子は、イザベラ嬢の事業を手伝っていると言っていたのだな?」


「はい。彼女が一人で事業を切り盛りしており、自分が支えなければならないと」


「事業の内容は?」


「何度尋ねても、詳しくは教えていただけませんでした」


 伯爵は眉間にしわを寄せた。


「私も同じだ。幼馴染が苦労しているから助けている、としか聞いていない」


「伯爵様もご存じないのですか?」


「ああ。息子の交友関係にまで口を出すつもりはなかった。だが、ここまで事情を隠すとなると話は別だ」


 父が静かに口を開いた。


「事業がうまくいっていないだけなら、まだいい。借金の返済を迫られている可能性もある」


「あるいは、悪質な商人に騙されているのかもしれません」


 私が言うと、伯爵がうなずいた。


「イザベラ嬢が何らかの問題を抱え、息子が助けようとしている。その可能性は十分にある」


「ですが、ヴィクトル様は何もお話しになりません」


「息子は昔から、困っている者を放っておけないところがある。相手の名誉を守るつもりで、黙っているのかもしれん」


 伯爵は深く息を吐いた。


「だとすれば、危険だな。本人は善意で動いているつもりでも、すでに厄介な連中に目をつけられている可能性がある」


 父の表情も険しくなった。


「もし犯罪組織が関わっているなら、息子さん自身が脅されていることも考えられます」


「……そうだな」


 伯爵はしばらく黙り込んだ。


 そして、私を見た。


「エレノア嬢。息子を心配してくれて、ありがとう」


「いいえ。婚約者ですから」


 私は首を振った。


「もし本当にお困りなら、私も力になりたいのです。イザベラ様の事業が苦しいのであれば、両家で支援できることもあるかもしれません」


「ありがたい申し出だ」


 伯爵は真剣な顔でうなずいた。


「だが、まずは事情を確かめなければならんな」


「私が訪ねてみようと思います」


 私がそう言うと、父がすぐに反対した。


「危険かもしれない場所へ、お前一人で行かせるわけにはいかん」


「もちろん、一人では参りません」


「ならば私が直接出向こう」


 伯爵も立ち上がりかけた。


 私は慌てて首を振った。


「お待ちください。お二人が直接訪ねるのは、かえってよくないかもしれません」


「どういうことだ?」


「伯爵家の当主が突然訪ねてくれば、相手は警戒するでしょう。もし何か隠している事情があれば、取り繕われてしまうかもしれません」


 父が考え込んだ。


「確かにな。では、家臣を派遣するか?」


「それも難しいと思います。家臣の方では、重要な事情を話していただけないかもしれません」


「なるほど……」


「私はヴィクトル様の婚約者です。彼を心配して訪ねる理由がありますし、イザベラ様にとっても、まったく無関係な相手ではありません」


 私は二人を見た。


「それに、ヴィクトル様ご本人から事情を伺うこともできます」


 伯爵はしばらく考えた後、ゆっくりうなずいた。


「確かに、エレノア嬢が訪ねるのが一番自然かもしれんな」


「では、私が――」


「ただし、護衛は山ほど連れていきなさい」


 父が厳しい声で言った。


「何があるかわからん。屋敷の護衛から腕の立つ者を選び、十分な人数を同行させる」


「はい、お父様」


「それと、伯爵。そちらにも協力をお願いしたい」


「無論だ」


 伯爵は即答した。


「私の私兵を近隣に潜ませておく。何かあれば、即座に踏みつぶす」


 その声には、一切の冗談がなかった。


「息子が危険な目に遭っているかもしれんのだ。遠慮する理由などない」


「ですが、伯爵様。あくまで事情を確かめるだけですから」


「わかっている。何事もなければ、それでいい」


 伯爵は私に向き直った。


「エレノア嬢。少しでも危険を感じたら、すぐに引き返しなさい。息子を助けるために、君まで危険を冒す必要はない」


「はい」


「そして、もし息子が何かに巻き込まれていたら、必ず知らせてほしい」


 私は深くうなずいた。


「もちろんです。ヴィクトル様を無事にお連れできるよう、努めます」


 父も伯爵も、真剣な表情でうなずいた。


◇


 イザベラ様の事業所は、王都の繁華街にあった。


 豪華な装飾が施された二階建ての建物。入口には『金の月』という看板が掲げられている。


 私は馬車の窓から建物を見上げた。


 外観に不審なところはない。


 しかし、だからといって安心はできなかった。


 もしヴィクトル様が何かに巻き込まれているのなら、相手が堂々と危険を知らせてくれるはずもない。


「お嬢様。配置が完了いたしました」


 護衛隊長が馬車の外から報告した。


「伯爵家の兵も、周辺で待機しております。合図があれば、すぐに駆けつけられるとのことです」


「ありがとうございます」


「我々も同行いたします。どうか私どものそばを離れませんように」


「はい。よろしくお願いいたします」


 私は深く息を吸った。


 ヴィクトル様。


 どうか、ご無事で。


 馬車を降り、護衛とともに入口へ向かう。


 扉の前には、体格のよい男性が二人立っていた。


「失礼いたします。こちらにイザベラ様はいらっしゃいますか?」


「支配人にご用ですか?」


「はい。それと、ヴィクトル様を探しております」


 男性は私の服装を確認すると、丁寧に頭を下げた。


「ヴィクトル様でしたら、奥の特別室にいらっしゃいます」


 特別室。


 私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 一般の客が入れない場所なのだろうか。


 何か、人に見せられない事情があるのかもしれない。


「ご案内いたします」


 男性が先に立って歩き始めた。


 護衛隊長が私のすぐ後ろにつく。


 建物の奥へ進むにつれ、人々の声が聞こえてきた。


 何人もの男女が、何かを叫んでいる。


 興奮した声。


 激しい物音。


 時折、床を踏み鳴らすような響きまで伝わってくる。


 私は思わず足を速めた。


 何が起きているのだろう。


 争いだろうか。


 まさか、ヴィクトル様が誰かに危害を加えられているのでは。


「こちらでございます」


 案内の男性が、奥の大きな扉を開いた。


 私は緊張しながら室内へ踏み込んだ。


 そして、ヴィクトル様の姿を見つけた。


「ヴィクトル様!」


 思わず駆け寄ろうとした、その瞬間。


「よっしゃああああああああああああああ!!!!!!」


 ヴィクトル様が、両手を天井へ突き上げた。


 満面の笑みだった。


 卓の上には、山のように積まれた金貨。


 周囲の人々が歓声を上げ、拍手を送っている。


「見たか、イザベラ! 大当たりだ!」


「すごいわ、ヴィクトル! やっぱりあなたは持っている男ね!」


「はははは! これだからやめられないんだ!」


 私は立ち尽くした。


 目の前にあるのは、賭博用の卓。


 その周囲で、客たちが金貨を賭けている。


 ここは、賭場だった。


 イザベラ様が経営しているのは、賭場だったのだ。


 そして、私たちがあれほど心配していたヴィクトル様は。


 誰よりも楽しそうに、賭博に興じていた。


「ヴィクトル様」


 私が声をかけると、ヴィクトル様が振り返った。


「エレノア!? どうしてここに!」


「昼食会にいらっしゃらなかったので、何かあったのではないかと心配になりまして」


「ああ、父上には説明してくれたかい?」


「はい。ですが、皆様とても心配なさっていました」


「そうか。でも、見てくれ! 今日は絶好調なんだ!」


 ヴィクトル様は悪びれもせずに笑った。


 彼は卓の上に積まれた金貨を指さした。


「さっきの大当たりで、昨日の負けをかなり取り戻せたんだぞ!」


「まあ。それはようございましたね」


「だろう!?」


 ヴィクトル様は得意満面だった。


 隣にいた赤いドレスの女性も、嬉しそうに笑っている。


「あなたがエレノア様ね? 私はイザベラ。ヴィクトルにはいつもお世話になっているの」


「初めまして、イザベラ様」


「彼のおかげで、うちのお店も大助かりなのよ!」


「そうでしたか」


 私は室内を見渡した。


 賭博用の卓。積み上げられた金貨。熱狂する客たち。


 そして、その中心で満面の笑みを浮かべている婚約者。


 なるほど。


 すべて理解できた。


「エレノア、イザベラは一人でこの店を切り盛りしているんだ。僕が支えてやらないとね!」


「ええ。よくわかりました」


「そうだろう! 君ならわかってくれると思っていたよ!」


 私は微笑んだ。


 幼い頃から、貴族の令嬢として身につけてきた微笑み。


 どのような場面でも、感情を表に出さず、相手に礼を尽くすためのものだ。


「もちろんです、ヴィクトル様」


「ありがとう、エレノア!」


「どうぞ、存分にお楽しみください」


「ははは! やっぱり君は最高の婚約者だ!」


 ヴィクトル様は嬉しそうに笑った。


 イザベラ様も満足そうにうなずいている。


「素敵な婚約者ね、ヴィクトル!」


「そうだろう! 僕は幸せ者だよ!」


「それでは、私は失礼いたします」


「もう帰るのかい?」


「はい。少々、用事ができましたので」


「そうか! 気をつけて帰ってくれ!」


「ありがとうございます」


 私は優雅に一礼した。


 ヴィクトル様は、もう次の勝負の準備を始めていた。


「さあ、イザベラ! この調子で昨日の負けを全部取り戻すぞ!」


「ええ! 頑張って、ヴィクトル!」


 私は二人に背を向けた。


 護衛隊長が、無言で扉を開けてくれる。


 今日は、実に多くのことがわかった。


 ヴィクトル様が幼馴染を優先する理由も。


 イザベラ様が彼を必要としている理由も。


 そして、私がこれから何をすべきなのかも。


 私はもう一度、静かに微笑んだ。


「お父様に、ご報告しなくてはいけませんね」


◇


 屋敷に戻った私は、父と伯爵様に事の次第を報告した。


 イザベラ様が経営していたのは賭場であり、ヴィクトル様はそこで賭博に興じていた。両家の昼食会を欠席したのも、昨日の負けを取り戻すためだったらしい。


「……そうか」


 伯爵様は静かにうなずいた。


 それきり、何もおっしゃらない。


 表情は穏やかだった。声を荒らげることも、拳を握りしめることもない。


 けれども、その背後に何かが見えた。


 鬼か。修羅か。それとも不動明王か。


 隣を見ると、父も背筋を伸ばしていた。


「……申し訳ない」


 伯爵様は父に向き直り、深く頭を下げた。


「今回の婚約、こちらから解消をお願いしたい。もちろん、責任はすべて我が家で負う」


「は、はい。承知いたしました」


 父が、少し上ずった声で答えた。


 あの父が、こんな声を出すなんて。


 伯爵様は私に視線を移した。


「エレノア嬢。君も、それでよろしいだろうか」


「え……ええ。もちろんです」


「感謝する」


 伯爵様は、にこりと微笑んだ。


 つい先ほど、私がヴィクトル様に向けたものと、よく似た微笑みだった。


「君には本当に迷惑をかけた。どうか、幸せになってほしい」


「ありがとうございます」


 伯爵様は爽やかな笑顔を残して、帰っていった。


◇


 それから数日後。


 王都の繁華街で、爆発事故があったという話を聞いた。場所は、賭場『金の月』。


 幸い、死者は出なかったそうだ。ただし、建物は大きく損壊し、営業再開の見通しは立っていないらしい。


 さらに、たまたま現場に居合わせた某伯爵家の嫡男が、重傷を負ったという。命に別状はないものの、今後、家督を継ぐことは難しいとのことだった。


 何とも不幸な事故である。


 私は静かに手を合わせた。


 どうか、皆様が一日も早くお元気になりますように。

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