幼馴染を優先する婚約者を助けに行きます。どうか手遅れではありませんように!
婚約者のヴィクトルは、今日も幼馴染を優先した。
「すまない、エレノア。イザベラが僕を必要としているんだ」
「本日は両家の昼食会ですが」
「父上には適当に説明しておいてくれ。イザベラは一人で事業を切り盛りしているんだ。僕が支えてやらないと」
そう言って、ヴィクトルは出かけてしまった。
これで三度目だ。
結婚式まであと三か月だというのに、彼は何かにつけて幼馴染のイザベラを優先する。
どのような事業なのか尋ねても、詳しくは教えてくれない。
最初は、幼馴染との距離が近すぎるのではないかと思っていた。
けれども、ここまで続くと、別の心配が生まれてくる。
イザベラ様は、本当に困っていらっしゃるのではないだろうか。
◇
「……それは、確かに妙だな」
私の話を聞いた父は、険しい表情で腕を組んだ。
向かいに座っているのは、ヴィクトル様の父である伯爵だ。
本来なら、今日は両家の昼食会だった。
しかし、肝心のヴィクトル様が現れなかったため、私たちは急遽、別の話し合いを始めることになった。
「息子は、イザベラ嬢の事業を手伝っていると言っていたのだな?」
「はい。彼女が一人で事業を切り盛りしており、自分が支えなければならないと」
「事業の内容は?」
「何度尋ねても、詳しくは教えていただけませんでした」
伯爵は眉間にしわを寄せた。
「私も同じだ。幼馴染が苦労しているから助けている、としか聞いていない」
「伯爵様もご存じないのですか?」
「ああ。息子の交友関係にまで口を出すつもりはなかった。だが、ここまで事情を隠すとなると話は別だ」
父が静かに口を開いた。
「事業がうまくいっていないだけなら、まだいい。借金の返済を迫られている可能性もある」
「あるいは、悪質な商人に騙されているのかもしれません」
私が言うと、伯爵がうなずいた。
「イザベラ嬢が何らかの問題を抱え、息子が助けようとしている。その可能性は十分にある」
「ですが、ヴィクトル様は何もお話しになりません」
「息子は昔から、困っている者を放っておけないところがある。相手の名誉を守るつもりで、黙っているのかもしれん」
伯爵は深く息を吐いた。
「だとすれば、危険だな。本人は善意で動いているつもりでも、すでに厄介な連中に目をつけられている可能性がある」
父の表情も険しくなった。
「もし犯罪組織が関わっているなら、息子さん自身が脅されていることも考えられます」
「……そうだな」
伯爵はしばらく黙り込んだ。
そして、私を見た。
「エレノア嬢。息子を心配してくれて、ありがとう」
「いいえ。婚約者ですから」
私は首を振った。
「もし本当にお困りなら、私も力になりたいのです。イザベラ様の事業が苦しいのであれば、両家で支援できることもあるかもしれません」
「ありがたい申し出だ」
伯爵は真剣な顔でうなずいた。
「だが、まずは事情を確かめなければならんな」
「私が訪ねてみようと思います」
私がそう言うと、父がすぐに反対した。
「危険かもしれない場所へ、お前一人で行かせるわけにはいかん」
「もちろん、一人では参りません」
「ならば私が直接出向こう」
伯爵も立ち上がりかけた。
私は慌てて首を振った。
「お待ちください。お二人が直接訪ねるのは、かえってよくないかもしれません」
「どういうことだ?」
「伯爵家の当主が突然訪ねてくれば、相手は警戒するでしょう。もし何か隠している事情があれば、取り繕われてしまうかもしれません」
父が考え込んだ。
「確かにな。では、家臣を派遣するか?」
「それも難しいと思います。家臣の方では、重要な事情を話していただけないかもしれません」
「なるほど……」
「私はヴィクトル様の婚約者です。彼を心配して訪ねる理由がありますし、イザベラ様にとっても、まったく無関係な相手ではありません」
私は二人を見た。
「それに、ヴィクトル様ご本人から事情を伺うこともできます」
伯爵はしばらく考えた後、ゆっくりうなずいた。
「確かに、エレノア嬢が訪ねるのが一番自然かもしれんな」
「では、私が――」
「ただし、護衛は山ほど連れていきなさい」
父が厳しい声で言った。
「何があるかわからん。屋敷の護衛から腕の立つ者を選び、十分な人数を同行させる」
「はい、お父様」
「それと、伯爵。そちらにも協力をお願いしたい」
「無論だ」
伯爵は即答した。
「私の私兵を近隣に潜ませておく。何かあれば、即座に踏みつぶす」
その声には、一切の冗談がなかった。
「息子が危険な目に遭っているかもしれんのだ。遠慮する理由などない」
「ですが、伯爵様。あくまで事情を確かめるだけですから」
「わかっている。何事もなければ、それでいい」
伯爵は私に向き直った。
「エレノア嬢。少しでも危険を感じたら、すぐに引き返しなさい。息子を助けるために、君まで危険を冒す必要はない」
「はい」
「そして、もし息子が何かに巻き込まれていたら、必ず知らせてほしい」
私は深くうなずいた。
「もちろんです。ヴィクトル様を無事にお連れできるよう、努めます」
父も伯爵も、真剣な表情でうなずいた。
◇
イザベラ様の事業所は、王都の繁華街にあった。
豪華な装飾が施された二階建ての建物。入口には『金の月』という看板が掲げられている。
私は馬車の窓から建物を見上げた。
外観に不審なところはない。
しかし、だからといって安心はできなかった。
もしヴィクトル様が何かに巻き込まれているのなら、相手が堂々と危険を知らせてくれるはずもない。
「お嬢様。配置が完了いたしました」
護衛隊長が馬車の外から報告した。
「伯爵家の兵も、周辺で待機しております。合図があれば、すぐに駆けつけられるとのことです」
「ありがとうございます」
「我々も同行いたします。どうか私どものそばを離れませんように」
「はい。よろしくお願いいたします」
私は深く息を吸った。
ヴィクトル様。
どうか、ご無事で。
馬車を降り、護衛とともに入口へ向かう。
扉の前には、体格のよい男性が二人立っていた。
「失礼いたします。こちらにイザベラ様はいらっしゃいますか?」
「支配人にご用ですか?」
「はい。それと、ヴィクトル様を探しております」
男性は私の服装を確認すると、丁寧に頭を下げた。
「ヴィクトル様でしたら、奥の特別室にいらっしゃいます」
特別室。
私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
一般の客が入れない場所なのだろうか。
何か、人に見せられない事情があるのかもしれない。
「ご案内いたします」
男性が先に立って歩き始めた。
護衛隊長が私のすぐ後ろにつく。
建物の奥へ進むにつれ、人々の声が聞こえてきた。
何人もの男女が、何かを叫んでいる。
興奮した声。
激しい物音。
時折、床を踏み鳴らすような響きまで伝わってくる。
私は思わず足を速めた。
何が起きているのだろう。
争いだろうか。
まさか、ヴィクトル様が誰かに危害を加えられているのでは。
「こちらでございます」
案内の男性が、奥の大きな扉を開いた。
私は緊張しながら室内へ踏み込んだ。
そして、ヴィクトル様の姿を見つけた。
「ヴィクトル様!」
思わず駆け寄ろうとした、その瞬間。
「よっしゃああああああああああああああ!!!!!!」
ヴィクトル様が、両手を天井へ突き上げた。
満面の笑みだった。
卓の上には、山のように積まれた金貨。
周囲の人々が歓声を上げ、拍手を送っている。
「見たか、イザベラ! 大当たりだ!」
「すごいわ、ヴィクトル! やっぱりあなたは持っている男ね!」
「はははは! これだからやめられないんだ!」
私は立ち尽くした。
目の前にあるのは、賭博用の卓。
その周囲で、客たちが金貨を賭けている。
ここは、賭場だった。
イザベラ様が経営しているのは、賭場だったのだ。
そして、私たちがあれほど心配していたヴィクトル様は。
誰よりも楽しそうに、賭博に興じていた。
「ヴィクトル様」
私が声をかけると、ヴィクトル様が振り返った。
「エレノア!? どうしてここに!」
「昼食会にいらっしゃらなかったので、何かあったのではないかと心配になりまして」
「ああ、父上には説明してくれたかい?」
「はい。ですが、皆様とても心配なさっていました」
「そうか。でも、見てくれ! 今日は絶好調なんだ!」
ヴィクトル様は悪びれもせずに笑った。
彼は卓の上に積まれた金貨を指さした。
「さっきの大当たりで、昨日の負けをかなり取り戻せたんだぞ!」
「まあ。それはようございましたね」
「だろう!?」
ヴィクトル様は得意満面だった。
隣にいた赤いドレスの女性も、嬉しそうに笑っている。
「あなたがエレノア様ね? 私はイザベラ。ヴィクトルにはいつもお世話になっているの」
「初めまして、イザベラ様」
「彼のおかげで、うちのお店も大助かりなのよ!」
「そうでしたか」
私は室内を見渡した。
賭博用の卓。積み上げられた金貨。熱狂する客たち。
そして、その中心で満面の笑みを浮かべている婚約者。
なるほど。
すべて理解できた。
「エレノア、イザベラは一人でこの店を切り盛りしているんだ。僕が支えてやらないとね!」
「ええ。よくわかりました」
「そうだろう! 君ならわかってくれると思っていたよ!」
私は微笑んだ。
幼い頃から、貴族の令嬢として身につけてきた微笑み。
どのような場面でも、感情を表に出さず、相手に礼を尽くすためのものだ。
「もちろんです、ヴィクトル様」
「ありがとう、エレノア!」
「どうぞ、存分にお楽しみください」
「ははは! やっぱり君は最高の婚約者だ!」
ヴィクトル様は嬉しそうに笑った。
イザベラ様も満足そうにうなずいている。
「素敵な婚約者ね、ヴィクトル!」
「そうだろう! 僕は幸せ者だよ!」
「それでは、私は失礼いたします」
「もう帰るのかい?」
「はい。少々、用事ができましたので」
「そうか! 気をつけて帰ってくれ!」
「ありがとうございます」
私は優雅に一礼した。
ヴィクトル様は、もう次の勝負の準備を始めていた。
「さあ、イザベラ! この調子で昨日の負けを全部取り戻すぞ!」
「ええ! 頑張って、ヴィクトル!」
私は二人に背を向けた。
護衛隊長が、無言で扉を開けてくれる。
今日は、実に多くのことがわかった。
ヴィクトル様が幼馴染を優先する理由も。
イザベラ様が彼を必要としている理由も。
そして、私がこれから何をすべきなのかも。
私はもう一度、静かに微笑んだ。
「お父様に、ご報告しなくてはいけませんね」
◇
屋敷に戻った私は、父と伯爵様に事の次第を報告した。
イザベラ様が経営していたのは賭場であり、ヴィクトル様はそこで賭博に興じていた。両家の昼食会を欠席したのも、昨日の負けを取り戻すためだったらしい。
「……そうか」
伯爵様は静かにうなずいた。
それきり、何もおっしゃらない。
表情は穏やかだった。声を荒らげることも、拳を握りしめることもない。
けれども、その背後に何かが見えた。
鬼か。修羅か。それとも不動明王か。
隣を見ると、父も背筋を伸ばしていた。
「……申し訳ない」
伯爵様は父に向き直り、深く頭を下げた。
「今回の婚約、こちらから解消をお願いしたい。もちろん、責任はすべて我が家で負う」
「は、はい。承知いたしました」
父が、少し上ずった声で答えた。
あの父が、こんな声を出すなんて。
伯爵様は私に視線を移した。
「エレノア嬢。君も、それでよろしいだろうか」
「え……ええ。もちろんです」
「感謝する」
伯爵様は、にこりと微笑んだ。
つい先ほど、私がヴィクトル様に向けたものと、よく似た微笑みだった。
「君には本当に迷惑をかけた。どうか、幸せになってほしい」
「ありがとうございます」
伯爵様は爽やかな笑顔を残して、帰っていった。
◇
それから数日後。
王都の繁華街で、爆発事故があったという話を聞いた。場所は、賭場『金の月』。
幸い、死者は出なかったそうだ。ただし、建物は大きく損壊し、営業再開の見通しは立っていないらしい。
さらに、たまたま現場に居合わせた某伯爵家の嫡男が、重傷を負ったという。命に別状はないものの、今後、家督を継ぐことは難しいとのことだった。
何とも不幸な事故である。
私は静かに手を合わせた。
どうか、皆様が一日も早くお元気になりますように。




