シの女
いちの日。
夏の夜。
大雨が田中の傘を激しく叩き、傘の外を水の世界へと変えていた。
重い足取りで歩くたび、濡れた革靴が水面にいくつもの波紋を広げていく。
ゆっくりと、古びたアパートの前までやって来た。
ゴロゴロッ!
田中は顔を上げた。
稲妻が夜空を切り裂き、ところどころ剥がれた古びた外壁を照らし出した。
屋上は、雨の帳の向こうに沈んでいた。
自分の住んでいる階を除けば、ほとんどの部屋に明かりがついていた。
一階の入口へと続く通路の両側には、それぞれ一台ずつバイクが停められていた。
狭い入口をほとんど塞いでいる。
田中は無言でため息をついた。
身体を少し横にして、手にした傘が他人のバイクに当たらないよう気をつけた。
中へ入た。
まず目に入ったのは、絶え間なく明滅する薄暗い照明だった。
今にも消えてしまいそうだ。
階段の裏側にある暗がりには、雑多な物がぎっしりと詰め込まれている。
壊れて朽ちた廃家具、悪臭を放つゴミ袋、さらには錆びついた自転車まで、階段の脇に鍵をかけられたまま置かれていた。
(……休日にでも電球を買ってきて直すか)
田中は傘についた水滴を振り落とし、傘を畳んだ。
傘から落ちた雨水が、床に小さな水たまりを作る。
ゆっくりと階段を上る。
細長い階段は、人一人が通れる程度の幅しかない。
田中は大量に買い物をした時など、身体を横にしなければ通れないほど狭かった。
タッ、タッ、タッ。
靴底がコンクリートの階段を叩き、その音が階段室に重く響いた。
二階に辿り着いた。
各階の途中には小さな踊り場があり、階段と左右二つの部屋を繋いでいる。
左側の扉の向こうから、かすかに不快な匂いが漂ってきた。
田中は眉をひそめた。
そこには一人の中年男性が住んでいる。
だが、もうずいぶん長いこと、その姿を見ていない。
反対側からは、若いカップルがじゃれ合っている声が聞こえてくる。
田中は、この二人がまだ二十代だったことを知っていた。
たまに顔を合わせれば、お互いに軽く会釈をする。
彼女の歓声や叫び声が、壁を突き抜けて外まで響いていた。
「……はは、元気がいいな」
田中は苦笑しながらさらに上へと向かった。
三階の踊り場には、暖かな白い明かりが灯っていた。
田中は思わず息を吐き、強張っていた肩の力を少し抜いた。
この階には、一人の優しそうな中年女性が住んでいる。
顔を合わせるたび、いつも親しげに田中へ挨拶してくれる。
だが、今日は会わなかった。
そして、明かりはここまでだった。
濃い闇が、残りの階段を飲み込んでいる。
田中はかろうじて足元を確認しながら、慎重に階段を踏みしめた。
ゴロゴロッ!
轟音とともに、青白い光が一瞬だけ四階の踊り場を照らし出した。
そこには、一人の黒髪の女が静かに立っていた。
白いワンピースが、暗闇の中でひときわ目立っている。
彼女は俯いていた。
長い髪が、その顔をすっぽりと覆っていた。
田中は目を見開き、唇をわずかに震わせた。
「……ど、どうして君がここに?」
にの日。
ツクツクボウシの鳴き声が、あちこちから響いていた。
田中は薄手の上着を羽織っていたものの、それでも少し肌寒さを感じていた。
今日の入口にはバイクが一台しか停まっておらず、スペースにはかなりゆとりがあった。
彼は入口を見た。
一階の天井にある電球が白い光を明滅させ、何匹かの小さな虫がその明かりの周りを飛び回っている。
ゴミはすでに片付けられ、廃家具も残りわずかになっていた。
「……ん? ベビーカー?」
田中は、奥に置かれた古いベビーカーを見つけた。
最近になって置かれたものなのか。
それとも、家具が運び出されたことで見えるようになっただけなのか。
タッ、タッ、タッ。
二階へ上がる。
田中は思わず眉をひそめ、左側の扉へ目を向けた。
臭いがますます強くなっている。
腐敗したような臭いが、辺り一帯に充満していた。
「無理なこと言うなよ!」
「私が無理を言ってるっていうの!?」
反対側から、若いカップルの言い争う声が聞こえてきた。
田中は軽く首を振り、さらに上へと足を進めた。
「あら、こんばんは」
三階の踊り場。
優しそうな顔をした中年女性が、親しげに声をかけてきた。
ちょうど帰ってきたところらしい。
「こんばんは」
田中は慌てて会釈を返した。
彼の視線が、女性の右手にかかった数珠に留まった。
「こんな遅くまでお仕事、大変ね」
「……いえ」
田中は気まずそうに笑い、女性が自分の部屋を開けて中へ入っていくのを見送った。
彼は息を吐き、再び闇の中へ足を踏み入れた。
部屋に入ると、田中は明かりをつけた。
カチッ。
小気味よいスイッチの音とともに、明かりがリビングを照らした。
目に飛び込んできたのは、紅葉よりも赤いワンピースだった。
若い女性が俯いたままソファに座り、微動だにしない。
絹のような黒い長髪が、背中へと垂れ下がっていた。
田中は胸が何かの感情で満たされるのを感じた。
声を出すことで目の前の光景が壊れてしまうのを恐れるように、黙ってその姿を見つめた。
そして最後に、そっと声をかけた。
「……ただいま」
さんの日。
冬の夜。
刺すような冷たい風が、服の隙間から入り込んでくる。
「寒い……」
田中はコートを引き寄せ、小さくつぶやいた。
右手には小さな袋を提げている。
「おっ!」
田中は思わず嬉しくなった。
なんと今日は、一階の入口にバイクが一台も停まっていない。
田中は両手を広げ、久しぶりの開放感を味わった。
軽い足取りで、建物の中へ入っていった。
一階の電球が、冷たい光を明滅させている。
雑多な物はすっかり片付けられ、代わりに工事用らしい脚立やセメントが、無造作に置かれていた。
二階へ上がると、左側の扉が開け放たれていた。
中には、汚れた物やゴミが散乱しているのが見えた。
「まだ片付け中なのか?」
田中はもう一度中を覗いた。
最近、作業員が片付けているらしい。
いつまでかかるのかは分からない。
今日も、あの若いカップルがいないのか、何の音も聞こえてこなかった。
「……あれ?」
三階まで来る。
田中は女性の部屋の扉が半開きになっていることに気づいた。
中から、かすかにお経を読む声が聞こえてくる。
田中は不思議そうに首を傾げ、四階へと上がった。
階段の明かりは珍しく点いていた。
だが、田中はそのまま自分の部屋へ戻らなかった。
そのまま上へと進んでいく。
「……そろそろ、かな」
田中は小さく呟き、心の中で静かに決意を固めた。
今日は彼の誕生日だ。
ちょうどいい機会だった。
だが、いざ向き合おうとすると、どうしてもあと一歩の勇気が出なかった。
そのまま屋上へ上がり、ベンチに腰を下ろす。
空に浮かぶ三日月を見上げ、白い息を吐いた。
考え事に夢中になっていた田中は、自分の背後の闇から人影が浮かび上がっていることに気づかなかった。
それは、若い女性の姿だった。
彼女は黒いワンピースを身にまとい、まるで夜の闇に溶け込んでいるかのようだった。
女性は白くしなやかな指を伸ばし、田中の目を覆った。
世界が一瞬にして闇に包まれた。
シの日。
鳥のさえずりが、田中の意識を優しく呼び起こした。
彼はゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井が目に入った。
「……おはよう。」
優しい声が隣から聞こえてきた。
田中は顔を横に向けた。
黒髪の若い女性が、ベッドのそばに座っている。
彼女はシンプルな部屋着に着替え、長い髪を肩に無造作に垂らしていた。
「起きたんだね」
彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「どう? よく眠れた?」
「ああ」
田中は頷き、感慨深げに周囲を見渡した。
家具はすでに大半が運び出され、必要なものだけが残っていた。
部屋はずいぶんと広く感じられた。
「本当に、引っ越すんだな」
「うん」
女性はそっと頷いた。
彼女は立ち上がり、窓辺へ歩いていく。
カーテンを開ける。
春の柔らかな陽射しが、一気に部屋へと差し込んできた。
田中は思わず目を細めた。
今日は、ここで暮らす最後の日だ。
一人でこのアパートに住み始めてから、二人で暮らすようになった。
ここは、かつて仕事から帰ってきて眠るだけの場所だった。
狭い階段。
薄暗い明かり。
古びた部屋。
けれど今振り返れば、そこには忘れられない思い出がたくさん残っている。
初めて一緒に食事をしたこと。
初めてソファで眠ってしまったこと。
初めて彼女の手を握ったこと。
そして、何より忘れられないのは――
四階の踊り場に立ち、静かに自分の帰りを待っていたあの姿だった。
「何を考えてるの?」
女性が首を傾げる。
「いや、何でもない。」
田中は首を横に振った。
朝食を済ませると、田中は黒髪の女性の手を握った。
「それじゃあ、行こうか」
「うん。」
二人は一緒に部屋を出た。
そのまま階段を下りていく。
手のひらから伝わる温もりを感じながら、田中は微笑んだ。
狭い階段は、今までと何も変わらない。
ただ今日は、階段の窓から陽の光が差し込んでいた。
三階は相変わらず静かで穏やかだった。
二階の部屋も、すっかり片付けられていた。
あの若いカップルも、ついこの間まで街で仲睦まじくしていた。
一階の雑多な物も、すっかり片付けられていた。
二人はアパートの外へ出た。
田中は足を止め、もう一度振り返った。
古びたアパートが、静かに背後に佇んでいた。
女性は何かを察したように、彼の手を強く握った。
田中は何も言わず、握り返した。
二人は並んで街へ歩いていく。
春の陽射しが、二人の肩へ降り注ぐ。
田中は隣にいる彼女を見つめ、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
絹のような黒い長髪が、風に揺れている。
未来へ続く道の上。
陽射しは明るく、
風もまた、優しかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この作品は、現在連載している小説から着想を得て生まれたものです。
作中の主人公である堂也は、強敵に打ち勝つため、一般的な純愛小説を超え、恐怖描写を組み合わせた短編小説を書くことを決意しました。
その効果を試してみるために生まれたのが、この小説です。
感想や誤字などがあればぜひ教えてください!




