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メア・クルパ

掲載日:2026/03/15

「全部、私が悪いんです」

乾いた声が、喫茶店の薄暗い空間に落ちた。 目の前に座るエイコは、細い指先で冷めたコーヒーのカップをなぞっている。46歳という年齢を感じさせない、学生時代と変わらない整った顔立ち。だが、その瞳の奥には深い疲労と絶望が淀んでいた。

俺は、手元のボイスレコーダーに目を落とす。脱サラしてルポライターと名乗るようになって、3年。細々と続けているWEBメディアの連載で、なんとか独り身の糊口を凌いでいる、しがない物書きだ。 そんな俺の前に、O大学時代のサークルの後輩であり、世間を騒がせている「O大教授刺殺事件」の容疑者の母親であるエイコが座っている。

「エイコち……エイコさん。自分を責めないでください」 危うく学生時代の呼び方が出そうになり、俺は慌てて言葉を飲み込んだ。 「タカハシさん、わざわざお時間を作っていただいて、ありがとうございます。タカハシさんの記事、ずっと読んでいました。先輩のあなたなら、偏見を持たずに息子の話を聞いてくれるんじゃないかって……」 彼女は力なく微笑んだ。

エイコは学生時代、理系の博士後期課程まで進んだ天才肌の研究者だった。天才にありがちな気難しさは一切なく、人当たりも極めて良い。その上、息を呑むような美貌の持ち主だった彼女は、キャンパスで常に男たちの視線と噂の中心にいた。 ……当時の俺も、あわよくば彼女とどうにかなれないかと下心を抱いていた有象無象の一人だ。だが、高嶺の花に手を伸ばす勇気などあるはずもなく、ただ「サークルの先輩」という安全なポジションから彼女を眺めるのが精一杯だった。 そんな彼女は、数多の男を魅了しておきながら、妊娠を機にあっさりとアカデミックの世界から姿を消した。以来、シングルマザーとして息子のマナブを育ててきたのだ。

事件の概要は、すでに頭に入っている。 被害者は、俺たちの母校でもあるO大のバンドウ教授。エイコが学生だった頃から若手のエースと呼ばれ、今や大学内で絶大な権力を持つ男だった。 そして、彼を刺殺した容疑で逮捕されたのが、ゼミの教え子であるマナブ、21歳。

事件当日、研究室に最後まで残っていたのはマナブとバンドウ教授の二人。マナブは研究室を施錠し、守衛に鍵を返却している。翌朝、守衛が鍵を開けて室内に入り、血の海に沈む教授の遺体を発見した。 凶器の刃物に指紋はなかったが、学内のゴミ箱から返り血を浴びた服が発見された。DNAはバンドウ教授のものと一致し、その服はマナブが普段からよく着ているものだった。

警察からすれば決定的な証拠だ。しかし、マナブ自身は頑なに犯行を否認している。 『教授は先に帰った。その後で自分が施錠をした』と。 だが、その主張には致命的な矛盾がある。守衛を含め、教授が帰る姿を見た者は誰一人としていないのだ。調べられた駐車場の監視カメラにも、教授が車を出した形跡は一切映っていなかった。 何より、教授が先に帰ったのであれば、なぜその遺体が「マナブが外から施錠した密室」の中にあったのか。

「マナブは……息子は、本当に優しい子なんです」 エイコが思い詰めたように、両手を強く握り合わせた。 「小さい頃から、教えれば何でもすぐに身につける、優秀な子でした。おとなしくて、でも正義感が強くて……。そんな息子に、人を殺めるような真似をさせてしまったのは、ひとえに母親である私の責任なんです」

彼女の懺悔を聞きながら、俺の中に静かな疑念が首をもたげていた。 おとなしく、正義感が強い優秀な学生。そんな人間が、恩師を刺殺するという激情に駆られるだろうか? 仮に突発的な殺意があったとして、自分の服を学内のゴミ箱という見つかりやすい場所に捨てるようなずさんな真似をするだろうか。何より、この美しい女性の息子が、殺人を犯すということがありえるのだろうか。

「……エイコさん」

俺はペンを置き、まっすぐに彼女の目を見た。

「俺はルポライターです。事件の裏側を取材するという名目で、大学や周辺の人間を洗ってみましょう。マナブくん以外の、疑わしい人間を探すために」

しがないライターの身の程知らずな提案。エイコにいいところを見せたいという、学生時代から燻っていた浅ましい自己顕示欲がゼロだったとは言わない。 だが、絶望に沈んでいたエイコの瞳に、ほんのわずかな、しかし確かな希望の光が宿ったのを俺は見逃さなかった。

「……お願い、します。タカハシさん」

こうして俺は、底知れぬ闇が口を開けて待っているとも知らずに、この事件に足を踏み入れたのだった。



後日。俺はエイコと母校であるO大学の最寄り駅で待ち合わせた。エイコは相変わらず年齢を感じさせない美貌で、心なしか、周囲の学生たちからも羨望の目で見られているように見えた。

「行こうか、エイコさん。」

俺はエイコをエスコートし、大学に向かって歩き出した。しがないルポライターが、この美人と共に取材に行く。何とも言えない気持ちだった。

O大学の正門をくぐった時、俺は拍子抜けして立ち尽くした。

世間を騒がせる殺人事件が起きたというのに、キャンパスは驚くほど平穏だった。規制線が張られているわけでもなく、警備員が目を光らせているわけでもない。

「……おいおい。殺人事件の現場だぞ? いくらなんでも監視が緩すぎないか」

呆れる俺の隣で、エイコは淡々とした声で言った。

「大学なんてこんなものです。よほどのことがない限り、外部の人間でもふらりと入れてしまう。昔から何も変わっていませんね」

彼女の言う通りだった。俺たちのような部外者が歩いていても、誰も気に留めない。ときおり男子学生が振り返ることはあるが、それは明らかにエイコの美貌に釣られたものだった。。

俺たちはまず、研究棟の詰所にいる守衛を訪ねた。事件翌朝、遺体の第一発見者となった初老の男性だ。身分を明かして手短に取材を申し込むと、彼は気の毒そうな顔で口を開いた。 「フルカワ君……マナブ君ですね。ええ、あの日も彼が鍵を返しに来ましたよ。変わった様子? 全くありませんでした。いつも通り『お疲れ様です』と、丁寧にお辞儀をして帰っていきました」

守衛は、マナブを疑う警察の論調に納得がいっていないようだった。

「あのおとなしい子が、とても人を殺すとは思えません。真面目で人当たりも良くてね。いわゆるキレる若者というのとも全く違います。何かの間違いだと、私は今でも思っていますよ」

お礼を言い、次に俺たちが向かったのは、理学部棟にあるバンドウ教授の研究室だ。 事件現場となった教授の個室こそ黄色い規制線テープで封鎖されていたが、驚いたことに、隣接する学生用の実験室では、白衣を着た学生たちがいつも通りに実験器具を動かしていた。 「……おい、嘘だろ。恩師が殺された直後だぞ?」

俺が思わず呟くと、近くでピペットを操作していた大学院生らしき男が顔を上げた。

「教授がいなくなろうが、論文の納期は変わらないんで」

冷たい、合理的な答えだった。

俺は気を取り直し、彼らにいくつか質問をぶつけてみることにした。

「バンドウ教授は、誰かに恨まれていたりしなかったか?」

俺の問いに、学生たちはちらりとこちらを見た。いや、正確には俺の後ろに立つエイコさんを見ている。薬品の匂いが漂うむさ苦しい実験室には到底そぐわない、彼女の場違いなほどの美貌に、学生たちは明らかに緊張し、そわそわとしていた。

「……まあ、若くして教授になった権力者ですからね。恨んでいる人間はたくさんいると思いますよ」

一人の学生が、エイコさんを意識して少し姿勢を正しながら答えた。

「心当たりはあるか?」

「大学の中にも外にもいるっちゃいるでしょうけど……殺すほどの恨みはないんじゃないかな。わからないですけど」

煮え切らない答えだ。俺はさらに踏み込んだ。

「じゃあ、マナブくんが犯人だと思うか?」

その問いには、学生達が揃って首を振った。

「あいつが犯人だとはとても思えないです。あんな優しいやつ、なかなかいないし。」

「ものすごく優秀だったから、キャリアを棒に振るようなことをするのももったいないしな。」

俺は安心した。少なくとも、同僚に当たる彼ら学生の目からは、マナブは殺人をするような人間と映っていないようだ。

「そうだよな…彼が教授を殺す理由もないしな。」

俺がそう問いかけると、一瞬、学生たちの中で緊張する空気が走ったように見えた。ある学生が口を開きかけたとき、エイコが問いかけた。

「マナブに、最近変わった様子はありませんでしたか?」

エイコは一歩前に出て、透き通るような声で問いを重ねた。

「誰かと頻繁に会っていたとか……何かご存知ないですか?」

ふわりと、かすかに甘い香りが漂う。至近距離で絶世の美女に見つめられ、口を開きかけていた学生は完全にペースを飲まれてしまったようだった。彼はわずかに顔を赤らめ、瞬きを繰り返した。

「えっと……そういえば、タナカってやつとよく会ってましたね」

「タナカ……ですか」

エイコは小さく反芻し、それ以上は何も聞かずに深くお辞儀をした。

俺は学生たちにお礼を言った。

「ありがとうございます。助かりました」

タナカ。 新たな名前が浮上した。マナブが頻繁に会っていたという学生。彼がこの事件について何か知っている可能性がある。


キャンパスの端にあるテニスコートからは、規則正しいラリーの音が響いていた。 フェンスに掛けられた横断幕には『テニス同好会』の文字。俺やエイコが学生の頃から存在する、歴史あるサークルだ。名前こそ同好会だが、いわゆるチャラチャラした「飲みサー」ではなく、真面目にテニスに打ち込む連中の集まりである。

コート脇のベンチで休憩していた数人のグループに声をかけ、俺たちは自己紹介をした。O大のOBであるルポライターと、世間を騒がせている容疑者・マナブの母親。身構えられてもおかしくない素性だったが、彼らは意外にもすんなりと俺たちを受け入れてくれた。

「どうして、事件のことを調べてるんですか?」

タオルで汗を拭いながら、日焼けした男子学生が尋ねてきた。

「俺たち、マナブくんが犯人だとどうしても思えないんだ」

俺が素直な思いを口にすると、学生たちは顔を見合わせ、堰を切ったように頷いた。

「私たちもそう思います!」

「あいつが教授を刺すなんて、絶対にありえないですよ」

彼らの言葉に、俺の後ろに立っていたエイコさんが一歩前に出た。

「……ありがとう。私もそう思うの」

彼女は胸元で両手を組み、慈愛に満ちた母親の顔で微笑んだ。

「あの子は本当に優しくて。小学生の頃から、周りの方にたくさん褒められてきたわ。『どうしたらあんなにいい子に育つんですか?』って、ほかのお母様方からよく聞かれたくらい。友達が熱を出して寝込んだ時に、わざわざ家まで言って看病してあげるような、優しい子なのよ」

「わかります。マナブって、いつも他人のことばっかり気にしてるっていうか」

「俺もそう思います。あんなにいい奴が、殺人なんてできるわけない」 エイコさんの言葉に呼応するように、メンバーが力強く同意した。

エイコは微笑んだ。

「ありがとう。私もそう思う。あの子は小さいころからとても頭がよくて。私が勉強を教えていたのだけれど、とても早く吸収してね。ずっと成績は一番だったわ。そんなあの子が、殺人を起こすなんて信じられない。」

男子学生たちが強くうなずく。場はすっかり、マナブの無実を信じる温かい空気に包まれていた。

頃合いを見計らい、俺は先ほどの研究室で出た名前を口にした。

「ところで、『タナカ』っていう学生を知ってるか?」

「タナカですか? ええ、同じサークルのメンバーですよ。最近はあんまり見ないけど」

男子学生の一人が答えた。

「あいつ、確かに事件の前はマナブとよくつるんでましたね。ずっと二人で何かコソコソ話してて」

ビンゴだ。俺は身を乗り出した。

「そのタナカの連絡先、わかるか?」

「わかりますよ。メッセージアプリでよければ……」

男子学生がスマートフォンを取り出そうとした、その時だった。

「イヤ」

冷水を浴びせるような鋭い声が、和やかな空気を切り裂いた。 声の主は、ベンチの端に座っていた小柄な女子学生だった。彼女はスマートフォンを握りしめたまま、敵意を剥き出しにしてこちらを睨みつけていた。

「これ以上、教えたくない」

彼女の視線は、俺に向かっているようで、そうではなかった。俺の肩越し――後ろに立つエイコを、明確な嫌悪感を持って睨みつけていた。

たった一言。その異様な剣幕に、さっきまで饒舌だった他のメンバーたちは完全に沈黙してしまった。気まずそうに目を泳がせ、誰もタナカの連絡先を教えようとはしなくなった。 これ以上踏み込んでも、彼らは口を閉ざすだけだろう。

「……わかった。それなら、君の連絡先だけでも教えてくれないか?」

俺は、イヤと言い放った女子学生に向かって言った。彼女の態度の違和感に、何かを感じたのだ。彼女は一瞬ためらったが、無言で立ち上がり、俺にだけ見えるようにスマートフォンの画面を突き出した。そこには彼女のIDが表示されていた。 それだけを読み取ると、俺は彼らに礼を言い、そそくさとテニスコートを後にした。

帰り道。夕暮れが迫る大学のイチョウ並木を歩きながら、俺は重い口を開いた。

「エイコさん……申し訳ない。タナカの連絡先まで聞き出せなくて」

「ううん、大丈夫です」

俺の斜め前を歩く彼女は、振り返りもせず、はかなげな声で呟いた。その華奢な背中を見ていると、学生時代から抱いていた淡い庇護欲が、今の俺の中でどろどろと膨れ上がっていくのがわかった。

「俺が必ず、事件の真相を突き止めますから」

俺がそう誓うと、エイコは立ち止まり、静かに微笑んで短く頭を下げた。その美しい姿を見ると俺は、膨れ上がる下心を抑えるのに必死にならざるを得なかった。彼女の為に、彼女とまた会うために、俺はなんとしてもこの事件を調べ上げなければならない。


エイコと別れ、最寄り駅で電車に乗った俺は、窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺めていた。 窓ガラスに反射する自分のくたびれた顔を見ていると、どうしても「あの頃」の記憶が泥のように底から浮かび上がってくる。

俺はO大学の文学部に入学し、これといった目標もないまま、酒とサークルだけのダラダラとした無為な日々を過ごしていた。 転機、いや、俺の人生にとっての決定的な劇薬が投下されたのは、大学3年の春だ。新入生として、エイコが入学してきた。

文字通りの、一目惚れだった。 彼女は理学部の中でも飛び抜けて優秀で、その上、息を呑むほど美しかった。当然、キャンパスの男たちが放っておくはずもなく、彼女の周りには常に様々な男性との噂が絶えなかった。才能と美貌、その両方を持ち合わせた彼女は、俺のような凡人には眩しすぎる存在だった。

それでも、奇跡のような夜があった。 サークルの飲み会で、偶然エイコが隣の席になったのだ。気の利いた話題など持ち合わせていない俺が、必死に捻り出したつまらない身の上話に、彼女はお腹を抱えて、涙が出るほどたくさん笑ってくれた。 『タカハシ先輩って、本当に面白いですね』 その言葉に完全に舞い上がった俺は、数日後、勇気を振り絞って彼女を食事に誘った。だが、返ってきたのは無邪気な笑顔と「わあ、いいですね! みんなで行きましょう!」という残酷な言葉だった。結局、俺の淡い下心は、大人数の賑やかな飲み会へとすり替わって終わった。

彼女との圧倒的な「差」を見せつけられた出来事もある。 エイコが学部生ながら国際論文の執筆に携わっていると聞き、俺は図書館のPCでその英語の論文を検索して読んでみた。高分子材料のなんとか……タイトルからして意味不明で、内容は1行たりとも理解できなかった。自分がただの無知な学生であり、彼女が全く別の次元を生きる人間なのだと、冷水を浴びせられた気分だった。

やがて俺は就職活動を迎え、無謀にも大手出版社ばかりを受けて、見事に全て落ちた。結果として、なんとか拾ってくれたのは立ち上げ間もない小さなウェブメディアの制作会社だった。 卒業も間近に迫った日、俺はエイコの前でひどくダサい強がりを言った。 『まあ、これからは印刷の時代じゃないからな。ウェブの最前線でやっていく方が性に合ってるんだよ』 エイコはただ、「先輩ならきっと活躍できますよ」と優しく微笑んでくれた。結局、俺は最後まで彼女に想いを告げることはできなかった。

それからしばらくして、風の噂で彼女が大学を辞めたと聞いた。 妊娠だった。相手が誰なのかはわからない。将来を嘱望された天才研究者の、あまりにあっけないドロップアウト。 動揺した俺は、すぐに彼女の携帯にメッセージを送ったが、ついに返信が来ることはなかった。

それからの日々は、まさに凡人のそれだ。 仕事に追われ、それなりに別の女性と恋愛をして、別れて。気づけば俺は四十歳を超え、結婚もできないまま、うだつの上がらないフリーのルポライターになっていた。俺の頭の片隅には、常にエイコがいた気がする。あの美しい女性。忘れられるわけがない。当時エイコの周りにいた人間ならわかるはずだ。

そんな俺の日常を打ち砕いたのが、数週間前のテレビニュースだった。 『O大教授刺殺事件、容疑者の大学生を逮捕』 画面に映し出された容疑者の名前と、取材を受けるエイコの姿。あの頃の面影を残した憔悴しきった顔を見た時、心臓が止まるかと思った。 そして事件報道からしばらくして、俺の仕事用の問い合わせフォーム経由で、エイコ本人から連絡があったのだ。「タカハシさんの記事を読みました。どうか、力を貸してください」と。

「……バカな男だよな、俺は」

電車を降り、夜道を歩きながら自嘲気味に呟いた。 彼女の悲劇につけ込み、あわよくば今度こそ自分を頼ってほしい。そんな卑小なヒーロー願望が、今の俺を動かしていることは否定できない。

安アパートのドアを開け、上着を脱いだその時だった。 ポケットの中のスマートフォンが、短い振動を立てた。

画面を見ると、見知らぬアカウントからのLINEメッセージが届いていた。表示されたアイコンに見覚えはないが、数時間前に登録したばかりのIDだ。

『夜分にすみません。テニス同好会でお会いした者です』 『昼間はうまく言えなくて……ごめんなさい。あの女の人のことが、ちょっと苦手で』 『でも、マナブ君のために協力はしたいんです。タナカの家の住所、送ります』

背筋に冷たいものが走った。 あの女子学生からの連絡。メッセージの最後に添えられた住所は、大学から二駅ほど離れた学生街のアパートだった。


翌日。俺はサークルの女子学生から送られてきた住所を頼りに、学生街のアパートへと向かっていた。

ここへ来る前、俺はエイコにメッセージを送っていた。 『タナカの住所が分かりました。今日、これから話を聞きに行こうと思うんですが、エイコさんも一緒にどうですか?』 だが、彼女からの返信は短かった。 『私は遠慮しておきます。タカハシさんにお任せします』 俺は「任せてください」とだけ返し、一人でタナカの部屋を訪れることにした。

目的のアパートは、いかにも苦学生が住んでいそうな築年数の古い木造だった。 教えられた部屋のインターホンを鳴らすが、反応がない。居留守を使っているのか。諦めずにもう一度、少し長めにボタンを押した。

「……誰ですか」

ドア越しにくぐもった、神経質そうな声が聞こえた。

「ルポライターのタカハシという者です。O大のOBでして、今回の事件のことで、大学生の皆さんに少し話を聞いて回っているんです。怪しいもんじゃありません。お菓子とかお土産も買ってきたんで。少しだけでいい、開けてくれませんか?」

数十秒の沈黙の後、チェーンが外れる音がして、ゆっくりと重い鉄扉が開かれた。 隙間から顔を出したのは、無精髭を生やし、目の下に濃いクマを作った痩せ型の青年だった。部屋の奥からは、むせ返るような生活臭が漂ってくる。まともに換気もしていない、荒れ果てた一人暮らしの部屋だ。

「これ、よかったら」

俺がコンビニの袋を差し出すと、タナカは両手でそれを受け取り、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。助かりました。ずっと、まともに飯が食えてなくて」

ひどく怯え、憔悴しきった様子の彼は、「散らかってますけど……」と呟き、俺を部屋の奥へと招き入れた。 足の踏み場もないほど散乱した雑誌や衣類を適当に避けながら、俺たちは向かい合うようにして床に座った。

俺は単刀直入に切り出した。

「マナブくんのことで、聞きたいことがある」

袋から取り出した菓子袋を開けようとしていたタナカの動きがピタリと止まった。

「……やっぱり、それですよね」

「君たちは最近、ずいぶん仲が良かったみたいだね。何を話していたんだい?」

タナカは俯き、言いにくそうに表情を歪めた。

「マナブとは……友達なんだ。あいつはいい奴で……」

そこで言葉を区切り、縋るような目で俺を見上げた。

「マナブ、捕まってるんですよね」

俺が黙って頷くと、タナカは力なく首を振った。

「あいつは……人を殺すような人間じゃないんです」

「そうだよね。俺もそう思うよ」

俺が静かに同調すると、タナカの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

「でも……仕方なかったんだ。あんなことになったのは」

タナカの口から語られたのは、バンドウ教授の裏の顔と、若き学生たちの無謀な計画だった。 「マナブの彼女……同じ研究室だったんですけど、バンドウ教授から性被害に遭ってたんです」

絞り出すような声だった。

「しかも……彼女、妊娠させられたんです。マナブが付き添って中絶手術を受けました。でも、教授は大学で絶大な権力を持っていたから、告発しても大学側にもみ消されて……。心身ともにボロボロになった彼女は、ショックで大学を辞めて、田舎に帰ってしまいました」

タナカにとっても、彼女は大切な友人だった。タナカの彼女と4人で遊びに行くほど仲が良かったという。

「俺も許せなかった。だから俺が、教授を社会的に抹殺するための脅迫計画を立てて、マナブに持ちかけたんです」

「計画はこうです。マナブが教授と二人きりになったタイミングで、教授の飲み物に睡眠薬を入れて眠らせる。そして、マナブは外から研究室を施錠して、守衛に鍵を返す。その日は深夜までサークルの飲み会が開催されるから、マナブはそこに合流する。そこから交代する形で、あらかじめ作っておいた『合鍵』を使って俺が密室を開け、眠っている教授を拘束する。教授を起こして性加害のことを自白させ、それを動画に撮ってネットで告発するつもりでした。その撮影中、マナブはサークルの飲み会に出席しているから、マナブのアリバイは完璧になるはずだった。」

「でも俺……直前になって、怖気づいちゃったんです。サークルの飲み会で合流したときに、やっぱり俺には無理だ、人生棒に振りたくないって、マナブに泣きついて……。そしたらあいつ、『わかった。じゃあ俺がなんとかする』って言って、俺から合鍵を受け取ったんです」

タナカは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

「……教授を殺したのは、マナブだと思います。最初は脅迫するだけのつもりだったはずなのに、いざあのゲスな教授を前にしたら、我慢できなくなったんだ……! でも、殺されても仕方なかったんだ! あの教授は、それくらい酷いことをしたんだから……!」

重い真実だった。 マナブの優しさと正義感が、最悪の形で暴走してしまった結果の殺人。

一通りの話を聞き終え、俺は立ち上がった。

「ありがとう、タナカくん」

ドアに向かいかけたところで振り返り、彼に尋ねた。

「これを、記事にしてもいいかい?」

タナカは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、しっかりと頷いた。

「それでマナブが救われるのなら……書いてください」

タナカの家を後にした俺は、興奮冷めやらぬまま自宅のPCに向かった。 一連の取材で得た情報を整理し、俺は勤め先のWEBメディアで記事を書き上げ、公開した。

特ダネだった。記事は瞬く間に拡散され、サイトのサーバーが落ちかけるほどの凄まじいアクセス数を記録した。世間の耳目は一気に被害者である教授のセクハラ問題に集まり、同情論も出たが、同時に「明確な動機」が明るみに出たことで、皮肉にもマナブの有罪は法的にほぼ確定的なものとなってしまった。

俺は、ルポライターとしての大きな功績を手に入れた。かつて憧れた女学生の、その息子の罪を結果的に決定づける形で。事件はこれで収束するはずだったが、どこか存在する違和感は俺の中で払しょくしきれないでいた。


数ヶ月後。 秋の気配が色濃くなり始めた夜。俺たちは都内の少し高級なフレンチレストランで向かい合っていた。

世間を騒がせた「O大教授刺殺事件」は、俺の記事が決定打となり、世論も警察も「マナブ単独の計画的犯行」として完全に傾いた。法廷でもその筋書き通りに裁きが下り、先日、マナブの有罪が確定した。

『今回の件で、どうしてもお礼がしたいんです』

そう言って、エイコの方からこのディナーに誘ってくれたのだ。 正直、後ろめたさはあった。俺の書いた特ダネ記事が、結果的に彼女の息子の逃げ道を完全に塞ぎ、有罪を確定させたようなものだからだ。 だが、待ち合わせ場所に現れた彼女の姿を見た瞬間、そんな微かな罪悪感は吹き飛んでしまった。黒のドレスに身を包んだエイコは、学生時代よりもずっと洗練されていて、息を呑むほど美しかった。年甲斐もなく、俺は完全に浮き足立っていた。

「タカハシさん、本当にありがとうございました」

グラスの赤ワインを傾けながら、エイコは静かに微笑んだ。

「あの子にとっては……これでよかったんだと思います。私も、あなたの記事のおかげで本当のことを知れて、ようやく前を向けそうです。マナブは最後まで罪を否定していたようですが、刑務所で落ち着けば、いつか真実を話してくれると信じています」

俺のおかげで、彼女は救われたんだ。 俺は自分のグラスのワインをぐいと煽った。芳醇な香りが鼻腔を抜ける。こんなに美味い酒は久しぶりだ。長年くすぶっていた自分が、ついに彼女の役に立ち、そして今、特等席で彼女の笑顔を独占している。なんて素晴らしい夜だろう。

その時、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。 せっかくの良いムードだ。無視しようとしたが、エイコさんが上品にクスリと笑った。

「出なくていいんですか? 今や売れっ子ライターのタカハシさんなんだから、お仕事の連絡じゃありません?」

「いや、お恥ずかしい。ちょっと失礼しますね」

俺は照れ隠しに苦笑いし、テーブルの下でこっそりスマホの画面を開いた。 メッセージアプリの通知。送り主の名前を見て、俺は少し驚いた。 あのテニスコートで出会った、サークルの女子学生からだった。

『タカハシさん、お久しぶりです。記事、読みました。ずっと読むのが怖くて読めなかったんですが、やっと心の整理ができたので』 『どうしても違和感があるので、メッセージを送ります』 『あのお母さん、変です。あの時はうまく言えなかったけど』

……なんだ? 俺は眉をひそめた。この子はきっと、マナブのことが好きだったのだろう。だから、あんなにも美しいエイコに嫉妬して、ただ噛み付いているだけだ。 そう思い、スマホを閉じようとした俺の目に、続く長文のメッセージが飛び込んできた。

『あのお母さん、マナブ君のこと、全然見えてないんです』 『あの人がサークルで話していたこと、全部、マナブ君のことじゃなくて自分の話でした。男の子たちは何とも思わなかったみたいですけど、私はすごく気持ち悪かった』『それに、あの服装も、おかしいですよ。男を誘惑する気満々で、信じられない』『私はマナブ君のことすごく心配してたから、あのお母さんの発言や態度がどうしても嘘くさくて、違和感しかなかったんです』 『タカハシさん。この事件は、マナブ君が犯人で終わっていい話じゃないです』 『あの人、絶対に何か隠してます。もう少し調べてください。お願いします』

何を言っているんだ。 俺は顔を上げ、目の前に座るエイコを見た。 彼女はワイングラスの縁を細い指でなぞりながら、静かにこちらを見つめ返していた。グラス越しの照明が彼女の瞳に反射し、ひどく妖艶で、どこまでも深い底なし沼のように見えた。そのまま吸い込まれてしまいそうなほどの、圧倒的な美。

その完璧な姿を見た瞬間、俺の中で、初めて「違和感」が弾けた。

――一瞬にして、これまでのすべての記憶が脳内で繋がり、暴走を始めた。

もしも。 仮に、エイコがこの犯行に関わっていたとしたら、どうだ? 彼女はO大の理学部OBだ。研究棟の構造も、研究室の場所も、守衛の巡回ルートも、20年前と何も変わっていないと彼女自身が言っていた。大学の勝手知ったる人間だ。 もしかして、鍵だって変わっていないかもしれない。そうなれば、合鍵を持っていてもおかしくはない。現場のゴミ箱から見つかった「返り血を浴びた、いつもマナブが着ていた服」。同居している母親なら、いくらでも用意できる。その服を着て、犯行に及んだとしたら…?

なぜ、あの時彼女はタナカの家に来なかった?タナカに顔を見られたくなかったから? なぜ? どうしてタナカは、あんな完璧な脅迫計画を思いついた? 誰かに『入れ知恵』されたのではないか? 絶望していたタナカに、脅迫のアイデアを吹き込んだ人間がいたとしたら……?

なぜ殺した?なぜ、自分の実の息子に、これほど残酷な罪を着せた?

視界が、ぐにゃりと歪んで回転し始めた。冷や汗がどっと吹き出す。

20年前。将来を有望視された天才研究者だったエイコが、突然妊娠し、大学を辞めた理由。 相手は、誰だった? もし、マナブの彼女と同じように、エイコもまたバンドウ教授の毒牙にかかっていたのだとしたら?妊娠させられ、アカデミックのキャリアをすべて潰されたのだとしたら。 そして産まれたのが、憎き自分をレイプした男の血を引く男の子だったとしたら…?

この事件で、バンドウ教授は死んだ。 そして、その殺人の罪を被り、マナブは刑務所に入った。 彼女の人生を狂わせた「忌まわしい二人の男」が、同時に消え去ったのだ。 これがすべて、この目の前で優雅に微笑む女の、20年越しの復讐の目論見だったとしたら?

なぜ、俺に声をかけた? これまで俺が送ったメッセージには一切返事をしなかったくせに。 ……ああ、そうか。 彼女は知っていたのだ。俺が学生時代から彼女に未練を抱き、下心を隠し持った、底の浅い凡人であることを。 こいつなら、ちょっと頼りにする素振りを見せれば、喜んで尻尾を振って足を使って取材をする。 こいつなら、俺程度の頭なら、彼女が用意した「偽りの真実」にまんまと辿り着き、疑うこともなく世間に公表してくれる。 見事なまでに、俺は彼女の描いたシナリオ通りに踊らされたのだ。

「……タカハシさん?」

血の気を失い、震える俺を見て、エイコが小首を傾げた。

「どうかしましたか? 顔色が悪いですよ」

彼女の声は、どこまでも優しく、綺麗だった。 俺は声を出そうとしたが、喉が干からびたように張り付いて、かすれた息しか出なかった。

もう、マナブの有罪は確定してしまった。「マナブが救われるなら…書いてもいいですよ。」タナカにそう言われたが、俺は…。

エイコはゆっくりと身を乗り出し、俺の顔を覗き込んだ。 そして、あの喫茶店で初めて再会した時と全く同じ言葉を、俺の耳元で囁いた。その言葉は、全く違う意味となって俺の耳を貫いた。

「全部、私が悪いんです」







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