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言えなかったがんばれを叫んで

作者: 有歩有介
掲載日:2026/03/07

藤岡佑介騎手の引退に寄せて、かつて藤岡佑介騎手と愛犬の思い出を綴り、優駿エッセイ賞に応募した作品を手直ししたものです。

 私は競馬を見て、結構叫ぶ。

 競馬場ではもちろん、自宅でテレビ観戦をしていても叫ぶ。

 叫ぶのは馬の名前のこともあるが、主に叫ぶのは騎手の名前だ。

 その日も私は、藤岡佑介騎手が騎乗している馬を本命にした馬券を買い、テレビ画面に向かって叫んでいた。

「ゆうすけ、がんばれ!」

 藤岡騎手は兄弟なので、名前で叫ぶ。

「ゆうすけ!ゆうすけ!」

 直線、藤岡佑介騎手の馬が先頭に立ったので、自然と叫ぶ声も大きくなる。

 レースに興奮していた私は、叫び声に反応している近くの気配に気づく余裕がなかった。

「よし、ゆうすけ、よくやった!」

 名前を連呼した甲斐があったのか、藤岡佑介騎手騎乗の馬は見事に勝利した。

 配当を確かめようと携帯を手にし、後ろを振り向いた私は、そこで気配の正体を知ることになった。

 その気配の主、愛犬の「ゆうすけ」は自分が褒められたと思ったのか、ドヤ顔をしている。

 そして、褒められたときのお約束であるおやつを、目を輝かせて待っていた。

 その様子があまりにおかしくて、それから私は、予想で迷ったときには藤岡佑介騎手を買うようになった。

「ゆうすけ、がんばれ!」

 藤岡佑介騎手を買ったときは、いつもより少し大きな声で、隣の愛犬にも呼びかけるように叫んだ。

「ゆうすけ、よくやった!」

 藤岡佑介騎手が勝ったり、馬券に絡んだりしたときは、わざと大げさに褒める。

 すると愛犬は、自分のことだと言わんばかりのドヤ顔をする。私はそんな顔を見ながらおやつを与え、喜びを分け合った。

 反対に、藤岡佑介騎手が馬券に絡めなかったときは、

「ゆうすけ、だめじゃないかあ」

 と、大げさにしょんぼりしてみせる。

 目の前の愛犬とそんなふうにふざけることで、馬券に負けたショックも少し軽くなっていた。

 迷ったら藤岡佑介。

 そんな買い方が、いつの間にか私と愛犬の週末の楽しみの一つになっていた。


 愛犬が精巣腫瘍と診断され、去勢手術をすることになったのは、藤岡佑介騎手が札幌のオープン特別をイッテツで勝った翌週のことだった。

「おまえもせん馬……じゃなくて、せん犬になっちゃうなあ。でも、その方が息長く現役を続けられるんだぞ」

 気のせいか少し元気のない愛犬を撫でながら、私はそう声をかけた。

 競走馬の去勢にたとえた慰めの言葉なんて、もちろん愛犬にはわからなかっただろう。それでも私は、きっと手術はうまくいくと信じていた。


 手術は成功した。

 しかし、その後の検査で、腫瘍は恐れていた悪性のものだと知らされ、転移の可能性があることも告げられた。

「ゆうすけ、がんばろうな」

 それからは週に一度の通院が始まった。

 待合室で、愛犬はいつものように私の足元に座っていた。私の顔を見上げ、何も知らないように笑顔を見せる。そのたびに、励まされているのは私の方だと思った。

 週末になると、私はいつものように藤岡佑介騎手の馬券を買った。

「ゆうすけ、がんばれ!」

 テレビ画面に向かっているのか、愛犬に向かっているのか、自分でもわからないまま、私は週末のたびにそう叫んでいた。

 その言葉を合言葉のようにして、私も愛犬も闘病生活をがんばった。

 しかし、そのがんばりは報われなかった。


「もう、手の施しようはありません」

 手術から二か月後の通院時、沈痛な顔をした獣医師にそう告げられた。

 私はただ、その言葉を聞くことしかできなかった。

 身体中に癌の転移が認められ、苦しそうにしている愛犬を前にして、「がんばれ」と言うのは、何より私自身が、がんばらなくてはいけなかった。

 食いしん坊だった愛犬が、ごはんも、ご褒美のおやつも食べられなくなった十一月の初め、私はその言葉を言うのをやめた。

「しんどかったら、がんばらなくてもいいんだぞ」

 苦しそうな身体を撫でながら、私は少しでも安らかに眠ってくれることを願うようになっていた。

 その週の競馬では、意識して藤岡佑介騎手の馬券を買わなかった。

 いや、買えなかった。

「ゆうすけ、がんばれ!」

 そう叫ぶことが、そのときの私にはできなかった。

 がんばることで、苦しむ時間が長引いてしまうように思えたからだ。


 その翌週の半ば、愛犬ゆうすけは私の腕の中で永遠の眠りについた。

 飼い主を心配させないようにしたのか、最期は信じられないくらい穏やかな呼吸だった。

 眠るように、私の腕の中で少しずつ命の鼓動が弱まっていき、そのまま安らかに旅立った。

 きっと、ものすごくがんばったのだろう。

 それなのに私は、「よくがんばった」と褒めてやることができなかった。

 まだ生きていてほしかったという思いもあった。

 それよりも私の頭に浮かんだのは、「ありがとう」という言葉だった。

 それだけの愛情を、私は愛犬に与えられていた。


 その週末、私はいつも競馬の話をしている寿司屋へ出向いた。

 十年来の競馬仲間である大将は、愛犬のことを必要以上には口にしなかった。

 いつものように私の注文に応じ、客がいなくなると競馬新聞を取り出して、競馬の話を振ってくれた。

「今週のマイルチャンピオンシップは何を買いますか」

 いつものように競馬の話をしてくれる大将に救われながら、私は馬柱に目をやった。

「本命はまだ決まってないけど、ムーンクレストは買うよ」

 私の言葉に、大将は驚いた顔をした。

「いくらなんでも、最低人気かもしれない馬ですよ。何かいい話があるんですか」

 私は、いい話を教えるでもなく、正直に答えた。

「鞍上で」

「藤岡、そんなに好きでしたか?」

 不思議そうな顔をする大将に、私は冷酒を注文しながら言った。

「直線で、ゆうすけ、がんばれ!って叫びたいんだ。見せ場くらいはないかな」

 私の気持ちを察したのだろう。

 大将はなみなみと冷酒を注いだグラスを私の前に置き、穏やかな顔で言った。

「見せ場があるといいですね。来たら大万馬券ですよ」

 私はその言葉に軽く笑い、あふれそうな冷酒に口をつけると、いつものように週末の競馬予想を楽しんだ。


 そして、マイルチャンピオンシップ当日。

 私はいつもの週末と同じように、自宅のテレビの前にいた。違っていたのは、愛犬の姿が小さな骨壷になっていたことくらいだった。

 馬券はやはり、藤岡佑介騎手騎乗のムーンクレストから買っていた。

 そのムーンクレストは好スタートを決め、逃げ馬を見る絶好の位置で競馬を進めていた。

 そして四コーナー手前で、藤岡佑介騎手の手が動き始める。私は待っていたかのように叫んだ。

「ゆうすけ、がんばれ!」

 四コーナーの入り口で、単勝三百倍を超える最低人気のムーンクレストは、先頭に立とうかという勢いを見せた。

「ゆうすけ、がんばれ!」

 善戦及ばず、ムーンクレストは直線半ばで後続馬の追い込みに飲み込まれていく。

 それでも私は叫んだ。

「ゆうすけ、がんばれ!」

「ゆうすけ!ゆうすけ!」

 何度も、何度も繰り返し叫んだ。

 本当はずっと、がんばれと言いたかった。

 最期の瞬間まで、奇跡を信じて、がんばれと言いたかった。

 けれど、苦しむ愛犬を前に、その言葉はどうしても言えなかった。

 そんな中、愛犬はがんばってくれた。

 安らかに旅立ってほしいという、飼い主のわがままに、十三キロほどの小さな身体で見事に応えてくれた。

「ゆうすけ、ありがとう」

 私は涙ながらにそうつぶやいていた。

 ムーンクレストは十着だった。

 それでも、人気を考えれば十分に健闘と言っていいだろう。見せ場たっぷりの競馬は、自然と言えなかった「がんばれ」を叫ばせてくれた。

「よくがんばったな、ゆうすけ」

 私は止まらなくなった涙を拭いながら、テレビ画面と小さな骨壷に向かって、泣きながら微笑んで言った。

 気のせいか、遺影の愛犬がドヤ顔で見返してくれた気がした。

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