言えなかったがんばれを叫んで
藤岡佑介騎手の引退に寄せて、かつて藤岡佑介騎手と愛犬の思い出を綴り、優駿エッセイ賞に応募した作品を手直ししたものです。
私は競馬を見て、結構叫ぶ。
競馬場ではもちろん、自宅でテレビ観戦をしていても叫ぶ。
叫ぶのは馬の名前のこともあるが、主に叫ぶのは騎手の名前だ。
その日も私は、藤岡佑介騎手が騎乗している馬を本命にした馬券を買い、テレビ画面に向かって叫んでいた。
「ゆうすけ、がんばれ!」
藤岡騎手は兄弟なので、名前で叫ぶ。
「ゆうすけ!ゆうすけ!」
直線、藤岡佑介騎手の馬が先頭に立ったので、自然と叫ぶ声も大きくなる。
レースに興奮していた私は、叫び声に反応している近くの気配に気づく余裕がなかった。
「よし、ゆうすけ、よくやった!」
名前を連呼した甲斐があったのか、藤岡佑介騎手騎乗の馬は見事に勝利した。
配当を確かめようと携帯を手にし、後ろを振り向いた私は、そこで気配の正体を知ることになった。
その気配の主、愛犬の「ゆうすけ」は自分が褒められたと思ったのか、ドヤ顔をしている。
そして、褒められたときのお約束であるおやつを、目を輝かせて待っていた。
その様子があまりにおかしくて、それから私は、予想で迷ったときには藤岡佑介騎手を買うようになった。
「ゆうすけ、がんばれ!」
藤岡佑介騎手を買ったときは、いつもより少し大きな声で、隣の愛犬にも呼びかけるように叫んだ。
「ゆうすけ、よくやった!」
藤岡佑介騎手が勝ったり、馬券に絡んだりしたときは、わざと大げさに褒める。
すると愛犬は、自分のことだと言わんばかりのドヤ顔をする。私はそんな顔を見ながらおやつを与え、喜びを分け合った。
反対に、藤岡佑介騎手が馬券に絡めなかったときは、
「ゆうすけ、だめじゃないかあ」
と、大げさにしょんぼりしてみせる。
目の前の愛犬とそんなふうにふざけることで、馬券に負けたショックも少し軽くなっていた。
迷ったら藤岡佑介。
そんな買い方が、いつの間にか私と愛犬の週末の楽しみの一つになっていた。
愛犬が精巣腫瘍と診断され、去勢手術をすることになったのは、藤岡佑介騎手が札幌のオープン特別をイッテツで勝った翌週のことだった。
「おまえもせん馬……じゃなくて、せん犬になっちゃうなあ。でも、その方が息長く現役を続けられるんだぞ」
気のせいか少し元気のない愛犬を撫でながら、私はそう声をかけた。
競走馬の去勢にたとえた慰めの言葉なんて、もちろん愛犬にはわからなかっただろう。それでも私は、きっと手術はうまくいくと信じていた。
手術は成功した。
しかし、その後の検査で、腫瘍は恐れていた悪性のものだと知らされ、転移の可能性があることも告げられた。
「ゆうすけ、がんばろうな」
それからは週に一度の通院が始まった。
待合室で、愛犬はいつものように私の足元に座っていた。私の顔を見上げ、何も知らないように笑顔を見せる。そのたびに、励まされているのは私の方だと思った。
週末になると、私はいつものように藤岡佑介騎手の馬券を買った。
「ゆうすけ、がんばれ!」
テレビ画面に向かっているのか、愛犬に向かっているのか、自分でもわからないまま、私は週末のたびにそう叫んでいた。
その言葉を合言葉のようにして、私も愛犬も闘病生活をがんばった。
しかし、そのがんばりは報われなかった。
「もう、手の施しようはありません」
手術から二か月後の通院時、沈痛な顔をした獣医師にそう告げられた。
私はただ、その言葉を聞くことしかできなかった。
身体中に癌の転移が認められ、苦しそうにしている愛犬を前にして、「がんばれ」と言うのは、何より私自身が、がんばらなくてはいけなかった。
食いしん坊だった愛犬が、ごはんも、ご褒美のおやつも食べられなくなった十一月の初め、私はその言葉を言うのをやめた。
「しんどかったら、がんばらなくてもいいんだぞ」
苦しそうな身体を撫でながら、私は少しでも安らかに眠ってくれることを願うようになっていた。
その週の競馬では、意識して藤岡佑介騎手の馬券を買わなかった。
いや、買えなかった。
「ゆうすけ、がんばれ!」
そう叫ぶことが、そのときの私にはできなかった。
がんばることで、苦しむ時間が長引いてしまうように思えたからだ。
その翌週の半ば、愛犬ゆうすけは私の腕の中で永遠の眠りについた。
飼い主を心配させないようにしたのか、最期は信じられないくらい穏やかな呼吸だった。
眠るように、私の腕の中で少しずつ命の鼓動が弱まっていき、そのまま安らかに旅立った。
きっと、ものすごくがんばったのだろう。
それなのに私は、「よくがんばった」と褒めてやることができなかった。
まだ生きていてほしかったという思いもあった。
それよりも私の頭に浮かんだのは、「ありがとう」という言葉だった。
それだけの愛情を、私は愛犬に与えられていた。
その週末、私はいつも競馬の話をしている寿司屋へ出向いた。
十年来の競馬仲間である大将は、愛犬のことを必要以上には口にしなかった。
いつものように私の注文に応じ、客がいなくなると競馬新聞を取り出して、競馬の話を振ってくれた。
「今週のマイルチャンピオンシップは何を買いますか」
いつものように競馬の話をしてくれる大将に救われながら、私は馬柱に目をやった。
「本命はまだ決まってないけど、ムーンクレストは買うよ」
私の言葉に、大将は驚いた顔をした。
「いくらなんでも、最低人気かもしれない馬ですよ。何かいい話があるんですか」
私は、いい話を教えるでもなく、正直に答えた。
「鞍上で」
「藤岡、そんなに好きでしたか?」
不思議そうな顔をする大将に、私は冷酒を注文しながら言った。
「直線で、ゆうすけ、がんばれ!って叫びたいんだ。見せ場くらいはないかな」
私の気持ちを察したのだろう。
大将はなみなみと冷酒を注いだグラスを私の前に置き、穏やかな顔で言った。
「見せ場があるといいですね。来たら大万馬券ですよ」
私はその言葉に軽く笑い、あふれそうな冷酒に口をつけると、いつものように週末の競馬予想を楽しんだ。
そして、マイルチャンピオンシップ当日。
私はいつもの週末と同じように、自宅のテレビの前にいた。違っていたのは、愛犬の姿が小さな骨壷になっていたことくらいだった。
馬券はやはり、藤岡佑介騎手騎乗のムーンクレストから買っていた。
そのムーンクレストは好スタートを決め、逃げ馬を見る絶好の位置で競馬を進めていた。
そして四コーナー手前で、藤岡佑介騎手の手が動き始める。私は待っていたかのように叫んだ。
「ゆうすけ、がんばれ!」
四コーナーの入り口で、単勝三百倍を超える最低人気のムーンクレストは、先頭に立とうかという勢いを見せた。
「ゆうすけ、がんばれ!」
善戦及ばず、ムーンクレストは直線半ばで後続馬の追い込みに飲み込まれていく。
それでも私は叫んだ。
「ゆうすけ、がんばれ!」
「ゆうすけ!ゆうすけ!」
何度も、何度も繰り返し叫んだ。
本当はずっと、がんばれと言いたかった。
最期の瞬間まで、奇跡を信じて、がんばれと言いたかった。
けれど、苦しむ愛犬を前に、その言葉はどうしても言えなかった。
そんな中、愛犬はがんばってくれた。
安らかに旅立ってほしいという、飼い主のわがままに、十三キロほどの小さな身体で見事に応えてくれた。
「ゆうすけ、ありがとう」
私は涙ながらにそうつぶやいていた。
ムーンクレストは十着だった。
それでも、人気を考えれば十分に健闘と言っていいだろう。見せ場たっぷりの競馬は、自然と言えなかった「がんばれ」を叫ばせてくれた。
「よくがんばったな、ゆうすけ」
私は止まらなくなった涙を拭いながら、テレビ画面と小さな骨壷に向かって、泣きながら微笑んで言った。
気のせいか、遺影の愛犬がドヤ顔で見返してくれた気がした。




