この世界でただ一人、君だけが欲しい
それは、霧の深い日だった。
薄靄に包まれた森の奥、ルカ=セイレンは薬草を探してひとり歩いていた。王都の外れにある神殿付属の学寮。その食堂に仕える代わりに与えられた、唯一の自由時間。
枯れた枝が靴に絡まり、朝露が裾を濡らす。けれどそれを煩わしいと思う気持ちも、もう忘れた。
「誰かに期待されるって、どんな感じなんだろうな……」
ぽつりと、独り言。
ルカには、家族がいない。
否、正確には“貴族の庶子”として生まれたが、屋敷を追い出され、神殿に引き取られた。
「お前は、誰の正式な子でもない。だから自由だ」
そう言った神父の目が、どこか遠かったことを、今でも覚えている。
その日も、ただ淡々と薬草を探していただけだった。
だが突然、濃い霧が森を覆った。
「……ッ、こんな急に……」
目の前の道が消え、足元の感覚も曖昧になる。
いつしか小石につまずき、視界がぐるりと回った。
倒れ込む直前、胸元に冷たい風が吹き込んだような気がした。
それが、最初の出会いだった。
***
目を覚ましたとき、そこは薄暗い木造の小屋の中だった。
湿った木の香り。割れた窓から差し込む光が、床の埃を浮かび上がらせる。
「……起きたのね」
静かな、けれど低く鋭い声。
声のする方へ顔を向けると、そこにはひとりの女性がいた。
長い銀の髪。雪のように白い肌。冷たい水を湛えたような青の瞳。
だが、どこか“壊れかけた人形”のような印象だった。
「……ここは……」
「境界の外、誰も来ない村。貴方が自分で入り込んできたのよ」
その言葉に、ルカはぞくりと背筋が震えた。
誰も来ない――つまり、ここは“見捨てられた土地”だ。
「あなた……助けてくれたんですか?」
「……そういうつもりはなかったけれど、放っておくほど無関心でもないの」
女は言葉を切り、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
長いスカートが床をかすめ、裸足の足音が静かに響いた。
「名前は……ルカです」
「ミレア。……そう呼ばれていたわ、昔は」
“昔は”。
その言葉に込められた感情は、まるで錆びついた鎖のように重かった。
「ミレアさん……本当に、ありがとうございました」
ルカはそう言って頭を下げる。けれどその瞬間、ミレアの身体がぴくりと硬直した。
「……感謝しないで。私は、そういうの……嫌なの」
冷たい声。けれどその奥に、ほんの僅かな震えが混じっていた。
彼女の言葉の意味は、その時まだ理解できなかった。
だが、あの日から始まったのだ。
廃村の片隅に暮らす、過去に傷ついた“元・聖女”と、
誰かに必要とされたくてたまらなかった少年の、
静かで、背徳的で、狂おしいほど優しい日々が――。
***
それから数日、ルカは森を越え、再びあの廃村を訪れた。
理由は明白だった。 ミレアが気になって仕方なかったのだ。 あの透き通るような瞳の奥にある、どうしようもない悲しみ。 そして、彼女が最後に放った拒絶の言葉――「感謝しないで」。
優しくしただけで拒まれる。 けれど、それがなおさら彼女の痛みを際立たせていた。
小屋の扉を叩くと、間をおいてから内側から鍵が開く音がした。
「……また来たの?」 「はい。……薬草、まだ少し残ってたので」
言い訳だった。 けれどミレアは、それ以上何も言わずに扉を開けてくれた。
中は薄暗く、相変わらず冷たい空気が漂っていた。 だがその奥に、確かに“人の気配”があった。
「足、怪我してるんじゃ……?」 ふと、彼女の足首に赤く擦れた傷を見つけ、ルカはしゃがみ込む。
「……別に、どうということないわ」 「消毒だけでもさせてください。薬草、煎じてきたんです」
ルカが差し出した小瓶に、ミレアの瞳が僅かに揺れた。 だが次の瞬間、彼女はルカの手を振り払うようにして身を引いた。
「触らないで」
はっきりと、拒絶された。 その瞬間、ルカの胸に鋭い棘のようなものが刺さる。
「……すみません」 ルカは手を引き、黙って腰を下ろす。
沈黙が落ちた。 それでも逃げることはしなかった。
やがて、ミレアがぽつりと呟いた。 「……昔、ね。人に触れられるたび、世界が汚れていく気がしてたの」 「それは……」 「いいの。ただの独り言」
彼女は膝を抱え、虚空を見つめていた。 まるでその視線の先に、過去の自分がいるかのように。
ルカはそっと、自分の指先を見下ろす。
(“共鳴”……)
そう呼ばれていた、自分だけの特異な力。 触れた相手の痛みが、自分の中に流れ込んでくる――そして、少しだけ癒える。
それが、ただの気のせいでないことを、ルカは知っていた。
意を決して、彼は口を開いた。
「僕の手……気持ち悪くないなら、少しだけ触れてもいいですか」
ミレアは眉をひそめた。 だが、逃げるような様子ではなかった。 ゆっくりと目を閉じ、静かに頷く。
ルカの指先が、そっと彼女の足首に触れた。
その瞬間――体の奥に、微かな光が満ちるような感覚。
ミレアの表情が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「……あたたかい」 彼女の唇から、吐息のような言葉がこぼれる。
「……少し、楽になった気がする」 「よかった……です」
ルカの心臓が、痛いほどに跳ねた。 初めて“誰かの役に立てた”という実感が、胸に灯ったからだ。
けれどその直後、ミレアは慌てるように立ち上がった。 「……もう帰って。今のこと、忘れて」
その背中には、確かに震えがあった。
ルカは何も言わず、小屋を後にした。
けれど、その手のひらに残る温もりだけは、いつまでも消えなかった。
***
その日も、ルカは霧をかき分けて、廃村の小屋を訪れた。
入口の扉は以前より早く開いた。きっと彼女も気づいているのだ。自分が、彼女を必要としていることに。
ミレアは何も言わず、ただ目だけで「入っていい」と告げた。
その無言の許可が、たまらなく嬉しかった。
「……足の具合、どうですか」
「もう、痛くはないわ」
「よかった……」
それだけの会話。けれど、それができるようになったことが、ルカにとっては奇跡のようだった。
「今日は、これを……」
ルカは包みを取り出す。干し肉とパン、それに温かいハーブ茶。
「昨日、調理場で余ったものです。食べてないと思ったから」
ミレアは一度、視線を逸らした。
だがやがて、おずおずと手を伸ばし、包みを受け取った。
「……優しくしないで」
唐突に放たれたその言葉に、ルカの手が止まる。
「どうして……?」
「そうされると、勘違いしてしまうから。私は誰からも、もう……」
ミレアはそこで言葉を切り、唇を噛んだ。
「昔、聖女と呼ばれていた。神の声を聞く娘、癒やしを授ける存在。
でも私は……“選ばれた神託”を拒んだ。国の命運を背負うはずだったのに、それを壊した」
ルカは、息を呑む。
神託の拒絶。それは“神への反逆”と同義。
処刑されなかったのが不思議なほどだ。
「……私のせいで、多くの人が死んだの。そう、言われたわ」
その声は、まるで自分に罰を与えるようだった。
「でも、それって……全部本当なんですか?」
ルカの問いに、ミレアは目を伏せた。
「真実なんて、どうでもいいの。私が“そういう存在”だと人々が思った、それだけで、すべてが終わった」
ルカは、そっと拳を握る。
「僕は……あなたに救われたと思ってます」
「なぜ? 私は、あなたを助けたわけじゃない」
「でも、あのとき、あなたが居てくれなかったら。僕は……」
言葉が途切れる。
あの夜のこと、胸の奥にある虚無が、喉に張りついて言葉を奪う。
ミレアの瞳が、微かに揺れた。
「……貴方も、誰にも必要とされていないの?」
「はい」
ルカは迷わず頷く。
「でも、誰かを必要としていいなら、僕は……あなたがいい」
その言葉に、ミレアの肩が小さく震えた。
沈黙が落ちる。だが、拒絶はなかった。
彼女はゆっくりと、ルカの差し出した手に、自分の手を重ねた。
「……愚かな子ね」
そう呟いた声は、どこか泣き笑いのようだった。
***
その夜は雨だった。
森を抜ける頃には靴も裾もびしょ濡れで、ルカは息を切らしながらミレアの小屋の前に立っていた。
扉を叩く音に、少しして返ってきたのは、鍵の開く小さな音。
「……また、来たのね」
「すみません、雨に降られて……帰れそうにないです」
雨粒が髪を伝い、額から顎へと落ちる。
ミレアはルカを見つめ、何も言わずに一歩退いた。
それはつまり、今日も“ここにいていい”ということだった。
***
暖炉には薪がくべられ、部屋はじんわりと温かかった。
ミレアは濡れたルカの上着を受け取り、黙って炉のそばに掛ける。
「湯を沸かすから、手を出して」
ルカは従うように手を差し出した。
冷えた指先に、彼女の掌が触れる。
その瞬間――ルカの心に、ぬるりとした熱が差し込んだ。
まるで胸の奥を溶かすような、感情とも体温とも言えない熱。
「……本当、不思議な手ね。怖いくらい、心が溶けていく」
ミレアが囁いた。
ルカは黙って彼女の手を包み込む。
彼女の手は冷たく、細く、そして震えていた。
「怖いのは、僕も同じです」
「……どうして?」
「あなたに触れるたび、心が強くなるようで、でも……どこかで壊れてしまいそうだから」
言葉にした瞬間、それが本当だと知った。
触れるたび、彼女に惹かれていく。
その温度が、自分の存在価値そのものを肯定してくれる気がして、怖くなる。
「……私、たぶん、もう誰かとちゃんと向き合う資格なんてないわ」
「そんなの、僕が決めます」
ミレアが小さく笑った。
それは初めて見る、心からのものだった。
「……ねえ。今夜だけ、私を“ミレア”って呼んでくれる?」
ルカは息を呑む。
「はい……ミレアさん」
「“さん”はいらないわ」
ルカは、もう一度呼んだ。
「……ミレア」
それだけの言葉が、まるで何かを壊す鍵のようだった。
ミレアはそっと、ルカの胸に額を預ける。
雨の音が遠ざかり、炉の薪がぱち、と静かに弾けた。
そして二人の間に、ゆっくりと、体温が流れ込んでいく。
抱きしめたわけじゃない。
ただ、触れ合っていた。
でもその距離は、言葉よりも深く、唇よりも熱く、
何よりも、確かに“心が触れた”と感じさせるものだった。
***
夜が深くなるにつれ、ミレアの沈黙は少しずつ、別の色を帯びていった。
炉の灯に照らされる横顔は、どこか柔らかく、そして脆くて、見てはいけないもののように感じられた。
ルカは息を呑み、そのまま彼女の隣に腰を下ろす。
「……こうして、誰かと同じ空間にいるの、どれくらいぶりかしら」
「……僕は、今日まで一度も、こんな夜を過ごしたことないです」
ミレアは小さく笑い、しかしすぐにまた真顔に戻る。
彼女の目が、ゆっくりとルカの唇をなぞるように見つめてきた。
そして、呟くように言った。
「――触れても、いい?」
その言葉に、ルカの全身が跳ねる。
だが彼は、逃げなかった。
「……はい」
ミレアの手が、そっと頬に添えられる。
指先が震えていた。
それは、彼女がずっと“触れること”に怯えていた証だった。
ルカはその手に、自分の手を重ねる。
「……こわい?」
「……怖いのは、優しさ」
ミレアの声が、震えていた。
「私はきっと、今も聖女の皮を被っただけの女よ。
けれど、あなたは……そんな私に、ちゃんと目を向けてくれる」
ルカは答えない。ただ、そっとミレアの肩を抱いた。
彼女の身体は、壊れ物のように軽く、抱くたびに涙になりそうなほど切なかった。
「……ミレア」
彼女は小さく、ルカの名を呼んだ。
そしてそっと、自分から額を預けてくる。
唇が触れるか触れないかの距離で、二人の息が混じった。
指先が、肩に、腕に、背に滑り――
互いの心の傷に触れ合うように、ゆっくりと、そっと重なっていく。
それは決して交わることのない、けれどそれ以上に深い“儀式”のようだった。
「……私、今だけは……許されたい」
「僕も、今だけでいい。あなたのすべてが、欲しい」
言葉が、涙のように滲む。
布越しに感じる熱。
絡まる指。
触れるたび、崩れていく自制心。
けれど最後の一線だけは、越えられなかった。
ルカが唇を離し、額を彼女の額にそっと重ねた。
「……ごめん。でも、僕はこれ以上、あなたを“逃げ場所”にしたくない」
ミレアは、驚いたように目を見開いた。
そして次の瞬間、こらえていた涙が、頬をつたった。
「……救われたふりをしていたのは、私のほうだったのね」
その言葉は、まるで祈りのように、静かに夜の空気に溶けていった。
***
朝の気配が、微かに世界を染め始めていた。
乱れたシーツの上、寄り添う二つの影。
ルカは目を閉じたまま、静かにミレアの髪に指を通す。
彼女の頬にはまだ微かな紅が残り、肌は夜の熱を帯びていた。
言葉はない。ただ、互いの心と体が確かに重なり合った余韻だけが、そこにあった。
夜が深くなるほど、触れるたびに強くなっていった想い。
そして、それを止める理由はもう、どこにもなかった。
外から、かすかな蹄の音が聞こえた。
ルカはすぐに気づく。
「……誰か来る」
ミレアの表情が一瞬で強張る。
彼女はすぐに立ち上がり、窓の外を覗いた。
「異端審問官……見つかったのね」
その言葉に、ルカの中に怒りのような熱が灯る。
「逃げましょう」
「無理よ。あの人たちは、私がどこに逃げても追ってくる。……“呪い”は、そういうものなの」
「呪い……?」
ミレアは微笑んだ。
けれどその笑みは、どこか諦めと覚悟が滲んでいた。
「私が神託を拒んだのは、本当。でもね――理由があるの。
神に選ばれた“聖女”は、代償として『他人の願い』しか叶えられないのよ。
自分の幸せ、自分の望みは……一生、呪いの外側」
ルカは息を呑んだ。
「そんなの、ただの牢獄じゃないか……!」
「でも、あなたに会って……少しだけ、違う未来が見えた」
ミレアはルカの手を取った。
震える手。
でも、その目は確かにまっすぐ、彼だけを見ていた。
「逃げてもいい? 一緒に、どこまでも」
「……もちろん。君が望むなら、僕はどこへでも」
その瞬間、扉の外から鋭い声が響いた。
「異端者、ミレア=ヴェルティア! 開門せよ!」
だが二人は立ち上がり、互いの額をそっと重ねる。
「この夜が、終わらなければいい」
ルカが呟くと、ミレアは涙を浮かべて微笑んだ。
「でも、朝は来るのよ。……だから、逃げよう」
手を握る。
もう二度と離さないと、約束するように。
扉を開け、外に出る。
まだ薄暗い空に、朝の光が滲み始めていた。
どこへ行くかなんて、決まっていない。
けれど、彼女の手のぬくもりが、確かに“生きている”と教えてくれる。
それだけが、今はすべてだった。
――この世界でただ一人、君だけが欲しい。
その願いだけを胸に、ルカは彼女と共に、夜明けの中へと歩き出した。