第2章 渡邉玲香は友達に戻りたい(2)
「おっ、来たね~。」
ドアを開けた玲香は、見慣れた部屋着を着て、眼鏡をかけていた。お風呂上りか、ふんわりとなじみのあるシャンプーの香りがした。
「ジンジャエールとポテチ買ってきたよ。」
「お~、これこれ。わかってんじゃ~ん。入って入って。」
玄関横のユニットバスに入って洗面台で手を洗った後、奥の部屋に入った。部屋の奥には、見慣れた景色、不釣り合いに大きいモニター、テーブル、本棚、ベッドがあった。ベッドは今起き出したばかりのように掛け布団が丸まっていた。テーブルには作画用の液タブが出しっぱなしだったので、きっと、昼頃起きて液タブで作画を進めて、そのまま日が暮れて連絡してきたって感じだな。ご飯ちゃんと食べてるんだろうか・・・。
そう思っていると、玲香がベッドに座るよう促し、自分はその横に座った。そしてニヤニヤ笑いながら近づいて来た。
「では、さっそくお願いします!」
「じゃあ目を閉じてベッドにうつ伏せになりなさい!」
「はいよ~。準備OK!いつなんどき、誰の挑戦も受ける!」
それを確認すると、ゆっくりと手を伸ばし・・・モニターの電源を入れて、ネトフリのIDとPWを素早く打ち込んだ。
「OK、もういいよ。」
「よ~し。でもごめんね。わざわざアニメ見せるために部屋来てもらうのも大変だよね。悪いから、ずっとログインしたままにしといてもいいよ。」
「そんなことしたら、玲香がずっと視聴中にして。僕が見えないだろ。」
「え~。じゃあ、ファミリープランにしたら?そしたら2画面で見えるよ。」
「誰がファミリーだって?」
「フレンドプランとかあったらいいのにね~。」
「はいはい。そういうジャイアン向けのプランはやってません。じゃあ、準備も整ったことだし!『殲滅の教室』リアタイに追いつくため5話分一気見するぞ~の巻、スタートしますか!」
渋谷で受け取った玲香からのメールは、殲滅の教室の1話無料公開を見たら、ドはまりしたという内容だった。すぐにネトフリをチェックしたら、ネトフリでは最新話まで配信されていた。そこですぐに玲香に一気見を提案し、玲香もためらいなく了承したので、現在に至る・・・・。う~ん、しかし友達ってここまでするのだろうか。よく考えたら他に女友達いないから、いまいち距離感がわからん。
「んん?いいにおいがする。焼肉食べた?いいな~。誰と行ったの?」
玲香は、潤の服をクンクンと嗅いだ。玲香は嗅覚が鋭く、好物を食べた時は確実に当ててくる。
「姉さまと・・・・あと松浦さん・・・。」
一瞬ためらったが、もう付き合ってないんだし、いいよねと思って、明日香の名前も出した。
「松浦さんって、あの文学部2年の背の高い美女でしょ。前に一度か二度、一緒に歩いている時に会ったことあったよね・・・。あんな美女と一緒に焼肉なんて、なんでなんで?できてる男女じゃなかったら焼肉いかないんでしょ?」
「あっ・・・いや・・・。」
口ごもると、玲香は急にスンとなった。
「いいのよ。松浦さんとどんな関係でも、もう潤の自由だもんね。」
「ちっちがうよ。松浦さんは小中高とずっと同級生で、姉さまの部活の後輩なんだ。」
「え~っ!じゃあ幼馴染みってやつ?大学生になってリアルに幼馴染みがいる人って初めて見た!創作のテンプレでは見るけど実在したんだ!」
笑顔に戻り、隣に座って肘でつついてくる。思わず後ずさるとベッドから落ちそうになった。
「幼馴染みというか、同級生ってだけだけど。」
「それで、親同士仲が良くて許嫁になってるとか、一緒にお風呂に入って裸を見せ合った関係とか・・・ヤラシ―!」
「そんなことはないって。同級生だけど家は遠かったし、学校とか子ども会の行事以外で遊ぶこともほとんどなかったよ。中学生になった頃からは、姉さまと仲良くなったみたいで、よく家に来てゲームでボコボコにされたり・・・たまに勝つと物理的にボコボコにされたりしたけど・・・あと同じクラスになったことはあんまりなかったけど、仲のいい友達が僕と同じクラスだったことが多くて、よく教室に遊びに来た際にダル絡みされたとか、うん、あんまりいい思い出はないな・・・。」
「でも、浪人してまで潤を追いかけて同じ大学に来たってことでしょ。ホントは何かあるんじゃないの~?」
「たぶん姉さまに憧れてたから、そのせいだと思うよ。今も姉さまと一緒に活動してるみたいだし。そもそも大学で最初に会った時も、『お前もこの大学だったのかよ~』って言ってたし、僕も姉さまと同じ大学だってころすら知らなかったんじゃないの?」
「ふ~ん・・・・・創作意欲をかき立てられるエモいストーリーが出るかと思ったけどツマンナイナ~。じゃあ観よっか。」
幼馴染みイジリに飽きたのか、玲香はリモコンを操作して第1話を再生し始めた。オープニングで一瞬暗転したとき、モニターに玲香の顔が映った。玲香の表情はいつものように目を細めた笑顔のままで、そこから何も読み取れなかった。アニメの第1話には集中しているふりをしながら、頭の中で無意識に玲香と出会った頃を思い出していた。
★
玲香と出会った日、大学1年の4月のあの日のことは今も鮮明に覚えている。これからも忘れることはないだろう。ただし、それは玲香と出会った日だからではない・・・。
その日、僕は、入会した文芸サークルの歓迎会に参加していたのだが、新入会員が順に自己紹介をしながら、好きな本を紹介する流れの中で、盛大にスベってしまった。
「好きな本は、『文豪たちがYoutubeチャンネルをやったら全員グダグダ』です。アニメもリアタイで追いかけています!」
次の瞬間、先輩方10人だけではなく、新入生5人も絶句したのを見て、地雷を踏みぬいてしまったことに気づき、その後、ごにょごにょと話して逃げるように席に帰って小さくなった。
あれ~、声をかけてくれた女性の先輩は、文芸サークルとは言っても、ラノベやマンガに力を入れている人も多い軽い雰囲気だって言ってたのに、みんなの視線は小学校の校庭に迷い込んだ野良犬を見るような感じだったぞ・・・。
後日わかったのだが、この文芸サークルは、芥川賞作家を複数名出した名門サークルであり、作家として身を立て、純文学に人生を懸けようとする文学徒が集まる、知る人ぞ知るガチの文芸サークルだったのだ。そんな中で、よりにもよって尊敬する文豪たちをネタにしたライトノベルを愛読書に挙げてしまったことは場違いにも程があり、いきなり周囲にヤバいやつだとの印象を与えてしまったようだ。席に戻った後も周囲から距離を置かれてしまい、誰にも話しかけられなかった。また、自分から話しかけようにも、周囲の会話は、太宰や三島、又はトーマス・マンといった話題ばかりであり、マンガとライトノベル専門のオタクが入りこむ余地など寸毫もなかった。
あ~、終わった。これは幽霊部員になってフェードアウトするしかないな・・・。
入会早々、ぼっちになりかけた中で話しかけてくれたのが、同じく新入生だった玲香だった。
「さっきの自己紹介では日和っちゃったけど、実はわたしも純文学よりも、ラノベやアニメの方が好きなんですよ。」
最初は、気を遣ってくれて話を合わせてくれているんだな。優しいなと思っていたが、話しているうちに玲香がガチ勢であることに気づいた。むしろ潤が読んでないラノベや未視聴のアニメの知識が豊富であり、前のめりになってあらぬ方向に視線を向けながら早口で推しの話をする様子を見ると、むしろあんな程度の知識でラノベの話出してすみませんっていう気持ちになってしまった。気づくと、歓迎会の終了までずっと玲香と話し込んでいた。
「いや~。こんなところで同好の士に会えるとは思わなかったよ。まだ話し足りないから、今度ゆっくり話そうよ。」
「あっ、うんもちろん。」
玲香にそう言われてLINEのIDを交換し、その日から玲香とのやり取りが始まった。最初は、おすすめのマンガやラノベを推薦し、大学で貸し借りしたり、アニメをリアタイ視聴して感想を通話で話すという程度だった。
それから1週間くらいたったある日、玲香から、pixivのある作家を紹介され、『どうかな?感想聞かせてよ?』とメッセージが届いた。すぐにアカウントを作ってその作家の作品を読むと、一気に引き込まれた。うっかり留年して高校一年生をやり直す女子高生が、同級生になったクラスでぼっちの男子高校生と交流しながら、互いに惹かれ合うラブコメをテーマとしたマンガ作品であり、女子高生が男子高校生に魅かれていく心理描写や、やさしさにあふれる雰囲気にマッチした優しい絵が心に刺さり、すぐにファンになった。さっそくお気に入り登録し、一緒に住んでいた姉さまにも薦めた。
数日後、大学のグランド近くのベンチで、一人でゆっくり陽に当たっている玲香を見つけた。
「あっ、渡邉さん、久しぶり!」
「あ~、荒井くんか。そういえば会うのは久しぶりだね。しょっちゅうLINEでメッセージやり取りしてるから、あんまり久しぶりって感じはしないけど・・・。」
「ほんとにそうですね・・・・。」
「・・・・・・。」
勢いで隣に座ってしまったが、そのまま話題は終了してしまった。しょっちゅうLINEや通話しているのに、直接会うと少しぎこちなくなるのは何でだろう。そう思いながら、話題をつなげるために、この間紹介してもらったマンガの話をした。
「そういえば読んだよ。この間紹介してもらった『うっかり寝坊して留年しちゃったけど、その結果、君に会えたからそれでよしとしよう!』だっけ。」
「えっ!!!ほんとに読んだの?・・・それで・・・どうだった・・・?」
さっきまでのんびり日向ぼっこしていた姿が幻だったのではと思えるくらい、早口でぐいぐいと押してきた。しかも普段はあらぬ方向を見て話すのに、この時はじっと潤を見つめてきた。普段は微笑みで糸目になっている目も見開かれ、鳶色の瞳がきれいだ。潤は唐突にぐいぐい来た玲香の反応に戸惑いながらも、普段はあまり見ることのできない玲香のキラキラした瞳に目を奪われた。
「なんていうか、花蓮が礼嗣と出会って、心が魅かれていって距離を縮めようとする姿が和むというか共感できて、何度も読みかえしたいなって思える作品だなって・・・。」
「ほんと?でも、あんまり絵はうまくなかったでしょ・・・。構図も二人が話してる場面ばっかりでワンパターンだし、それにストーリーも盛り上がりが少なくて起承転結になってなかったり・・・。」
「そうかな~?そういわれると確かに場面転換も少ないし、絵ももっとうまい人はいっぱいいるだろうけど・・・・。」
「そうだよ・・・。あんまり大した作品じゃないんだよ・・・。」
「でも、僕は好きな作品だよ。絵柄も好みだし、何より礼嗣に感情移入できるっていうか・・・。一見見た目が怖い花蓮との会話も心が温かくなるし・・・・。ハリネズミがアルマジロに近づきたいって表現もいいよね。僕も高校のときはぼっちに近かったんだけど、こんな人に出会えるんだったら、もう一回高校生やってもいいなって思えて・・・・。」
そこまで聞くと、玲香は潤から目を逸らし、何やらニヤニヤし始めた。
「あの作品の作者、知ってる?」
「いや?他の作品も読んでみたいなって思ったんだけど、他には投稿してなかったし・・・。SNSも探してみたんだけどヒットしなくて。誰が作者なの?」
「あの、すごく恥ずかしいんだけどね。あの作品はね、わたしが描いたの・・・。第一作。」
それだけ言うと、玲香ははにかみ、目を逸らしてあさっての方向を向いていた。
「え~っ・・・そうだったの!あっ、そういえば文体の雰囲気が渡邉さんと似ているような似ていないような・・・。そうだったら最初から教えてくれればよかったのに!姉さまにも知らずにお薦め作品として紹介しちゃったよ!」
その言葉を聞き、玲香は完全に向こうを向いてしまった。わずかに襟の隙間から見える首筋が真っ赤になっている。
「い、いやっ・・・わたしが描いたって言ったら正直な感想がもらえないと思って・・・。お姉さま・・にも紹介してくれてありがとう・・・。」
「すごいすごい!渡邉さん、才能ある人なんだ!いつから描いてるの?次回作も描く予定なの?どうやったらあんなストーリーを思いつくの?」
「それは・・・・高校の時に思いついた話を、最近やっと完成させて・・・。」
玲香は真っ赤になったまま黙り込んでしまった。意外な事実に興奮して矢継ぎ早に質問してしまったが、今思えば、玲香は嬉しさとか恥ずかしさとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになってキャパオーバーになっていたのだろう。
「あっ・・・ごめんね。ちょっと質問しすぎちゃったね・・・。」
「ううん、いいの・・・・。」
しばらく何も話せず、無言でいるしかなかった。グラウンドでは陸上部の面々がタイムトライアルをしているようだ。マネージャーがタイムを読み上げる声が聞こえてくる。このベンチだけが世界から隔絶されているようで、この時が永遠に続くような錯覚を覚えた。
「あのね・・・あの・・・恥ずかしいんだけどね・・・。」
潤は、ようやく話し始めた玲香の邪魔をしないよう、息を殺して次の言葉を待った。
「わたし・・・クリエーターになりたいの。マンガ作品だけじゃなくて、イラストとかマンガとか、キャラデザとかのプロになりたくて・・・。」
玲香は、目を逸らしたままだが、首だけでなく耳まで真っ赤になっている。
「まあ、私には無理だと思うけど・・・。」
「いいと思う・・・。」
「えっ?」
「いいと思う!きっと渡邉さんの作品を待ってる人がいっぱいいるよ。僕も続きが読みたいし!すごくいいと思う。」
そう言われると、玲香は本当にキャパを超えてしまったようで、「恥ずか死ぬ~」と言いながら走り去ってしまった。残された潤は、あるアイデアを思いつき、スマホでリサーチを始めた。
『9月に自主制作同人誌の販売イベントがあるんだって!一緒に参加しない?』
そう玲香にメッセージを送り、既読になってから1日半経つが、まだ返事がない。
「やっぱり、性急すぎたかな~。」
朝食の間もずっとスマホの方に意識を向けていたが、スマホは昨日からうんともすんとも言わない。たまに通知があっても広告だけだ。
「それはそうでしょうよ。潤はぐいぐい行き過ぎなのよ。一人でこっそりマンガ描いてたオタク女子が、会って間もないオタク男子から過剰に褒められて、しかもいきなりサークル組んでイベント出ようって言われたら、そら警戒して引いちゃうって。」
テーブルの向かいでコーヒーを飲んでた姉さまもあきれ顔だ。
「いや、褒めたのは本心からだったんだけどな~。姉さまも読んだでしょ。」
「まあ、確かにお話としてはまとまってたけど、私はもっと胸がキュンとするような話が好きかな~。普通の男女が、普通に知り合って、距離を縮めて、付き合うってだけの話じゃん。そんなのマンガで読まなくても、いくらでも転がってる話だし。」
「いや、そういう普通の話が感情移入できていいんだって。」
その時、ブブブッと潤のスマホが震えたため、潤は急いでスマホに飛びついた。玲香からのメッセージで、通知画面には、『ごめんなさい。いろいろ考えたんだけど・・・・』という冒頭が表示されている。
「あ~っ、だめか~。」
「まあ、ちゃんと返信が返ってきただけで十分よ。そのまま不審者として距離置かれてもおかしくないんだから。」
「あっ、あれ?違う?」
メッセージを開くと、そこにはこう書かれていた。
『ごめんなさい。いろいろ考えたんだけど迷ってしまってお返事が遅れてしまって・・・。誘ってくれてありがとう。きっと、わたし一人では勇気を出して参加できなかったと思う。ぜひよろしくお願いします!』
「やった~!」
「まるで告白が成功したみたいな喜びようじゃないのよ。でもいい?潤から誘ったんだから、自分から投げ出しちゃだめよ。あと、責任をもって、あなたがやれることはすべてやり尽くして彼女が後悔しないようにしてあげなきゃだめよ。潤は、淡泊すぎるところがあって、熱意が足りないから。他の人を巻き込んだ以上はすぐに投げ出しちゃだめよ!」
姉さまは潤にあきれながらも、厳しい顔つきで釘を刺した。姉さまを見ていれば厳しい世界だってわかる。だけど、軽い気持ちで誘ったわけじゃない。彼女とだったらきっとうまく行くと確信したから・・・。
潤は、玲香と打ち合わせて、潤が参加申し込み、印刷の手配、広告宣伝などプロデュース全般を担当し、玲香は作品作りに集中することになった。本当は作画も手伝いたかったが、液タブも持ってないし作画ソフトの使い方もわからないので、それ以外のサポートに専念することにした。
それから9月までは、あっという間だった。主催者に参加申し込みをし、首尾よく抽選にも通り、サークル名を決め、二人で出し合える予算を決め、またSNSに玲香のイラストのカットなどを投稿して広告宣伝にも努めた。また、玲香の作品づくりの参考になればと、マンガやラノベやアニメをたくさん紹介した。一緒に映画もたくさん見に行った。
玲香の作品も少しずつpixivの読者に認められつつあるようで、フォロワーが増えていた。本当は姉さまの力を借りれば一気に注目を集めることもできたかもしれないけど、姉さまには仕事の点で迷惑をかけないことが暗黙の了解になっていたし、頭を下げて頼むことには躊躇してしまった。でも、玲香のフォロワーも100を超えていたし、きっと大丈夫だろう。
玲香と話し合って、pixivに投稿していた『うっかり寝坊して留年しちゃったけど、その結果、君に会えたからそれでよしとしよう!』の続編を15頁にまとめて、それを20部印刷することにした。値段を抑えるためにコンビニ印刷にしてホチキス止めにした。
イベント当日。潤は、会場の隅に長机の半分ほどの割当スペースに印刷した作品を積んで来客を待った。会場は人が多すぎて目まいがするほどだったが、そのほとんどは潤と玲香のサークルの前を素通りした。ごくたまに、『JR研究会』というサークル名を見て足を止めて立ち読みする人もいたが、「なんだ、鉄道出てこないじゃん」と言って去って行った。潤と玲香のイニシャルからサークル名を考えたが大失敗だったらしい。
「誰も買ってくれないね・・・。やっぱりわたしの作品がダメだったのかな・・・。」
朝の時点では、「午前中に売り切れちゃったら、午後どうしようね」と言って浮かれていた玲香も、午後になるころにはパイプ椅子に座ってノックアウト寸前のボクサーのように落ち込んでいる。真っ白に燃え尽きているポーズで微動だにしない。どう声をかけたものかと思案していると、隣のサークルのお姉さんから声をかけられた。
「今日はありがとうございました。完売したから、うちは店じまいするわね。お隣のよしみで、よければ作品を交換してもらえますか?」
「あっ、はい。」
潤は、慌てて机の上の山の上から本を一冊掴み、お姉さんに渡した。
「苦戦してるみたいですね。わかります。私も昔はそうだったので。」
「お姉さんのブースは完売みたいですね。」
「ええ。でもSNSで広告したり、フォロワーの多い友達に宣伝を頼んだり、Youtubeで紹介動画を流したり、いろいろ頑張ってやっと50部売れるようになったのよ。」
お姉さんの話を聞いてショックを受けた。僕はどれだけ玲香の作品が知られる努力をしただろう。ふと、姉さまの『責任をもって、あなたがやれることはすべてやり尽くして彼女が後悔しないようにしてあげなきゃだめよ。』という言葉が脳裏に浮かんだ。僕は、玲香が後悔しないよう、すべてやり尽くせただろうか・・・。
結局、その日は1冊も売れず、残り19冊はそのまま持ち帰ることになった。
「ごめんね、潤くん・・・私の作品がつまらないばっかりに・・・。」
帰り道も玲香はずっと下を向いたまま、ごろごろとキャリーケースを引きずっていた。
「いや、謝らなければいけないのは僕の方だよ。作品を売るためにもっとやれることがあったのに・・・・。ねえ、もう1回だけチャンスをもらえないだろうか?次の3月のイベントに、今回の19冊も、次の作品も必ず完売できるようにするから。」
玲香の前に回り込み、玲香の目を強く見つめた。玲香は目を見開き、また鳶色の瞳を見ることができた。しかし、玲香は瞳を揺らして戸惑った表情を見せた。
「無理だよ・・・きっとわたしの作品なんか誰にも求められてないんだよ・・・。」
「違う。少なくとも僕は玲香さんの作品に魅かれたんだから。他にもきっといるはずだよ。問題は、その人まで情報が届かなかったことなんだ。だから、僕がもっと宣伝を頑張って、必ずその人たちに届くようにするから!」
「・・・・・・。」
玲香はこの時は返事をしてくれなかったが、1週間後に『もう一回頑張ってみる』というメッセージをくれた。
それから、僕は、玲香の作品の宣伝に全力を注いだ。SNSに玲香のイラストを載せるだけではなく、近い作風の人を探してはフォローし、DMを送ってフォローをお願いした。数少ない友人たちにも持ち帰った玲香の作品を読ませて布教に努めた。ただ、それでもJR研究会のSNSのフォロワーの数は大きくは伸びなかったし、玲香のpixivのフォロワーもやっと200に届くところだった。今回も玲香には作品に集中してもらっており、この状況を詳しく伝えてはいないが、次のイベントの日は迫ってきていた。このままでは前回の二の舞になる。そうなると玲香は立ち直れないかも・・・。追い込まれた僕は、最後の手段として姉さまに頭を下げることにした。フォロワー数が10万人を超える人気レイヤーである姉さまに。
「姉さま。力を貸してください。イベントで一緒に売り子をしてもらえませんでしょうか。」
「いやよ!」
あっさり断られた。しかしここであきらめるわけにはいかない。
「玲香の作品は、きっとファン層にリーチしていないだけなんです。姉さまが来てくれれば、きっとたくさんの人が玲香の作品に触れてくれて、その中には玲香の作品を好きと言ってくれる人がいるはずなんです。お願いします。一生のお願いです。」
腰を直角に曲げて頭を下げる。僕が出せるのは誠意しかない。
「それで、その話で私に何のメリットがあるの?プロとしてお願いしているんでしょ?まさか私にメリットがないのに売り子だけやらせるつもりじゃないでしょ?」
「ちゃんとギャラを出します。交通費も出します。」
「ギャラって、せいぜい20部程度の作品を売って私のギャラが出るわけないでしょ。」
「それは、お年玉とか貯めているので・・・。」
「ダメよ!潤は、その彼女の作品が好きで、それを売りたいと思っているんでしょ。潤がお金を出して、分不相応な広告をして、集客をして、それで彼女の作品が売れたって言えるの?」
「・・・・・・・。」
「私が売り子するという話も同じ。自分で言うのもなんだけど、わたしのファンは来ると思うわよ。だけど、その人たちは彼女の作品を目当てに来るわけじゃないでしょ。自分の作品ではなく、売り子を目当てに来たお客に本が売れても、彼女が辛いだけよ。」
「返す言葉もありません・・・・。」
「じゃあこの話は終わり。わたしは美容のためにもう寝るからね。」
そう言って姉さまは自室に引き上げていった。
もうだめだ・・・。そう思ったけど、前回のイベントの際の玲香の落ち込んだ顔を思い出すと、あきらめきれなかった。もう何度目になるかわからないが、JR研究会のSNSにイベント参加告知をして、そのままベッドに倒れこむようにして眠った。
ブブッ、ブブッというスマホからの通知音が響いて潤は目を覚ました。スマホを見ると、JR研究会のSNSに、見たこともないくらいたくさんの『いいね』がつき、リポストがなされている。履歴を見ていると、姉さまのレイヤー用のSNSのリポストにたどり着いた。そこにはこう書いてあった。
『オタおとが、バクマン気取りで出店。売れて幼馴染みと結婚するつもりなのか?』
「姉さま、ありがとう。」
一睡もできなかった僕は、リビングで姉さまが起き出してくるのを待ち、深く頭を下げた。
「昨日言い忘れてたけど。自分のプライドを捨てて頭を下げてお願いすることはなかなかできないことよ。それに免じて、今回は少しだけ協力してあげるわね。」
美容のために早く寝たはずの姉さまの目の下にも、鮮やかなクマができていた。
「でも、本を買ってもらえるかどうかは、潤と彼女の作品次第だからね。」
イベントの日、前回とはうって変わって、JR研究会のブースには、たくさんの人が訪れてくれた。多くは姉さまのファンだったが、その人だかりを見て興味を持ってくれた人もいた。おかげで今回印刷した新刊20冊に加えて、前回持ち帰った19冊も完売した。
玲香も、終始ニコニコで「ありがとうございます」と連呼していた。もっとも、『あのオタおとだ』『かわいい」と言われて、来客からやたらと一緒に写真を撮るよう求められている潤を見て不思議そうな顔をしていたが。
潤にとって玲香は、ぜひとも世に出してあげたい推しであるとともに、趣味がぴったりと合う親友だった。かけがえのない存在だったが、付き合いたいとか恋人になりたいとか、そういった感情はなかった。
しかし、ある日、潤は、玲香が文芸サークルの部室で、3年生の男性の先輩と楽しそうに話しているのを見て、胸に痛みを感じた。これまではずっと自分が玲香の一番そばにいて、作品が世に出るのを助けることができたが、これからもずっと同じ関係でいられるだろうか。もし玲香に彼氏ができたら、やっぱり身を引かなきゃいけないだろうな・・・。いったんそういった思いが胸に去来すると、不安が頭から離れなかった。あの充実した日々がずっと続けばいいと思っていたけど、それは無理かもしれない・・・でもそれは嫌だ・・・。
さんざん悩んだ末、潤は一つの結論に至った。自分が玲香の彼氏になればすべて解決するはずだ。
その考えに思い至った時、潤は、いつもと同じように姉さまに相談した。この頃、姉さまは、就職活動の準備があり、また引っ越しも控えており忙しかったが、時間をとってじっくりと潤の話を聞いてくれた。そして、強く反対した。
「だめよ。結局、潤は、彼女を独占したいんでしょ。自分が心血を注いだ推しを他の人に取られたくない、そんな気持ちで好きでもない相手と付き合ってもお互い不幸になるだけよ。」
「うん・・・反対されることはわかってたけど。でも、もうそれしかないと思うんだ。」
「最後は潤が決める話だから、潤がどうしてもそうするなら仕方ないわ。でも、前に言ったこと覚えている?好きでもないのに潤の想いで彼女を振り回すなら、潤は責任を取らなきゃだめ。彼女が後悔しないように潤が全力を尽くせる?それが約束できるなら反対しないわよ。」
「・・・・・うん。」
そして、潤は、覚悟を決めてその翌週に玲香に告白した。玲香は、まるでそれを予想していたかのようにあっさりとOKした。ちょうど、大学1年最後の日だった。
★★
物思いにふけっていると、アニメは第3話の中盤まで進んでいた。玲香は、「おおっ」とか「この展開は新しい」とか独り言を言いながら物語に集中している。潤は、横目で隣に座る玲香の横顔をこっそりと見た。大学1年の春にベンチで並んで座ってから、この2年間で何回この横顔を見ただろう。一緒にアニメを観る時も、映画を観る時も、イベントで並んで本を売った時も。全然作品が売れなくて焦りと落ち込みが見える横顔、どんどんお客さんが来て飛ぶように売れた時の驚きながらも安堵した横顔。どれも懐かしいけど、もう僕の手は届かないところへ行ってしまった・・・。
ふと、潤はここで玲香を抱き寄せたらどうなるかと思った。もう一度あの頃みたいに戻れるだろうか?いやいやっと潤は頭を振った。そんなことをしたら友達である玲香も失ってしまうかも、玲香の作品がどんどん世に出ていく様子も近くで見られなくなるかも。そう思うと、『今の関係もいいかもしれないな』と急に心が落ち着いたような気がした。玲香を独占するんじゃなくて、これからは近い友達として玲香が作家として大成するのを見守るのもいいかもしれない・・・。
「どうしたどうした?もう疲れちゃった?」
ふと気づくと、ちょうど第3話が終わり、玲香は反応がなかったり頭を振ったりしている潤を不思議そうな顔をしてみている。
「まだまだ!5話一気見までやめられないでしょ!」
「さっすが!じゃあ、さっそく第4話いってみよう!」
玲香は、迷わず次のエピソードを再生した。それを見ながら、潤はなんだか清々しい気持ちだった。なんで玲香があんなことを言い出したかはわからないけど、自分のこれからの立ち位置を整理できると、心が前向きになった。姉さまからは、きちんと玲香と話し合うように言われたけど、話し合うと友達としても、同人誌サークルの仲間としての立場も崩れてしまうかもしれない。だったら、黙って今を受け入れた方がいい・・・。話してももう戻れないわけだし・・・。
「さあ!過去編は終わり。次はどんな展開になるのかな。」
「あれっ?第3話って過去編だった?どの部分からそう解釈したの?」
玲香はしばらく不思議そうな顔をしていたが、第4話のオープニングが始まり、すぐにそちらに引き込まれていった。