第13章 渡邉玲香に伝えたい
「あれっ、また水の魔女だ!なかなか炎の王子が出ないな~。」
今日は、玲香が最近ハマっているアニメとコラボしたイベントに来ている。玲香の目当ては主要キャラ3種類のいずれかのコースターがもらえるコラボドリンクだが、推しキャラがなかなか出ないようだ。
「よ~っし!もう一杯!」
「もう4杯目だよ。」
「確率的にはそろそろ来るはずなんだよ。」
「ギャンブル依存症の発想!それにもう飲めないでしょ?冷たいものばっかり飲んでたらお腹こわしちゃうでしょ!」
「む~。じゃあ、潤が飲んでよ。わたしには推しキャラのコースターくれればいいからさ!」
「しょうがないな~。」
「やった~。じゃあ、メロンソーダお願いしま~す。じゃあ、潤はこっちのドリンク飲んでね。」
「え~!飲みかけの方を押し付けられるの?」
「だってこっちは氷も溶けて、炭酸も抜けてるし・・・。あっ!潤の健康を気遣って言ってるのよ。冷たいものばっかり飲んでたらお腹こわしちゃうでしょ!」
「それ、さっきの僕のセリフ~!セリフ泥棒だ~!」
玲香がケラケラ笑っている。こんなに楽しそうな玲香を見るのは久しぶりだ。
「そういえば、二人で遊びにいくの、なにげに久しぶりだよね。最近、潤は冷たいからな~。いつもあのお嬢さまがべったりでさ~。オタともよりもお嬢さまの方が大事なのかしら?」
玲香は口を尖らせているが、冗談めかした口調なので心配なさそうだ。
「こないだの映画の時も付いてきちゃったもんね。ごめんね。」
「そうだよ。映画館の入口であのお嬢さまが待っているのを見つけた時、ホラー映画かと思ったよ。しかも潤とわたしの間の席に座ったり、その後の反省会にも付いてきたりして。」
「そうそう、それで『わたくし、よくわかりませんでしたわ。詳しく説明していただけますか』って言われて、二人して設定を説明したよね。それでも全然理解してもらえなくて。『アニオリ』ってなんですの~?とか。」
「あれはあれで楽しかったけどね。でも邪魔が入らないとこでからゆっくり見たいから、また改めて一緒に二人で行こうよ。あっ!また付いてきちゃうかな?それにしても、お嬢様、なんでいつも潤の居場所がわかるのかな?」
「なんでだろうね、超能力でもあるのかな。でも夏休み中はサンフランシスコに行ってるから突然現れることはないと思うよ。」
「甘いわね!テレパシー能力や予知能力があるんだったら、当然!瞬間移動もできるはずよ!」
「そうか、実は貴子さんこそがこの物語の異能主人公だったのか・・・!」
その瞬間、玲香は僕の後方に視線を移し、何かを見つけ、ハッとした。表情もおびえている。
えっ?本当に貴子さんが現れたの?
しかし、僕が勢いよく振り向いたら、そこには驚いた顔をした店員さんしかいなかった。
「や~い!だまされた~!」
玲香がまたケラケラ笑っている。本当に楽しそうだ。最近は色々あったけど、今日は誘ってよかったな。
「・・・ところでさ、潤は、就職について考えてる?ほら、東京で就職するか、地元に帰るとか。」
「いや、僕は、東京で就職するつもりだったけど。玲香は地元に帰るの?」
「ほら、わたし体調の問題があるからさ。親が心配して地元で就職した方がいいんじゃないかって言ってて。まあ、地元といっても高崎だから新幹線ですぐなんだけどね・・・。」
そうか・・・。確かにクリエイターになる夢があるとしても、いきなりお金が稼げるわけじゃないから就職した方がいいんじゃないかって考え始めてもおかしくない時期だよな。じゃあ、早めにあの話をしておいた方がいいかもしれない。
「そういえばさ、この間までインターンに行ってたんだよ。」
「えっ?いつの間に?抜け駆けひど~い!で、どこどこ?どこに行ってたの?」
「三条文庫なんだけど・・・。」
「すごいじゃん!あそこ、倍率すごいんでしょ?しかもほとんどインターン組から採用するらしくて。たしか舞佳先輩も去年インターンに申し込んで落ちて、今年は一般で入社試験受けたけどダメだったって・・・。」
ごめんなさい、舞佳先輩。
「でも、すごいじゃん!どこに配属されたの?」
「月の光文庫編集部」
「えっ!すごい、あのね。わたしがすごい、昔からすごく大好きな本があって、そこが月の光文庫レーベルなの!」
「そうなんだ!どの作品?『秘密の屋根裏の彼女の猫』とかは僕も好きなんだよ。」
「ううん、そういう売れてる本じゃなくてね。『ガーデンズ』っていう本なの。」
「ガーデンズ・・・?聞いたことない・・・。映画化とかアニメ化とかしてる?」
「そういう作品じゃないのよ。本としても全然売れなかったし、作家さんもこの作品以外に本を出していないマイナー中のマイナーな本なの。でも、わたしの運命を変えたと言っても過言ではない、わたしにとっては大切な大切な作品なの。」
「へ~!玲香は、どうしてその作品と出会ったの?」
「あのね・・・わたしが高校の時に大きな病気が見つかって手術することになったって話はしたことあるでしょ。」
僕は黙ってうなずく。前に玲香に聞いた話によれば、高校の時に手術が必要となる重病が見つかり、長期で入院していたことがあったらしい。そのせいで高校の卒業が遅れたので、僕と学年は一緒だが1歳年上になる。
「その時は手術が成功するかどうかもわからなくて不安だったし、もう普通の高校生活にも戻れないかもって思って、大げさじゃなく絶望してたんだけど。たまたま病院の前の書店でこの本を見つけたのよ。1ページ目に、花の中で微笑んだ君に捧げるみたいな素敵な献辞があって、それに惹かれて買ったんだけど、正直最初はあんまり期待してなかったのよ。病床での退屈しのぎになればいいくらいの感じで・・・。でも、読んでみたらお話がとても素敵で、力が湧いてくるようで、わたしも早く元気になって学校に戻って、同じようにしたいって思えて・・・。」
「そうなんだ!どんなお話なの?」
「あのね、舞台は近世のフランスなんだけど、画家になる夢を忘れて日々を流されるようにその日暮らしをしている青年が、ある日、酒場で踊り子の少女と出会うのよ。その青年は、少女に好意を持って、絵への情熱を取り戻して、少女の絵を描くの。自分の気持ちを伝える方法として絵を描く以外の方法を知らないから。踊り子の少女はその絵を見て、青年に確かな絵の才能を感じて称賛し励まして、青年はそれに勇気づけられて、次々と踊り子の少女の作品を描いていくんだけどね・・・。」
「へえ~!それでそれで?」
「う~ん、ここから先はネタバレになっちゃうから、わたしから話せるのはここまでだぜお客さん!」
「え~っ!そこで打ち切るなんてアコギな商売だな~。でも玲香の運命を変えるなんてがぜん興味が湧いてきた!書店とか電子書籍で買えるかな?」
「それが電子書籍になってないし、全然売れなかったからもう絶版になってるのよ。しかも実売部数も少なかったみたいで、中古市場にも出ていない、まさに幻の作品。」
「え~!じゃあ読めないのか~。あっ!玲香は持ってるんでしょ?」
「貸してあげたいとこなんだけど・・・わたしにとっても大事な本だし、もう二度と手に入らないかもしれないから貸すことはできないのだよ。あっ、うちに来て読むならいいよ。このあとうちに来る?」
「あ~そうしようかな・・・。」
「じゃあ、お菓子買ってうちに行こうか?」
「あっ、ちょっと待って。話がそれちゃったけど、大事な話があったんだった!」
「なになに?」
「実はさ、インターンの最終日に、編集部の人に玲香の作品を読んでもらったんだ。ほら、プロの編集者のアドバイスがもらえれば有益になるだろうし、もしかしたらマンガ部門の編集者を紹介してもらえるかもって・・・。それが三条文庫にインターンに行った一番の目的だったんだ。」
「それで・・・どうだったの?」
玲香が急に真剣な顔になって目を見開いた。言葉を選んで誤解させないように、玲香のモチベーションが引き出せるように伝えないと・・・。
「うん・・・可能性のある作品だって褒めてくれたよ。それで、マンガ部門の編集者を紹介してもいいって・・・。」
「えっ!ほんと!ほんとに?うれしい・・・。あのね。さっき話した『ガーデンズ』の話読んだとき、病床で誓ったんだ。わたしはマンガを描いてそれでわたしの想いを表現するんだって。そのときの夢が・・・わたしの作品が認められて、出版されるかもしれないってこと!ウソ~!そんなことあるんだ!」
玲香は興奮し、体を揺らし、落ち着きをなくしている。ああ、話の順番を間違えた・・・ここまで喜ばせた後に、この話をするのは心苦しい。でも、これを言わないと次のステップに進めない。作家渡邉玲香を世に出すためには、この話をしないといけない。
「だけど・・・実はそれには条件があるんだ・・・。」
先ほどまで落ち着きなく体を揺らしていた玲香がピタリと止まった。そして、いつも微笑んでいるように見える糸目を見開き、鳶色の瞳を見せて僕の目を見た。
「条件って・・・?」
「いや・・・直さなきゃいけない部分があるって・・・。」
「なんだ~。そんなの当たり前だよ。同人誌販売会の締切りに間に合わせるために作画が雑になっちゃったとこもあるのは自覚しているしさ・・・。でっ、どこを直せばいいの?」
「・・・・・・。」
「・・・・・潤?」
言いづらい。これを伝えることは玲香の作家としての努力を否定することになるかもしれない。玲香も怒るかもしれない。でも、言わなくちゃ。そうしなければ編集者荒井潤としては失格だし、作家渡邉玲香を世に出すこともできない。
「あのね・・・これまでは作品づくりは作家である玲香の領分だから、あまり口を出さないようにしてたんだけど・・・。」
たぶん、僕が話そうとしていることを理解したのだろう。玲香の表情に緊張感が漂ってきた。視線も僕をとらえたままだ。ここは正直に伝えないと玲香の心には届かない。今日まで何回もシミュレーションしてきたとおり話すんだ。
「玲香の作品をあらためて読み返してみたんだ。もう思い出せないくらいたくさん読み返したしセリフも絵もすべて暗記してるくらいだけど、これからも何度も読み返したい作品だと思う。少なくとも僕の心には今も深く刺さってる。だけど・・・・。」
「だけど?」
「だけど・・・もっとよい作品にできると思うんだ。少なくとも2巻以降については。ほら・・・1巻はさ。花蓮の見た目とは裏腹の繊細な心情が素直に描かれてて、僕もそこに強く惹かれたんだ。『ハリネズミのような鋭い言葉を持つわたしは、誰にも近づけない。わたしの針がみんなを傷つけるかもしれないから。だけど、あの人なら受け止めてくれるかもしれない。アルマジロのような固い精神を持つ彼なら・・・。』って花蓮のセリフはすごくよかった。また、『いつも僕はアルマジロのように分厚い皮膚の内側からみんなを見ていた。だけど、彼女の鋭い針が僕の分厚くて固い皮膚を破ってくれた。殻の内側は安全だけど、本当の僕が、誰とも触れ合えくてずっと寂しがっていたことに気づかせてくれた。』ってセリフもあるじゃん。これがすごく好きで・・・すごく共感できて・・・。だけど・・・。」
「だけど?」
「2巻以降は、花蓮も礼嗣もあんまり自分の気持ちを出さないようになったよね。あっ、もちろん2巻以降の花蓮と礼嗣の二人の会話は軽妙でおもしろいし、ほのぼのした雰囲気も好きだよ。だけど、1巻で感じた衝撃、なんで僕の気持ちがわかるんだろうって思えるような強い共感は得られなくて・・・。」
玲香の方を見ると、玲香はメロンソーダのグラスのストローをくわえていた。もうメロンソーダはなくなって氷しか残っていなかったが、玲香はストローの端を強く噛んでいた。右手のひとさし指はトントンとテーブルをたたいている。
「そうか・・・潤は、わたしの作品をそういう風に読んでくれてたんだね・・・。」
玲香の声は明らかにイライラしている。これ以上話を続けると玲香の怒りが爆発してしまう。でも、ここで引いちゃだめだ。僕も玲香も、ここで殻を破らないと夢がかなえられない。
「間違ってたら申し訳ないんだけど・・・玲香は、自分の気持ちを花蓮に語らせてたんじゃないかな?礼嗣への思いを・・・。」
「どうしてそう思うの?」
「いや、なんとなくそう思っただけなんだけど。それで、1巻の時は自分の気持ちを素直に表現できていたのに、2巻以降はだんだんと気持ちを表現できなくて・・・ほら、最近の話なんか、明らかに花蓮の心理描写とか発言が減って、その分、ギャグとか他のキャラの会話とかが増えてるじゃん・・・。あのね。玲香みたいに感じている人はたくさんいると思うんだ。もしさ、1巻みたいに自分の気持ちを素直に表現できれば、たくさんの読者の共感を得て、書棚から手に取ってもらえる作品になると思うんだ・・・。」
「ふ~ん・・・それは潤の意見なの?それとも編集者の意見なの?」
「ごめん・・・正直言うと、花園さん・・・メンターになってくれた編集者に言われるまで僕はまったく気づいてなかった・・・。だけど、そう言われてから僕もしっかりと作品を読み込んで、最初に玲香に作品を読ませてもらったときの感動がどこから来たのか、しっかり考えたんだ・・・。それで、僕も玲香が作品で自分の気持ちを素直に表現してて、それが僕の共感と感動の理由だってわかったんだ。大学1年生のときに感じた、この作品を広めたい、世の中のみんなに読んでほしいという衝動の源泉はそこだったんだって気づいたんだ。でも、きっと僕のせいで気持ちを表現しきれなくなったんじゃないかって・・・だから・・・。」
「・・・・・・そっか、やっと気づいてくれたか・・・。そうだよ。あのマンガはわたしの想いをベースに創作したんだよ。作品を通じて想いが届いて欲しいって思って描いたんだ・・・」
玲香の目はいつもの優し気な糸目に戻っていた。さっきまでのイライラした様子も消えていて、口元には微笑みも見える。
「じゃあ、改めて再構成して描き直してみようよ。あっ、もちろん僕も協力する。玲香が素直に気持ちを表現できなくなったことの原因は僕にあると思ってる。だから、僕も自分を改めなければいけないと思ってる。一緒に頑張ろうよ!」
「わかった。うん。そうだよね。一緒にがんばろ!」
よかった。本当に良かった。わかってもらえるか心配だったけど、勇気を出して伝えてよかった。これから玲香と一緒に頑張って、もっといい作品を作って、花園さんに編集さんを紹介してもらって、商業で出版して。まだまだ先は長いけど、夢への第一歩を踏み出せそうな気がする・・・。
「ところで・・・、潤は、なんで自分のせいでわたしが作品に気持ちが表現できてないって気づいたの?どこを改めるつもりなの?」
「ああ・・・うん・・・・あの・・・。」
どうしよう、言葉にするのがすごくためらわれる。二人の過去が間違っていたことを認めることになるし、これを伝えるともう決定的に玲香との関係が変わってしまうことは僕でもわかる。でも、一緒に作品作りを続けるためには乗り越えないといけない。もう恋人ではなく、友達として生きるって、ビジネスパートナーに徹するって、ずっと前に受け入れたはずじゃないか。でも・・・。
「わたし、そこが聞きたいな。ほら、わたしだけ気持ちが表現できてないって言われるだけじゃフェアじゃないでしょ。聞きたいな。潤がどう思ってるのか・・・。」
玲香は、いたずらっぽい笑顔を見せている。ああ、こんな表情を見せるってことは、玲香の中ではすっかり整理できているんだ・・・。僕も勇気を出して現実を受け入れないと。二人の未来のために・・・。
「あのさ。玲香の作品に登場する礼嗣くん・・・モデルがいるんでしょ・・・。」
「そうよ。いつぞやの販売会の時は、誰かさんが雑なコスプレしてくれてたけど・・・。」
「それはホントごめん。それで、玲香は、花蓮に自分の想いを託しているんだと思うけど、それは礼嗣への想い、つまり玲香のモデルへの想いじゃないかな。」
「うん・・・・・・・そうだよ・・・。面と向かって言われると恥ずかしいけど・・・。」
「前に話してくれたことがあったじゃん。あのお話を構想した話。玲香が病院のベッドで療養しているときに1年遅れで学校に戻ったらどうなるだろうって不安に思ってたこととか、実際に学校に戻ったら優しくしてくれる人もいて救われた話とか・・・。」
「うん・・・・・・・・・。」
「それで・・・礼嗣くんはその時の同級生をモデルにしてるんでしょ。」
「・・・・・・・・・。」
「だから、最初の第1巻ではその時の気持ちを素直に表現できてたけど、2巻以降では僕が読者になったから、その彼への想いを表現しづらくなったんじゃないかって・・・。」
「・・・・・・・・。」
「しかも、途中からさ、僕が恋人としての関係を求めちゃったから、ますます彼への想いを表に出しづらくなっちゃんたんでしょ。ごめん・・・気を遣わせちゃって。僕も作品をきちんと読み込めば気づくことができたのに・・・。」
「・・・・・・・・。」
「でも、僕はもう現実をきちんと受け止められるから・・・。前に玲香に友達に戻ろうって言われたじゃない。自分の中で整理に時間がかかったけど、もう大丈夫だから。だから、その彼への想いを遠慮なく作品に表現してほしい。僕は、友達として、編集者として、何があっても玲香を受け止めるから・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「玲香?」
「・・・・・・あ~あ、そんな風に思っていたんだ。」
玲香が突然テーブルに突っ伏した。声のトーンも一気に低くなっている。どうしたんだろう。僕は何を間違えたんだろう・・・?
「ごめん、あまりにストレートに言い過ぎたよね。だけど僕は、僕の立ち位置をしっかりわかっていることを伝えたくて・・・。」
「・・・・・・・。」
「これからも一緒に頑張りたくて・・・・。」
「・・・・・・・。」
「ごめん・・・・。」
「・・・・もう、いいよ・・・・。」
玲香の声はもう消え入りそうだ。どうしよう、どうしよう。
「こんなに伝わらないなら・・・・。」
「えっ?」
「こんなに伝わらないなら、こんなに伝わらないことが辛いんだったら、もうマンガなんて描かない。わたしが3年間頑張って描いてきたことはなんだったのよ・・・・。」
「いや、うん・・・ごめん。」
「・・・・・・・・。」
「玲香・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
ああ、間違えた。これは今年2回目の玲香の怒りの最上級モードだ。しかも今回は過去最強、最大級みたいだ・・・・。こうなると時間をかけて玲香が落ち着くのを待つしかないか。
「・・・・・・・。」
周囲からは、学生らしき男女の楽しそうな会話が聞こえてくる。ただ、この席だけは玲香が突っ伏したままで沈黙だけが支配していた。僕は玲香のつむじを見ながら、ただただ待つしかなかった。でも玲香は30分経っても、1時間経っても顔をあげなかった。
「お客さま、大丈夫ですか。どこか具合でも悪いんですか?」
心配した店員が声をかけてきたので、玲香を促して外へ出ることにした。玲香は、お店を出てからもずっと無言のままで、僕の方を一切見ないままゆっくりと駅の方へ歩いて行った。駅まで付いていくと、玲香は「もうここでいいから。」と言って、自分が乗る路線の方へ向かった。僕はずっとその後姿を見ていたが、玲香は一切振り返ることはなかった。
玲香の後姿をみながら、玲香を怒らせてしまったことは後悔していたが、少し面倒なことになったと感じただけだった。また時間が経てば、何事もなかったかのように元の関係に戻れると甘い見積りをしながら・・・。
その日の夜、玲香のフォローのためLINEをしたが返信はなかった。翌日にはLINEでメッセージと通話で連絡したが応答はなかった。その次の日も応答はなかった・・・。そうして一週間が過ぎたころ、玲香から一通のLINEが届いた。
『もうマンガは描きません。潤と友達でもいたくありません。もう連絡しないでください。』
ここに至って、どこまで自分が能天気で事態を楽観視していたのか気づいた。僕は慌てて、LINEを送った。僕は、作品作りに関われなくても、友達でなくなっても、一読者として読むだけでも構わないから、マンガを描くことだけは止めないで欲しい、いつまでも待っているから気持ちが変わったら連絡して欲しいと自分の気持ちを素直に書いたが、玲香から返信が来ることはなかった。
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「潤さん、どうしたんですの?そんなに憔悴されて・・・何があったんですの?」
「潤・・・どうしたんだよ。大丈夫なのか・・・。」
新学期が始まり、貴子さんも日本に戻ってきたが、僕はまだショックから立ち直れていなかった。いや、貴子さんや明日香が心配する顔を見て、どれだけ自分がショックを受けていたのか初めて自覚した。
二人に心配をかけたくなかったから、頑張って、必死で、いつもどおりの潤を演じるようにした。おそらく貴子さんも明日香も、そのことには気づいていただろうが、あえていつもと同じように接してくれた。
二人のおかげもあって、イチョウの葉が散るころには僕はショックから立ち直ることができた。ただ、気持ちは落ち着いてきたが、自分の中から、何かとても大事な、大きなものを失ってしまったという感覚はいつまでもなくならなかった。
ああ・・・自分にとってあの日々はかけがえのないものだったんだ、それを失ってしまったという後悔の想いはずっとつきまとっていた。
しばらく大学のキャンパスでも玲香を見かけることがなかった。僕は文芸サークルからはすっかり足が遠のいていたが、ごくたまに顔を出しても玲香と顔を合わせることはなかった。4年生になってから、一度だけ玲香が誰か知らない男子と手をつないで歩いているのを見たことがあったが、それが大学で玲香を見た最後だった。




