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純愛ホワイトデー

 公園の中は、満開の梅に彩られていた。

 時期には少し遅いかと思ったのだけれど、どうやら間に合ったらしい。

 桜とは一味違う白梅の花吹雪。辺りを満たす香りも違っている。

 もう、風もすっかりと春めいていた。

 暖かな木漏れ日の中、彼女と肩を並べて歩く。

 彼女は何も言わない。僕も何も言わない。言わなくてはいけない言葉は、もう頭の中に出来上がっている。

 でも、それを口から外に出すには、一生分の勇気が必要だった。



 一年前のあのバレンタインの次の日。

「直博くん、応援してくれてありがとうね。私今とってもしあわせだよー」

 真琴さんの声は、語尾にハートマークがついていそうなくらいに弾んでいる。僕はそれをほとんど放心状態で聞いていた。というか、真琴さんの言葉は僕の耳に入ってこない。

 耳を経過する間もなく、直接脳みそに叩きつけられていたから。

「先輩、とっても優しくって、まるで夢みたいだったー」

 今の僕は、まるでパンチドランカーのようだろうと思う。自分で見ることはできないけれど、きっとすごい顔をしているに違いない。

 クラスメイトの誰ひとりとして、僕に近付こうとしない事からもわかる。

 ……僕の様子なんて気付く気配もない、この世の全ての幸福を独り占めと言わんばかりの真琴さん以外は。

「うちの両親って、毎年バレンタインには二人きりでデートに行っちゃうから、昨日家に誰もいなかったの」

 あ。

 まずい。ここから先を聞かされたら、きっと僕は再起不能になってしまう。

 でもほとんど脳死状態の僕は、言葉を発するどころか指一本動かせない。

「だから、昨日は先輩と……」

「真琴────っ!」

 僕に止めが刺されるそのわずか一瞬前。

 叫び声と共に教室の扉が開け放たれた。驚いてそちらを見た僕たちは、更に驚く。

 隣のクラスの友香さんだった。

 おしとやかで知られる友香さんがこんな大声を出して、しかもこんな勢いで駆け込んでくるなんて前代未聞だ。

 そんな周囲の驚きに気付いた様子もなく、友香さんは教室の中へとずかずかと入って来る。

 友香さんは真琴さんの親友だ。当然、このクラスに来ることだって珍しくない。

 でもその時はいつだって、入り口のところで誰かに伝言を頼んで、真琴さんを呼びだして貰っていた。

 そうして許しを得てからでなければ、決して教室の中に入ろうとはしない。

 そのくらい礼儀正しい友香さんの予想外の剣幕に、クラス中が水を打ったように静かになっていた。

 でも、友香さんは周囲に気を配るつもりなんてないらしい。そのまま真琴さんの席まで行くと、その机にバンと両手を突いた。

「先輩とお付き合いを始めたというのは、本当ですか?」

「うん、おかげさまで」

 その雰囲気に気付いてすらいないように、真琴さんがのほほんと答える。

「何を考えているんですかっ!」

 僕の知っている友香さんは、こんなにも怒りを顕にして声を荒げる人ではない。

 いつも控えめで周囲に気を配っていて、何だかいつも泣きそうな表情をしている人だった。

「何って……えっと、先輩ラブ?」

 友香さんの視線がキッ! と僕の方を向いた。その視線が『何をしてたんですか!』と言っている。

 僕は力ない笑顔を見せる事しか出来ない。

 真琴さんを通じて、僕と友香さんは知り合いだった。今は違ってしまったけれど、一年の時には同じクラスだったということもある。

 友香さんには、かなり早いうちから僕が真琴さんを好きだということを知られていた。

 隠しているつもりはなかったから当然かもしれない。そうでなくても勘の鋭いところのある友香さんだ。親友に気があるクラスメイトくらいはすぐにわかるらしい。

 知られているだけではない。友香さんは僕のことを応援してくれていた。

 その友香さんからすれば、後からきた先輩に真琴さんを横取りされた僕なんて、不甲斐無く見えているのだと思う。

 これほどまでに怒るくらいに。

「そうだ、忘れてた。友ちゃんも応援してくれてありがとう! おかげで長い片思いが実ったよー」

 普段なら力が抜けるような真琴さんの脳天気さも、今の友香さんには神経を逆撫でることにしかならなかったらしい。

「あなたっ、直博さんがどれだけっ……」

「友香さん」

 僕の呼びかけに、友香さんの視線がこちらを向いた。何か言いたそうな友香さんに、僕は黙って首を横に振って見せる。

 気持ちは嬉しいけれど、友香さんが怒るような事じゃない。

 何より、そこから先を言わせるわけにはいかない。無関係な僕のことで、せっかくの真琴さんの幸福に水を差すような真似はしたくない。

「……もう、いいです」

 諦めたように言い捨てて、友香さんは教室を出て行った。その背中が少しだけ寂しそうに見えたのは、もしかしたら僕の願望だったのかもしれない。

「友ちゃん、どうしたの?」

 相変わらず、真琴さんひとりだけは何があったのかわかっていないようだった。

「ちょっと、ごめん」

 その真琴さんをあしらって、僕は友香さんの後を追う。

 その瞳が、いつもよりも更に潤んでいたような気がしたから。


「友香さん」

 声をかけても立ち止まろうとしない友香さんを追いかけているうちに、僕たちは人気のないところまで来てしまっていた。

 多分、友香さんは選んでここに来たのだと思う。

 きっと真琴さんの耳に入ったらまずい話になるから。

「怒ってくれてありがとう。でも、めでたいことなんだから怒る必要ないよ。友香さんも真琴さんを祝福してあげてくれないかな。本当に僕は大丈夫だから」

 友香さんには、真琴さんのことでいつも相談に乗って貰っていた。真琴さんの親友の友香さんほど、真琴さんのことに詳しい人はいなかったから。

 最初のうちは、どうすれば真琴さんと両想いになれるのか。

 最近は、どうすれば真琴さんが先輩と両想いになれるのか。

「真琴さんがしあわせになってくれて、僕もしあわせ……」

「それじゃ駄目なんです!」

 思わずびくっとする。

 友香さんにこんなに大きい声が出せたのかというほどの声。さっき教室に飛び込んできた時よりも、ずっと大きな声だった。

 振り向いた友香さんの瞳は、やはりいつもよりも濡れていた。

 友香さんはいつも泣きそうな顔をしている気がする。

 でも、本当に泣いた顔を見た事は一度もない。いつもその寸前で踏みとどまっている。

 何か悲しいことがあるのかと聞いたことがあるのだけれど、生まれつきですと怒られた。

「……だって直博さん、あんなに真琴のこと好きだったのに。あんなに真琴のために頑張ってたのに。その想いが届かないなんて、間違ってます」

 どこかで聞いた言葉だと考えて……思い出した。

 僕が思ったのと同じだ。

 一度真琴さんがふられた時、僕も同じことを考えたんだった。

「真琴さんの想いの方が強くて、真琴さんの方が頑張ったから、真琴さんの願いの方が叶ったんだよ」

 僕は、さっきまでのやりきれない気持ちが落ち着いてくるのを感じていた。

 僕の代わりに友香さんが怒ってくれているから。僕の想いをこれだけわかってくれている人がいるのだから。

 だから、もういいじゃないかと。

「そんなわけありません。あの子いつも遊び半分で、本当に大事なものが何かなんて気付いてないんです」

「そんなことないよ。本当に、真琴さんは頑張ってた」

 それは誰よりも僕が知っている。普通なら音を上げるようなスケジュールを、文句を言いながらだけど全部こなした。本当に先輩のことが好きなんじゃなきゃ、そんなことできるわけがない。

「そのスケジュールを考えたのは直博さんじゃないですか。運動だって食事制限だって、全部のメニューに付き合ってたじゃないですか。それも、真琴が先輩とつきあえるように。自分が幸福になるためだった真琴なんかより、その方がずっとずっと強い想いじゃないですか」

「いいんだよ。僕の幸福は、真琴さんが幸福になってくれることだから」

 そう。昨日、真琴さんが一度ふられるまではそう思っていた。その時の気持ちを思い出す。

 真琴さんから先輩のことが好きだと聞かされた時から、長い時間をかけて考えて考えて出した結論の通り。

 これが一番良い結果だったんだ。なるべくしてなった結果なんだ。

 そう腑に落ちてくる。

「よくありません! 直博さんは、真琴と幸福になってくれないと困るんです」

 友香さんのおかげで、僕は納得がいっていた。

 もともと、真琴さんが一度振られるというワンクッションが出来てしまったせいで引っかかってしまっただけなのだから。その前の時点まで戻っただけ。

 あとは友香さんに落ち着いて貰いさえすれば……

「私にもチャンスがあるかもしれないなんて思ったら、私、直博さんがふられたのを喜ぶ嫌な女になってしまいます!」

 その時、僕の表情に浮かんでいたのは、多分『困惑』だっただろう。

 ……チャンスって、何?

 そして、友香さんの表情に浮かんでいたのは、多分『驚愕』。

 言ってはいけないことを言ってしまった、という。

「ご……ごめんなさい!」

 わけがわからなくて呆然とする僕の脇を走り抜けて、友香さんは去っていった。



 とりあえず状況を整理しよう。

 学校が終わった帰り道、僕はまだ混乱したままの頭で考えていた。

 友香さんはチャンスがある、と言っていた。僕が真琴さんにふられたことでチャンスがあるかもしれない、と。

 考えて、考えて、考え抜いてみたけれど、そんな理由は思いつかない。

 ……たったひとつをのぞいては。

 まさか、そんな。

 そんなこと、あるわけがない。友香さんが僕のことを好きだ、なんて。

 でも、そうだと仮定してみる。

 好きな男から他の女の子の事が好きだと聞かされて、しかもそれを応援しなくてはいけない時。どんな表情をするだろうか。

 泣きそうな表情をするのではないか。

 その男がふられた時。いけないと思いつつも、喜んでしまうのではないだろうか。

 そう考えれば色々と納得がいく。

 真琴さんに好きな人が出来たと聞いて、僕はそれを応援していた。友香さんも、僕のことを応援してくれた。

 真琴さんが振られた時、僕はどうしようもない怒りを抱えていた。僕が失恋した時、友香さんはあんなに怒っていた。

 自分のことに当てはめてみれば、あまりにもぴったりとくる。僕が真琴さんのことを好きなのと同じように、友香さんが僕のことを好きなのだとすれば。

 それでも友香さんは、ずっと僕のことを応援してくれていた。僕が真琴さんと付き合うことになれば、友香さんは振られることになる。それでも僕を応援してくれた。

 それがどれだけつらい事なのか、僕は知っている。それがどれだけの想いが必要なことなのかも。

 僕が友香さんに真琴さんへの想いを話していた時。友香さんはどんな気持ちだったんだろう。

 知ってる。僕が真琴さんから、先輩への気持ちを聞かされていた時の気持ちだ。

 真琴さんのことで泣いている僕を、どんな気持ちで慰めてくれていたのだろう。

 それも知ってる。先輩のことで泣いている真琴さんを慰めるのは、僕の役目だったから。

 きっと、友香さんも僕と同じ気持ちだったのだ。

 友香さんは、僕だった。僕と同じ状況にいて、僕と同じ行動をとった。

 ……いや待て。整理してみよう。

 まず、この人間関係の一番上に位置しているのが先輩。

 その下に真琴さん。真琴さんは先輩が好き。

 その下に僕。僕は真琴さんが好き。でも先輩のことが好きな真琴さんを応援してる。

 一番下が友香さん。友香さんは僕が好き。でも真琴さんが好きな僕を応援してる。その上、僕を通して真琴さんと先輩を応援してる。

 僕は頭を抱えた。

 明らかに下に行くほど負担が大きいじゃないか。僕よりも、友香さんの方がつらい思いをしているじゃないか。惚れた弱みなんていうけれど、それどころの話じゃない。

 僕にとって、友香さんはいつも泣きそうな表情をしている人だった。

 当然だ。友香さんに、泣きそう以外のどんな表情が出来たというのだろう。

 それでも決して泣いたりしない。その寸前で踏みとどまっている。その気持ちを心の中に閉じ込めて、涙を堪えている。

 友香さんは本当に強い人だった。

 耐え切れなくなって、僕は髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。

 僕の気持ちに気付いてくれない真琴さんのことを、僕は鈍い人だと思っていた。

 でも、僕に真琴さんのことなんて言えるもんか。

 僕の方がずっと鈍い。友香さんのあの表情を見ていながら、何もわかっていなかったのだから。

 僕はいったいどうすればいいのだろう。

 真琴さんへの失恋と、知ったばかりの友香さんの気持ちと、それによる自分への怒りとで頭がぐちゃぐちゃなこの状態で、どんな答えを出せばいいというのだろう。



「昨日はすみませんでした」

 昨日の今日だから避けられるかもしれないと思っていたのだけれど、友香さんは僕の呼び出しにあっさりと答えてくれた。

 でも会って早々、友香さんは僕に向かって頭を下げてきた。

「ううん、友香さんが謝ることはないよ」

 それを僕は慌てて止める。

 友香さんが僕のために怒ってくれた事自体は嬉しく思っていた。それに今は友香さんの気持ちがわかっているから、怒るのは当然だと思える。

「確かに私はこの件については部外者です。それに、真琴に恋人が出来たのは喜ぶべき事ですから」

 やっぱり友香さんは強い人だ。たった一日で、ちゃんと心の整理をつけてきたらしい。

「私も、これが真琴にとって一番しあわせなんだって思う事にします。真琴が自分で決めた事ですから」

 よかった。少なくともこのことで真琴さんと友香さんの仲が悪くなる事はなさそうだ。僕のせいで、親友のふたりに仲たがいなんてして欲しくない。

「それで、あの、友香さん。昨日友香さんが言ったことだけど……」

 そこまで言って、僕は言葉に詰まった。

 『僕のこと好きなの?』なんて聞くのは気が引ける。と言うか、聞けるわけがない。間違っていたらとんでもない勘違い野郎だし、その通りだったらただの嫌なヤツだ。

 そう悩んで、僕が言葉に詰まっていると。

「……私、昨日何か言いましたか?」

「えっと……」

 そう言われると困る。

 友香さんが言った言葉はただ一言。『嫌な女になっちゃう』。その言葉ひとつだけでは意味をなさない。どんな意味にでもなってしまう。

「私は、好きだとか付き合ってくださいとか、一言でも言いましたか?」

 言われていない。はっきりした言葉は何も。

 だから困っている。

「ですから、何も言っていないです」

 そう考えると、僕の勘違いだったのかもしれないという気になる。そうと聞こえないでもないことを言われて、その気になってしまっただけなのかも。

「……うん、それならいいんだ」

 少しだけ残念だけれど。

でも、僕のせいで友香さんが辛い想いをしてなんていないのだとすれば、それが一番良いことなのかもしれない

「直博さんは、真琴に振られたことで混乱しているみたいです。そんなでは、悪い女に騙されてしまうかもしれませんよ」

 僕は頭を掻いた。

 こんな簡単に勘違いをしてしまったのだ。悪い女云々はともかくとしても、また同じような勘違いをしてしまう事は充分にあり得る。

「でも……悪い女だって、振られた心の隙に付け込んで、騙すみたいにしてつきあったりするのは嫌だと思っているんです。……ですから、私は何も言いませんでした」

 僕は驚いて友香さんの顔を見詰めた。

 いつもの泣きそうな表情。強がって泣くのを堪えている表情。でもそれは、すっきりとしたような、強い想いを秘めた笑顔だった。

「一年待ってください。一年後の卒業式の日に、言わなくちゃいけないことがあります」

 そう聞いて、すぐにわかった。

 友香さんは僕に猶予をくれたんだ。

 時間をかけてきちんと考えて、僕が自分に納得のいく答えを出せるように。卒業式の日なら、ふったとしても気まずくならずにすむから。

 僕の判断に、自分が告白をしたという事実すら割り込ませたくない。そのために、こんな中途半端な状態で、あと一年も待つのだ。

 友香さんは、本当に……強い人だった。

 だから、僕は。

「……うん、わかった」

 そう答えるしかなかった。



 それから間もなく。先輩は大学へと進学し、僕たちは三年に進級した。

 微妙な関係になってしまった友香さんとぎくしゃくしてしまったり、彼氏の出来た真琴さんと疎遠になったりしたけれど。それでもぼくたち三人は、おおむね仲良くやっていた。

 その年のバレンタインデーには、ふたりからチョコレートを貰った。

 真琴さんからは、いつも通りの義理チョコ。いや、いつもよりも高価なものになったかもしれない。先輩がいるのだから期待していなかったのだけれど。

 もしかしたら、付き合いが悪くなったお詫びなのかもしれない。

 友香さんから貰ったのは、とても手の込んだ手作りのチョコレート。

 それまでも友香さんからは、受け取るのが申し訳ないほどきちんとしたチョコを貰っていた。でも、それと比べても明らかに違う。

 それなのに、その表面には大きく『義理』と書かれていた。

 きっと、僕の負担にならないようになのだろう。気持ちが変わっていないことを知らせつつ、本当の義理チョコだと思って貰ってもかまわないと、僕にそう伝えるためのもの。

 本当に、どこまで強い人なんだろう。その強さに甘えてしまっているのが申し訳ない。

 そうして、お返しはどうしようかと悩み始めたその頃。

 僕たちのところにまで、ひとつの噂が聞こえてくるようになっていた。



 今日はホワイトデーの当日。僕たちは公園のベンチに座って、ただ黙り込んでいた。

 僕を呼び出してまでどんな話があるのかはわかっていた。

 話を始めるのに勇気が必要なのはわかる。その内容は、気軽に話すことの出来るものではない。

 だから、僕は彼女が決心できるまで、黙って隣に座っていた。

「……あの噂、知ってる?」

 30分もしたのではないかと思う頃、ようやく真琴さんは口を開いた。

 『先輩が浮気をしている』。

 その噂は、先輩自身にはほとんど面識の無い僕のところにまで聞こえてきていた。

 いいや。そんな抽象的で曖昧な話じゃない。

 『先輩が大学で新しい彼女を作った』。

 真琴さんのこの様子を見ればわかる。それはきっと、噂なんかじゃない。

「今日ね、先輩と別れて来たの」

 それは予想通りの話。自分で言うのもなんだけれど、真琴さんが先輩と付き合えるように一番尽力したのは僕だ。それが破局したのなら、一番に聞かせられるべきだと思っていたから。

 でも、その話をする真琴さんの表情は予想通りではない。

「……あまり傷付いてるようには見えないでしょう? 自分でも意外だった」

 自分で言う通り、真琴さんの姿は浮気されてふられた様子ではなかった。それどころか、どことなくすっきりしたようにさえ見える。

「本当言うとね、先輩と一緒にいて楽しかったのは最初の一ヶ月くらいだけだったの。それも別に先輩だったからじゃないと思う。恋人がいるのが楽しかったっていうだけ。恋人っていう肩書きが付いてさえいたら、きっと誰でも同じだったの」

 最近、真琴さんの気持ちが先輩から離れていることには気付いていた。

 先輩の話題は明らかに少なくなっていたし、僕の方から話を振ってもあまり乗り気ではなかった。それどころか、まるで先輩の名前を聞きたくないかのように、話を逸らそうとすらする。

「先輩に憧れていたのは確かなの。……でも、それは好きっていう気持ちじゃなかった」

 でも、流石に予想外だった。まさか最初から好きではなかったなんて。

だとしたら。もしかして、僕たちはボタンをひとつ、掛け違えてしまっていただけなのだろうか。

 本当なら、今とは違う未来が訪れるはずだったのだろうか。 

「……きっとね、直博くんに応援してもらえて、直博くんと一緒に頑張ることができるのが好きだったの。それを先輩が好きだって気持ちと誤解してたんだと思う」

 そんなこと、わからない。

 ただわかるのは、僕たちは今、あの時に戻れているのかもしれないと言うこと。

「浮気されて当然だよね。先輩のことを好きじゃない私と一緒にいたって、先輩が楽しいわけないもん。でも、それで私もやっとわかったの。随分回り道しちゃったけど、やっと気付いたの」

 ぱっと、はじかれるようにして真琴さんは立ち上がった。そのまま跳ねる様に二、三歩歩く。

 そのまま……僕に背中を向けたまま、真琴さんは空を仰いだ。

 すぅと大きく息を吸って、吐く。意を決したように振り向いて、僕を正面から見据える。今日始めて、真琴さんは僕の目を見詰めた。

「私は、直博くんのことが好きです。きっと、一年の頃からずっと」

 今まで幾度と無く思い描いていた瞬間。数え切れないほど夢想してきた。

 答えは決まっている。ずっと前から決まっていた。

 ずっと思っていた。真琴さんが先輩と付き合うことになったあの瞬間から、きっと僕の時間は止まったままだったんだと思う。

 その時間を、これで動かす事が出来る。これでやっと、僕は歩き出せる。

「僕も、真琴さんのことが好きでした」

 僕は口を開いた。それを告げるには、とてもたくさんの勇気が必要だったけれど。



 それから一時間も経たない同じ場所で、僕は友香さんと向き合っていた。

「……真琴と、会っていたんですよね」

 真琴さんに呼び出された事は、事前に友香さんに話してあった。その上で、同じ場所に呼び出したのだ。

 友香さんにも、きっと何の話なのかわかっていると思う。

「うん。さっきまで、真琴さんに呼び出されてた」

 そういえば、最近は友香さんの泣きそうな表情を見ていなかった。

 以前は毎日見ていたのに。真琴さんが先輩と付き合うようになる前は、毎日この表情しか見ていなかったのに。

 今の友香さんは、その頃と同じ表情をしている。

 今にも泣き出しそうな表情。それを寸前で我慢している表情。ギリギリで踏みとどまって、決して本当に泣く事はない表情。

「真琴さん、先輩と別れたんだって」

 僕が足を動かすのにあわせて、友香さんも歩き出した。

 この話をしたら、きっと友香さんは泣いてしまうだろう。

 本当は泣かせたくなんてない。一年前のあの時まで、友香さんはずっと泣きそうなのを我慢していたんだ。これ以上、泣かせるようなことはしたくない。

 今の泣きそうな表情を見ているだけで充分つらいのに、本当に泣かせてしまったら、きっと僕は自分を許せなくなる。

 でも。

 言わないわけにはいかない。逃げるわけにはいかない。それが僕の責任だから。

 僕はどうしても友香さんを泣かせなくちゃいけない。僕が友香さんを泣かせるのはこれが最初で最後だからということで、許して貰うしかない。

「それで……真琴さんに、告白された」

 びくっ、と友香さんの肩が震える。

 でも、まだ泣きはしない。瞳を伏せることもしない。涙を流す寸前の潤んだ瞳が、じっと前を見据え続けていた。

「……だから、ごめん。卒業式の時にって言われてたけど、それまで待てなくなった」

「はい」

 友香さんの返事は力強い。声は少し震えてしまっていたけれど、でも何を聞いても堪えようという気持ちが溢れている。

「僕は、今でも真琴さんが好きなんだ。多分これからも、この気持ちを忘れる事は出来ないと思う」

 今度は友香さんは返事をしなかった。口は開いたけれど、そこから言葉が出てくる事はなく、そのまま力なく閉じられる。

 友香さんが何も言わないのを確認して、僕は言葉を続けた。

「友香さんのこと、裏切るようなこと言ってるのはわかってる。だから、それが許せないというならそう言って。それについては謝るしか出来ないけど」

 立ち止まる。

 咲き誇る梅の中。桜のように全て一時に満開というわけではない。それぞれの木の開花具合が微妙に違い、風情が違う、複雑で控えめな花吹雪。

 その下で、僕たちは向き合った。

 花と言えば桜。華やかな満開の桜。それに押されて忘れられがちな梅の花。友香さんに似ているかもしれない。

 友香さん、ごめんなさい。

 今から君を泣かせます。

「……それでもいいなら、僕と付き合ってください」

 泣きそうな瞳が僕をじっと見詰めて……不意に怪訝な色をまとった。

「……え?」

 友香さんは泣いていなかった。というか、何を言われたのか解らないという顔をしている。

「……一応、告白のつもりだったんだけど」

 一生分の勇気、不発。これは予想外。

「……でも、真琴のことが好きだって」

「うん。だから、真琴さんにもちゃんと言ったんだ。真琴さんの事は好きだけど、でも僕が一番好きなのは友香さんだって」

 そこではたと気付く。

「……あー、そうか。好きだって言い忘れてたんだ。うわー決まらない」

 せっかく、この公園で一番梅の綺麗な場所を探して、告白のお膳立てをしておいたのに。ここまで歩いたのだって、事前に梅の綺麗なコースを選んでおいたからなのに。友香さんのこの様子では、多分見ていなかったろうと思う。

 考えてみれば当たり前だ。今の友香さんに、梅の花を楽しむ余裕なんてあるわけがない。

 でも、頭を抱えていても仕方ない。予定とは違ってしまったけれど、言わなくてはいけないことはきちんと言わなくてはいけない。それが僕の責任だから。

「……本当は、ずっと前から気持ちは決まってたんだ。僕が真琴さんを想うのと同じ……ううん、それよりもずっと友香さんの方が僕のことを想ってくれていたんだってわかった時から。でも、やっぱり気持ちの整理をつけるのに時間がかかったし、なにより、振られたから乗り換えたみたいになるのは嫌だったんだ」

 それはつまらないプライドみたいなものだったのかもしれない。

 でも、友香さんの気持ちの強さを知っていたからこそ、きちんとしなければそれに答える事が出来ない気がしていたんだ。

「でも、今は胸を張って言える。僕は、真琴さんをふって友香さんを選んだんだ。世界で一番、友香さんのことが好きだから」

 見る見る友香さんの瞳に涙が溜まっていく。でも、堪えている。流れる寸前で、涙を必死で止めている。

「いいんだよ」

 そっ、と友香さんの体を抱きしめた。頭を撫でて、出来るだけ優しく小さな顔を僕の胸に埋めさせる。

「これで顔は見えないし、涙が地面にこぼれることも無いから」

 僕の服を掴む友香さんの指に力が入った。

 友香さんは声を上げない。腕の中の体が震える感触だけが、僕に友香さんが泣いていることを知らせてくれていた。

 友香さんは、泣くべきだったんだ。

 悲しいなら悲しいと、寂しいなら寂しいと、そう言って泣くべきだったんだ。

 泣きたい時には泣けばいい。泣かなくちゃいけない時は泣かなくちゃいけない。我慢しちゃいけないんだ。

 友香さんが泣いているというだけで心が痛む。これが嬉し泣きなのだとしても、それは今まで苦しい思いをしてきたからこそだ。今まで僕が傷付けてきたからこそ、友香さんが泣いているのだという事実は変わらない。

 だから、僕が友香さんを泣かせるのはこれが最後だ。もう嬉し泣きだってさせやしない。いつも嬉しいことで埋め尽くして、嬉しいのが当たり前にしてみせる。

 そして、もし僕以外の理由で泣きたくなった時には、僕の胸で泣いて欲しい。

 僕を、我慢しないで泣ける場所にして欲しい。

「ずっと気付かなくてごめん。ずっと待たせてごめん」

 僕の胸に、顔を横に振る感触が伝わってきた。壊してしまわないように注意しながら、その身体を抱く腕にもう少しだけ力を込める。

 日曜の真昼の公園の、一番梅の綺麗な場所。それも今日はホワイトデー。

 男の胸に顔を埋めて泣いている女の子の姿なんて、人目を引いて仕方が無い。

 少し恥ずかしいけれど、でもかまわない。今まで隠さなくてはならなかった友香さんのことを考えれば、もっと堂々と皆に知らせてしまいたい。

 だから僕は友香さんが泣き止むまで、ただそのままの姿勢で待ち続けた。



「……ごめんなさい」

 小一時間経って泣き止んだ後、友香さんが一番に口にしたのは謝罪の言葉だった。やっぱり友香さんらしい。

「ううん、嬉しかった」

 服越しにわかるくらい胸の辺りがぐっしょりになってしまっていたけれど、そんなことは大したことじゃない。いや、むしろ嬉しい。

 謝らなくてはいけないようなことを僕にしてくれること。それは本当に僕に心を許してくれたという証に思えるから。

「……そうだ、これホワイトデーのお返し」

 僕はポケットからそれを取り出した。学生が買える程度の安物だけれど、一応きちんとしたケースに入っている。

「義理チョコにこんなものを返すなんて、何を誤解してるんだって言われそうだけど」

 ケースを開けて中を見せた。

 シックなデザインの、シルバーのリング。二十歳前の女の子には少し落ち着きすぎな気もしたけれど、大人びた友香さんにはきっとこのくらいの方が似合う。

「でも、今までかけてきた迷惑と受けてきた恩とを返すには、これくらいじゃないといけないと思ったんだ」

「……直博さん、意地悪なんですね」

 そう言って微笑んだ友香さんの瞳から、ぽろりと涙が流れた。

 散々泣いた後なので、友香さん自身も気付いていないらしい。

 友香さんが涙を流すのを見るのは初めてだった。 

 胸が痛むのと同時に温かくなる。友香さんを泣かせたら自分が許せない、とか言っておいて、現金だと自分でも思う。

「指輪、つけてあげて良いかな?」

 内心の動揺を隠して聞いた。友香さんは恥ずかしそうに頷いてくれる。

 僕に向けて手を差し出そうとしていたその動きが、どちらの手を出そうか迷って止まった。

 友香さんの表情を見れば、何を考えているかは大体わかる。『左手に付けて欲しいけれど、そんなつもりじゃなかったらどうしよう』。

 表情から考えがわかるなんて、ほとんど初めてのことだ。

 それは、僕に気を許してくれたということ。気持ちを偽る必要が無くなったということ。 そんな友香さんを助けようとして、僕の方から手を取った。

 友香さんの右手を。

 ほっとしたような残念そうな友香さんの右手。その薬指に、指輪をはめる。

「左手に付ける奴は、給料三か月分溜められるようになるまで待って」

 途端に友香さんの顔が真っ赤になった。

 今までの分を取り戻そうとばかりに表情がくるくる変わる友香さんはとても可愛い。

 左手の薬指の指輪の話なんて、いくらなんでも気が早過ぎるけれど、それは間違いなく近い未来に起こること。

 これだけ似た者同士の僕たちが、これだけ強い想いで結ばれているのだから。きっとこの気持ちはずっと続くものだと思う。

 それこそ、死が二人を別つまで。

 真琴さんに告白された時に心が動かなかったと言えば嘘になる。

 でも、それはあくまで昔の話。昔の、まだ真琴さんのことが一番好きだった頃の僕が騒ぎ出しただけのこと。そんなものは、それよりもずっと強い今の僕が押さえつけてくれる。

 友香さんと気持ちの繋がった今でも、真琴さんへの想いはなくなってはいない。その気持ちは、ふられたくらいでなくなったりはしない。

 あの頃の僕は、今の僕の礎として今も存在し続けている。あの頃の僕がいたからこそ、友香さんをこれだけ大切に思う今の僕がいるのだから。

 もし、あの時。

 去年のバレンタインの時に、真琴さんが先輩に振られていたら。

 きっと、僕と真琴さんが付き合っている未来もあったのだろうと思う。

 その僕は、想いが叶って幸福になっているのだろう。


 きっとどこかにいる、真琴さんと付き合っている僕。

 胸を張って言える。

 僕は、お前なんかよりもずっと幸福だぞ、と。

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